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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 漁業に生きる

 (1) サバ船に乗り込む

ア 家族のために

 「私(川島丈太さん)が子どものころ、地元の周木では、東シナ海や鹿児島県の屋久島(やくしま)沖でのサバ漁が盛んに行われていました。周木ではサバ釣り、長早では突棒(つきんぼ)というように、三瓶の中ではこの二つの地域は漁業が盛んに行われていた地域でした。また、二木生は機帆船などの運搬船が主流でした。
 私が小学生のころには、伝馬船に乗ることが怖いと思ったこともありました。私は釣りが好きだったので、学校から帰ると釣り竿(ざお)を持って釣りに出掛けることが多かったと思います。親戚の方が沖合での漁に行くということで、伝馬船に乗せてもらい、魚釣りをしたことがありました。そのときには、イサギ(イサキ)が釣れたことや、タチウオは引く力が強いので、3匹が同時にかかると引き上げることができなかったことを憶えています。
 周木地区の子どもにとって、海は身近な生活の場であったということができると思います。私が子どものころには、周木の山にはミカン栽培もほとんどなく、サバ釣りで成り立っていたと言っても過言ではありません。
 私は中学校卒業後、高校への進学を勧められましたが、私を一生懸命に育ててくれた母親の後姿を見ていると、何とか家族のためになりたいと決意し、義理の兄が漁労長として船で勤めていたこともあり、同級生3人と漁船で働くことになりました。私だけではなく、15歳ほど上の人までは、そのほとんどが中学校を卒業後にサバ船に乗って仕事をしていたと思います。私には中学校の同級生が36人います。男性はそのうち20名ですが、当時、高校へ進学したのは3人しかいませんでした。その他12人がサバ船に乗って仕事をしましたし、残りの5人が他の業種へ就職をしたり、夜学へ行ったりしたと思います(図表2-3-5参照)。
 昭和36年(1961年)ころ、三瓶には漁船に乗って仕事をすることを希望している若い衆(し)がたくさんいるということで、国の補助制度を活用して39tの木造新船が建造されることになり、八戸(はちのへ)(青森県)の造船所で建造された16隻の船が三瓶に世話されました。漁船が増加したことで、新造船に乗って仕事をする乗組員が募集され、応募日には周木の公民館に希望する人がたくさん集まり、恐らく1,000人以上はいたのではないかと思います。三瓶だけではなく、他の地域からも、『ぜひ、雇ってほしい。』とたくさんの若者が来ていたことを憶えています。」

イ 最初の仕事

 (ア) 飯炊きとエンジン番

 「中学校を卒業して船に乗ると、最初の仕事は飯炊きで、飯炊きでもその下手伝いでした。船にはコック長がいて、乗組員30名ほどの食事を作っていたので、それを手伝っていたのです。
 一方、船のエンジン関係の仕事に従事している人はエンジン番と呼ばれ、このエンジン番には飯炊きの仕事はなく、エンジンに油を差す仕事に従事していたので、油差しとも呼ばれていました。今の漁船に用いられているエンジンではこのような仕事は必要ありませんが、当時は2時間か3時間に1回ずつ、バルブなどの金属同士が擦れる場所に定期的に油を差してやることが必要でした。 
 私(川島丈太さん)は飯炊きを2年の間務めました。この2年間の経験で、刺身にしても何にしても自分で上手(うま)く作ることができるようになり、さらに、食事が済んでから食器を洗うことも仕事の一つで、食器洗いも効率良くできたので、陸(おか)での生活においても食事に困る、ということがありませんでした。」

 (イ) 一般船員

 「飯炊きの仕事に従事している中で、後輩の船員が入ってきて私(川島丈太さん)自身が先輩になると、一般船員という扱いになり、他の船員とともに仕事をしながら、飯炊きの後輩から、『飯が炊けたぞ。』という知らせがあれば、食事をとりに行っていました。ただ、船での食事では、自分が使った食器は自分で洗うことが船員同士の了解事項としてあったので、食事後に必ず洗うようにしていました。食器を洗うのでも、洗剤はつけずタワシを使って擦(こす)るだけでした。しかも、真水はとても貴重だったので、海水で洗わなければならず、食器がきれいになったとはいえない状態でした。」

