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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 「傘いらず」の町並み

 桐山保さんは、「高山は住宅が密集していて家と家との間隔が狭く、屋根が交差しているので、昔は『雨が降っても傘いらん。』とよく言われていたことを憶えています。屋根を伝って隣の家へ行くことも出来ました(写真1-2-2参照)。」と話された。このような町並みが形成された背景と、くらしの中で生まれた町の特徴について、地域の方々は次のように話してくれた。 

ア 漁業との関わり

 「江戸時代に高山の人口が急増していますが、これには漁業が深く関わっていると私(濱田正明さん)は思います。宇和海の中でも最高の漁場が大崎鼻(おおさきはな)で、宇和島の三浦(みうら)の漁師たちが高山の庄屋へ漁業権を願い出て漁をしに来ていたと聞いたことがありますし、田之浜に水産補習学校が創設されていたのも同じ理由からでした(図表1-2-1参照)。また、高山から出世した人には先祖が三浦出身という方が多いですし、庄屋を務めた方も三浦から来た方です。やはり漁業という繋(つな)がりの中で三浦から高山へ移り住む人が増えたというのが、人口が増加した要因だと思います。」
 付記 田之浜水産補習学校は明治38年(1905年)に創設された。昭和8年(1933年)、「時局の推移に、教育情勢も変化して、実業補習学校に対する国庫と県費が補助削減され、次第に運営が困難となった(①)」ため、高等科を田之浜小学校に併置すると議決された時には田之浜地区民一丸となって反対運動を起こして撤回させたこともあったが、昭和10年(1935年)に文部省(現文部科学省)が公布した「青年学校令」により、高山農業補習学校、高山青年訓練所、宮野浦農業補習学校とともに統合され、高山青年学校となった。

イ 民法の対象外の地域となる

 濱田正明さんは、高山の町並みの特徴について次のように話してくれた。
 「民法234条に、『境界線と外壁の距離を50cm以上にしなければならない』という規定がありますが、高山は昔から住宅が密集して建てられているので、法律の対象外の地域になっています。高山で家を建てたり建て替えたりする場合、隣の家との間隔があまり離れていなくても、地域の責任者の許可があれば、そのまま建築しています。これは、明浜町でいえば高山だけのことで、消防法についても同様です。火事が起こることはありますが、隣同士で協力して初期消火できるので大火になることはありません。」

ウ 二種類の消火栓

 高山の町並みには、二つの色に分けられた防火用の消火栓があちこちに見られる。これについて、川上吉嗣さんは次のように話してくれた。
 「高山の防火用消火栓は、用途が誰にでも分かるよう、黄色と赤色の2色に分けられています。黄色は海水を利用する場合の消火栓で、海岸付近に消防車を置き、そこから海水を各消火栓に送ります。赤色は上水道を利用する場合の消火栓です。建物が密集して建てられていて消防車が入ることができないため、海水を利用できるよう工夫しているのです(写真1-2-3参照)。」

 (2) 家号で呼び合う

 家(や)号とは、一門や一家の特徴を基に家または店に付けられる称号のことをいう。久保高一氏が著書『明浜こぼれ話』の中で、「名字つけ=明治三年(1870年)には藩から『名字をつけてよろしい』というお触れが出ていますが一部の人は別として大部分急ぎませんでした。この頃は『○○屋の○○さん』で何不自由なかったからです(②)。」と明治5年(1872年)の壬申戸籍作成の際のエピソードを紹介しているが、かつて高山では家号で呼び合う習慣があり、昭和50年(1975年)ころまでは続いていたという。昭和60年(1985年)に『高山の家号、家紋外調査』を二宮章氏とともに著した宇都宮長三郎さんから高山四区までの高山の家号と特徴についてお話を伺うとともに、中平サチ子さんには補足をしていただいた。

