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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 ニューサンマの栽培

 (1) 三瓶の柑橘栽培

ア 子どもの手伝い

 「私(平野治さん)は子どものころから農作業の手伝いをしていました。学校が休みの日はもちろんのこと、学校へ行った日でも、帰宅してからはいつも手伝いをしなければならない状態でした。毎日のように手伝いをしていたので、特に長い時間手伝いをしなければならない土曜日や日曜日は、『いらないな』と心の中で思っていたことをよく憶えています。
 昭和30年代、私が小学生のころには農繁休業がありました。終戦直後から食べるものを確保する目的があったこともあり、イモ植えの時期やイモを掘る時期に設定されていました。この辺りでは米を作ることは少なかったので、農繁休業といえばイモに関する作業が中心だったことをよく憶えていますが、イモと米は同じような時期に農繁期を迎えるので、農繁休業になると多くの子どもが手伝いをしていたように思います。3日から4日ほどあった農繁休業になると、田んぼや畑のない家の子どもはとても喜んでいましたが、田んぼや畑を持つ家の子どもは、『また手伝いか、いややなあ。』と言っていたことを憶えています。農繁休業になると、私の家では父親から、『今日はそのための休みなんやけん、お前来い。』と言われ、朝7時ころから父親や母親に畑に連れて行かれ、お構いなしで夜遅くまでイモ植えやイモ掘りの作業を手伝わなければなりませんでした。
 ニューサンマやミカンの仕事がない日には、ほとんどが畑でのイモ植えの作業でした。この作業は本当に嫌でした。畑を持たない家の子どもはみんな遊んでいました。お宮やお寺が遊び場で、子どもの数が多く、一声かけると10人や20人はすぐに集まって遊んでいたので、仕事をしながらその姿を横目で見て、『いいなあ。いいなあ。ぼくも一緒に遊びたいなあ。』と、心の中でいつも思っていました。
 中学生のときには野球部と陸上部に所属していました。当時は農作業が忙しく、少しでも早く学校から帰って手伝わなければならなかったのですが、大会前になると練習にも参加しなければなりません。あるとき、練習に参加せずに帰宅して手伝いをしていると、農協から有線放送で『平野君、学校に戻って練習に参加しなさい。』と呼び出しを受けました。学校の先生が農協へ電話を掛けて、『平野君を呼んでくれ。』という依頼があって放送されたそうです。農協の放送はどこの山にいても聞こえるので、先生は帰宅して山で農作業の手伝いをしている生徒に連絡をするには一番良い方法だと考えたのだと思います。夏休み中など、何時から練習があるということは知っていましたが、山にいると時間が分からないし、仕事もこなさないといけないので、練習に行けずにいると呼び出されることがありました。呼び出しを受けると、それを聞いた周りの大人から『早く行け。』というように言われ、急いで学校へ行って練習に参加していました。中学生や高校生のときには、『農作業の仕事も手伝わなければならない、勉強も部活動もがんばらなくてはならない』と思って日々がんばっていたことを憶えています。
 山での手伝いは農作業に限らず、焚(た)き物集めもありました。当時はガスがなく、風呂を薪(まき)で沸かしていたので、私の家が所有する山で焚き物を集めてはかるうて(背負って)家まで下ろしていました。冬の時期になると、父親や近所の人が伐(き)ってくれた木を持って帰るために、オイコを背負って山へ行き、木を背負って帰って来ていました。家に持ち帰った木をノコギリでさらに小さく切り、斧(おの)で割って薪にすることも手伝いの一つでした。」

