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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 高山石灰の衰退

 (1) 要因
 
 宇都宮長三郎さんは、石灰業の衰退の理由について、次のように話してくれた。
 「昭和30年代に入って漆喰を塗る湿式(しっしき)工法からボード板を貼り付ける乾式(かんしき)工法へと住宅の建築様式が変わり、石灰の需要が大幅に減少したことが非常に大きいと思います。昭和34、35年(1959、60年)ころから次第に経営が難しくなっていき、昭和30年代の後半には高山石灰の衰退が明確に感じられるようになりました。
 さらに昭和40年(1965年)に石炭窯から重油窯へと焼成の燃料が変わると、状況はより深刻になりました。そのころ、四国の石灰業者が高知県へ呼ばれ、『今から3、4年先には全ての石炭窯を重油窯に切り替える。1日50tの石灰を生産する重油窯なら2基必要で、(当時の価格で)1基8,000万円かかる。』と言われたことをよく憶えています。私はその時、全ての設備を整えるのに2億円以上かかるうえに、高山の石灰鉱山は手掘り中心(宇都宮石灰工場の削岩機導入は昭和34年〔1959年〕のこと)だったので、1日50tもの生産量を維持することができないと感じました。こうした理由で、私たちは重油窯への転換を諦めたのです。
 実際に重油での焼成が開始されると、大量生産によって石灰の価格が下落し、安価な石灰が市場へ出て来るようになりました。石灰組合から石灰の価格を上げてくれと頼まれてもできず、生産しても儲(もう)からないという状態になってしまい、次々と石灰工場が閉鎖されていきました。木炭から石炭へと焼成の燃料が変わった時は高山石灰の躍進の時でしたが、石炭から重油への変化は逆にダメージになってしまいました(図表2-2-7参照)。」
 濱田正明さんは、高山の地層特性を踏まえて衰退の理由を次のように話してくれた。
 「高山の石灰岩層自体が地下に潜り込むような形で分布していて、大量生産に向いていなかったこともその理由の一つです。1日50tの生産を続けるためには、地下のかなり奥深くまで掘り進めていかなければならず、費用が莫大にかかってしまって採算が合いません。結局、農業用の肥料として生産するくらいしかできなくなってしまいました。」

 (2) 振興策を講じて

 「昭和41年(1966年)、私(宇都宮長三郎さん)が愛媛県石灰工業協同組合の組合長に就任したころ、愛媛県商工課から私に、高山石灰の赤土と宇和の瓦製造用粘土とを合わせて新しい焼き物をつくる計画があるので、砥部(とべ)町の窯業試験場へ届けてほしいとの依頼がありました。それらの原料を合わせて制作されたのが『軽質陶器』で、昭和42年(1967年)の日本経済新聞の愛媛版に『コストが安く、軽い。豊かな資源を活(い)かして南予地方の経済開発に役立つものと期待されている(①)。』と記載され、愛媛県商工課でも評判となりました。
 当時私は、高山石灰の振興策について協議するために何度も愛媛県商工課を訪れていました。ある時、商工課の課長の方が、『砥部焼と菊間瓦と伊予絣(かすり)と高山石灰は愛媛県が重視する大事な地場産業なので、何としても守りたい。これまでの石灰製造の継続は難しいので、軽質陶器を作ってはどうか。』と提案してくれ、2,000万円の融資を約束してくれました。
 私が仲間たちにこのことを話すと皆喜んでくれ、明浜町でも石灰振興対策協議会をつくって協力してくれましたが、石灰業者の対策がまとまらず立ち消えになりました。」

