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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 縫製工場で働く

(1)縫製業が盛んだったころ

 ア 地域と家計を支えた縫製工場

 「私(Cさん)は、子どもが保育園に入った29歳ころから4年ほど、宇和協同縫製(宇和協同縫製株式会社)の工場でパート勤務をしていました。宇和協同縫製は農協が全面的に出資していた縫製会社で、宇和町内に工場が何か所かあり、後にれんげソーイング株式会社と社名変更しました。当時の宇和町には多くの縫製工場があちこちに点在していて、卯之町(うのまち)にあった宇和ソーイング株式会社には、町内から多くの女性が会社の送迎バスを利用して通勤していたそうです。
 その後、昭和60年(1985年)から平成15年(2003年)くらいまで、東亜繊維(東亜繊維株式会社)に勤めていましたが、従業員は宇和町の各地から通って来ていました。縫製工場が多かったころは、各地区に縫製工場の仕事を自宅で請け負う方がいて、工場から材料を自宅まで配達してもらい、仕上げた製品を取りに来てもらっていました。昭和58年(1983年)ころ、野田(のだ)地区でも3、4人で女性用の作業帽やもんぺなどを縫っていて、何年か後には、その方たちは縫製工場に勤めるようになりました。
 縫製工場での勤務は、農家の主婦にとっては家計の足しにもなりましたし、稲刈りや田植えの農繁期に休ませてもらえたのは大変助かりました。また、会社で厚生年金を掛けてもらっていたおかげで、今とても助かっているという方が多く、私もその1人です。農作業にしても、よほどの大規模な経営でなければ空き時間もあるので、縫製工場での仕事は農家の主婦の社会進出、また収入源として、町内に多くの経済効果をもたらしたと思います。」

 イ 女性が中心の従業員

 「縫製工場では従業員のほとんどが女性で、男性の従業員は5、6人しかいませんでした。パート勤務の人はたまにいる程度で、ほとんどの人が1日勤務でした。また、糸切りなどの作業を内職の人に依頼していましたが、そうした内職の人も含めると、私(Bさん)が勤めていたころの東亜繊維では従業員が80人から90人はいたと思います。
 工場の2階で縫製を行う従業員は2班に分けられ、各班に勤務年数が長い人の中から選ばれた班長さんが1人ずつ置かれていました。班長さんは、衣服の注文が入ったとき、最初に見本を1枚縫って注文主に送ったり、班員の仕事の配分を決めたりしていて、一定の能率給が支給されていました。また、会社の方で従業員一人一人の退職金の積立をしていたので、会社の景気が悪くなったころには、それまで積み立てていた退職金の全額が従業員に支払われていたことを憶えています。」
 「工場の従業員は、高校を卒業したばかりの若い人はおらず、結婚して子育て中の30代の女性がほとんどでした。子どもの病気や学校行事などのときには休みがもらえたので、若い女性でも働きやすかったと思います。従業員の年齢層は30代から定年の60歳までと幅広く、ほとんどの従業員が定年まで働いていました。
 私(Cさん)が工場に入ったときには、親子くらい年が離れた方がいらっしゃったことを憶えています。東亜繊維では日給月給制(給与計算は1日ごとに行うが、支払いは1か月単位で行うという制度)がとられていて、私が勤め始めたころは1日当たり3,200円から3,600円くらいで、賞与も夏と冬の2回支給されていました。平成15年(2003年)に会社を辞めたときには、1か月の給料が12万円ほどで、それに加えて通勤手当や皆勤手当、能率給が支給されていました。」