イ ニューサンマの導入

 「昭和30年代の半ばころから、この三瓶一帯で早生(わせ)や晩生(おくて)の温州や夏柑などの柑橘を作ることが流行(はや)ってきたように思います。三瓶で柑橘の栽培が盛んになった理由はやはり温暖な気候にあると思います。また、この辺りでは当時、米作りにしても田んぼが少なく、イモを作る程度のもので、豚や牛を1頭か2頭飼って生活をしていく農家が多かったと思います。北地区では、垣生はそうでもありませんでしたが、二及(にぎゅう)や長早、周木では漁師など船に乗る仕事を持つ人が多く、半農半漁の生活が一般的でした。これらの地域では、ミカン作りは女性でもできるということから、漁師など船に乗る仕事をしていた方の奥さんらが中心となってミカン作りを始めていったと思います。西宇和(にしうわ)では、八幡浜(やわたはま)や保内(ほない)、伊方(いかた)、三崎(みさき)でミカン栽培を盛んに行っていたことも影響しているのでしょう。西宇和には柑橘協同組合があり、私が中学生のときに亡くなった父も役員として総会などの会議に出席していましたし、東京の築地市場へも出張で行くことがあったように記憶しています。 
 ニューサンマはもともと宮崎の方から入って来たと聞いています。明治時代、この垣生地区では織物を製造して宮崎へ運んでいて、そのつながりでニューサンマの原木をもらって帰り、お寺に植えられたのが始まりと学校で習ったことを憶えています。垣生縞(しま)といって盛んにつくられ、九州の方へ船を仕立てて運んでいたようです。その関係でしょうか、私の家の分家が宮崎にあり、今でも付き合いがあります。私の家では私の祖父が栽培を始めたと思います。私の家で栽培しているニューサンマの木には100年程度のものがあるので、明治の終わりか大正のころには始めていたのではないかと思います(写真2-3-2参照)。」

 (2) ニューサンマを育てる

ア 栽培にかける情熱

 「父と一緒に仕事をしていると、何かを教わるというのではなく、仕事を見ていて自然と身に付くという感じでした。父も私に仕事を手伝わせるときには、ただ、『これやっとけ。』と言うだけだったので、一緒に仕事をしていく中で、見て学ぶしかなかったのかもしれません。
 私は、昭和43年(1968年)3月に三瓶高校を卒業しました。卒業後は柑橘栽培一筋で生活をしてきました。卒業後は中学校から始めた大好きな野球からも離れてしまいましたが、ミカンの剪(せん)定など、専門的な技術は、高校を卒業して本格的にニューサンマの栽培を始めてから、三瓶町の農業後継者クラブなどで講師の先生から教わりました。
 役場関係の仕事を持ってからは、休日はもちろん、平日の朝晩、仕事の前後がニューサンマの仕事の時間となりました。朝、一度山へ行ってから仕事へ行く、という日々を送っていました。私の仕事の関係で日曜日には行事がたくさん入っていたので、なかなか山での仕事に行くことができなくなった時期もあったくらいです。行事が多い年には、1年間で日曜日の休みが3回しかなかったことがあるくらいでした。」

イ 「本越」と「岩崎」

 「私がニューサンマを栽培していた畑がある場所は本越(もとごえ)といい、一方、ミカンを栽培していた畑の方は岩崎(いわさき)といいます(図表2-3-3参照)。『明日は本越に行って消毒するぞ。』と、父に言われるとニューサンマの消毒だということが分かっていました。岩崎の方は、文字が示す通り、『岩がたくさんあるな』という印象を受けます。地面には石がたくさん転がっていますし、当時、岩崎へ上がっていく里道は、石を上手に組んだ石畳で整備されていました。石が多い印象を受けますが、温州ミカンの栽培にはこちらの土壌が良いと言われています。
 本越には朝日が当たり、岩崎には夕日が当たります。また、岩崎の土壌には地熱があるとも言われています。当時、夏に山へ農作業に行くときには、午前中の9時から10時くらいに岩崎へ行くと日陰で作業ができ、向いの山にある本越では、夕方の4時から5時になると日陰になるので、その時間に作業をするというように、農作業の時間も暑い時期に日に当たることがないように工夫することを教えられていました。農作業を行う際の受け継がれてきた知恵の一つだと思います。」