ア 高山一区の家号

 (ア) 高崎屋

 「高崎屋は私(宇都宮長三郎さん)の会社の家号で、記号は『ヤマチョウ』と読みます(図表1-2-3の㋐、写真1-2-4参照)。なぜそのようになったかは記録が残されていないので分かりませんが、石灰業者は皆、自分の会社が使うザルなどには必ずペンキで記号を書き入れていました。これには、自分の会社のものであることを示すという意味があったと思います。また、高山の人は私の家のことをよく、『ハナの長(ちょう)さんの所』と呼んでいました。私の家は藩政時代の庄屋の網小屋の跡に建てられていて、そこから東には人家がなく地域の一番端にあったからです。高山本浦から小僧津(こそうづ)まで県道(現在の国道378号)ができたのは昭和3年(1928年)のことで、それまでは賀茂神社から私の家の裏側に続く小道があり、多くの人がその道を利用していました。」

 (イ) 小太屋

 「小太屋は農家です(図表1-2-3の㋑参照)。終戦後には畑で作物を育てながら養蚕も行っていたことを憶えています。私の家でも、昭和の初めころにわずかな期間(1、2年間)だけ養蚕を行っていたことがあり、狩江へ行く途中に桑畑がありました。」

 (ウ) 蠟屋

 「昭和10年(1935年)ころまで、ハゼの木の果実を搾って蠟(ろう)をつくり販売していたと聞いたことがあります(図表1-2-3の㋒参照)。昔は、高山にはハゼの木がたくさん植えられていました。」

 (エ) 鼻鍛治

 「集落の『ハナ(先)』にある鍛冶屋という意味で、石灰山の採掘で用いる鑿(のみ)の目を鍛え直すことが一番の仕事でした(図表1-2-3の㋓参照)。採掘作業によって先が丸くなってしまった鑿が夕方届けられると、翌朝までに研ぎ直して石灰業者に届けていました。高山は石灰業が非常に盛んだったので、鍛冶屋がたくさんあったことを憶えています。」

 (オ) 吉田屋(記号不明)と戦前の旅館

 「吉田屋は終戦の直前ころに高山へ来て、旅館経営を始めたと思います。戦前は高山三区にある桐山商店の所に旅館があり、地域の人々は『ニイタケ』とよく言っていました。『ニイ』というのは『新居』で、確か昭和30年(1955年)ころまで旅館だったと記憶しています。そこを桐山商店が買い取り、昭和39年(1964年)から呉服店に変わりました(図表1-2-3の㋔、㋕参照)。」

 (カ) 油屋

 「油屋は、かつて菜種油を取り扱っていたお店だと聞いていますが、私が生まれたころには菜種を搾るということはしていませんでした。ただし、建て替えていなければ高山で一番古い建物だと思います。先代か先先代は、高山の発展に非常に尽くした方だそうです(図表1-2-3の㋖参照)。」

 (キ) 錻力屋

 「鼻鍛治を営む方の分家に当たり、『ブリキヤ』と呼ばれていました。建物の屋根カバーや石灰を選別する『回転ふるい』という機械に取り付ける金網を主に造っていて、私も依頼したことがあります。また、金網が破れてしまったときに修理をお願いすると、破れた部分の大きさにブリキを切ってハンダ付けをしてくれました(図表1-2-3の㋗参照)。」

イ 高山二区の家号

 (ア) 天神と孫店

 「二つともお米や文房具などを取り扱っていた雑貨店で、多くの人が利用して繁盛していたことをよく憶えています。天神は、かつて『天神丸』という荷物船を所有して石灰の運搬などを行っていたそうですが、私が生まれたころには所有していなかったと思います。地域の人々が『天神丸、天神丸』とよく言っていました。細長い家で、奥が母屋、手前が店舗になっていて、店舗の2階に地域の方々が集まって、よく集会を開いていました。(図表1-2-3の㋘、㋙参照)。」

