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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 農業とくらし

 昭和40年代に第二次農業構造改善事業に取り組んだころの思い出や、終戦前後から昭和40年代ころまでの農村の移り変わりについて、松山義廣さん、信宮克行さんから話を聞いた。

 (1) 圃場整備事業に取り組む

ア 第二次農業構造改善事業の計画

 「昭和45年(1970年)に、小野田、久枝、野田、別所、神領の5地区に第二次農業構造改善事業の計画が持ち上がりました。小野田地区では、明治時代の終わりから大正時代の初めにかけて耕地整理が行われ、用排水と農道が整備されて、どの圃場も2m以上の道が付いていたため、当時、営農にはそれほど不自由していませんでした(写真1-1-6参照)。他の4地区は未整理地区でしたが、明治時代の終わりと大正時代の終わりころ、そして、第一次農業構造改善事業でも候補地に上がり、計画のための測量を2回実施していましたが、実施には至らなかったという前歴がありました。それぞれ事情の異なる5地区が一体となって農業構造改善事業に取り組むというのですから、私(信宮克行さん)を含めて誰もが『本当にできるのだろうか』と思っていました。」
 「当時、野田、久枝、神領、別所の4地区は耕地整理が実施されていませんでした。私(松山義廣さん)の住んでいる野田地区や別所地区では、農道が完備されていないために、ほかの人の田んぼを通らなければ自分の田んぼに入れないような田んぼのことを、昔から俗に『まごた』と呼んでおり、野田、久枝、神領、別所地区の田んぼのほとんどは『まごた』でした。そのころには農業機械の大型化が進み始めたこともあり、野田地区では『この機会に圃場整備をしなければ取り残される』と考える人が比較的増えていました。」

イ 多かった反対者

 「昭和45年(1970年)の夏、各地区の役員30名が集まり第1回の協議会を開いた結果、各地区に5名から10名程度の推進委員を置くことになり、秋にはその中から3名の地区代表委員を選び、5地区の推進委員とすることも決まりました。私(信宮克行さん)も若者の代表という意味もあったと思いますが地区代表委員に選ばれ、この大事業に参加させてもらいました。
 小野田地区総会では、推進委員を置くことに対して多くの反対がありました。『現在の耕作で何一つ不自由していない。』、『ほとんどコンクリート畔(あぜ)にしているので、それらの畔がダメになる。』、『明治の耕地整理のとき、地区内が賛成と反対の二つに分かれ、後々まで対立感情が長く残った。』、『つい先年、耕地整理50周年記念を祝い、先人の頌徳(しょうとく)碑を建てたばかりではないか。』、『圃場が大きくなれば水不足になる。』などの意見が出され、推進委員ということでなく研究委員の性格をもつことでようやく了解され、委員が決まりました。その後の地区総会では、第二次農業構造改善事業を実施するとすれば、という仮定で討議が何回も重ねられ、昭和46年(1971年)の春には、第二次農業構造改善事業に取り組む前提で研究する、ということでほぼ合意することができました。この時点で、代表委員会では、委員の中から誰かが専従で町役場に勤務して計画にも参画し、地区の方々の希望を受け入れたり、啓蒙(けいもう)活動をしたりしようという決定がなされました。役場にその費用の予算化を依頼すると、町長をはじめ関係者にも賛成していただき、専従職員選任委員会で私がその任に当たることが決定し、7月から出勤することになりました。当時、私は酪農仲間とともに小野田牧場の共同経営を始めており、7月からは朝6時から乳牛12頭の搾乳をした後、8時半に役場へ出勤するようになり、夕方の搾乳は酪農仲間と妻に任せるという毎日が3年間続きました。酪農仲間には随分援助してもらいましたし、妻にも随分苦労をかけました。」

ウ 河川の改修

 「私(信宮克行さん)の出勤始めの日、役場内の異動で第一次農業構造改善事業の指導者であった方が構造改善係長に任ぜられていました。この係長さんと2人で手掛けた最初の仕事は、地区内の実態調査と、地区内を蛇行し、年に何回となく災害を起こす根笹(ねざさ)川や舟(ふな)川の改修のための陳情でした。それは、これらの河川を改修しなければ、せっかく基盤整備を行っても意味がなくなるという代表委員会の意向を受けてのものでした。河川の現況写真を撮影するために、堤防の笹刈りをしていると、『この笹などを刈れば災害が大きくなる。』と反対されて困ったこともありました。およそ3㎞にもわたり堤防の笹を刈った年は、運良く大雨が降らず助かりました。河川の現況写真と過去の災害時の写真を添えて陳情書を作成し、町長を先頭に強力な運動を行いました。9月に入り、この運動の山場を迎え、地元役員はもちろん、役場、土木事務所等が一丸となっていたそのとき、ドル=ショックによる不景気を恐れた政府が大型の公共事業を計画していたことも幸いし、11月には根笹川が3年計画の1億4,000万円で、昭和46年度(1971年度)予算が3,000万円、舟川は昭和47年(1972年)から2年間で6,000万円が予算化され、地元の負担なしで実施されました。この河川改修の決定は、第二次農業構造改善事業への反対者の批判を和らげることとなり、事業を推進する上で決定的な役割を果たしたと思います。」