ウ 消毒作業

 「消毒は年間を通して行う作業になります。病害虫の駆除を行うために、ミカン類であれば4月から花が咲く前に消毒を行うなど、年間7、8回は行います。」

 (ア) 手押しの噴霧器

 「昭和30年(1955年)ころは、この辺りでミカンの栽培をする農家はまだ少なく、柑橘の栽培をしていたのは親戚の中でも私の家だけだったこともあり、親戚の方にも本当によく手伝ってもらっていました。当時は消毒の作業に用いる噴霧器が普及しておらず、手押しの機械で行っていました。この消毒作業は大変だったこともあり、家族だけではなく、近所に住んでいた親戚にも何人かに来てもらって作業を手伝ってもらっていました。
 学校が休みのときには私もニューサンマの手伝いをしていました。今では消毒をするにも噴霧するための機械があって負担が軽くなっていますが、当時は消毒をしなければならないときには、前日に機械と桶(おけ)を山へ持って行っておいて、次の日の朝早くに山へ行って桶に水を溜(た)め、ニューサンマを栽培している山全体を消毒しなければなりませんでした。私が小学1、2年生のとき、当時の噴霧器は、ポンプのような形状をした簡単な機械で、2人がかりで手押しで作業をしなければなりませんでした。」

 (イ) 動力噴霧器

 「動噴(動力噴霧器)が私の家で使われるようになったのは、垣生では比較的早く、昭和33年(1958年)ころだったと思います。動噴はエンジンをかけてポンプにつなぐと噴霧できていたので、消毒の時間が大幅に短くなったことを憶えています。小学生のころには噴霧口を持って作業をすることはなく、動噴につながるホースを持つことが仕事で、ホースが作業の邪魔にならないように動き、噴霧口を持って作業をする父親たちが効率良く動くことができるようにしていました。私の家では当時、柑橘を栽培している畑が2haほどありました。当時は、ニューサンマだけでなく、柑橘を栽培している山をすべて消毒しなければならなかったので、1日で終わるような仕事ではありませんでした。動力噴霧器は、消毒を行うときに家から山へ持って上がらなければならず、山へ持って上がるときには、オイコで背負って行かなければならなかったので、前日には、『明日は消毒じゃあ。』と言って、荷造りなどの段取りをしておかなければなりませんでした。オイコ一つの目方(重量)が60kgくらいはあったのではないかと思います。私が小学生の間は父親がそのオイコを背負って山へ行っていましたが、中学生になり、身体が大きくなってくると私が背負って行っていたことを憶えています。手押しの噴霧器は意外と重みがなかったので、動噴を持って山へ行くことを考えると、オイコでかるてその場所まで持って行くにしても楽なものだったと思います。
 消毒に必要な水は担い棒で運んでいました。山の中腹に湧水があり、そこで水を汲(く)んで持って行ったり、湧水が少なく、汲めないときには下から持って行ったりしていました。普段、山の畑に水をやるときにはこの湧水や、田んぼの近くにあった農業用の溜め池の水を使っていました。」

エ 袋掛け

 「袋掛けは、ニューサンマであれば10月半ばから始めて、収穫時期まで袋が掛けられたままになっています。10月ころになると、小さい実がなっているので、その時期から袋掛けを行います(写真2-3-3参照)。清見であれば、ニューサンマより少しあとの時期になると思います。
 現在は病害虫に侵されることを防ぐ目的で袋掛けをすることが多くなりました。デコポンにしても、袋掛けをしたものとしていないものでは値が違ってきています。袋掛けには病害虫から実を守るということと、防寒の役割があります。
 袋掛けは実一つ一つに丁寧に行っていきます。私の家には本越に6反(約60a)、岩崎に1町(約1ha)の果樹園があったので、多いときでニューサンマだけで8万袋掛けたことがあり、実一つ一つに袋掛けを行うことは本当に気が遠くなるような作業でした。袋掛けの作業は朝から晩まで何日もかけて行い、1日の作業で、1人当たり2,000枚から2,500枚掛けることができれば良い方だったと思います。私の家のニューサンマの木は大きかったので、ほとんど脚立を立てて、それに登って作業を行わなければならず、袋掛けがなかなか進まないこともありました。家族だけではなかなかこなし切れない数なので、近所の女性を1人か2人は袋掛けの作業が終わるまでは雇いっぱなしで行わなければならないほどでした。」

