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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 近代的な酪農を目指して

 (1) 小野田牧場の建設

ア 酪農を始める

 「私(信宮克行さん)は、昭和29年(1954年)に宇和高校を卒業すると家の農家を継ぎ、昼は1.5haの耕地で農作業を行い、農作業がないときには、土木建設の仕事や山林の原木運びなどさまざまな仕事を行い、夜は青年団活動で毎日のように走り回っていました。青年団活動では、祭りの統合と生活改善、公明選挙運動、平和運動などに取り組みましたが、これらの活動を通して、現実の社会を生きながら理想と夢をいつも持って生きることの大切さや、チームワークの必要性、仲間が心を合わせれば大きな力になることなどを身をもって経験できたことは、その後の生活に大変役に立ちました。
 当時、農家の青年の多くは、父親の手ほどきを受けて農作業に従事し、お小遣い程度のお金をもらって生活していたので、私は独立心や独創性が欠けていると思い、仲間で話し合った結果、親たちが作ってきた作目以外のものを作ろう、その技術は高度なものほどよい、ということになりました。各自が経営目標を立てて作目を選定し、ブドウ栽培や養鶏、酪農などに取り組み始める中で、昭和32年(1957年)、私は酪農に取り組むことに決めました。私が酪農を選んだのは、当時は耕うん機が普及し始め、今後は役牛も必要なくなるだろうし、この地の夏の暑さは乳牛の能力を落としてしまう欠点はあるにしても、20aの水田があれば裏作だけで1頭の牛を飼育するだけの飼料作が収穫できるだろうと考えたからでした。
 その当時、私の家の畜舎には和牛が2頭いましたが、その2頭の売却金で乳牛1頭を導入し、畜舎の改良を行いました。この牛は役牛としての仕事もよくやってくれた上に、雌の子牛を2頭続けて産んでくれたので、酪農家としてのスタートをうまく切ることができました。最初のころは、自宅で牛乳をビール瓶に入れて、弟や2人の妹が学校へ行く途中の家々へ配達していましたが、昭和34年(1959年)、宇和町内の酪農家が全員参加して宇和酪農組合を法人化し、無調整・低温殺菌の牛乳を販売しました。乳牛には個体差があり、ホルスタイン種の牛乳の場合、脂肪率は2.8%から4.0%と開きがありました。当時の大手メーカーは作業効率を良くするために脂肪率を3.2%に下げ、120℃で瞬間殺菌した牛乳を販売していました。宇和酪農組合では、組合員の牛乳を合乳して脂肪率が3.4%から3.5%の、無調整で63℃から65℃で30分殺菌した牛乳を販売しましたが、口当たりもまろやかで、消費者のみなさんには非常に喜んでもらい、宇和町は牛乳のうまい町としても有名になりました。」