 (ウ) 貴重な水

 「小さな木船には、両サイドに半トン(0.5t)ずつ、合わせて1tほどの水を積むことができるタンクが備え付けられていました。この水は、飯を炊くときや汁物を作るときだけに使う水でした。飯を炊くときには、米を研がなくてはなりませんが、そのときには必ず海水を使って研がなくてはならなかったので、船で食べる御飯はどうしてもしょっぱくなってしまっていました。また、木船であったがために、水を積んでいるタンクの中に海水が染み込むことがあり、真水自体が少ししょっぱく感じることすらあったことを私(川島丈太さん)は憶えています。
 船が港へ入ったときには、タンクに残っている海水が混ざった水を抜き取り、陸のきれいな水を積み込んでいました。それでも何日か経(た)つと、やはり海水がジワーッと染み込んできて、多少しょっぱくなっていました。
 船上での生活では、真水を必要とする場面が他にもありました。例えば、顔を洗うときには真水を使いますが、その水は船倉に大量に積んでいる氷から溶け出した水を使っていました。洗濯をするときには、洗濯用洗剤を使うこともありましたが、それまでは、燃料店からいただく四角い固形石鹸(せっけん)を使って洗うこともありましたし、ズボンやジャンパーなど、生地がしっかりとしていて硬い衣類は、紐(ひも)で縛って船の両舷から吊るし、船が航行するときに立てる波しぶきにさらしておくだけ、というときもありました。船は大きな波しぶきを立てて航行するので、まるで天然の洗濯機のようになっていたことを憶えています。実際に手で洗うときには、甲板部に魚を入れるハッチが九つほどあり、その表面は平らだったので、そこにズボンなどを並べてタワシで擦り洗いをしていました。石鹸を付けて洗うので、泡を流さないといけませんが、そのときには当然のように海水を使っていました。洗剤が普及し始めてからでも、洗濯物は手で洗っていましたが、汚れが落ちやすかったので、作業がとても楽になったことを憶えています。」

ウ サバを釣る

 (ア) 一人前の船員として

 「漁師は仕事ができるようになると、サバをたくさん釣らなくてはならないので、船員さんを取りまとめる役割を持つ甲板長から、『お前は釣るのが上手やけん。』と言われて、甲板部でも最も釣りやすく、たくさん釣ることができる場所に割振りをされていました。当時は、中学校卒業後にサバ船での仕事に就く者が多く、若い船員が多かったので、責任ある役割である甲板長でも20代半ばの船員が務めていて、30歳を過ぎると船の中では『年寄』と呼ばれていたほどでした。多くの船員が15歳で仕事に就いていましたが、20代半ばになると10年ほどの経験があるので、どの船員も一人前の船員に成長していたのです。
 周木のサバ釣りは、天秤(びん)で1匹ずつ釣っていましたが、鹿児島沖や東シナ海の方へ来て漁をしていた静岡の漁業者に、竿で釣る方法を教えてもらってから始まりました。サバ釣りのときには、イオトシという道具を右手に持ち、これを使うと、釣り上げたサバが簡単に針から外れていました。サバが外れると、針にフウセンと呼ばれた疑似餌を付けたまま再び竿を入れますが、凍結したイワシを叩(たた)いてミンチ状にしたカブセという撒(ま)き餌にサバが集まっているので、すぐに釣り上げることができていました。サバを釣るための疑似餌は色が大切で、オレンジ色や黄色であればよく釣れていたことを憶えています。
 一般的にサバ釣りは30人で5時間から6時間ほど釣り続けますが、私(川島丈太さん)たちの船ではたった14人でそれ以上の数を釣り上げていました。北海道の釧路(くしろ)沖から襟裳岬(えりもみさき)沖の漁場は私たちが見つけて操業していましたが、そこでサバが獲れるということで、巻網漁船が操業するようになったので、海流に乗って下ってくる北海道のサバが少なくなってしまいました。海流に乗って下ってきた下がりサバが八戸沖の水深が浅い棚の部分にいる、ということはイカ釣りの漁師が見つけたと聞いています。本来、1月には銚子(ちょうし)沖で漁があって、4月から5月ころになるとサバがさらに下って伊豆七島(いずしちとう)の銭洲(ぜにす)という瀬の場所が漁場になっていました。それが終わると、千葉県の勝浦(かつうら)冲が漁場となり、ここでの漁が終わると三瓶へ帰って来ていました。」