エ 農家との協議を重ねる

 「私(信宮克行さん)は役場に勤務後、小野田地区の整備前の田んぼを1枚1枚、田んぼの区画や道路との位置関係、畔の高さなどを全て調査し、評価していきました(写真1-1-7参照)。具体的な根拠を基に田んぼの評価をしなければ、換地配分の際に不公平が生じる可能性があるからです。基盤整備後の換地配分は、作成した台帳に記されている評価点を基に行われました。換地配分の作業は、換地委員の方がやってくれたので、私は作業が問題なく進んでいるかどうか確認するだけで済みました。実態調査では、全員の賛成を得て第二次農業構造改善事業を実施するために、県の普及所や農協等の協力も得ながら、農家各戸の意向について徹底した聞き取り調査を行いました。その結果、土地基盤整備事業に賛成であり、近代化事業に積極的に取り組むという農家が30%強、賛成でも反対でもないが計画書の内容が良ければ賛成するなどという農家が40%、できることならばやってほしくないという農家が20%、反対する農家が10%でした。集計結果から、私たちは計画書の重要性を改めて認識し、より一層各農家と協議を重ねていきました。」

オ 事業実施の決定

 「河川改修の計画書も完成し、県の土木事務所からそれを受け取ると、今度は各地区から、『どうせ基盤整備を行うのであれば、地区内の町道、県道の改修も併せて行いたい』という希望が出てきました。町や県と協議した結果、地区内の県道の改修と、改修が直ちに予算化できないものは用地買収まで行うこととなり、各地区総会を開いて協議したところ、河川、町道、県道については全て共同減歩(各地権者が少しずつ土地を提供すること)とする決定がなされました。近代化事業についても共同牧場やタバコ組合、機械営農組合、育苗施設、ライスセンター等の計画に各農家から一つ一つ同意を得て、昭和47年(1972年)2月には、反対者3名を残して第二次農業構造改善事業に取り組むことが決定して神野久(かみのく)(神領、別所、野田、小野田、久枝の5地区の総称、地域では『じんのく』とも。)土地改良区が設立され、7月には休耕田の整地の入札が行われ、9月には神野久土地改良区の常務理事も置かれました。私は昭和48年(1973年)の秋までこの仕事を続けました。」

カ 圃場整備の進展

 「第一次農業構造改善事業のときの伊賀上地区では、重機はショベルカーしかなかったため、圃場整備の能率が上がりませんでした。小野田地区でも、圃場整備を開始した年は重機が不足したために工事が遅れ、田植えをするのに苦労したことを私(信宮克行さん)は憶えています。その後、小野田地区では湿地用ブルドーザーを2台購入し、通常のブルドーザーを県の公社から譲り受けて重機が合計3台あったため、能率良く作業を行うことができました(写真1-1-8参照)。野田地区と小野田地区では、第二次農業構造改善事業と団体営土地改良事業とを組み合わせることにより、全ての圃場整備を行うことができました。構造改善事業の圃場整備により、田んぼ1枚の面積は整備前の542㎡(約5.4a)から整備後は3,138㎡(約31a)に、団体営圃場整備により、田んぼ1枚の面積は整備前の516㎡(約5.2a)から整備後は2,745㎡(約27a)に広がりました。
 また、第二次農業構造改善事業のとき、小野田牧場が借りる予定になっていた、斜面に造られた広い水田(休耕地)があり、国や県からはその水田を畑地にすることを強く推奨されました。というのは、減反政策が始まって米から他の作物に転作しなければならず、畑地として整地した方が水田として整地するよりも2分の1から3分の1の工事費で済む上に、広い牧草地を造成すれば牧場の生産性も上がるからです。しかし、当時の水田の評価額が1反(約10a)当たり120万円から160万円であったのに対し、畑地の評価額は1反当たり50万円から70万円と随分開きがあったため、土地の所有者は畑地として整備されると困ると思いましたし、畑地を水田に戻すためには多額の工事費がかかることから、そのお話はお断りしました。」