イ 牧場の建設

 「昭和42年(1967年)には、私の所有する牛が3頭の搾乳牛と2頭の育成牛に増えたため、畜舎の増築が必要となりました。小野田(おのだ)地区には酪農家が私を含めて3名いましたが、それぞれ昔の役牛を飼育した畜舎を改良して使用していたため、近所の家には、ハエと臭(にお)いで大変迷惑を掛けていました。そこで、3人で話し合い、住宅地から約800m離れた所にある舟山(ふなやま)に畜舎を建設することにしました(図表2-1-1参照)。当時、舟山は町有地でしたが、地上権を所有していた小野田地区から土地を借用することになりました。当時の舟山は高さ3mにもなる笹が生い茂ってとても人が入れるような状態ではなく、昭和32年(1957年)に青年団の活動で舟山を開墾して利用しようと夏の間鍬(くわ)を入れたものの、生い茂る笹の前に失敗に終わったことがありました。しかし、この年には町有のブルドーザーがあり、それを使って開墾すれば笹にも勝てるだろうと、6月から毎日3人でおよそ2.3haの笹を2か月かけて刈りました。夏の暑い日も毎朝20ℓの乳缶に氷水を入れて作業現場へ持って行きましたが、半日で飲み終えていました。この年は歴史に残る大干ばつの年で、刈った笹や雑木を焼くには都合が良かったことを憶えています。笹を刈り終えた後は、ブルドーザーを使って比較的傾斜の緩やかな場所に20aの敷地を造成し、基礎工事と土間のコンクリート作業は自分たちで施行し、軽量鉄骨で90㎡、成牛12頭を飼育するフリーバーン牛舎(牛をつながずに、自由に歩き回れるスペースをもった放し飼い方式の牛舎)3棟を建設する工事が完成したのは10月のことでした。6月にこの作業に入ってから牛舎が完成するまでの間、農業近代化資金の借り入れや草地造成への補助依頼などにも追われ、忙しい毎日が続きました。当時、こうした私たちのやり方を農協理事の一部の人には十分に理解してもらうことができず、組合長さんのみの印で資金を借りたことは今でも忘れることができません。当時の組合長さんには本当に感謝しています。
 こうして、牛と牛舎は個人所有、草地や飼料作、機械は共同所有という3人の半共同牧場ができ上がり、互いに搾乳や給餌(きゅうじ)も交替で行ったり、休日を設定したりしながら、どうにか酪農家らしくなっていきました。しかし、3人ともに生活は苦しいときが多く、借金の返済月には生活費もなく、牧場での朝夕の搾乳に加えて運転手や土木建設の仕事をしたこともありました。このような中で県の農業改良普及所等の指導を受けて、昭和52年(1977年)を目標に次の牧場を建設する計画を立てました。その内容は、山林5haと水田45aを購入し、それを中心に放牧地10haから15ha、農地3haを購入または交換で団地化して、搾乳牛を100頭から150頭飼育するというものでした。苦しい作業の中にも夢を求め、挑戦の心を忘れず着々と進めていた昭和45年(1970年)、第二次農業構造改善事業のことが話題に上り始めました。」

ウ 農業構造改善事業の近代化事業

 「昭和46年(1971年)に実施された農業構造改善意向調査の結果、酪農と牛の肥育を希望する農家は神野久地区内で17戸になっていました。このメンバーで肥育牛団地2か所、酪農団地1か所をつくる話し合いが行われ、肥育牛団地では酪農経営により産まれる雄子牛と、一部和牛が生産され、5名で2団地、それぞれ200頭を飼育、酪農団地は5名で成牛200頭飼育の1団地をつくることになりました。昭和47年(1972年)8月にこの決定がなされましたが、翌年の狂乱物価で肥育牛団地は中止となりました。
 残された酪農については、私を含む小野田牧場の3名と、隣りの地区の酪農家の青年、酪農は未経験ながらも参加を希望する青年の5名で話し合い、小野田牧場を法人化することにしました。昭和46年の計画時点では総事業費は1億6,000万円でしたが、昭和48年(1973年)には同じ内容の設計で3億円近くに膨らんでいたため、農業構造改善事業の補助事業の枠だけでは当初の計画を実施する予算はありませんでした。県の農業改良普及所とも相談し、牧場の事業内容をいくつかの事業に分けて実施することにしましたが、あまりの事業費の値上がりで手持ちの資金も少なく、資金を借りるにしても、5名の家族も含めた全財産を担保に入れても不足するので、仲間の1人は家族の反対もあって事業から離れていきました。5名以上でなければ農業構造改善事業の補助事業の対象にはならないので、残った4名で小野田地区の一青年に呼びかけ、仲間に加わってもらうことになりましたが、それからが大変でした。親兄弟の全財産を担保に差し出さなければ資金計画が立たないため、みんなでそれぞれの家族を説得し、5名の財産を担保に入れて借り入れた資金と補助金で、近代的な牧場づくりを始めることになりました。
 この年の8月、県農業開発公社から払い下げ予定の山林13haを中心とした15haの土地に、草地造成を最初の工事として着工しました。山の一部平らな場所を選んで起工式を行いましたが、それは一生で一番大きな挑戦の始まりの日でもあり、その日はみんなで夜遅くまで焚(た)き火を囲んで語り合ったことを憶えています。この日から3年間、朝5時半に起床し8時半まで搾乳と牛の管理を行い、8時半から午後5時までは土木工事、その後、午後8時まで搾乳と牛の管理という毎日が続きました。今思えば長いようで短い3年間でしたが、当初予定していた200頭の成牛舎、19haの放牧地、保育舎、育成舎などがほぼでき上がりました(写真2-1-1、図表2-1-2参照)。農業構造改善事業の近代化事業として小野田牧場を建設することになって、牛舎の敷地を造成したり、牛舎やサイロ、放牧地を建設したりする工事費については国から半額の補助を受けましたが、乳牛を購入する費用などについては補助が全くなかったので、北海道まで乳牛を買い付けに行くための費用は全て自分たちの資金で賄わなければなりませんでした。」