 (イ) 仕事への責任

 「当時の船員の給料は歩合制で支給されていました。給料を最低限保障する制度が整備されるまでは、漁の合間の休暇になると、多くの船員が合力(こうろく)(奉仕的な労働)で、協力しながらエンジンの掃除をするなど、漁船の手入れをしていたものです。船員さんは労を惜しまず仕事をしていたので、合力による仕事が一段落したときには、船主さんが船員さんたちを労(ねぎら)って酒を振る舞うこともありました。
 また、私(川島丈太さん)は建設会社のアルバイトなどにも従事しました。当時は日給が500円程度でしたが、『1日で500円もらえるけん、行こうや。』と、声を掛け合って若い船員仲間7、8人でアルバイトに行ったことを憶えています。あるとき、この会社の社長さんから、『砂利の運搬と敷設の仕事を20日間でやってくれ。』と言われたのですが、サバ釣り漁船に乗る私たち漁師たちは若く、力仕事が得意な上に、仕事に対する責任感や熱意が強かったので、その仕事をたった1週間で完成させました。20日間かかる予定だった仕事を1週間で終えたので、社長さんにはとても喜んでいただいたことを憶えています。
 現場監督だった方からは、『20日間でやってもらえたらいいので、あなた方のペースで仕事を進めてほしい。』と指示を受けていたのですが、全員がとても意欲的に仕事に取り組んだので、1週間で終えてしまったのです。一生懸命に仕事をした結果、周りの方に喜んでいただけたことがとても印象深く、今でもよくその当時のことを憶えているのです。」

エ 下火となったサバ船

 「周木にはサバ船景気があり、それこそ優秀な学生でも家庭のことを考えて、中学校卒業後には船に乗って仕事をしていました。私(久保田幸一さん)は、このサバ船景気は5、6年は続いたと思います。サバ船が下火になった時に、サバ船の大きな船をマグロ船に改造して沖での漁に出るようになりました。マグロ漁へ出漁した漁師さんの中には、不慮の事故で亡くなった方もいました。町内にはその方々を慰霊するための慰霊塔が建てられています。
 このようなことがあって、遠洋漁業自体が下火になり、漁師の仕事をされていた方がタンカー船での貨物輸送の仕事へと移っていきましたし、船頭さん(川島丈太さん)らのように、大型船を用いて外国での漁へ出るようになっていったのです(図表2-3-6参照)。」
 「周木の漁師で外国の漁場へ出ていた漁業者は、東シナ海や東北の方へ漁に出るとなると、何か月も地元を離れて帰って来ることがありませんでした。さらに、日本海での操業時には、船が小さければ2日か3日に1回程度の割合で、北陸の方の港へと入港していましたが、地元に帰ることなく仕事をするので、遠洋と同じことでした。
 周木のサバ釣りが下火になってくると、サバ船に乗っていた船員さんは商船に乗って働くようになりました。タンカーや商船に乗って仕事をすると、濡(ぬ)れることがなく、時化(しけ)が来ても船が大きいので影響が少ない、さらに給料が定期的に確実に入るというように、労働環境としてはとても良いものでした。周木の方が乗って仕事をしていたタンカーでは、その船主さんに対して、仕事に対することや船の運航などについて、文句を言う人はいなかったと私(川島丈太さん)は聞いています。」

 (2) 外国の海域でのイカ漁

 「私(川島丈太さん)が外国の海域へ漁に出るようになったのは、昭和47年(1972年)のことでした(写真2-3-5参照)。当時、ニュージーランド沖にイカがいるのではないかという情報が入ったことでその海域へ行くようになりました。初めてその海域で漁を行ったときには、日本の遠洋漁業船は40隻から50隻ほどしかおらず、漁を行う海域としてはまだあまり認識されていなかったと思います。もちろん、愛媛県からその海域へ出ていたのは私の船だけでした。
 三瓶から外国へ漁に出ていた船には、生産組合の伊予丸というマグロ漁船がありましたが、この船は昭和40年(1965年)ころに原因不明のまま沈没し、行方不明になってしまいました。この船は、以前はサバ釣りをしていましたが、サバ釣りが不振になったことでマグロ漁船に改造し、南方の南緯14、15度辺りのソロモン諸島の東の海域で漁をしていたようです。日本では、マグロ漁の始まりとまでは言えませんが、初期の段階だったと思います。
 その後、外洋へ出る船は、鉄船となり、だんだんと150t以上の大きなものとなっていきました。当時は鹿児島や高知のマグロ漁船は木造船が主流で、これらの船もマリアナ諸島付近までは漁に出ていたと思います。」