オ 施肥

 「袋掛けを行うと、収穫まではそのままにしておきます。ただ、農地に化学肥料をやる作業は行っていました。
 私は、かつて三瓶高校で野球部の監督を務めたことがあります。畑までの道が整備されていないときには、体力づくりの指導の一つとして、ミカンの若い木を植えた岩崎の畑に鶏糞(ふん)の肥料など、15kgほどの重さになる袋を100袋から200袋ほど、部員の生徒に持って上がってもらったことがありました。
 高知県の明徳義塾高校の野球部の監督さんは、野球部での私の教え子に当たります。彼にも重たい袋を山に持って上がってもらったことがあるのです。『これも練習の一つ。』と言って運んでもらっていました。当時の教え子たちは本当によく手伝ってくれて、今でも感謝しているところです。」

 (3) ニューサンマの収穫

 「ニューサンマの収穫は4月から6月にかけて行います。私の家で栽培していたのはニューサンマだけではなく、柑橘でいえば、ミカンやダイダイ、ネーブルなどがありました。ダイダイはニューサンマとほぼ同じ時期での収穫となり、ミカンが11月から12月が主で、1月に収穫できることもありました。他(ほか)に田んぼでの米作りや畑でのイモ作りがあったので、1年中忙しく農作業の手伝いをしなければなりませんでした。
 また、4月初めに出荷されたニューサンマの実は、まだ酸っぱい状態で食べることができず、今一つ評判が良くないということを聞きました。ニューサンマ本来の味が出てくるのは5月の連休の時期くらいからになります。私が栽培をしていたときにも、『まだこれ酸いのにいけるかい。』などと言われていたことがあったくらいです。」

ア 収穫

 「ニューサンマを収穫するときには、近所の方にも手伝ってもらっていました。ニューサンマは今のミカンなどと同じで、色や大きさで収穫するものを判断していたので、適切な色や大きさになったものから順番に収穫をしていました。ニューサンマの果実は黄色がかった色をしているので、果実の下部がまだ青いものなどは、『もう一時(いっとき)(少しの間)おいた方がよい』というような判断をして、青みがかっている部分が少なくなっているものから収穫していました。
 収穫のときには、手伝ってくれる人を雇い、収穫したニューサンマは山から下ろして家で選別をしてから木箱に入れていました。選別は現在と同じで、色や形状、大きさによって行われ、良いやつ、良いやつでも大玉、小玉、というように選別をしていました。
 当時はまだコンテナがなく、リンゴ箱よりも少し小さなミカンの木箱に収穫したニューサンマを入れていました。選別をして木箱に詰めると、1箱20kg弱のものが60から70箱ほどはあり、八幡浜の市場へ出荷するときにも、この木箱で出荷されていました。」

イ 木箱

 「木箱は大量に収穫したニューサンマを運ぶためのものだったので、私の家には400から500箱はありました。雨の日には、木箱を打つ(作る)仕事をしていました。木箱の型となる板があるので、それを組み合わせて一つの木の箱に作り上げていくのです。板は製材所で加工されたものがあったので、それを購入して作っていました。木箱は生の木の板を用いて作るため、作った年は水分を含んでいてとても重たいものでした。何年か使い込んで、そのうちに乾燥している木箱と比べると、重さが大分違っていたことをよく憶えています。
 ミカンやニューサンマを摘む時期になると、普段は私の家の倉庫に保管している空の木箱をオイコにロープで下の段に6箱、上の段に4箱というように、2段にして10箱ほどくくり付けて、それをかるて山へ上がっていました。私が中学や高校のときには、摘んだミカンやニューサンマを木箱に入れて、麓まで一度にたくさん下ろすことが難しかったのですが、それでも5箱や6箱の木箱を一度に下ろさないと間に合わないので、オイコでかるて下ろしていました。」

