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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 石灰の製造と出荷

 (1) 作業工程

ア 鉱山での仕事

 (ア) 仕事分担

 「石灰鉱山の仕事は、石採りと石割り、込み掃きの3種類の仕事に分かれています。『石採り』は崖の所に上から吊(つ)るした吊り板の上に乗って石灰石の崖に発破穴を掘って岩石を落とす作業で、吊り板まで命綱を伝って下り、鑿(のみ)と盛山棒(せいざんぼう)(高山では『カナッポウ』と呼ぶ)を使って6尺(約182cm)ほどの穴を空け、その中にダイナマイトを詰めて爆破し、落とした石を大玄能(げんのう)(約11kg)で中割りします。(写真2-2-3、2-2-4参照)。『石割り』とは、石採りが落とした石灰石を拳二つ大ほどに小割りする仕事のことをいいます。小玄能(約2kg)を使って小割りし、ザルに7貫目(約26kg)ずつ入れていきます。『込み掃き』は、石採りや石割りの作業の後にたくさん積もって残った土や屑(くず)石をザルにすくい取り、清掃をする仕事です。主に高校生くらいの年齢の若者が従事していましたが、夜に定時制高校に通っている若者が多かったことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。」

 (イ) 火薬類

 「発破には、ダイナマイトやカーリット、コーズマイト等を爆薬として使用していました。爆薬と加工品はともに大阪火薬株式会社から購入していましたが、コーズマイトは米軍払い下げの弾薬を安く購入していたことを憶えています。米軍は製造から一定期間を過ぎた弾薬は全て解体して廃棄処分しており、広島県呉(くれ)市の江田島(えたじま)にあった中国火薬株式会社が廃棄処分となった迫撃砲の火薬を産業用に造り直していました。また、中国火薬株式会社の埠頭には、戦艦大和の砲弾が立てられていたことも憶えています。大砲の口径が世界最大で45㎝もあり、砲弾の高さは私(宇都宮長三郎さん)が爪立って手を伸ばしたよりも高く、非常に大きなものでした。火薬類は鉱山の責任者が早朝に宇都宮火薬店へ受け取りに行きます。木製の丈夫な火薬箱に入れて持ち運んで数量をその都度記帳し、夜は宇都宮火薬店の火薬倉庫へ保管するという決まりでした。また、火薬の使用は1年間の予定数量を愛媛県知事へ使用申請して許可を受けなければなりませんでした。」
 発破を行う際の工夫について、浜田信次郎さんは次のように話してくれた。
 「発破を行う際には、『発破かけるぞ。』と大声で警告し、発破口へ筵(むしろ)等を吊って小石が飛散するのを防いだものです。」
 宇都宮長三郎さんによれば、南予地方の火薬店は宇和島、高山、卯之町(うのまち)、八幡浜(やわたはま)、大洲(おおず)の5か所にあり、ともに明治20年(1887年)に愛媛県から認可を受けたという。

 (ウ) 高山の石灰業者の石の採り方

 「鉱山法では、一度掘った場所のすぐ下は掘らず、奥の方へ少しずらして下へ下へと階段式に掘り進めていく『階段掘り』という方法が奨励されていましたが、高山の場合は最初に石の下の方を掘ってからその真上を掘るという『透かし掘り』という方法で石採りを行っていたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。鉱山法では禁止されていましたが、この方法だと下の部分が空洞になっているので上を掘るとすぐに石が落ちて来るし、岩の割れ目がたくさんできるのでダイナマイトを詰める穴空けの作業が減り、非常に効率が良かったのです。」

イ 工場での仕事

 (ア) 採掘した石灰石を工場へ

 「鉱山で採掘された石灰石は工場の窯場へ送られます。採石場の真下に工場がある場合はすぐに石灰石を下ろすことができていましたが、小浦にある石灰工場の場合は工場が石灰山とは離れた場所にあったので、索道で海岸付近まで下ろした石灰石を石船に移してから工場まで運んでいました。石船は幅が広く平べったい形で、甲板に1、2寸(3㎝から6cm)くらいの丈夫な板を敷き、その上に石灰石を何百杯か乗せていたことを私(宇都宮長三郎さん)はよく憶えています。この石灰石は原石のままでかなり大きかったので、船着き場付近の石割り場で割ってからザルに入れ、石灰窯の上まで運んでいました。そして、石灰窯の中で1,000℃の熱で焼成して石灰石から炭酸ガスを抜き、生石灰を生成していきました。」