 (イ) 瓢箪風呂

 「私が生まれたころには営業していなかったと思いますが、この風呂屋はかつて、石灰鉱山の鉱夫たちが仕事帰りに利用していたと聞いています(図表1-2-3の㋚参照)。石灰山で1日働くと体が石灰まみれになるので、お風呂に入ってから帰宅していたのです。高山には、このようなお風呂屋がかつては何軒もありました。
 また、ここは石灰の運搬船も所有していて、私の会社の専属船でした。その船の舳先(へさき)には、この店の家号である『瓢箪(ひょうたん)にト』の記号が取り付けられていたことを今でもよく憶えています。確か昭和10、11年(1935、36年)ころに新造され、進水式の際には餅投げをした記憶があります。その船は戦時中に徴用されましたが、その時この船を造られた方が、『自分が造った船で愛着があるので、私が操船したい。』と軍の方にお願いして従軍していきました。確かこの船は、終戦前にフィリピンのマニラ沖で沈められたと聞きました。この方の息子さんは終戦後、馬車に石灰石を積み込んで工場へ運搬する仕事から始め、後に800tくらいの大きな鉄鋼船で物資を運搬する仕事を長年続けていました。」

 (ウ) 宝来丸と新右衛門屋

 「宝来丸は船を所有して石灰の運搬をしていた所ですが、早い時期にやめていたと思います。新右衛門屋は『シンニミヤ』と言い、小型の船を所有して物資の運搬をしていました。昭和20年代まで私の会社が作った石灰の運搬をお願いしていたことがあります(図表1-2-3の㋛、㋜参照)。」

 (エ) 大豊年屋

 「かつて『東網(ひがしあみ)』と呼ばれた網元でした(図表1-2-3の㋝参照)。終戦直後には、集落内で出た残飯を回収してそれを餌に豚を飼育したり、私の石灰工場の横で海水を集めて塩を作ったりして、本当にやり手だったことを憶えています。その後は宇和島や高知県の宿毛(すくも)辺りでくず鉄を集めては大阪方面や神戸製鋼などへ機帆船で運ぶ仕事を続け、確か2、3年前にニューギニアの方へ船を売りに出しました。ここが、高山で最後まで続いていた運送業者です。最近では、操船技術を教えて欲しいとの依頼が各所から来ているようです。」  

ウ 高山三区の家号

 (ア) 新興丸

 「今は道路工事を行う関係で更地になってしまっていますが、それまでは家が残っていました。『新興丸』という名の船を所有しており、それを家号にしたのではないかと思います(図表1-2-3の㋞参照)。」
 中平サチ子さんは、新興丸について地域の方からの話と自分の体験談を次のように教えてくれた。
 「『新興丸』は同じ名前の船を所有し、昭和初期は呉服店、以後は雑貨店として昭和30年代ころまで続き、店内には子どもの遊び用具がたくさんありました。依頼があれば、船を出して宇和島の病院へ薬をもらいに行ったり、買い物や届け物をしたりしていましたし、綿の打ち直しなども行い、地域の人々に重宝されていました。昭和20年(1945年)ころ、農業会が事務所として使用していた時期には一旦閉店し、農業会解散後に営業を再開しました。」
 付記 『明浜町誌』によれば高山村農業会は昭和19年(1944年)3月22日に認可され、戦時経済統制下のもとで食糧増産、農産物の供出への協力、貯蓄の増加に努めた。昭和23年(1948年)、農業会を改組する形で農業協同組合が発足した。

 (イ) 中西網と下公受

 「藩政時代には村の東西に組頭が置かれ、庄屋の仕事の補佐を務めていました。中西網は藩政時代に『西の横目(監視役)』と言われていた家で、『東の横目』と言われていた下公受(したおおやけ)とともに庄屋を助けて公的な仕事に従事していたと聞いています。『公受』という名字が高山には多いのですが、明治5年(1872年)に壬申戸籍を作成する際に『公(おおやけ)の仕事を取り扱う』という意味で、そのような名字にしたのだと思います。また、かつては公的な仕事をする家は漁網(ぎょもう)などの漁具を必ず所有していたので、家号を『中西網』としたのでしょう。昭和10年代以降は、中西網の方が石灰工場で働いていたことを憶えています(図表1-2-3の㋟、㋠参照)。」

