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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 高山石灰業の発展

 (1) 他地域とのつながり

 「高山の石灰業が発展したのは、高山が海に面して海岸近くに石灰山があり輸送がしやすかったことと、陸上交通の発達していない時代に船で大量輸送ができたことにあると思います。嘉永3年(1850年)に宇都宮角治が土佐で学んだ石灰焼成の技術は木炭燃料による焼成で、火力の弱さから小さな石しか焼くことができなかったため、石灰石を金づちで小さく割っていました。この木炭用石灰窯は、明治4年(1871年)に田之浜(たのはま)(現西予市明浜町)の方が岩井の道路沿いに造ったものが1基(四連窯)健全な形で残されています。石炭焼成用の窯と比較すると本当に小さいものですが、貴重な産業遺産です(写真2-2-1の左写真を参照)。
 その後、明治5年(1872年)に私(宇都宮長三郎さん)の曽祖父、長三郎が筑前若松より煽石を購入して石灰焼成に用いたところ、火力の違いから大きな石が焼けるようになり、石灰窯の構造を石炭用に改善して大型化すると生産量が飛躍的に伸び、販路の拡張に努めたために利益が大幅に向上しました。土佐は石灰製造の先進地ですが、石炭を導入したのは明治18年(1885年)のことで高山よりも13年遅いので、この年の石炭燃料による石灰焼成は、日本で初めての快挙ではなかったかと思います。
 嘉永3年から明治5年までの22年間に16軒の石灰業者が開業しましたが、石灰製造組合が設立された明治29年(1896年)には83軒へと増加しています。また、同30年(1897年)には伊予高山銀行が、同34年(1901年)11月には石灰を運搬するための高山船舶同盟会が設立され、29軒の船主が営業名簿に名を連ねています。この時代はまさに石灰産業による高山の躍進期でした。
 明治16年(1883年)に浅野総一郎がセメント製造の原料である生石灰を調達するために高山へ来ました。この人は新潟出身で、政府から川崎(かわさき)町(現神奈川県川崎市)のセメント工場の経営を任され、セメント原料の生石灰を調達するために全国の石灰工場を回ったと言われています。当時、全国の石灰工場では木炭燃料が主流で生産量も少なかったのですが、高山へ来てみると燃料は石炭を使い、石灰窯も大型で生産量が格段に違ったことに驚いたそうで、同18年(1885年)に浅野商店から高山の石灰工を雇い入れたいとの文書が石灰組合に届いています。これに応じて同22年(1889年)、高山の石灰工20名が浅野セメント深川(ふかがわ)工場へ入社し、青梅(おうめ)(現東京都青梅市)に石炭用石灰窯を造って川崎のセメント工場の原料調達に携わったと伝えられています。このことは、高山の石炭による石灰製造が日本で初めてだということの証明であると思います(図表2-2-1参照)。私の家には、同17年(1884年)5月に東京深川清住(きよずみ)町の浅野石灰商店へ宇都宮長三郎から送った石灰の受取証が残されており、大阪の富井利助商店を介して同年2月4日に五号高砂丸で『叺入粉灰980叺(かます)』を、六号品川丸で『同630叺』(一叺16貫目)を送ったものには、浅野石灰商店の丸印が押されています。当初の包装は叺や菰(こも)俵が主流で、生産地の宇和(うわ)(現西予市宇和町)や三間(みま)(現宇和島市三間町)から供給された藁(わら)を用いて宇和島や狩江(かりえ)で菰や縄がつくられ、石灰の包装材として高山へたくさん運ばれていたことをよく憶えています。高山は物資の集積地でもありました。」

 (2) 石灰工場の記憶
  
ア 宇都宮高治郎石灰工場について

 「嘉永3年(1850年)に宇都宮角治が土佐から帰って初めて小僧津に造った工場は山の中腹で石灰石の出る下辺りと思われ、現在も中腹に石灰窯と思われる石垣が所々に見られます。製品はモッコを担って海岸まで下ろし、船積みをしていました。石炭燃料を導入した角治の長男、長三郎は、荷揚げ等を勘案して明治20年(1887年)に工場を小僧津の海岸傍(そば)へ建設しています(図表2-2-2の⑧参照)。以後、中腹にあった他の工場も昭和の初めころまでには全て海岸沿いに移転していました。同29年(1896年)には83もの工場があったと伝えられていますが家内工業的なものが多く、宇都宮石灰工場ではそれらの製品を集めて販売したり、若宮丸によって煽石や縄、菰等の包装材を仕入れたりして各工場への分配を手伝っていたと私(宇都宮長三郎さん)は聞いています。」