 (イ) 石灰窯での焼成

 「採石した石灰石をザルの中へ7貫目ずつ入れて石灰窯のお天主(てんす)まで運びますが、その方法は索道やトロッコを使う場合もあれば、モッコで担いで運ぶなど、工場によって異なっていたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。(写真2-2-5参照)。
 石灰窯は、上から予熱帯、燃焼帯、消火帯の3層構造で、その下が生石灰の取り出し口になっていました(図表2-2-4参照)。まず、予熱帯の上からザル2杯分の石炭を均等になるように撒(ま)き、さらにその上に石灰石を敷いていきます。石灰石を敷く量は、石炭の質によってザル10杯分とか12杯分というように変えていました。ザルは採石した石灰石を入れて運ぶだけでなく、石灰窯に入れる石灰石の量の目安でもありました。
 石灰石の焼成が終わると、取り出し口の天井に取り付けていたサナ(栓)を1本ずつ抜いて生石灰を落とし、鍬(くわ)で窯の中から取り出してから工場へ運びます。このとき、予熱帯の部分が空いた状態になっているので、そこに石炭1、原石6程度の割合で詰め直していきます。このような作業を繰り返して、石灰石の焼成を継続して行っていました。」

 (ウ) がら選り

 「石灰窯での焼成によってできた生石灰(『がら』と呼んでいた。)の中には、土などが付いて変色していたり、石灰の原石の質によって白色ではなく別の色が出てしまったりして、消石灰を生成する前に選別をしなければならない場合があります。この選別作業のことを『がら選(え)り』と言います。変色した生石灰については、質の良し悪しに関係なく活用できる肥料用石灰として出荷していたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。」

 (エ) 機械がない時代の消石灰の生成法

 「生石灰に水をかけて反応させ、消石灰を生成することを、『消化』といいます。今は消化機を通して簡単に生成することができますが、それ以前は全て手作業で行っていました。 
 まず生石灰を広い場所に何か所か敷き詰め、一斗缶(約18ℓ)に入れて運んで来た水をかけてから柄が長い大きな四本鍬でかき混ぜて一晩休めます。そしてスコップですくい取った生石灰を幅1mくらいの四角い箱の中に入れ、箱の上部にやや斜めに取り付けられた網を振り、ふるいに掛けて選別します。箱の中にある生石灰はスコップですくって袋の中に封入していきましたが、網目に入らない大きな生石灰は、箱の外へ落としました。これが一つのサイクルで、作業が終わると箱を別の場所に移動させ、同じ作業を順番に行っていきました。この方法は、消化機が導入された昭和25、26年(1950、51年)ころまで続いたと私(宇都宮長三郎さん)は思います(図表2-2-5参照)。」

 (オ) 消化機の構造

 「消化機の中には鉄の爪が付いた大きなシャフト(動力伝道用に使う棒状の回転部品)と水道管が取り付けられていて、シャフトは外側のギアと繋(つな)がっていました(写真2-2-6参照)。消石灰の生成は、水量をバルブで調節しながら消化機内の生石灰へシャワーのように水を吹きかけるという方法で行いますが、満遍なく水が生石灰に当たるよう、ギアとシャフトを回転させながら行っていました。生成された消石灰はバケットコンベアーで熟成タンクへ運ばれ、タンクの中で1日そのままにして熟成させていたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。」

 (カ) 選別作業

 「選別作業は回転ふるい機で行っていました。タンクと回転ふるい機は離れた場所にあったので、タンクから回転ふるい機付近までは50㎝ほど掘られた床の中に設置されたスクリューコンベアーで、そこから機械の上部にあった封入口まではバケットコンベアー(2本のチェーンの所々にバケットを付けた運搬装置)で消石灰を運んでいたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。
 回転ふるい機は六角形の木枠に網を取り付けたもので、ふるいに掛けられると、網を通過した消石灰はスクリューコンベアーを通して下に設置された秤(はかり)の方へ運ばれ、残渣(ざんさ)(ろ過した後などに残ったかす)は機械の外に設置された大きな箱の中に落ちていました(写真2-2-7参照)。秤には石灰袋が取り付けられるようになっていて、作業員が秤の目方を見ながら、袋詰めに必要な重量(例えば20kg)まで溜(た)まると、栓を抜いて袋の中に消石灰を詰めていきます。ただし、高山で使用していた機械は旧式のもので、昭和40年代には津久見(つくみ)市(大分県)でも土佐市(高知県)でも設備の改革が行われ、全てが自動パッカー(自動計量包装値付機)などの新しい設備が導入されていました。しかし、それには莫大な費用がかかってしまうため、残念ながら高山では新式の機械を導入することができませんでした。」