ア ニュージーランドの漁場へ

 (ア) ニュージーランドへの誘い

 「昭和47年(1972年)になって、『ニュージーランドで漁をしてみないか。』という誘いがありました。私(川島丈太さん)は当時、外国へ行ったことがなかったので、『そんな遠くへ行けるかい。』と言って断りましたが、たまたま静岡県の清水(しみず)港のドックに遠洋に適した船があり、それを買わないかという話があったのです。
 当時のイカ漁では、例えば4,000万円の水揚げがあれば、その半分の2,000万円が利益になっていたので、効率が良く、漁師にとってはとても良い仕事でした(写真2-3-6参照)。イカ漁では、『イカはイカサマや。』とよく言われていました。値が良いときには、イカ様様ですし、相場が安定せず、値が悪くなると、文字通りイカサマだったのです。
 私はそのとき、収入がそれほど多くなかったので、静岡にあった千代丸という船を購入して、その船を三瓶でイカ釣り漁船に改造し、ニュージーランドの漁場へ行くことにしました。」

 (イ) 出港

 「南半球での遠洋漁業に行くときには、安土(あづち)の桟橋に船を繋(つな)いで出航の準備をしますが、ドラム缶で100本以上分の燃料を積み込む必要があります。それだけ多くの燃料を積み込むので、出港のときには魚槽にまで燃料が積まれている状態でした(写真2-3-7参照)。燃料で思い出すのは、やはりオイルショックです。オイルショックのときには1万円で購入できていた燃料が10万円ほどになってしまうなど、燃料費が10倍ほどに跳ね上がり、私たちのようにたくさんの燃料を必要とする者には大きな影響がありました。
 私(川島丈太さん)たちの船は、昭和47年(1972年)12月に出港して、翌48年(1973年)の5月ころに帰港しました。この最初の漁では、4,000万円水揚げがあれば上等と言われていましたが、実質8,000万円の水揚げがありました。ニュージーランドでのイカ漁はその後も良くなっていったので、その海域で操業する船が増えていき、最も多い時で150隻ほどが操業していたことを憶えています。
 ニュージーランドへ向かうときには、ニューブリテン島のラバウルやソロモン諸島近海を経由していきます。その付近の海域を航行していると、たくさんの大きなマグロやカツオが海面を跳ねていて、それが5時間ほど続いていたことを憶えています。
 当時、初めての遠洋漁業で何が起こるか分からず、船にはたくさんの漁具を積んでおり、流し網やボートまであったので、『これだけ魚がおるんやけん、獲れ。』と言って、網を流すための引き縄を準備して、夜が明けると同時に、船に積んでいた3隻のボートの内の2隻を海面に下ろして、マグロやカツオがたくさんいる場所へ行かせました。ボートは船外機付きの小さなボートでしたが、釣り上げた魚の重さでボートが沈みかかっていました。私は漁労長だったので、船のブリッジから指示を出すだけで、ボートで魚を獲りに行ってはいませんでしたが、帰って来たボートを見ると、大きなキハダマグロを10本ほど釣り上げていました。ボートに乗っている船員たちに、トランシーバーを使って『お前ら、それをどうやって釣り上げたんぞ。』と聞くと、『もう、船がかやって(転覆して)も構んけん、船を傾けて水面ギリギリにしてマグロを引き寄せ、そのマグロが船上に釣り上げられると同時に、ボートに乗っている者が反対側に急いで移って船のバランスを取って、マグロを獲ったんよ。』と言っていました。昭和47年当時、あの海域にマグロがどれだけいたのか、全く見当も付かないくらいで、今でも忘れることができない出来事でした。
 知り合いの船が先にニュージーランドの海域へイカ釣りで行っていて、電信で300箱から400箱分のイカが釣れたという連絡が入ってきました。今いる海域でもう1日マグロを獲ろうか、とも考えていましたが、イカ漁の調子が良いという情報を得ることができたので、ニュージーランドの海域へと船を向けたのです。
 三瓶からニュージーランドでの母港となる北島のウェリントンまで、11ノット(20.372km/h)のスピードで19昼夜の航海でした。ウェリントンの港へ入港すると、まず言葉に困りました。私の船には英語を話すことができる船員が1人もいなかったのです。上陸して食事に行くのにも困りましたが、私が単語を並べて現地の方とコミュニケーションを取り、何とか食べることができたことを憶えています。繁華街には客引きがいて、日本から来た船員に声を掛けてくることがありましたが、きれいな英語ではなく、単語を並べただけで何とか意思疎通ができていました。
 昭和47年に初めてニュージーランドの海域へ行って、7、8年は行き来していたと思います。5月か6月にニュージーランドから帰って来て、1か月休んで日本海を中心とした近海での漁に出掛け、12月になるとまた再びニュージーランドへ向けて出港していました。」