 (3) 珪酸石灰(ケイカル)の製造を始めて

 「宇都宮石灰では消石灰の限界を感じ、昭和39年(1964年)からボールミル(粉砕機)を備えて『タンカル(石灰石を粉砕、ふるい分けして粒状や粉末にした製品)』や『プラスター(石灰を主材料とした塗装材料)』の製造を始めていました。昭和26年(1951年)から城川しろ(かわ)町田穂(たお)に大日本ドロマイト株式会社を創業して苦土石灰肥料を生産していた澤近理正氏は、同35年(1960年)ころからドロマイトの鉱脈が地中化して経営が困難となったため、同38年(1963年)には九州炭鉱に援助を頼んで経営を手放していました。この澤近氏が次の仕事として考えたのが、『ケイカル(昭和30年〔1955年〕ころにアメリカから伝わった農業用肥料で、製鉄所の鉄をつくった残渣を砕いたもの)』製造でした。
 昭和41年(1966年)、澤近氏が高山の石灰組合へ来て、業者一人一人にケイカル産業を説得して回りましたが、誰も応じる者がありませんでした。その夜、澤近氏が私(宇都宮長三郎さん)の所へ来て、『宇都宮石灰工場にボールミルを設置しているのが絶対の強みである。』と、私の会社でケイカル製造を行うことを熱心に勧誘されたのです。その時私は、『ケイカル事業に乗り出すかどうかは全国農業協同組合の指定が絶対の条件です。』と返答しましたが、それからが苦難の連続でした。
 大阪天満(てんま)にある全国農協関西支店へ陳情したのち、原料の購入を小倉(こくら)(福岡県北九州市)にある住友金属の子会社である小倉鉱化鉱業と交渉し、宇和島の鉄工所と機械設置について打合せを行う毎日が続きました。その努力の結果、昭和42年(1967年)5月に大阪の全国農協関西支店で新規指定工場の指定式が行われ、『日本鋼管鉱業株式会社(広島県福山〔ふくやま〕市)』、『アサヒミネラル株式会社(広島県呉市)』、『古田産業株式会社(高知県高知〔こうち〕市)』、『宇都宮産業株式会社』の4社がケイカル製造の指定を受けることになりました。こうして宇都宮産業では、小僧津の工場をケイカル専門工場として運用し、石灰製造部門は閉鎖していた鹿村石灰工場を借り受けて操業を継続することにしました(図表2-2-3の⑥、⑧参照)。当時のケイカル事業は製造工場が少なく、非常に逼迫(ひっぱく)した情勢でした。四国には住友化学の子会社が坂出(さかいで)市(香川県)に工場を構えて生産していましたが、高知市の古田産業と宇都宮産業が加わって3社で生産して各地へ配給することになり、宇都宮産業は愛媛県の中予と南予を担当しました。
 昭和50年(1975年)ころ、小倉鉱化鉱業の『徐冷滓(じょれいさい)(銑鉄の際に高炉から出る不純物を空冷と適度の散水によって塊状化させたもの)』から、高山との距離がより近く粉砕しやすい大分(おおいた)市(大分県)にある新日本製鉄の『水滓(すいさい)』にケイカル原料を換えて製造するようにしましたが、このころにはケイカルの生産業者が増えており、宇都宮産業は南予地方の配給範囲を縮小しました。そして平成に近づくと肥料の粒状化(りゅうじょうか)が始まり、粉状肥料の使用量が次第に少なくなっていきました。宇都宮産業として造粒機の導入も考えましたが、指定された範囲の配給では機械の償却ができなかったので、平成5年(1993年)にケイカル肥料の生産を止むを得ず中止しました。」
 
 (4) 石灰産業の終焉

 宇都宮長三郎さんは、次のように話してくれた。
 「昭和51年(1976年)に鈴木産業株式会社が閉山し、高山の石灰業者は公受忠七石灰、一宮芳十郎石灰、宇都宮産業株式会社の3社となりました。町長宇都宮竹夫氏は鈴木産業の閉山による大勢の失業対策に追われましたが、従業員30人を雇用して地元資本による高山鉱山株式会社を設立し、その営業利益を当てて日鉄鉱業の持つ大早津の6万坪(約20万㎡)の土地を払い下げるという計画を実施しました。また、翌52年(1977年)には石灰産業功労者『宇都宮角治翁頌徳碑』が明浜史談会の提唱で建立されています(写真2-2-9参照)。
 こうして、町有地となった大早津にて高山鉱山株式会社が石灰の製造を継続しましたが、同54年(1979年)7月に使命を終えて閉山しました。また、同年には公受忠七石灰工場が、同57年(1982年)暮れには一宮芳十郎石灰工場と宇都宮産業の石灰部門も製造を停止して、消石灰の生産が終了しました。創業者宇都宮角治の石灰製造から143年目に高山の石灰類の生産は終わりを告げることとなったのです。」
 
参考引用文献
① 宇都宮長三郎『伊予高山石灰産業史』2015

その他の参考文献
・ 明浜史談会『明浜こぼれ話』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 明浜町『明浜町誌』1986
・ 日本石灰協会・日本石灰工業組合ホームページ(www.jplime.com) 



図表2-2-7 昭和40年(1965年)の石灰工場所在地

図表2-2-7 昭和40年(1965年)の石灰工場所在地

『伊予高山石灰産業史』の図をもとに、平成15年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「伊予高山」から作成

写真2-2-9 宇都宮角治翁頌徳碑

写真2-2-9 宇都宮角治翁頌徳碑

平成29年7月撮影