イ 二宮忠兵衛石灰工場について

 「宇都宮角治は、石灰製造を始めてから製法を歌にして詠み、皆に薦めています。文久元年(1861年)に喜十郎が角治の手ほどきを受け、高山で2人目の石灰焼きを始めました。慶応3年(1867年)、藩直営の石灰事業を興したいとの意向から、宇和島藩が田中庄屋に命じて小浦(こうら)へ工場を造った時、土地が狭い小浦を埋め立てて拡張するとともに、経験者として藩営工場の職人に選んだのが喜十郎でした。明治3年(1870年)、廃藩置県により宇和島藩が石灰事業を中止したため、この工場は喜十郎が引き継ぐことになりました(図表2-2-2の⑩参照)。明治5年(1872年)、壬申戸籍を作成したときに彼は二宮忠兵衛と改名します。彼は非常に商才があり、各工場の製品を集めて販売するだけでなく、北前船を呼び込んで販路を拡げ、明治45年(1912年)の記録では小浦に石灰窯4基が操業していたとあります。彼はこの年に74歳で亡くなりました。高山石灰販売の功労者だと私(宇都宮長三郎さん)は思います。
 二宮石灰工場では、小浦の工場が原石山から遠いため、大正13年(1924年)に小僧津へ工場を移転しています(図表2-2-2の⑥参照)。昭和20年(1945年)9月の枕崎台風の被害を免れた二宮石灰工場は同年12月にいち早く生産を開始し、順調な生産を続けていましたが、同21年(1946年)12月の南海大地震で石灰窯と工場が崩れてしまい、岩井に近い瀬の脇(せのわき)の石灰山の下へ工場を移築して操業を続けましたが、昭和41年(1966年)に原石山が崩れて工場が崩壊し、営業を停止しました(図表2-2-3の⑱参照)。」

ウ 宇都宮吉六石灰工場について

 「宇都宮吉六石灰工場がいつごろ操業を開始したのかは分かりませんが、明治45年(1912年)には小僧津に工場があったことが記録されています。昭和の初めころには大早津の東端に工場を構えて操業し、都屋(みやこや)商店として高山の中心部(伊予銀行高山支店の西隣)に広い屋敷を構え、東川の海岸へ敷地を造って2階建ての住居をつくるなど繁華な営業をされているので、明治から大正期には成功していたと思います(図表2-2-2の①参照)。昭和9年(1934年)に津田商会が大早津の石灰鉱山の開発に乗り出し、石灰石の船積地として宇都宮吉六石灰工場がある地を選びました。このため、長浦(ながうら)の海岸傍を造成して工場を移転し、長浦鉱山から索道で窯場へ直接原石を下ろしていたことを憶えています。同10年(1935年)の営業名簿には宇都宮吉六石灰工場が記載されていないので、長浦工場の造成中であったのでしょう。それ以後、敗戦までのことは私(宇都宮長三郎さん)には分かりませんが、戦後は一族で協力して営業を続けていました。昭和40年代に入り高山石灰の不況がますます強くなる中、昭和44年(1969年)に石灰業に見切りをつけて廃業しました。」

エ 津田商会について

 「津田商会は昭和9年から大早津の石灰鉱山の採掘を開始した会社で、セメント用の石灰石を徳山(とくやま)(山口県周南〔しゅうなん〕市)へ出荷していました。宇都宮吉六石灰工場を移転させ、その地へ大きなタンクを造り、鉱山からタンクまで石灰石をトロッコで運んで貯鉱し、さらに桟橋を造ってタンクから船積みをしていたことを私(宇都宮長三郎さん)はよく憶えています(図表2-2-2の①、③参照)。大早津の真ん中へ2棟の社員住宅を、小僧津には2階建ての事務所をそれぞれ建て、事務所前の海へモーターボートをつなぎ、来客を宇和島まで送迎していました。
 大勢の従業員が就業していましたが、戦争のために昭和18年(1943年)ころには休山となり、営業を長く続けることはできませんでした。工員は軍隊に徴兵され、機械類やトロッコのレールは鉄材として供出させられ、鉱山は自然休山という形になっていました。また、同年7月の大水害によって社員住宅や事務所の裏山が抜けて倒壊してしまいました。専務取締役であった長谷川唯男さんは、宇都宮吉六商店が建てた東の浜にある家屋を借りて事務所を移し、戦後までそこで生活をされていました。」