エ 高山四区の家号

 (ア) 御庄屋

 「田中家はもともと三浦(現宇和島市)の庄屋で、享和3年(1803年)に享和騒動と呼ばれる越訴(おっそ)事件が高山で起こった時に庄屋の配置換えが行われ、宇和島藩の命で高山へやって来ました。当初、長屋門は東向き(湯の川通り側)に建てられていたのですが、伊能忠敬が高山へ測量に来た文化5年(1808年)に、三浦の方が常に見えるようにとの願いを込めて南向き(海側)へ移築したのです。
 明治30年(1897年)に田中三郎治という方が頭取として高山銀行(現伊予銀行高山支店)を設立した時、この長屋門の一角を店舗としていましたし、終戦直後には高山石灰の事業所として使用していたこともありましたが、平成の初めころに建て替えられました(図表1-2-3の㋡、写真1-2-5参照)。
 また、湯の川通り沿いにあった建物(平成29年〔2017年〕現在、道路拡張のために全て取り壊されている。)は全て田中家の土地ですし、高山小学校も田中家の土蔵の一角から始まりました。この当時の学校で学んだことがある方から、『土蔵だったので、麹(こうじ)の匂いなどがしていけなかった。』という話を聞いたことをよく憶えています。
 さらに、長屋門前に広がる広い場所のことを昔は『庄屋の浜』と呼び、公会堂を建てて芝居の上演や盆踊りなどを行っていたことも憶えています。」
 中平サチ子さんは庄屋の浜で行われていたことについて、記憶を辿(たど)り次のように話してくれた。
 「ここで芝居を上演する際には板で囲いをして会場を作り、お客さんから木戸銭を取っていたことを憶えています。また、小学校の学芸会の会場としても使用していましたし、戦時中に出征兵士の見送りをしたのもこの場所でした。」

 (イ) 高山醸造と池田屋

 「高山醸造は『鴨川(かもがわ)』という銘柄(めいがら)の日本酒や醤油(しょうゆ)を製造していました。以前は『池田屋』という家号の店が日本酒と醤油の製造を同じ場所で行っていて、昭和8年(1933年)に池田屋の当主が全ての権利を譲渡したのです(図表1-2-3の㋢、㋣、写真1-2-6参照)。」
 地域の方のお話によると、150mほど離れた所にある井戸から地下水を引いて利用しており、敷地内には精米所も建てられていて全ての工程を敷地内で行うことができていたという。また、醸造した日本酒は高山以外でも販売されていた。その際、醸造所から現在の国道378号辺りまでホースを延ばし、醸造された日本酒をタンク車の中に入れて灘(なだ)(兵庫県神戸〔こうべ〕市灘区)へ運び、「灘の月桂冠」として販売されていたそうである。

 (3) 商店等の記憶

ア 天婦羅店

 「このお店の方が、ハランボ(宇和海に生息する『ほたるじゃこ』と呼ばれるスズキ科の小さな魚)を天婦羅(てんぷら)に加工して販売していたことをよく憶えています。ハランボは何に加工してもおいしいので、当時私(吉見武雄さん)は日本一の魚だと思っていました。確か昭和40年代に家を売りに出され、別の方が同じ場所で玩具店を経営していたと思います(図表1-2-3の㋤参照)。」
 「昭和30年(1955年)ころ、このお店の方はすでに70歳を超えていたと思います。地元の漁師が地引き網で獲(と)って来た雑魚を購入し、加工していたことを私(濱田正明さん)はよく憶えています。高山は交通の便が悪く、当時は冷凍技術も発達していなかったので、生魚については他の地域で販売するような高価なもの以外は自分たちで加工して処理するしかありませんでした。」

イ 映画館(芝居小屋)

 「浜田洋装店がある所はかつて映画館で、アイスクリームとケーキも販売していたことを私(吉見武雄さん)はよく憶えています。ただし建物は別棟で、国道に面した所がアイスクリームとケーキの販売店、母屋の裏手にある大きな建物が映画館でした(図表1-2-3の㋥参照)。」
 「私(森川正一さん)が小学校低学年のころ、学校の授業の一つとして映画を観(み)に行っていたことを憶えています。そのときには、高山小学校から映画館までみんなで歩いて行っていました。映画館の中では床にゴザが敷かれていて、そこにクラスごとに並んで座りました。」
 付記 地域の方のお話によると、この映画館は舞台が非常に広く、芝居の上演も行われていたそうである。また、時代は異なるが、昭和41年(1966年)に朝日映劇が閉館するまで高山には四つの芝居小屋があり、賑(にぎ)わいを見せていた(図表1-2-4参照)。

