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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 朝日座

ア 衛生係として

 「私(井上洵一さん)が子どものころ、朝日座のトイレの横に壊れた垣根があったので、隣の玩具店の方から入って垣根を越えて朝日座の便所に潜り込み、何食わぬ顔をしてトイレを出て、劇場の中へ入ったことをよく憶えています(写真1-3-2、図表1-3-2の㋐参照)。そのころの客席は、まだ桟敷席でした。桟敷から座席に変わったのは、昭和30年(1955年)から同40年(1965年)の間だろうと思います。但し2階席は桟敷のままで、1階席のみ座席に変わりました。
 昭和30年、私が三瓶町役場に就職してしばらく経(た)ったとき、接客業を行うお店のトイレや炊事場などを検査する衛生係を務めたことがあり、朝日座を訪れてトイレが清潔に保たれているか、公衆衛生上害がないか、という内容の検査を行っていました。その特権という訳ではないのですが、私たち衛生係は無料招待券をもらうことができたので、暇なときには1週間に一度くらい映画を観(み)に行っていました。当時たくさんの映画を観たので題名などはほとんど憶えていませんが、天然色のソビエト映画『汽車は、東へ行く』(昭和24年〔1949年〕日本配給)を観たことや、『イーストマンカラー総天然色』というカラー映画の上映が始まったことをよく憶えています。」 

イ 貸切りお客様招待

 「私(松本梅子さん)の夫が、時計や洋品を買っていただいたお客さんを朝日座に招待したことがあります。昭和20、30年代ころ、朝日座は昔の芝居小屋のままで、花道などがまだ残っていました。朝日座を貸し切ってお得意様を招待し、当時隆盛だった時代劇の映画を観てもらいました。そのときは会場が満席となり、皆さんに大変喜んでもらったことを憶えています。」

ウ もう一つの学校

 「私(佐々木正興さん)が朝日座で初めて映画を観たのはまだ升席(桟敷席)があったころで、1つの升に4、5人ずつが持参した座布団を敷いて映画を観たことを憶えています。フィルムは八幡浜(やわたはま)の映画館から上映が終わるたびに山を越えて車で運ばれていましたが、時々フィルムの到着が遅れることがありました。2本立てや3本立てが普通であった当時、フィルムの到着が遅れて映画と映画の合間が空きすぎると、このときとばかりに、子どもたちが花道や2階の桟敷席辺りで走り回っていました。また、上映の途中にフィルムが切れてしまうことが頻繁にあり、一度場内に明かりが灯(とも)ると、修理が終わるまで長い時間待たされることを覚悟しなければならず、そのときもまた、劇場内が子どもたちの大運動会場となっていました。
 私が中学生か高校生のころ(昭和32年〔1957年〕4月からから昭和38年〔1963年〕3月の間)に朝日座から花道がなくなり、升席が椅子に変わりました。一見都会風の映画館に変わりましたが、椅子は全て木製で、座ってしばらくするとお尻が痛くなってしまっていたので、椅子専用の座布団が別途貸し出されていました。しかし、私たちはその痛さを忘れるくらいスクリーンに没頭していて、座布団を借りたことはありませんでした。
 また、学校の先生の引率で朝日座に映画を観に行ったこともあります。『二十四の瞳』や『にあんちゃん』などの映画を観て顔をくしゃくしゃにして泣いたり、『地球は生きている』や『南極船宗谷』を観て、大自然や生物の神秘に心打たれたりしました。さらに、女優の有馬稲子や若尾文子を観て、この世にこんな美しい人がいるのかと胸を踊らせ、しばらくの間美しい女優さんの顔が目の前にちらついて、困ったことも憶えています。
 私が高校に進学したころには、石原裕次郎主演の映画や『ガイエイ』と呼んでいた洋画を定期考査の直後によく観に行くようになりました。朝日座で映画を観る楽しみのために、ハードな勉強に耐えたと言ってよいと思います。朝日座は、私が人生を学んだもう一つの学校でした。」

