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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 高山の石灰業

 通常石灰とは、生石灰(きせっかい)(石灰石を950℃以上で焼成したもの)と消石灰(しょうせっかい)(生石灰に水道水等の良質な水を加えて反応させ、加工したもの)の総称をいい、石灰石を含める場合もある。石灰は上下水道の浄化や食品添加物、肥料、木造建築の土壁や漆喰(しっくい)、道路の舗装材などさまざまな用途で用いられ、かつては驚くほどの需要があった。
 西予(せいよ)市明浜(あけはま)町高山(たかやま)は、愛媛県内の地層分布では秩父帯の南帯に属し、高知県境大野ヶ原(おおのがはら)からの石灰岩層が西に伸びて宇和海に没する辺りに位置しており、かつては石灰業を主産業として「白い村」と呼ばれるほどの活況を呈していた。宇和島(うわじま)市吉田(よしだ)町から西予市三瓶(みかめ)町を結ぶ国道378号沿い、高山地区の大早津(おおそうづ)から岩井(いわい)までの約5km間には写真のような石垣積みの建築物が点在しているが、これらはともに石灰石を焼成して生石灰を造るための石灰窯である(写真2-2-1参照)。『伊予高山石灰産業史』によると、石灰の製造段階は焼成の燃料の違いにより四つの時期に分けられる。第一期は木材を燃料とした野焼き式の時代で、古墳時代に伝えられて江戸中期まで続いた。第二期は木炭を燃料とした土中式の縦窯の時代で70、80年続いた後、第三期である石炭燃料による土中式の縦窯の時代へと移行し、昭和40年代からは第四期である重油燃料による焼成の時代を迎え、現在に至っている。高山地区の石灰業の繁栄は第二期と第三期のことで、その始まりは源右衛門という人が岩井で石灰を焼いた文政11年(1828年)のことと伝えられているが、この人は庄屋記録にも藩への届け出にもないので、営業としての製造ではなかったと思われる。嘉永3年(1850年)に宇都宮長三郎さんの先祖である宇都宮角治が土佐(とさ)から石灰焼の技術を導入し、宇和島藩の許可を受けて小僧津(こそうづ)に窯を築き、石灰製造を開始して産業的な基礎を築くと、次々と石灰業に従事する者が現れて明治までに11軒の石灰業者ができた。当初は木炭を燃料としていたために火力が弱く、原石を小さく割らねばならず生産量も限られていたが、明治5年(1872年)に宇都宮長三郎が若松(わかまつ)(福岡県北九州〔きたきゅうしゅう〕市)から煽石(せんせき)(地下の炭層が火山岩の熱変性作用を受けて生じた無煙炭、または天然コークス)を購入して石灰焼成に当てると火力が強いため大きな石も焼け、研究を重ねて焼成窯を大型に改造したので生産量が格段に伸びた。また、明治8年(1875年)から採石に火薬が導入されると、採石が一段と楽になるとともに高山地区の石灰産業は黄金期を迎えることとなった。
 本節では、江戸時代末期から昭和50年代に至るまでの約140年間、主産業として高山地区繁栄の原動力となった石灰業のあゆみについて、宇都宮長三郎さん(昭和3年生まれ)、浜田信次郎さん(昭和7年生まれ)、濱田正明さん(昭和12年生まれ)から話を聞いた。


写真2-2-1 高山石灰業の歴史を今に伝える二つの石灰窯

写真2-2-1 高山石灰業の歴史を今に伝える二つの石灰窯

平成29年7月撮影。岩井の木炭窯(左)と大早津の石炭窯(右)。石灰の取出し口の大きさが異なる。