 (2) 牧場の仕事

ア 放牧による飼育

 「乳牛のほとんどは北海道から導入したホルスタイン種でしたが、当初は、冷涼な気候で育った牛がこの地の温暖な気候に合わず、なかなか種が付かなかったり、寿命も短くなったりしました。そこで、温暖な気候に耐えられる牛を育てるために、小野田牧場では、子牛のころから出産するまで、1年中屋外に放牧して飼育することにしました。舟山には2.3haの放牧地と給餌場などがあり、給餌のとき以外は、天候に関わらず常に屋外に放牧して育てていました(図表2-1-2、写真2-1-2、2-1-3参照)。雌牛が生後22、23か月くらい経(た)ち、体つきが良くなってきて妊娠に耐えられるような体になった種付け適期を迎えると、三(さん)蔵(ぞ)宮(く)にあった5haの放牧地へ移しましたが、そちらにも給餌場があるだけでした。そのように常に屋外で育てていたので、体は少し小さくて乳量もやや少なかったのですが、とても健康的な乳牛に育っていきました。
 一産目の雌の子牛は乳牛としての能力がどの程度あるか分からないので、黒牛の種付けをして、肥育牛として売っていました。黒牛を交配させた子牛は良い値で売れたからです。肥育牛の種牛は、種牛の審査基準にあと少しのところで落ちた牛を安い価格で購入していました。その種牛を発情期に放牧地に入れておくと、発情は21日周期くらいですから、およそ1か月以内には必ず自然に種が付いていました。二産目からは人工授精を行っていましたが、その際に使う黒牛の種牛の精子は週2回採取し、それを10倍から30倍に希釈して1ccずつに分けて冷凍保存していました。授精後、出産が近づき乳の張ってきた牛は、搾乳牛舎の近くにある放牧地へ連れ帰って様子を観察し、出産後に搾乳牛舎へ入れるようにしていました。
 また、ある程度年数が過ぎて、種が付かなくなったり、乳が出なくなったりした雌牛は、早めに屠場(とじょう)に持って行っていました。昭和54年(1979年)ころは、4回出産したくらいの時期に屠場に持って行くのが平均的だったと思います。当時、屋内の牛舎につながれて飼育されていた牛は肥えていて良い値で売れていましたが、小野田牧場の牛は少しやせていたため、少し安値であったことを憶えています。」