 (2) 高山石灰の商圏

ア 機帆船への石灰の積み込みを手伝って

 「袋詰めをした消石灰は、陸(おか)から機帆船まで通したあゆみ(船に渡している板)の上を歩いて渡り、搬入していました。あゆみは、直径20cmほどのヒノキの木を10mくらいの長さに伐り出し、3本の板を交互にボルトで留めて1枚の板にしていました(写真2-2-8参照)。
 昭和35年(1960年)ころまで、石灰を船に積み込む人数が足りないときには、私(宇都宮長三郎さん)もその作業を手伝っていました。あゆみの上を歩くたびに板がしなっていたことをよく憶えています。このしなりは重いものを運ぶための工夫で、板が沈んでいるときには荷を肩に掛けたままで待ち、板が跳ね上がったらその反動を利用して足を前に出すようにするとうまく進むことができます。こうすることで、積荷の重さをあまり感じずに済みました。」
 「同じあゆみの上を2人で歩くときは、2人の呼吸が合っていないと板がしなるタイミングが合わず、途端に前に進むことが難しくなります。このために互いに言い争いをしている様子を私(浜田信次郎さん)は何度も見たことがあります。」

イ 高山石灰の商業範囲と取引の記憶

 「海岸付近に石灰工場があることが、高山石灰の有利な条件の一つでした。戦後であれば大阪から瀬戸内一帯、さらに宇和海一帯から宮崎方面という広い範囲が高山の商業範囲で、戦前には朝鮮半島の元山(ウォンサン)や釜山(プサン)付近にも石灰を運んでいました(図表2-2-6参照)。他の石灰業者では、鹿児島県の方まで石灰を運んでいた所もあると聞いたことがあります。私(宇都宮長三郎さん)の会社では、県内はもとより九州であれば宮崎県と大分県の別府(べっぷ)や国東(くにさき)半島辺りの農協へ営業のために何度も訪れましたし、瀬戸内一帯のさまざまな地域で取引をしていました。昭和25、26年(1950、51年)ころ、練炭を造るために石灰が必要とされていたので、大阪の十全練炭にはかなり頻繁に持って行っていました。また、集金のために何度も各地を往復していたことをよく憶えています。」
 「私(浜田信次郎さん)の船でも、土々呂(ととろ)(宮崎県延岡〔のべおか〕市)や保戸島(ほどじま)(大分県津久見市)などに石灰を運んだり、福岡県の若松で購入した石炭を高山へ運んだりしていました。船から石灰山を何度も見ましたが、1か月ほどで山の形が変わってしまった所もあり、それを見た時には本当に驚いてしまったことを今でも憶えています。」

ウ 伊予鉄道石灰販売部との関わり

 「伊予鉄道株式会社の社長を務められた太宰孫九さんの出身地である北宇和(きたうわ)郡二名(ふたな)村(現宇和島市三間町)に石灰鉱山がありました。昭和21年(1946年)に太宰孫九さんの養子である太宰景三さんが、『終戦直後で農家に肥料がない。農業物資として石灰をつくりたい。』と私(宇都宮長三郎さん)の所へ三間に石灰工場をつくる相談に来られたので、高山の鉄工所を斡旋(あっせん)し、私も三間へ出向いて現地でいろいろと相談をしました。そのため伊予鉄道に石灰販売部が設立され、豊田さんと渡辺さんという方が担当されました。太宰景三さんは大変苦労されましたが、三間工場で生産が間に合わないときには私の会社の製品を松山(まつやま)市の伊予鉄道へ送りました。」
 付記 『伊予高山石灰産業史』によれば、伊予鉄道の石灰販売部は昭和22年(1947年)に設立され、昭和26年(1951年)ころに解散した。これは、二名村の石灰鉱山の生産量が少なく、需要を満たすことができなかったからである。

エ 米田商店との関わり

 「松山市堀江(ほりえ)町のフェリー乗り場の前にあった米田商店という肥料を取扱う会社には大変お世話になりました。米田さんが銀行に対して、『お金がこれだけ必要だから持ってきてくれ。』と連絡すると、すぐに銀行員の方が飛んで来ていたことをよく憶えています。当時、堀江の重鎮と言えば私(宇都宮長三郎さん)は米田さんのことを思い出します。」


写真2-2-3 吊り板

写真2-2-3 吊り板

平成29年10月撮影。明浜歴史民俗資料館に展示しているもの。

写真2-2-4 大玄能

写真2-2-4 大玄能

平成29年10月撮影。明浜歴史民俗資料館に展示しているもの。