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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 高山の町並み

 西予(せいよ)市明浜(あけはま)町は県の西部に位置し、東は宇和島(うわじま)市吉田(よしだ)町、北は西予市宇和町と西予市三瓶(みかめ)町に接し、西と南は宇和海に面している(図表1-2-1参照)。背後は300から500m級の山々が分水嶺を成し、全長14.1kmの海岸線は佐田岬(さだみさき)半島宇和海県立自然公園の中心的な位置にあって、典型的なリアス式海岸が美しい景観をつくっている。冬でも菜の花が咲き誇る同町は、世界のオレンジ地帯と同緯度にあるミカン産地で、温州ミカン等柑橘(かんきつ)類の栽培が盛んであり、水産業としてはチリメン漁と真珠やハマチ等の養殖が行われている。ただし平地に乏しいため、集落が海岸沿いのわずかな平地に軒を接して密集していることも同町の特徴である。
 明治22年(1889年)、町村制の施行により俵津(たわらづ)村、狩江(かりえ)村、高山(たかやま)村の3か村が成立し、昭和30年(1955年)には俵津村と狩江村が合併して豊海(とよみ)村が成立、同33年(1958年)に豊海村と高山村が合併して明浜町となった。平成16年(2004年)に東宇和郡4町(宇和町、野村〔のむら〕町、城川〔しろかわ〕町、明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の計5町が新設合併して西予市が誕生して以降は西予市明浜町となり、自治体としての歴史を閉じた。
 「高山」は昔から高山本浦(ほんうら)、宮野浦(みやのうら)、田之浜(たのはま)の全地区を含めた地名で、高山本浦は高山村と明浜町の時代を通して村役場と町役場がそれぞれ置かれた政治と行政の中心地であり、その歴史は古い。二葉山賀茂神社は寛治4年(1090年)の勧請(かんじょう)と伝えられ、妙光山金剛寺の東部にある「城(じょう)の森」と呼ばれる場所は中世末期の高山城主である宇都宮氏が居城とした道山城(どうやまじょう)の跡地である。また、天正7年(1579年)、土佐(とさ)(現高知県)の長宗我部氏との戦いの際に務田(むでん)(現宇和島市三間〔みま〕町)で討ち死にしたと伝えられる宇都宮正綱公を祀(まつ)った若宮神社はそのころの創建と伝えられ、宇都宮正綱廟(びょう)と明治14年(1881年)に地域の方々が奉納したカッパの狛(こま)犬がその歴史を現代に伝えている(写真1-2-1参照)。
 宇和島藩領となった藩政時代には、寛文11年(1671年)の新浦田之浜の発足や土地開発の奨励などが藩の働きかけのもとで進められると、多くの者が移り住んで人口が急増した。さらに、嘉永3年(1850年)に宇都宮角治によって石灰業が開始され、「白い村」と呼ばれるほどの活況を呈するようになるとさらに人口が増加し、昭和25年(1950年)には高山村最大の6,154人を数えた(図表1-2-2参照)。しかし、高度経済成長期の産業構造の転換や人口流出及び昭和40年代以降の石灰業の衰退等によって人口が減少傾向を示し始め、現在(平成29年〔2017年〕10月31日現在)は高山本浦、宮野浦、田之浜3地区を合わせて人口が1,306名と著しく減少している。
 本節では、昭和30年(1955年)ころまでの高山本浦の町並みと人々のくらしについて、地域の方々から話を聞いた。


図表1-2-1 西予市明浜町の位置

図表1-2-1 西予市明浜町の位置

平成15年国土地理院発行の5万分の1地形図「伊予高山」による

写真1-2-1 カッパの狛犬

写真1-2-1 カッパの狛犬

平成28年12月撮影

図表1-2-2 高山地区の人口推移

図表1-2-2 高山地区の人口推移

『明浜町誌』から作成