 ウ 工場での作業内容

 「工場の始業時刻は朝8時15分で、終業時刻は夕方5時でした。私(Cさん)が勤め始めたころ、朝礼は行われていませんでしたが、後に行われるようになりました。午後3時の休憩時間には、ラジオ体操を行ったり、おやつを食べたりして和気あいあいとしていました。
 工場での最初の作業は裁断機による生地の裁断で、4、5名いた男性従業員が工場の1階で行っていました。生地の裁断後は必要に応じてワッペンプリントを行ってから2階へ運び、縫製に移ります。縫製は流れ作業で行われ、肩、袖、脇の順番にミシンで縫っていきました。 
 私が担当していたのは中間辺りの工程で、婦人物の場合は、服の前立てや襟付けといった作業を担当していました。一つの工程につき20人から30人が作業していて、縫製の作業の中で、服にロゴマークを付けたり、アイロン担当の人が服の襟や袖口に芯を貼ったりもしていました。
 こうした縫製の工程が終わると仕上げに移ります。ミシンでボタンホールやボタンを付けた後、内職の方たちに糸切りを行ってもらっていました。糸切りが終わって製品が工場へ戻って来ると、検品・検針(糸の縫い外れがないか、服に針が入っていないかなどを点検する作業)を行い、それが終わってから袋詰めをして、出荷の作業を行っていました。かつては縫製工場からの求人も多く工程の多い流れ作業だったので、意欲があれば雇ってもらうことができました。」
 「私(Bさん)が勤め始めた昭和60年(1985年)ころは、工場でも運転免許を持っている人は少なく、運転免許のない人や路線バスの利用が難しい人などは送迎バスを利用していました。送迎バスは10人乗りくらいの小さな車で、毎日、朝と夕方に田之筋(たのすじ)方面と多田(ただ)方面を回っていたことを憶えています。」

 エ さまざまなミシン

 「昭和60年(1985年)に私(Bさん)が工場で働き始めたころは、多くのベビー服を縫っていました。そのころのミシンは少し踏むと走る電動ミシンでしたが、今のミシンのように糸切りなどはできませんでした。
 工場でいろいろな衣服を縫ってきた中で、私が一番難しいと感じた作業は、ミズノのスポーツウェアを縫っていたときの玉付けという作業でした。玉付けというのは、ミシンでポケットの口とファスナーを取り付ける作業なのですが、そのときに使用するミシンが大きくて特殊なミシンだったため、扱うのがとても難しかったことを憶えています。仮に1日でジャンパー500枚を仕上げるとすると、大体は左右にポケットがあるので、1,000個のポケットを取り付けなければならず、とても大変な作業でした。」
 「私(Cさん)は長い間縫製の仕事に携わっていたので、さまざまなミシンを取り扱ってきました。工業用ミシンは、家庭用ミシンの何倍もの速さで動き、製品が変わるたびにオーバーミシンや特殊ミシン等、使用するミシンが変わるので、使い慣れるのにとても苦労しました(写真2-1-10参照)。スカートの裾などを縫うために、立って作業するミシンなどもありましたが、用途に合わせたミシンの調達が必要で、会社も大変だったと思います。」

 オ 工場で製造していた衣服

 「私(Bさん)が勤めていたころ、工場では婦人服やスポーツウェア、子供服を作っていました。婦人服はファイブフォックスやタバサ、トゥモローランド、ワールド、レナウン、コムサデモード、スポーツウェアはミズノ、アシックス、子供服ではベベ、レナウンといったメーカーの服を縫っていました。スポーツウェアは、トレーナーなどを毎日、およそ上下500枚ずつ出荷できるように縫っていました。また、アトランタオリンピック(平成8年〔1996年〕開催)のころには、オリンピックの選手団が着用するミズノの制服も縫っていました。オリンピックの制服のサイズは、S、M、L、LLのほか、柔道の選手などは体も大きいので、3Lくらいの制服もありました。制服のほかにコートも全て縫っていたので、相当の数の衣服を縫ったことになります。
 その後、ミズノはスポーツウェアを中国の工場で生産することになり、ミズノからの注文がなくなったため、工場の最後のころは、婦人服の注文がほとんどでした。婦人服を縫うのはスポーツウェアを縫うのに比べて細かい作業が多いうえに、つるつると滑るような生地やニットのように伸びる生地のものは縫いにくかったので、どちらかといえばスポーツウェアの方が作業しやすかったように思います。」
 「私(Cさん)が勤めていたころ、最初の何年かは婦人服も縫っていましたが、おもにスポーツウェアや子供服を縫っていました。スポーツウェアと一口にいっても、上下の揃(そろ)っているものもあれば、ジャンパーの上だけなど、いろいろな種類の製品がありました。ミズノやアシックスの製品については、愛知県の方から縫い方などの指導に来てくれていました。工場での1日の目標生産数は製品によって異なっていましたが、納期に間に合わせるために従業員みんながんばって作業をしていたことを憶えています。」