イ 搾乳

 「搾乳室には、当時、日本でも数か所しか導入していなかった8頭立てのロータリーパーラー(回転搾乳施設)を導入しました(写真2-1-4参照)。ロータリーパーラーやフリーストールといった機械設備を導入する前には、茨城県へ視察に行きました。フリーストールというのは、牛に餌を与えるときだけ首を挟んで動かないようにし、給餌が終わると解放して、牛舎内を自由に移動できるようにするものです。また、飼料攪拌(かくはん)機があり、攪拌した飼料を牛に与えるための溝があり、ベルトコンベアーで170頭くらいの牛に機械で餌を与えていました。
 私が牧場にいたころ、体重600㎏から700㎏の牛が標準的で、牛1頭当たりの搾乳量は1日平均15ℓから16ℓくらいでした。それから30年以上経ちますが、小野田牧場の方にお話を聞いてみると、質の良い種牛が導入されるなどして、今では体重1tくらいの牛ができるようになったそうです。体格が随分大きくなり、乳量も多くなりましたが、現在の牛舎では牛が1頭当たりの枠に入れるのが難しくなり、新しい牛舎に建て替えなければならない時期に来ているそうです。また、乳量が増えると当然搾乳にかかる時間も長くなり、8頭立てのロータリーパーラーでは間に合わないとも話していました。最近は、乳が張ってくると牛がひとりでに搾乳室に入り、搾乳を終えると出て行くという仕組みの機械設備ができたそうです。従来のロータリーパーラーは国の補助対象外となり、新しい設備は国の補助対象となりますが、2億円くらいかかるので導入するのは難しいそうです。」

ウ 長時間にわたる仕事

 「当時は、宿直当番の人が1名いて、朝5時に起きて6時までに成牛舎の160頭前後いる牛に餌を与えて、いつでも搾乳できるという状態にしていました(写真2-1-5参照)。6時になりみんなが牧場にやって来るころに搾乳を始めました。搾乳は2時間半くらいで終わり、そのころに休み明けの1名が出て来ると、宿直当番だった人は帰宅していました。
 朝の搾乳後、30分から1時間くらい休憩した後、打合せをして、それぞれ手分けして仕事をしていました。5名のうち1名は休みで、1名は牛の管理をし、残る3名のうち2名は飼料にかかり、1名は牛の病気のときなど、何か急を要することがあったときには自由に動けるようにしていました。当時は搾乳を補助するパート従業員が1名いましたが、それ以外はみんなで交替して仕事を回していました。夕方の搾乳は5時半ころから始めて2時間半くらいかかり、搾乳が終わるのは夜8時ころでした。昼間に3時間から4時間の休憩時間があったとはいえ、労働時間はかなり長かったと思います。今は朝の搾乳は4時半から始まり、夕方の搾乳は夜7時に終わり、1回の搾乳にかかる時間は3時間半くらいだそうですが、それを1名で行っているそうです。また、飼料作物を収穫するときなどに臨時に雇う従業員が予備を含めて6名いて、牧場から連絡を入れると大抵は来てくれるそうです。」

エ 機械化の推進

 「第二次農業構造改善事業のとき、牧場の規模を拡大するとともに機械化を進め、フリーストールやロータリーパーラーのほか、外国製の大きなタワーサイロ(サイロは飼料等の貯蔵施設のこと)も1基導入しました。当時、農林省がタワーサイロを推奨しており、購入する際には国からの補助を受けましたが、故障することが比較的多かったため、国産の小さなサイロを2基購入しました。タワーサイロは現在使われていませんが、撤去費用も高いため、今も当時のまま残しています。
 また、私が牧場にいたときには、宇和町内のタケノコの加工業者からもらったタケノコの皮や、立間(たちま)(現宇和島市)のミカン加工場からもらったミカンのジュースかすをバンカーサイロへ詰めて置いていました。これらを牛に与えると乳がよく出ていました。現在は刈り取った牧草を1日から2日くらい干して、大型機械を使って直径1m30㎝から1m50㎝くらいの円筒状に整形し、ポリエチレンでできたラップで巻いてラップサイレージを作り、野積みしています(写真2-1-6参照)。この方法だとサイロを建設する費用がかからないという利点があります。」

オ 飼料の買い付け

 「イタリアン=ライグラス、ソルゴー=モロコシといった牧草は小野田牧場でも栽培していますが、中国から中国語で湖草(フーソー)という、トウモロコシの葉に似た草を飼料として購入していました。湖草は値段が安く、稲わらを食べさせるよりも経費が随分少なくて済みました。中国の広州(こうしゅう)では年に2回、世界的規模の交易会が開催されており、私はそこへ牧草の買い付けに行っていました。その時分は日本と中国の間に国交がなく、日本から中国本土への飛行機の直行便がないため、飛行機で香港(ホンコン)へ移動した後に汽車で深圳(しんせん)へ移動し、深圳から広州へ行っていました。旅費を稼ぐために、中国で羊や豹(ひょう)の毛皮、電気のハリ治療用の機械などを仕入れて、それを卸すといったこともしていました。毛皮は松山(まつやま)の家具店に卸していましたが、売れ残ったときには牧場の仲間に分けていました。」