イ フォークランドの漁場へ

 (ア) 新たな漁場を求めて

 「イカ釣り漁船は、マグロ船の古くなったものを改造しているものが多く、マグロの水揚げが下降してくると古い船をそれほど高くない費用でイカ釣り漁船へと改造していたので、比較的容易にイカ漁へ切り替えることができていました。多い時には日本全国から150隻ものイカ釣り漁船がニュージーランドの漁場へ行っていて、ニュージーランド海域でのイカ漁は年々漁船が増えてきたこともあり、思うような水揚げができなくなっていきました。
 海外での漁が長くなると、色々な地域の情報が入って来るようになってきていたので、私(川島丈太さん)は、『どっか(どこか)ええとこ(良い漁場)はなかろうか。』と話していたところ、『アルゼンチンのフォークランド島沖がええ(良い)。』という情報が入ってきました。昭和57年(1982年)には、そのフォークランドの帰属を巡って、イギリスとアルゼンチンが紛争を起こしていましたが、その海域にはすでにブラジルのレシフェを基地とする日本のマグロ漁船が入っていたのです。日本のマグロ漁船は世界中の漁場で操業していて、『どこどこでマグロの縄はえたら、イカが食らいついてくる。』という情報が入ってきていました。
 フォークランドは、大西洋でも一番南に位置する島で、私がこの海域へ行ったときには、日本のイカ釣り漁船はほとんどいない状態でした。昭和60年代のことですが、遠洋で釣ったイカを東京で水揚げすると、8kg入りの1ケースが4,000円以上で取引されていたので、4,000万円から5,000万円あれば良い方と言われていたイカ釣り漁で、多い時には2億円弱の取引になることがありました。このころが、イカ釣りをやっていて一番値が良かった時期であるとも言えると思います。このころには、大手水産会社では少しでも多くの数量のイカを確保するために、担当者から毎日のように、『うちの会社に卸してくれ。』と連絡が入っていたことを憶えています。フォークランドの海域でのイカ釣りが一番稼ぐことができました。」

 (イ) 危険な氷山

 「フォークランドの海域へ行くことを決めたときには、ニュージーランドから妻宛てに、『生きて帰ることができないかもしれない』という内容の手紙を出しました。若い乗組員には危険な航海になるということは、あえて一言も言いませんでしたが、ニュージーランドから南アメリカ大陸の南端を通ってフォークランドへ行く航路では、最初は南緯60度、時にはもっと高緯度の付近まで下がっていたので、緯度が高いこともあって、風が強く海が荒れたり、氷山が流れて来ていたりしてとても危険だったのです。
 私(川島丈太さん)は今でも憶えていますが、私の船の前方を航行していた三崎の第十八三幸(さんこう)丸という船から、『川島さん、川島さん、何かレーダーに映ってのう、まさか氷山やとは思わずに近づくと氷山やったけん、気を付けなさいよ。』と電信で連絡をもらい、無線局長から船頭である私のところに報告が来ました。それ以来、高緯度の海域を航行するときには、夜も昼もレーダーを掛けっ放しにして、警戒を怠ることはありませんでした。実際、私は航行中に10から20の氷山を見ました。氷山は、太陽の光を受けると、氷がとてもきれいに見えたことをよく憶えています。氷山は実際に見てみると本当にきれいなので、船内で仕事をしている乗組員にも『見てみい。』と言って見せていました。海面に出ている氷山は、ほんの一部と言われますが、高緯度の海域を漂う氷山は、海面に出ている部分が相当大きいのです。何度もニュージーランドとフォークランドとの間を行き来していると、このような大きな氷山を避けるために、時間が掛かっても構わないので、少し緯度の低い、北方の海域を航行すればよいのではないかと思い、実際に船を走らせてみました。しかし、そこには大きな氷の塊が融(と)けてバラバラになり、数多くの氷山となって漂っていることがあり、それらの氷は海面下の部分が大きく、レーダーでも捉えることができず、船からは見えないことが多かったので、かえってとても危険だったことを憶えています。氷山は船を航行させる際にはとても危険な障害物だったので、同じ海域を航行する他の船と、『どこそこに大きな氷山があった。』などと連絡を取り合う必要がありました。
 また、最初に高緯度の海域を航行するときには、白夜に驚いたものです。私は白夜を知らなかったので、ほとんど日が暮れることがなく、暗くなったと思ったら、1時間も経てば再び明るくなってくるのには本当に驚きました。船室で眠っている若い乗組員を起こして、『ほれ、見てみい。これが白夜じゃ。』と言って教えたことを憶えています。
 さらに、フォークランドへ行くときには必ず時化に遭っていました。暴風圏を通過しなければならないことが多かったのですが、同じ暴風圏でも、夏場と冬場とでは海が時化る具合が全く違っていたことを憶えています。私たちが12月にニュージーランドへ行くというのは、ここにも理由があって、あちらの12月は夏場であるため、時化の具合が冬場のそれと比較をすると、ある程度穏やかだったということがありました。また、北半球に位置する日本では低気圧が過ぎると北西の風が吹きますが、南半球では、南西の風が吹くという違いがありました。」