エ 特別待遇などの思い出

 「私(井上利登さん)が朝日座へ頻繁に通っていたころは芝居の上演はなく、『青い山脈』や三船敏郎主演の映画などを多く上映していました。カラー映画が上映され始めたころでしたが、カラーといっても色が悪く、『色がずれて見にくい』と思いながら観ていたことを憶えています。昭和30年代中ころまでは桟敷席があり、今の内子座とよく似た建物でした。
 ある時、客席がざわざわし出したことがあり、『どうしたのですか。』と周りの人に訪ねてみると、『高潮になり、潮が館内に入って来た。』とのことでした。1階は桟敷が少し低くなっていたので、高潮になると潮が入って来ることがあったようです。
 また当時、私の知り合いで座布団売りをしている人がいたので、その人に、『ええとこ(席)世話してくれ。』と50円を出して頼んだら、『はい、こっちへどうぞ。』と言って良い席に連れて行ってくれましたし、上映直前に行ったときにも良い席に座ることができました。観客がたくさんいる中で自分だけ特別待遇を受けたようで、非常に気持ちの良いものでした。
 朝日座には、本当にたくさんの観客が訪れていたことをよく憶えています。家主さんが、『もうこれ以上入れてくれるな、家が潰れらい(潰れてしまう)。』と言っていたそうです。娯楽といえば映画しかなかったような時代でした。大勢の観客が詰め寄せたときは2階席が潰れそうで、1階にいると本当に気持ちが悪くなるくらいでした。私が若いころは、一番高くても入場料が500円くらいだったのでよく映画を観に行っていましたが、後に1,000円に値上がりしました。その時は、『ああ1,000円になったか』と思ったことを憶えています。それからは、あまり映画を観に行くことはなくなりました。」

 (2) 商店の記憶

ア 松本洋品店

 (ア) 時計店から洋品店へ

 「夫は、昭和18年(1943年)に私(松本梅子さん)と結婚する前、昭和10年(1935年)ころに時計店を開業したそうです。三瓶町には、時計店が私の所と二宮時計店、宇都宮時計店の3軒ありましたが、夫のお店が一番よく売れていたと自負しています。昭和28年(1953年)ころ、時計店の半分のスペースで金物店を開いていた夫の弟が別の場所で店を開こうとした時、資金の足しにするために店にある時計と指輪を販売したところ、たった1日で時計だけで40個も売れ、弟の新店舗の土地代金の半分以上になったくらいでした。
 ただ、夫と私の年齢が10歳離れていて、自分が年を取って商売できなくなってからの生計が心配だったことと、修理ができない私には時計店の跡を継ぐことはできないだろうと夫は考えたようで、夫が働き盛りのころから少しずつ洋品店に移行していきました。今のように安い時計はなく、ましてや電池時計などもなく、腕時計も掛時計も全て機械式の巻き時計だったので、修理や分解掃除が必要でした。分解掃除というのは、全てさばいて(分解して)油の中に浸(つ)ける作業のことをいいます。時計店は今と違い、販売だけでなく修理もするのが当たり前の時代だったので、修理技術がないと商売ができなかったのです。昭和28年(1953年)ころ、夫の弟が時計店の店舗の半分のスペースで経営していた金物店を改装し、時計の販売と修理を継続しながら洋品店として再スタートしました(図表1-3-2の㋑、㋒、㋓、㋔、写真1-3-3参照)。また、隣の方がたばこ店を廃業するとき、その権利の公募があったので申し込み、抽選で当たったので、たばこの販売も行っています。先日、私の店をじっと見ている人がいたので、『何を見ているのですか。』と尋ねたら、その方が、『懐かしいんよ、今こんなショーケースないから。』と言って写真を撮って帰るということもありました。夫の体調が悪くなって時計の修理ができなくなると、時計がだんだんと売れなくなったので、昭和57年(1982年)には時計の販売をやめてしまいました。但し、年配の人には時計店の印象が強いので、時計店の看板は除(の)けていません。」

 (イ) 繁盛した時代

 「昭和30年代は三瓶町の人口が今の倍以上もあり、会社が終わってから買い物に来てくれるお客さんが多くよく売れていたので、特別な日でなくても夜9時ころまで店を開けていました。年末、特に大みそかは下着などを買いに来るお客さんがたくさん来ていたので、紅白歌合戦を家族揃(そろ)って見た記憶がありません。店を閉め、掃除をし終わって『やれやれ』と思ったら紅白歌合戦はとっくに終わっていたので、12時近くまで店を開けていたのだと思います(写真1-3-4参照)。
 伊予紡績(昭和52年〔1977年〕に喜福工業としてしばらく存続)と酒六織布(同年閉鎖)の紡績工場が両方とも閉鎖されると三瓶町の人口が減少しましたが、それでもまだ売れていました。昭和53年(1978年)に酒六織布工場の跡地にスーパーオオタニができたのも、それなりに物が売れるという勝算があったからで、当初はよく儲(もう)かっていたと聞いていますし、漁業や畜産なども昔は景気が良かったのです。しかし、今から10年ほど前から極端に景気が悪くなりました。」