(2)縫製業の衰退

 ア 中国からの研修生

 「宇和町には、中国から研修生を受け入れながら今も事業を続けている縫製工場がありますが、東亜繊維でも平成9年(1997年)の暮れから、毎年5、6人ずつ、合計で100人くらいの研修生を中国から受け入れていました。研修生たちは会社が用意した一軒家で共同生活を行い、3年間の研修期間を終えると帰国していました。
 当時、独身であった研修生は数えるほどしかおらず、ほとんどが20代後半から30代の既婚女性で、2、3歳くらいの幼い子どもを家に残してきた人もかなりいました。家では夫や親が子どもの面倒を見てくれていたそうですが、『家に帰ったら、子どもはきっと私の顔を忘れている。』と案じる人もいたことを私(Bさん)は憶えています。研修生は山東(さんとう)省の農村の出身者が多く、2期生くらいまでは純朴で、衣服も国民服のような質素な服を着ていたので、服を買ってあげたり、日曜日には安い野菜を買いに連れて行ったりしていました。研修生もよく餃子(ぎょうざ)や饅頭(まんじゅう)を作って持って来てくれましたし、比較的、近所付き合いもしていたようです。平成12、13年(2000、01年)ころから中国からの研修生が増えてきましたが、4期生のころになると仕事の少ないときがあり、残業がなかった日には、研修生は、『これではお金を稼げない。』と怒っていたこともありました。」
 「最初のころの研修生は、帰国したら家を建てる、とか車の免許を取得する、といった目標を立ててがんばっている人が多かったように思います。また、人懐っこい性格の人が多く、私(Cさん)も研修生から、『家で餃子を作ったので食べに来て。』と言われて招かれたり、逆に研修生を私の家に招いたりしたことがありました。その後の研修生は、身なりも日本人とそれほど変わらなくなり、自宅の写真を見せてもらうと、立派な家に住んでいる人もいて、『なぜわざわざ日本まで研修に来るのだろう。』と思ったものでした。」

 イ 縫製工場の減少

 「平成15年(2003年)くらいから中国製の安価な製品に押されるようになって会社の景気が少し悪くなり、宇和町でも縫製工場がだんだん減っていきました。会社は平成26年(2014年)の初めに休業となりましたが、会社の最後のころには、求人を募集してもなかなか人が集まらなかったことを私(Bさん)は憶えています。縫製工場での仕事は長時間座った状態での作業が多く肩こりなども生じやすいため、少し敬遠されたのかもしれません。」
 「今、国内のお店で売られている洋服は、中国や東南アジアの国々で製造されたものばかりです。価格の安い外国製の衣服がこれだけ流通していると、国内の工場で日本人を雇って衣服を製造するのは難しくなっていると思います。私(Cさん)が東亜繊維を辞めた平成14、15年(2002、03年)ころには、宇和町で事業を続けている縫製工場は三つほどになっていました。そのころ、町内にもスーパーマーケットやホームセンター、ドラッグストアなどの出店があり、仕事の選択肢が増えたために、縫製工場で働こうという女性が減ったのかもしれません。」


<参考文献>
・宇和町『宇和町誌』 1976
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・宇和町『宇和町誌Ⅱ』 2001

写真2-1-10 工場で使用されていたミシン

写真2-1-10 工場で使用されていたミシン

平成29年12月撮影