オ 長谷川唯男石灰工場について

 「長谷川唯男さんは、昭和9年に津田商会の専務として高山へ来られ、戦争のために鉱山の仕事がなくなっても高山で生活され、昭和22年(1947年)に大早津へ石灰窯を造り、長谷川石灰工場として操業されたことを私(宇都宮長三郎さん)はよく憶えています(図表2-2-3の④参照)。昭和35年(1960年)の夏、津田商会が鈴木商会として大早津鉱山の再開発を計画(従業員128名)し、金剛寺で発表会を開きました。このとき、長谷川唯男さんは元の専務に戻り、昭和41年(1966年)に石灰工場を閉鎖しました。」

カ 子どもの仕事

 「昭和13、14年(1938、39年)ころまでは、尋常小学校の5、6年生のほとんどの男の子たちが石灰工場の仕事に従事していました。専用の目抜き通し(矢竹の先を尖(とが)らし、後ろを割って縄を挟んだもの)を使って石灰用の菰俵(4貫目入り)に縄を掛ける仕事です。1枚いくらと賃金が支払われ、家の足しにしたり小遣いにしたりして、『今日は何枚通したぞ。』と仲間同士でよく競ったことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。」
 「石灰を船に積み込む荷役の日には、子どもたちもよく手伝ったものです。船主は荷役の日には炊き出しをして賄いを作って出していたことを私(浜田信次郎さん)は憶えています。確か、その時間はお昼と午後3時ころの2回だったと思いますが、積み込みの回数が多いときにはその都度賄いを出していました。昔の高山は本当に繁華だったのです。」

 (3) 家業に携わる 

 「私(宇都宮長三郎さん)が家業の石灰業に従事したのは昭和20年(1945年)の敗戦後からです。当時私は旧制宇和島中学(現愛媛県立宇和島東高等学校)の4年生でしたが、同年4月に戦争のために繰り上げ卒業となり、そのまま学徒動員によって宇和島兵器工場で勤務していました。同年7月13日、米軍爆撃機の空襲を受けて宇和島が焼け野原となり、学校も工場も和霊神社も市街地も全て焼けてしまったため、私は高山へ帰りました。私は二男でしたが兄は広島の原爆で戦死し、敗戦後の9月17日の枕崎台風で石灰工場は全壊、さらに祖父が重病という状況だったので、仕方なく進学を諦めて家業に就くことにしました。
 私の最初の仕事は台風で倒壊した工場の再建でした。高山にある15の石灰工場のうち、台風被害を免れたのは大早津の藤井藤之丞石灰工場と小僧津の二宮忠兵衛石灰工場の2か所のみという惨憺(たん)たる状態だったことを今でもよく憶えています(図表2-2-3の③、⑦参照)。戦争のために日本中が焼け野原、高山の石灰工場も文字通りゼロからの出発です。資材はなく、山へ行ってスギやヒノキを伐(き)り出して柱を作り、古釘(くぎ)を伸ばして使うという再建でした。10月に二宮忠兵衛石灰工場が操業し、続いて藤井藤之丞石灰工場が、私の工場も12月にはやっと1棟を建設して操業を開始することができました。昭和21年(1946年)の暮れころには高山の全ての工場の再建が完了し、翌22年(1947年)には建設中の長谷川唯男石灰工場も完成して、高山の全工場が生産を再開しました。
 徴兵されていた若者も復員して仕事に従事し、これから14、15年の間が戦後高山の全盛期です。敗戦直後には食料増産のための肥料用石灰の需要が多く、昭和25年(1950年)ころからは住宅建設のために建築用石灰が、また練炭原料としての石灰も大量に大阪へ積み出されました。昭和3年(1928年)ころに鹿村宮吉さんの考案でセメントの空袋を利用した紙包装は戦後には定着して全てが紙袋仕立てとなり、袋工場も5か所ほどでき、女性工員の方も大勢いて忙しい毎日だったことが思い出されます。現在、西の川の側にト (ヤマト)の記号が書かれている蔵がありますが、そこは藤井藤之丞石灰工場の石灰袋を作っていた工場です(図表1-2-3〔P.18〕、写真2-2-2参照)。」


図表2-2-1 高山と各地とのつながり

図表2-2-1 高山と各地とのつながり

白地図専門店ホームページ(http://freemap.jp)の日本全図から作成

図表2-2-2 昭和10年(1935年)の石灰工場所在地

図表2-2-2 昭和10年(1935年)の石灰工場所在地

『伊予高山石灰産業史』の図をもとに、平成15年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「伊予高山」から作成

図表2-2-3 昭和22年(1947年)の石灰工場所在地

図表2-2-3 昭和22年(1947年)の石灰工場所在地

『伊予高山石灰産業史』の図をもとに、平成15年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「伊予高山」から作成

写真2-2-2 蔵の壁に残る家号と文字

写真2-2-2 蔵の壁に残る家号と文字

平成29年10月撮影