イ 菊池百貨店

 「菊池百貨店は私(佐々木正興さん)がいつも知識を得るために訪れていた場所で、書籍と文具しか置いていなかったのに、なぜか『百貨店』と呼んでいたことを憶えています。北側の壁に参考書がたくさん並んでいて、それらを立ち読みしていました。もちろん気に入った本があれば、母に代金を貰(もら)って再度店を訪れ、買い求めたものです。慎重な買い方に見えますが、当時私たちはお金を持ち歩いていなかったのです。そのころに菊池百貨店で買い求めた本が、何冊か手元に残っています。『基礎英文法のための英語正誤問題の急所』研究社180円。これは、昭和36年(1961年)9月8日に購入とメモがあります。『大学受験 生物問題700選』培風館290円と『文法解明叢書三 伊勢物語要解(改訂版)』有精堂120円は購入のメモはありませんが、いずれも同年2月、3月の発行なので、高校2年生以降に買ったものと思われます(図表1-3-2の㋕参照)。」

ウ 丸善文具店 

 「辞書類は、家の近くにあり、付けが利いた丸善文具店でほとんど購入していましたし、少々値の張る書籍でも、母の同意があれば店の人に申し出て自由に購入することができました。ここで購入した辞書のうち、増田綱編『新ポケット和英辞典』研究社480円、『広辞苑』岩波書店2,000円の2冊が私(佐々木正興さん)の手元に残っています。英和辞典には、見返しに『March 28 1959 fine Maruzen Bunguten』と記録しているので、私が中学3年生になる昭和34年(1959年)の春休みの天気の良い日に、この辞典を買ったことが分かります。この辞典は今も使用し続けています。
 『広辞苑』は昭和35年(1960年)7月25日第1版第8刷発行のもので、高校生になってから買ったものだと思います。当時は、一部の受験生によく読まれていた辞書です。
 現在、自宅の書庫の片隅に並ぶ『広辞苑』や受験参考書を見るたびに、2軒の書店にお世話になった受験少年のころが懐かしく思い出されます(図表1-3-2の㋖、写真1-3-5参照)。」

エ 金吾の店

 (ア) テレビを最初に設置した店

 「昭和40年(1965年)、塩田町にアーケードができた時は『赤玉ホール』というパチンコ店でしたが、その前は『金吾(きんご)の店』という食堂で、私(井上洵一さん)の同級生の家でした。三瓶町にテレビが最初に入ったのは金吾の店、中村電機店、さくらや旅館、和田酒店(安土〔あづち〕の金毘羅さんの下にあった造り酒屋。現在は宅地。)の4店で、相撲中継が放映されるときなどは金吾の店と中村電機店に大勢の人が集まって観ていました。中村電機店は、商売柄外から見える位置にテレビを置いていましたが、金吾の店の場合は家の中に置いていたのに多くの人が観に来ていました。当時は有線テレビで、直接三瓶町に電波が届かないので、山の上に建てられたアンテナからそれぞれの店に線を引っ張っていました(図表1-3-2の㋗、㋘、㋙参照)。」

 (イ) ソフトクリームを最初に販売した店

 「金吾の店の息子さんは、私(佐々木正興さん)と同級生で、小学校、中学校、高校とずっと同じ学校に通っていました。金吾の店を経営されていた方は、もともと八幡浜市でくらしていたそうですが、三瓶町に来てから店を開いたと彼から聞いたことがあります。彼が幼稚園に通っているときには、すでに三瓶で店を開いていたようです。食堂でしたが、いわゆるアイスキャンデー店でもありました。三瓶町に数あるアイスキャンデー店の中で、初めてソフトクリームを販売した店ではないかと思っています。」