ウ 山から下ろす

 (ア) 人の力で下ろす

 「収穫したニューサンマは背負って山に建てられた小屋まで運んで1か所に集められ、これは誰々さんのやつ、これは誰々さんのやつと、順番に下ろされていました。山から下ろすときも、人の手で運ばれていて、山と家とを何回も行き来して収穫したニューサンマを下ろしていました。山から下ろすにも木箱に詰めて下ろしていたので、1箱が20kgほどの重さのものを、大人であればどの人も3つはかるて下ろしていました。私も小学校5年生くらいの時には3つはかるいよったことを憶えています。私の父の身体の調子が良くなかったこともあり、『それくらいはやらなければ』と思い、一生懸命に運んでいました。私には姉と兄がいますが、それぞれが少しでも力になろうと、何も言わなくても協力して重たいミカン箱を下ろしていたことが思い出されます。
 麓の小屋に下ろされたニューサンマはリヤカーに乗せて、それぞれの家へと持って帰っていました。家へ持って帰ると、選別して木箱に詰められて出荷されますが、出荷の際にもリヤカーに木箱を積み、私の家から100mほど先にあった農協の集荷場まで出荷していました。」

 (イ) サルキカイで下ろす

 「ニューサンマを栽培している山には、山の上の畑と麓をワイヤーで結び、収穫したものを動力で下ろすサルキカイ(サルモッコとも呼ばれていた。索道。)を標高100mくらいの所から10mくらいの所を結ぶように設置し、それに乗せて下ろすようになり、一度に6箱(約120kg)ほど下ろすことができました。垣生地区には果樹農家が共同で設置した索道が本越と、県道の奥にダバ索道と呼ばれているものの2本がありました(図表2-3-3参照)。ダバではミカンが栽培されていたので、そこから県道の付近まで収穫したミカンを下ろせるようになっていました。当時は近所の山を所有している人たちが資金を出し合い、誰にとっても都合の良い場所を選んで、収穫したものを一時保管する小屋を山の上と麓に建て、それを結ぶように設置していました。
 このサルキカイを設置するときには、メーカーの方が私の家に泊まり込みで来て作業をし、1週間くらいはかかっていたのではないかと思います。これと同時期くらいにエンジンが入ってきたので、消毒にも使えるということで、飛躍的に農作業が効率化したことを憶えています。
 索道は長さが300m以上ありました。私は索道に乗って山を下りていた時に、エンジンの故障で止まってしまい、高さが10m以上の所で宙吊(づ)りとなり、困ってしまったということがありました。そのときには、『これを使って下りて来い。』と近所の人に言われて下からロープを上げてもらい、それを伝って地面に下りたことを憶えています。本来は人が乗ってはいけないもので、実際に事故が起こっていることもあり、『絶対に乗るな。』と学校でも注意されていたほどでしたが、農作業で疲れ果てて、『どうしても楽をして帰りたい』という気持ちが強かったのでしょう。」

 (ウ) 道路整備

 「岩崎には索道がなく、収穫した実を下ろすことは本当に大変な作業だったので、私が20歳のころに岩崎で果樹栽培をしていた仲間とともに、車で運搬ができるように道路を整備しました。本越の方は索道がありましたが、私が高校を卒業するころには索道の起点の所まで農道が整備されたので、索道を使って運搬した期間は10年か14、15年程度だったと思います。
 当時はトラックがあまり普及していなかった時代でしたが、私は高校を卒業した昭和43年(1968年)に運搬用のトラックを購入しました。運搬用のトラックが普及していないころは、テーラー(動力運搬車)が主に使われていました。私の家では従兄弟が所有していたテーラーを借りて、木箱を運ぶこともありました。」