 (ウ) 年間の仕事

 「ニュージーランドの漁場へ行くときには、12月の末に出港すると、その後はどこへも寄港せず、直接漁場まで行っていました。ニュージーランドの漁場では5月ころまで操業をして、その後、フォークランド周辺の海域へと向かっていました。フォークランドでの漁を終え、三瓶に帰港するのは10月ころだったと思います。そのころは、ニュージーランドとフォークランドの両方の漁場で操業していたので、約10か月もの間、船での仕事が続いたのです。1年間の内、2か月ほど連続して休暇を取得しますが、陸に上がっても、船の整備など、陸でしかできない仕事が色々とあったので、私(川島丈太さん)たちは完全に仕事から離れて休む、ということにはなりませんでした。」

ウ ペルー沖の漁場へ

 「フォークランドでの漁が下火になってきたころ、古くからの漁師仲間から、『ペルー沖にイカがおるらしいが、ペルーに行かんか。』と誘われました。私(川島丈太さん)は、より条件の良い漁場へ行きたいと考えていたこともあり、ペルー沖でのイカ漁に挑戦しました(写真2-3-8参照)。ペルー沖での漁では、最初の1、2年は小さなイカがたくさん獲れて、1年で6億円から8億円の水揚げがあり、利益を上げることができました。最初は小さくてきれいなイカが獲れていたので、買い値が良く、利益が上がっていたのですが、年数が経つごとに獲れるイカの大きさがだんだんと大きくなっていき、信じられないかもしれませんが、イカ1匹の重量が60kgほどありました。そのイカはアメリカオオアカイカという種類のイカで、メキシコの方から海流に乗ってペルー沖にまで来るそうです。この大きなイカは最初高値で取引されていましたが、徐々に値が下がり、ペルー沖で漁をした最後の方にはほとんどタダのような値になってしまいました。私は一生懸命に漁をして、漁獲高を上げていたので、それらを保存・運搬するための中積み船をよく利用していました。中積み船に保存・運搬をお願いするにも、1t当たりいくらというような費用が掛かるため、漁をすればするほど儲けがなくなり、赤字の額が大きくなっていくので、最後には、『これはいけんな。』と判断して、ペルー沖のイカ漁からも撤退することとなってしまいました。最盛期には150隻ほどいたペルー沖のイカ釣り漁船も、私がやめるころには、20隻ほどにまで減少していたことを憶えています。」

 (3) 漁師としての経験

ア 命の危険

 「私(川島丈太さん)は漁をしていて、3回はもうダメかもしれないと思うくらいの危険な目に遭った経験があります。」

 (ア) 荒れた海

 「ニュージーランドからフォークランドへ向かう途中では、秒速30mはあろうかという強い風と、見たこともないような高波に恐怖を覚えたことがありましたし、フォークランド沖では大時化で、視界が悪い上に波が高く、目視もレーダーも効かないようなときに、風上側から下ってきた韓国籍の船が急に波間から現れたことがありました。私(川島丈太さん)たちはイカ釣り用のネットを起こす作業をしていたときでしたが、相手の船がそのネットを倒していたので、危うくそのネットと接触しそうになりました(写真2-3-9参照)。このときにも、『やってしまった。』と思いましたが、何とか接触を回避することができたのです。」