カ 中国への訪問

 「日中国交正常化(昭和47年〔1972年〕)の1年前、中国大使館が農業経営に関する論文を募集したことがあり、当時代議士であった高校時代の恩師から勧められて応募しました。日本では各農家が1haから2haの狭い農地を所有していて、各戸で努力しても限界があるため、私は酪農仲間と共同で牧場を経営して生産性も向上している、という内容の論文をまとめて応募したところ、中国の農学会から中国への招待状が届きました。全国で私を含めて10人ほどが招待され、東京までの交通費は自己負担でしたが、そこからの交通費は中国側が全て負担してくれました。約50日間で香港や深圳、広州など中国各地を案内してもらい、さまざまなことを視察して帰りました。行き帰りの東京・香港間は飛行機での移動でしたが、当時、中国国内は飛行機の便がそれほどなかったため、ほとんどは汽車での移動でした。そのとき親しくなった中国の方が、後に中国から視察団の一員として宇和町を訪れ、小野田牧場や明間(あかんま)地区の養豚団地、畜産農家などを視察したことがありました(写真2-1-7参照)。その後、中国からの視察団は何度も宇和町を訪れ、私が中国で何度も牛の飼料を購入していた関係で、中国の飼料販売の業者が宇和町を訪れたこともありました。」

キ 酪農への思い

 「昭和53年(1978年)の時点では、成牛200頭、育成牛120頭を飼育し、水田転作地11ha、水田裏作10ha、飼料作契約栽培地5.5haとなっていました。また、牛のふん尿は全量土地還元で、稲わらと交換したり、飼料作契約栽培地に運んだりしていました。年間総収入はおよそ1億2,000万円で、ほぼ計画に近い線まで発展していました。小野田牧場を始めた当初は、月10万円くらいの給料を払うのに難儀したこともありましたが、昭和54年(1979年)ころには、従業員に対し月給を約50万円、ボーナスを3か月分から5か月分支払っても経営が成り立つようになっていました。また、酪農の最大の欠点である年中無休についても、共同経営によって5日に1日の定期的な休日を取ることができるようになり、人間らしい生活に一歩近づきました。しかし、当時の私たちの目の前には、牛の改良や乳質の向上、粗飼料の増産、地域複合経営による地域の発展など、手がけなければならないことが数多くありました。その一つ一つを解決し、前進していくことを私たちの生きざまとして後継者に引き継いでゆきたいと考えていたのです。
 私は昭和54年(1979年)に牧場を辞めた後、20年くらいは主に山林の手入れを行っていましたが、その後残土処理業を行っていました。また、息子と一緒に花きと米を販売する有限会社を始め、6反(約60a)の田んぼに6棟のビニールハウスを建てて花き栽培を行っていましたが、20年くらい前から息子が主になって行っています。おもにユリを栽培しており、松山をはじめ大阪、東京、金沢(かなざわ)など各地へ出荷しています。」


図表2-1-2 建設当時の小野田牧場の施設配置

図表2-1-2 建設当時の小野田牧場の施設配置

聞き取りにより作成

写真2-1-2 舟山の放牧地

写真2-1-2 舟山の放牧地

平成29年9月撮影

写真2-1-3 舟山の給餌場

写真2-1-3 舟山の給餌場

平成29年9月撮影

写真2-1-4 現在の搾乳室

写真2-1-4 現在の搾乳室

平成29年12月撮影

写真2-1-5 現在の成牛舎

写真2-1-5 現在の成牛舎

平成29年12月撮影

写真2-1-6 ラップサイレージ

写真2-1-6 ラップサイレージ

平成29年12月撮影