エ ニューサンマの盛衰

 「ニューサンマは垣生と蔵貫で盛んに栽培されていました。昭和43年(1968年)ころ、私が高校を卒業したころですが、まだ袋掛けなどを行っていない時に、ニューサンマの調子がよく、木箱1箱20kgが1万円近くするときがありました。それぐらいの高値で取引されていたので、収穫したニューサンマを山からかるて下りるのも、『軽いもんやなあ』というような気分になっていました(図表2-3-4参照)。 
 収穫の手伝いに来てもらっていた方の1日の賃金、日役が2,000円くらいだった時に1箱1万円だったので、利益が大きく良い時だったことを憶えています。
 昭和44、45年(1969、70年)ころも調子がよく、このころに切り替えが進み、ニューサンマを栽培する農家が増えていきました。温州よりも少しでも収入が多くなる方が良い、ということで切り替えが進んだのではないかと思います。
 ただ、このニューサンマも順調に伸びてはいましたが、昭和40年代の終わりころか昭和50年代に入ったころに寒害の被害に遭ったことがありました。ミカンは氷点下5℃以下になると凍ってしまい、実がスカスカになって商品価値がなくなってしまいます。この寒害ではこの地域のニューサンマがほぼ全滅の状態になってしまい、栽培が下火になっていく要因となりました。」

 (4) 垣生でのくらし

ア 海岸の通学路

 「垣生地区の子どもは二及の小学校まで通わなければなりませんでした。海岸の約1.5kmの道のりを歩いて通学していたことを憶えています。私の姉が小学校3年生くらいのとき、雪が降っている冬の日に海岸の道を歩いて登校していると、突風が吹いて海に落ちてしまった、という話を聞いたことがあります。ちょうどその付近を歩いていた中学生が海に飛び込んで助けてくれた、というようなことがあったそうです。
 私は天気の良い日には、友だちと道路を通らずに波打ち際を歩き、『タコでもおらんかのう。』と話しながら帰っていました。実際、帰り道ではタコをたくさん獲(と)って家に帰っていたことをよく憶えています。台風が通過した後には、魚が道路横の溝にまで打ち上げられ、泳いでいるというようなこともありました。
 また、この付近の海岸端では煮干しイリコがよく干されていました。通学路の途上にも加工工場があったので、学校への行き帰りには、イリコやイカが干されていれば、『これいいのう。』と友だちと話をして少しもらい、カバンの中に入れて、つまみながら登下校していました。もちろん、勝手に持って行っているので、見つかれば、『こりゃ。』と怒られることがありましたが、近所の子どもが少しもらって食べるくらいのことなので、それほど厳しく言われるというようなことはありませんでした。
 加工工場の前を通るときには、干されてあるものを見て、『今日はイカがあるぞ。これは噛(か)みごたえがあらい。』などと言いながら、干されていた煮干しイカをカバンの中に入れていたのです。学校への登下校のときには、いつもカバンの中に干しイカが入っていたように思います。
 小学校6年生のときには、海岸線を自転車で八幡浜まで行ったことがあります。当時、宇和島(うわじま)から三瓶を通って八幡浜まで走る駅伝が開催されていて、その走者について自転車で八幡浜まで走ったのです。八幡浜まで行ってしまうと、その日の内には帰れない時間帯で、さすがに『無理をしてでも帰ろう』などとは思わなかったので、親戚の家に泊らせてもらったことを憶えています。」