 (イ) 落雷

 「漁に出ているとき、注意しなければならない自然現象に雷があります。東京都大島(おおしま)近海では、神奈川県のあるサバ釣り漁船の機関場に落雷があり、その影響でその船は沈没してしまいました。機関場の中へ落ちたので、人への被害はなく、周辺にいたサバ釣り漁船に救助されました。
 船は機関場が浸水しなければ沈むことはありませんが、その船は木造船だったので、雷一発ですぐに下(しも)って(沈没して)しまいました。海上での雷は本当に恐ろしいものです。私(川島丈太さん)は落雷で沈没した漁船をいくつか知っていますが、雷は不思議と機関場に落ちるようです。エンジンがかかっていて、電気が発生しているからかもしれません。ニュージーランドへ行くときにも雷に遭遇したことがありますが、レーダーに雷雲が映るので、ある程度は事前に分かります。夜の太平洋上の暗闇の中で稲妻が走ると、そこら中がその光の強さで真っ白になります。その光景を見たときは、本当に海上での雷の威力を思い知った瞬間でもありました。」

 (ウ) 船員の経験

 「平成に入ってからの出来事になりますが、最も印象に残っているのは、朝10時ころに三瓶を出港して漁をし、夜間に航行していたときのことです。夜になると、甲板部でも機関部でも2時間ずつ程度での交替制、2時間ワッチ(watch)を行います。船員として乗り込んでいたフィリピンの方が当番の時間帯に、私(川島丈太さん)が船室にいると、すぐ近くから『ボーッ。』と船の警告音が聞こえてきました。慌てて船室のカーテンを開けて外を見ると、すぐそこに大きな船が迫って来ていました。『これ、いけるか。』と思い、飛び起きたのですが、当番をしていたフィリピンの船員が、『船が来た。』ということを一緒に乗っていた私の息子に伝えており、何とか衝突を回避することができました。飛び起きた後に状況を確認したときには、このままであれば船尾に相手の船が衝突して、沈没するのではないかと思われる状況でした。その後、どうやって衝突を回避したのかは、不思議なことに全く記憶にありません。ただ、回避して無事に通過したときに、全身の力が抜けて、グニャグニャとその場に倒れ込んでしまったことと、ブリッジにあった救命胴衣を先に息子に渡さなければならないと思ったことだけが記憶に残っています。その後も恐らく、一時意識を失っていて、何がどうなったのか把握できていなかったと思います。後に他の船員に聞いてみると、『ぎりぎりのところで衝突を回避した。』と言っていました。フィリピンの船員は航行に関する教育を十分に受けておらず、その上まだ経験が浅かったため、航法に関する知識が不十分であったことが原因だったと思います。船には赤舷灯があり、それが見える、つまり相手を右に見る位置にある私の船が避けなくてはならず、相手の船もこちらが避けるものと思っていたのでしょう。」

イ 信頼できる人材

 「船にはさまざまな役割を持った船員が乗り込んでいます。無線局長を務めるには免状が必要なので、その資格を所有する人を雇わなければならず、その他、船長や機関長を務めるにも免状が必要でした。私が使っていたイカ釣り漁船はトン数が大きかったので、一等航海士や一等機関士も置く必要がありました。漁において、すべての判断を委ねられ、実質的にその漁船のトップの役割を担う漁労長は、特に必要な資格がありませんでした。漁労長は船長を兼ねる場合が多くありますが、基本的に船長の役割としては、船の書類関係や手続きなど事務的な処理がありました。
 私(川島丈太さん)が漁船に乗って外国の漁場へ行き、一番えらいなと思えたのは、機関長でした。その人がエンジンを担当するかしないかで、1年間の経費に大きな違いがありました。エンジンが故障してしまうと、修理費用が必要となる上に、修理の期間は漁を休まないといけないので収入が減少します。エンジンの故障で1週間から10日間も漁ができない日が続くと、何千万円という額の水揚げがなくなってしまうのです。責任感を持って仕事をする機関長がメンテナンスをしているエンジンは、ドックに入って整備をしても、ほとんど修繕箇所がない状態で、修繕料も他と比較するとかなり安くなるほどでした。
 漁船では、機関長と船長は歩合が同額です。漁労長で2人前や3人前、機関長や船長は5分でした。私は機関長が果たす役割の大きさを強く感じていたので、しっかりと仕事をしてくれる機関長には2分から3分は余分に支給していました。船の責任者としては、機関長がしっかりと仕事をしてくれると水揚げが確保できるので、給料を余計に支給したとしても、全体の収入から見るととても安いものでした。私は機関長と話をするときには、いつも『機関長は人間でいうと、心臓の役割を果たしている。頼むぞ。』ということを伝えていました。私の船で勤めてくれた機関長とは30年ほど一緒に仕事をしました。それだけ信頼でき、安心してエンジンを任せることができる方でした。」