オ 井上畳店 

 (ア) 畳職人になる

 「畳店は私(井上利登さん)で4代目になります。曽祖父が始めたころはまだ三瓶村の時代で、当時は畳店だけでは食べていけないので、釣りをしたり、日雇い仕事などをしたりして生活をしていたと聞いたことがあります。この家は築90年くらいになりますが、作業場所を広くするために柱と壁の数を極力減らし、桁を長くしていることが特徴で、私は生まれた時からずっとこの家で暮らしています(図表1-3-2の㋚、写真1-3-6参照)。
 私が畳職人としての仕事を始めたのは、中学校卒業後のことです。当時は戦後の学制改革が行われていたころでしたが、高等学校への進学はせず、家業の道に進むことに決めたのです。それからは畳作りの技術を父から仕込まれました。また、店には職人の方が2人いて、1人は西宇和(にしうわ)郡三崎(みさき)町(現西宇和郡伊方〔いかた〕町三崎)出身の方で、私の家に住み込みで働いていたことを憶えています。確か昭和37年(1962年)ころまで私の店で働いていたと思います。終戦後しばらくまでは全て手縫いで畳を作っていました。また、運搬する車がなかったので、完成した畳はリヤカーに積んで運んでいましたし、蔵貫(くらぬき)や周木(しゅうき)(ともに三瓶町)の方へは船で送っていたので、今と比べれば効率は良くありませんでした。しかし、敷島紡績(現シキボウ株式会社)や酒六織布に専属で仕事をもらっていたので、仕事は順調でした。
 かつて、三瓶町には畳店が1軒しかありませんでした。現在は垣生(はぶ)の方に1軒開業していますが、ここの先代は私の店で技術を学んだ方です。但し、終戦前後には材料がなく、仕事ができなかったようです。終戦後、兵隊に行っていた息子さんが帰ってきて畳店を継がれたと聞いています。」

 (イ) 紡績会社の専属として

 「私の店は敷島紡績や酒六織布の専属だったので、社宅や寮の部屋に敷く畳の注文が頻繁にあり、仕事がない時がありませんでした。当時は和式の部屋ばかりだったので、一度に200枚とか400枚とかの注文がありました。このころは1日に1人で20枚ほどの畳を作っていたので、1人で作業をする場合は一月分ぐらいの注文を一度に受けていたことになります。また、紡績会社の寮は15畳半の部屋に15人が寝起きをしていたので相当過密でしたし、当時は社交ダンスが流行(はや)っていて、部屋の畳の上で練習していたようで、普通10年はもつ畳が4、5年もしないうちに傷んでしまっていました(写真1-3-7参照)。」

カ 和泉屋

 (ア) 家業を継ぐ

 「昭和49年(1974年)、私(宇都宮秀夫さん)が28歳の時に父や兄の跡を継ぎ、食堂から現在の寿司店に改装してから43年になります。もともとは朝立川の上流の和泉(いずみ)地区の出身で、その地名を取って『和泉屋』としています。父は昔、九州の直方(のおがた)(福岡県)の方で炭鉱の仕事をしたり、草競馬の騎手をしたりしていたようですが、戦前に三瓶町に帰って来て食堂を始めました。ちゃんぽんや親子丼などを出す普通の食堂でしたが、餅をついたり、綿菓子やアイスクリーム、アイスキャンデーの販売、金魚すくいなど何でもやっていました。要するに何でも屋で、かなり忙しかったようです。高校卒業後、私は普通のサラリーマンをしていましたが、家業を継ぐために福岡県へ修行に行ったことは今でも良い思い出です(図表1-3-2の㋛、写真1-3-8参照)。」

 (イ) 三瓶町の最盛期のころ

 「三瓶町の最盛期には、人口が17,000人、そのうち紡績工場の従業員だけで3,000人もいて、年末には町役場や敷島紡績、酒六織布などの忘年会が続き、ずいぶん賑わっていたことをよく憶えています。私(宇都宮秀夫さん)が寿司屋を始めたころはまだ伊予紡績(昭和35年〔1960年〕の敷島紡績三瓶工場の閉鎖後、その跡地で昭和36年〔1961年〕から昭和52年〔1977年〕まで操業)があり、役員の方々や伊予紡績に関わる業者の方々がよく利用してくれていました。あるとき、同じ日に昼食と夕食を食べに来てくれた方がいたので、その方に、『他(ほか)の方をぜひ連れてきてください。』と私がお願いしたら、しばらく経ってその方から、『今から飲みに行きますから。』と電話があり、1日に3回も来てくれたことがありました。
 紡績工場が閉鎖されてからは業者の方がお店に来なくなりました。一時期『イカ豚鉄工』といってイカ釣り、養豚、鉄工所が賑わっていましたが、今は夜になると通りを歩く人はいなくなってしまい、店を訪れる人が本当に少なくなりました。」