ウ 煎餅の製造、販売と精米所

 「このお店ではイモ煎餅の製造と販売をしていて、精米所も兼ねていました(図表1-2-3の㋦参照)。イモ煎餅をつくる機械は六角形の回転式で、一度に10枚ほど焼くことができるものでした。家からイモの粉を持って行くと、わずかな加工賃を支払うだけで煎餅を焼いてくれたので、このお店に行って焼いてもらっていたことを私(濱田正明さん)はよく憶えています。この煎餅は、子どもたちの格好のおやつでした。
 また、このお店以外では高山醸造の南側にもう一つ精米所がありました(図表1-2-3の㋧参照)。高山は段畑でのイモと麦の栽培が中心で、水田は川沿いの段畑の一角にしかなかったので、主に麦を精麦していました。この水田も、『田んぼよりもミカンの方が売れるからいい』ということで、昭和40年代には、そのほとんどがミカン園に転換されました。」
 吉見武雄さんは、水田を転換してできたミカン園について、次のように話してくれた。
 「もともと水田だった所には、地下30㎝ほどの所に保水効果のある粘土層があるため、ミカンの栽培には全く適していませんでした。このために根を地中深くまで伸ばすことができず、発育の悪い樹が多く見られました。水田をミカン園に転換する場合、農協の指導員や石灰鉱山等に勤務している人の中にダイナマイトの使用許可証を持っている人がいたので、その人にお願いして粘土層を吹き飛ばしてもらっていた農家の方がいたことをよく憶えています。昔はダイナマイトの使用についての規制が少なかったのですが、確か『あさま山荘事件(昭和47年〔1972年〕)』が起きたころから取り扱いが厳しくなっていったと思います。」 

エ 伊予銀行高山支店

 伊予銀行高山支店は、明治30年(1897年)に伊豫高山銀行本店として庄屋の長屋門の一角を借りて設立された。昭和5年(1930年)に八幡浜(やわたはま)商業銀行との合併を経て、昭和16年(1941年)に伊豫合同銀行高山支店となり、平成29年(2017年)に創立120年を迎えた。
 「昭和20年(1945年)ころにはすでに現在地に移っていました(図表1-2-3の㋨参照)。当時、銀行の建物の後ろには抵当で回収したさまざまな物資を収めるための土蔵が三つ並んでいたことを私(宇都宮長三郎さん)は憶えています。昭和51年(1976年)に現在の建物に建て替えた際、裏の土蔵を支店長住宅に建て替えました。
 また、この時に銀行の建物の基礎を2mくらい掘り下げてみると、地中は石灰質の砂ばかりであったことを憶えています。若宮神社周辺の土地のことを皆が『河原』と呼んでいることから、かつてはかなり内陸の方まで海だったのではないかと考えられます。石灰業では残砂(ざんさ)を海に捨てていくし、明治30年ころには83軒の石灰工場があり、海岸沿いだけでなく山の高い所にも石灰窯がたくさん築かれていたので、長年の活動で捨てられた残砂が小粒の砂利になってどんどん堆積していき、今の陸地を造ったのではないかと思います。」


写真1-2-2 「傘いらず」の町並み

写真1-2-2 「傘いらず」の町並み

平成28年12月撮影

写真1-2-3 二種類の消火栓

写真1-2-3 二種類の消火栓

平成29年12月撮影。右が海水用(黄色)、左が上水道用(赤色)。

図表1-2-3 昭和30年ころの高山本浦の町並みと家号

図表1-2-3 昭和30年ころの高山本浦の町並みと家号

地域の方々からの聞き取りにより作成

写真1-2-6 高山醸造の建物

写真1-2-6 高山醸造の建物

平成29年9月撮影。地域の方によれば、この建物は取り壊しが決定しているそうである。

図表1-2-4 高山にあった映画館(芝居小屋)

図表1-2-4 高山にあった映画館(芝居小屋)

『愛媛県史 芸術・文化財』の記述から作成。掛小屋とは、臨時に設置された興行用などの小屋のこと。