ウ 漁師としての勘と進化する技術

 「漁船も含めて船は時代が進むにつれて、進化しています。私が最も安心できた装備はGPSでした。それまでは天測で自分の船の位置を確認しなければならず、曇ったり雨が降ったりすると観測ができず、自分の位置を把握することができないという欠点がありました。私(川島丈太さん)はニュージーランドへ行くに当たって、天測の技術を宇和島水産高校へ1週間ほど習いに行きました。親戚に水産高校専攻科出身の方がいて、その方を通じて先生にお願いをし、特別に教えていただいたのです。
 ニュージーランドの海域へ行き始めたころには、装備といえばレーダーくらいしかありませんでした。レーダーといってもせいぜい30マイル(約48.28km)四方の状況を把握できるくらいのものでしたが、それをどう使うかによって、つまり、レーダーに表示される島の形などをつかんでおいて、その位置へ船をもっていくとイカがおる、というようなことを確認するためにも用いていました。私はロラン(地上系電波航法システムの一種)の扱いには多少自信があったので、南緯13度辺りまでであれば、自船が航行したコースとスピードから大体の推測位置を把握することができていました。ニュージーランドに近づくころには、レーダーを早朝から監視し、島がレーダーに映ると、『やった、これで安心だ。』と思っていたことを憶えています。
 また、漁をするには月を見ることが大切でした。月の出入りや位置、特に月が真南に位置したときには、潮の満ち引きが必ず起こるというようなことを理解しておく必要があったのです。漁場でも、『今は食わん(魚が釣れない)けれど、月が入るけん、1時間くらい待てば食うようになる。』というような、漁師ならではの知識や勘が必要でした。特に計器が十分でないときには、漁師の勘というものがとても大切だったのです。漁をする際の勘は、自分が経験を積んでいく中で身に付けていくもので、誰かに教わって使えるというようなものではありませんでした。自分で先輩の仕事の仕方に学び、自分で学び取るということが必要とされていたのです。かつての漁師は陸に上がると船頭同士でよく酒を酌み交わしていました。漁師として信頼されると、その席でそれぞれが持つ知識などを教えてくれていました。酒の席での話ではありますが、身近な先輩がどのような話をしていたか、ということもしっかりと頭に入れた上で、勘の裏付けとなる自分自身の知識を増やしていくことが大切でした。ニュージーランドでイカ漁をしていたころには、いつ、どこで、どのくらい釣ったという情報が一月分はすべて頭に入っていました。今でもよく獲れた場所がどこだったのか、完璧に頭の中に残っていて、迷わずその海域へ行く自信があります。漁に関する情報は、いくらでも頭に入っていたので、やはり私は漁業という仕事がとても好きだったのだと思います。」

エ ふるさとへの思い

 「私(川島丈太さん)の出身の周木地区は、サバ釣りがあって今があるようなものです。私が地区の老人会長を務めていたとき、会合に際しての挨拶の中で、参加されている先輩方を前に当時のことを話すと、涙を流しながら聞いてくれていました。『あなた方ががんばってくれたお陰で、今がある。』という内容の話でしたが、先輩方は当時の辛いことなどを思い出しながら懐かしんでくれていたのだと思います。」
 「辛い仕事ではあったと思いますが、それだけ収入が高かったこともあって、漁業が盛んであったときの三瓶には活気がありました。私(久保田幸一さん)がまだ16歳のころ、サバ船や突棒が周木や長早で盛んであったときには、本当に町に活気があったと思います。」

参考文献
・ 愛媛県農林統計協会『愛媛県市町村別統計要覧 昭.40.45.50年』1977
・ 三瓶町『三瓶町誌 上巻』1983
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』1985
・ 愛媛県立三瓶高等学校社会科『わが町三瓶町 平成4年版』1992
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 三瓶町役場、西宇和農業協同組合三瓶支店『三瓶町農業史(下巻)』1995


図表2-3-5 三瓶町の漁業従事者数推移(15歳~19歳)

図表2-3-5 三瓶町の漁業従事者数推移(15歳~19歳)

『愛媛県市町村別統計要覧 昭.40.45.50年』により作成

図表2-3-6 魚種別漁獲量推移

図表2-3-6 魚種別漁獲量推移

『愛媛県市町村別統計要覧 昭.40.45.50年』により作成