キ 周木屋

 (ア) 食料品店のころ

 「食料品店として商売をしていた終戦前後は、敷島紡績や酒六織布と提携していました。また、店の周囲には芸者を招くような料亭や宿屋が何軒もあり、注文が相次いでいたので、夜12時まで店を開けていたそうです。当時はかなり儲かっていたらしく、私(三好恩子さん)の夫が小学生のころ(終戦直後)にはタンスの引き出しを開けたら百円札が一杯詰まっていて、それを見た人がおもしろがり、『タンスを開けたら札束が転げ落ちよった。』と言っていたという話を夫から聞いたことがあります。ところが、義父が早くに亡くなり、帳面つけなどを機敏に行っていた義父の妹が中広菓子店に嫁いで夫の母親だけとなってしまったので、店を閉めてしまいました(図表1-3-2の㋜、㋝、写真1-3-9参照)。」

 (イ) 豆腐店に切り替えて

 「昭和39年(1964年)に私(三好恩子さん)が嫁いできたころは食料品店をやめ、空き部屋を間貸ししていたころでした。この時期は日本の人口が増加した上に核家族化が進んでいたので、小部屋の全てに入居者がいました。また、繁華なときでもあったので、立花通りに面した2階建ての建物では、1階がパチンコやビリヤードをするお店になっている所もあれば、洋裁教室を開いている所もありました。洋裁教室では、普段は先生が自分で縫いながら何人かの生徒に教えていました。
 私の夫はサバ船に乗って漁に出ていましたが、その回数が次第に少なくなっていきました。義父の妹の嫁ぎ先の中広菓子店の方が、『子どももだんだん大きくなって生活費も必要だ。豆腐店を開いてみてはどうか。』と勧めてくれ、昭和50年(1975年)に開業しました。最初は小売りだけで、義母がリヤカーを引いて豆腐を販売していましたが、豆腐店を始めて3年目の昭和53年(1978年)に酒六織布三瓶工場の跡地にスーパーオオタニが開店し、そこに卸すようになりました。紡績は下火になっていましたが、まだまだ三瓶町の人口は多いし繁盛している時代だったので、私たちにとっても良い時代でした(写真1-3-10参照)。」

 (ウ) 豆腐店のつらさ

 「豆腐店を始めて『つらい』と思ったのは、かなり早い時間から作業をしなければならなかったことと、冷たい水を扱うことです。午前1時か2時に起きて作業を始め、冷たい水が入った容器の中に豆腐を一丁ずつ、全て手で入れなければなりませんでした。夏ならばまだよいのですが、冬には手が凍ってしまうほど水が冷たかったことをよく憶えていますし、豆腐と水が入った重たい容器を持ち上げて移動させるのも一苦労でした。また、盆や正月には、ほぼ夜通しで作業をすることもありました。豆腐は作りだめができないなま物なので、その時その時に作る苦労がありました。休憩時間は一応ありましたが、1時間程度横になったくらいです。
 夫が体調を崩して無理が利かなくなり、平成20年(2008年)に閉店しました。豆腐を卸していた店からは、『ぼつぼつでええからやらんかな。』と言われましたが、製造業は1升(約1.8ℓ)作っても100升(約180ℓ)作っても片付けは一緒で大変なので断りました。最近、友人と当時のことを話したのですが、友人は、『今から何ぼお金やるいうたってできん。若さでやって来たんだから。』と言ってくれました。今から思い返すと、当時は生活費や子どもの教育費を稼がなければならないという気持ちが強く、若さというよりただ一生懸命だったのだと思います。今は、体のどこかが痛くなったとき、あのころよくがんばったからこんなことになったのかな、と思ったりします。」