イ 中学校の思い出

 「二木生(にきぶ)中学校は小学校と同じ敷地内にありました。垣生地区の生徒は、学校へ自転車で行くことが禁止されていましたが、農作業の手伝いをしているときに呼び出しの放送がかかると、自転車に乗って急いで学校へ行っていました。陸上大会など、二木生中学校から選手が派遣されるときには船がチャーターされていました。二及から長早の生徒も乗せて、垣生へ寄り、大会が開催される三瓶の学校へ行っていました。ただ、船に乗って三瓶へ行くのは、陸上の大会に参加するときくらいで、あとはほぼ自転車で行っていました。
 また、山の手伝いをするときには、単車に乗ることもありました。あるとき、父親から、『油を買って来てくれ。』と言われ、私が父に、『単車かまんか。』と聞くと、『おお。』と言われたので、ベンリー125という比較的大きな単車に乗って買いに行っていたところ、中学校の校長先生とすれ違ってしまいました。私は、『ああ、明日学校で呼び出されて怒られるなあ』と思いましたが、翌日学校へ行くと何も言われませんでした。
 卒業後、この校長先生にお会いする機会があり、『あの時なぜ怒られなかったのか』ということを聞いてみると、『お前なあ、あんな泥だらけの姿で立派な単車に乗って、油を買い行くということは、それだけ一生懸命に仕事を手伝いよったということやろ。そんな生徒を呼び付けて怒ることはできんわい。』と言われたので、『手伝いをがんばっていたことを認めてくれていたのだ』とその時感じたことが強く印象に残っています。」

ウ 他所へ行く

 「私が幼いころ、三瓶から八幡浜へ行くときには、船を使っていました。当時は八幡浜行きの定期便がありました。また、八幡浜や卯之町(うのまち)方面にバスが運行されていたので、バスを使って行かれる方もいたと思います。
 三瓶港からは別府(べっぷ)行きの繁久丸が運航されていました。八幡浜へは船を利用してもバスを利用してもかかる時間は大体1時間半くらいで、運賃は船の方が安かったと思います。
 バスは宇和島自動車が運行していました。八幡浜へは海岸線を走るバスがあり、山間部を越えるルートを運行するバスもありました。山を越えるルートは横平(よこひら)経由、谷(たに)経由、和泉(いずみ)経由の3本があったことを憶えています。宇和行きのバスもありましたが、本数が少なかったと思います。高校生のとき、野球部で遠征に出掛ける際にも宇和島自動車のバスに乗り、山を越えるルートを経由して八幡浜駅まで出て、そこから列車に乗って移動していたことを憶えています。」

エ 農業主体のくらし

 「当時、買い物は垣生の中でしていました。当時は食料品を買うには農協の店がありましたし、雑貨等を扱う久留島商店があったので、日用品に困るようなことはありませんでした。久留島商店には釣り道具などまで置いてあったことを憶えています(写真2-3-4参照)。
 高校生になって部活動で必要な道具などを買うときには八幡浜や宇和まで行くことがありました。当時は高校1年生で自動二輪の免許を取得することができ、下泊(しもどまり)に住む友だちは学校の許可を得て自動二輪で通学していたので、免許を取ってからは友だちに、『ちょっと単車貸してくれや。』とお願いして自動二輪で行っていました。ただ、やはり農作業も気になっていたので、単車を借りて一度家に帰り、農作業の様子を確認してから行っていたことを憶えています。やはり、農業が生活の主になっていたということだと思います。」


写真2-3-2 ニューサンマの原木

写真2-3-2 ニューサンマの原木

平成29年8月撮影

図表2-3-3 「本越」と「岩崎」

図表2-3-3 「本越」と「岩崎」

昭和42年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「三瓶」による

図表2-3-4 ニューサンマの単価の推移 

図表2-3-4 ニューサンマの単価の推移 

『三瓶町農業史 下巻(柑橘編)』により作成。昭和48、49年の数字は、総取扱量の平均手取単価で示している。

写真2-3-4 久留島商店の現況

写真2-3-4 久留島商店の現況

平成29年8月撮影。写真右側の建物が久留島商店