ク 喫茶サニー

 「私(竹﨑幸仁さん)は昭和43年(1968年)に高校を卒業しましたが、在学中にコーヒーを飲みによく訪れていました。あるとき、お店の方が、『先生来たで。』と言って、入り口からは見えない場所に隠してくれて、裏から逃げたことがあります。当時高校生は喫茶店に入ってはいけませんでしたが、かなり繁盛していたお店でした。三瓶町の喫茶店の走りだったと思います(図表1-3-2の㋞、写真1-3-11 参照)。」
 「昭和31年(1956年)1月、19歳の時に私(笹岡智子さん)は結婚し、ここで生活を始めました。当初は専業主婦で、2人の子どもの世話好きが高じて、子どもたちが幼稚園に行ってもカメラを持って行って撮影をするほどで、教育ママゴンになるのではないかと思っていました。
 ところが、夫の体調が悪化して私が家計を支えなければならなくなったので、『何とかして食べていかなくてはならない』と思い、昭和41年(1966年)に喫茶店を始めました。当時、三瓶町には喫茶店はなかったと思います。私は宇和町の農家の家に生まれ、喫茶店など全く知らずに嫁いで来たので、高い所から飛び降りるつもりで一生懸命やりました。やる気でやったらやれるもので、40年続けました。今は、手芸品などを置いて趣味の店のようなことをしています。」

ケ 飲食店

 「私(井上利登さん)たちが若いころは、仕事帰りや休日などに飲食店に集まり、みんなよくお酒を飲んで楽しんでいました。私の店がある立花通り周辺には飲食店がたくさんあり、夜になるとかなり賑わっていたことをよく憶えています。井上畳店と和泉屋とは今は隣同士ですが、昔は店の間に飲食店が1軒あった時代もありました。私もお酒を飲むことが好きだったので、友達を誘って飲みによく行っていました。狭い路地を入る角の所にあった『響(ひびき)』という店は終戦直後にはダンスホールで、のちに飲食店に変わりました。また、その路地奥にあり、非常に狭い道を通って行かなければならなかった『ひろ』という店はよく流行っていました。傘を差すことができないくらいの狭い路地だったので、雨の日はぬれながらでも行ったものです。ずっと後になってカラオケが導入され、友達と何度も通いました(図表1-3-2の㋚、㋛、㋟、㋠、写真1-3-12参照)。」

コ アイスキャンデー

 (ア) レール通り沿いのアイスキャンデー店

 「銀天街とレール通りが交差する角にある店で、よくアイスキャンデーを買ったことを私(竹﨑幸仁さん)はよく憶えています。この店はアイスキャンデー専門で、夏だけ開店していて5円持って行くと2本買うことができました。
 また、『ボンボンキャンデー』というひょうたんのくびれが三つか四つあるような形をしたものも販売されていて、ある程度長い時間食べられたことも憶えています。アイスキャンデーを食べた後には容器の中に水を入れ、水鉄砲のように水を出したり、空中に投げて地面に落ちた時の飛び散る様子を見て、喜んだりしていました(図表1-3-2の㋡参照)。」

 (イ) 町中にたくさんあったアイスキャンデー店

 「三瓶町にはアイスキャンデー店がたくさんあったことを私(井上洵一さん)は憶えています。立花通りでは、大街道の近くに井上アイスキャンデー店がありましたし、和泉屋も改装前はアイスキャンデーを販売していました。大街道沿いには篠川アイスキャンデー店が、この店から少し北へ進んだ所にあるパチンコ店の前の店でも販売していました。さらに、たくさんあったアイスキャンデー店の中でも一番新しいお店が、朝屋旅館から北に3軒ほど離れた所にありました。アイスキャンデーといっても、時代や店によって形や中身が全く違っていました。私が憶えているだけでも、四角い形で箸が付いていないもの、箸が付いていて丸型又は平たい形をしているものの3種類ありました(図表1-3-2の㋛、㋢、㋣、㋤、㋥参照)。」


図表1-3-2 昭和40年ころの朝立の町並み

図表1-3-2 昭和40年ころの朝立の町並み

地域の方々からの聞き取りにより作成

写真1-3-3 現在の松本洋品店

写真1-3-3 現在の松本洋品店

平成29年7月撮影。洋品店に残る「時計 めがね」の看板。中ほどには「懐かしい」たばこのショーケースがある。

写真1-3-5 丸善文具店

写真1-3-5 丸善文具店

平成29年12月撮影。現在は廃屋。右手の道の奥が塩田商店街。

写真1-3-6 井上畳店

写真1-3-6 井上畳店

平成29年12月撮影。柱、壁が少なく、作業場を広く取っている。

写真1-3-8 現在の和泉屋

写真1-3-8 現在の和泉屋

平成29年7月撮影

写真1-3-12 狭い路地の飲食店

写真1-3-12 狭い路地の飲食店

平成29年7月撮影