キ 機械化組合の設立

 「基盤整備を終えた後の換地配分では、土地の良し悪しや家からの距離など、各自の利害が絡んでもめる場合も少なくありませんでしたが、野田地区では、換地委員による土地配分の決定に無条件で従うことをあらかじめ申し合わせていました。基盤整備後の換地配分が終わると大型の農業機械を使用する条件が整いましたが、個人で機械を購入するのは経済的に難しかったため、昭和48年(1973年)に上宇和地区、翌49年(1974年)に竜王地区でそれぞれ機械化組合を設立し、組合で農業機械を購入していました。当時は購入額の半額分は県から補助を受けることができました。それぞれの機械の利用料金が決められ、利用した組合員は利用料金を組合に支払っていました。私(松山義廣さん)がよく利用したのはトラクターやコンバイン、田植え機で、非常に役に立ちました(写真1-1-9参照)。」
 「上宇和地区機械化組合には、小野田、久枝地区の農家の約80%が加入し、竜王地区機械化組合には、野田、別所、神領地区の農家の80%から90%が加入していました。両組合ともに20馬力から30馬力のトラクターを3、4台、田植え機4条植を4台、コンバイン4条刈を2、3台、そのほかにアタッチメントを多数所有していたことを私(信宮克行さん)は憶えています。この辺りの農家の中には、農閑期になると建設現場へ出稼ぎに行き、重機の扱いに慣れている人もいたので、そういった人たちを重機オペレーターにしていました。」

ク ライスセンター等の建設

 「第二次農業構造改善事業では、土地改良などの基盤整備事業と近代化事業で事業費をほぼ折半するという大きな枠組みが決められていました。上宇和地区では小野田牧場があったために近代化事業の資金の大部分は消化することができましたが、竜王地区では近代化事業に取り組む人がなかなか見つかりませんでした。当時は、米摺(す)り機と発動機を各農家の庭に運んで脱穀していたため、農協が近代化事業の事業主体となってライスセンターと育苗センターを建設することになり、組合員の出資金と国からの補助金によって建設されました(写真1-1-10参照)。ライスセンターができるまでは、脱穀が終わった後にみんなでお酒を飲むのが楽しみでしたが、ライスセンター建設後はそうした光景は見られなくなりました。今でも小野田地区には自宅で脱穀している農家が2軒ほどありますが、ほとんどの農家はライスセンターで脱穀をしています。」

ケ 基盤整備事業の経験を伝える

 「第二次農業構造改善事業のとき、私(信宮克行さん)は小野田地区の代表委員となり、行政との連絡役として役場にも勤務していましたが、そのときには、県庁の土地改良課に行ったり、畜産課に行ったりして、それぞれの専門の技術者と話をするなど、さまざまな機会を与えていただきました。私自身が何か特別な技術をもっていた訳ではありませんが、基盤整備事業のときには、専門の技術者が設計した内容に、私たち住民の意見を取り入れてもらうこともありました。第二次農業構造改善事業の実施後、これから基盤整備事業を進める予定の地域から依頼を受けて、私たちが取り組んだ事業の経験を話す機会が多くあり、一番遠い所では徳島県まで行って話をしたことがありました。第二次農業構造改善事業で圃場整備をしたことと、その付帯事業として牧場を建設したことについて、その経験を話してほしいと頼まれたのです。」

 (2) 農村のくらしの記憶

ア 入会地

 「大正11年(1922年)に上宇和村が宇和町と合併したとき、小野田地区の所有地のほか30町歩(約30ha)ほどの山林が野田、別所、久枝、馬場の4地区の共有地と決められました。4地区の共有地は昭和27、28年(1952、53年)に各地区に配分され、現在もそれぞれが所有しています。また、野田、別所、下(しも)松葉、上(かみ)松葉、永長(ながおさ)が採草権を持つ極山(ごくざん)入会地(共同利用地)という山林があり、極山のほかにもたくさんの入会地があったことを私(松山義廣さん)は憶えています。」

イ 男衆さん

 「昔は、農作業の人手が足りない農家では、年間に米を何俵か支払って男性を住み込みで雇っていて、そうした男性を『男衆(おとこし)さん』と呼んでいました。野田地区には男衆さんが10人以上いて、その中には城川や野村の方の出身の人もいました。男衆さんの中には、いろいろと縁ができて養子に入ったりした人もいたことを私(松山義廣さん)は憶えています。戦前には男衆さんが各地区に7、8人はいましたが、終戦を境に見かけなくなりました。」
 「戦前の小野田地区では、男衆さんを雇っていた家が何軒もあり、私(信宮克行さん)の家でも男衆さんを雇って、農作業や養蚕、焚(た)き物採りなどをしてもらっていました。その中でも、朝鮮半島から来られた方には、子どものころに随分かわいがってもらったことを憶えています。戦後になってからは、ふだんは自分たちで田んぼを耕作できましたし、田植えのときには近所の人に手伝ってもらえたので、私の家でも男衆さんは置いていませんでした。」

ウ 盛んだった養蚕

 「大正から昭和の初めくらいまでは、小野田地区でも養蚕が盛んに行われており、辺りには桑畑が広がっていました。養蚕農家では蚕の世話をする人を雇っている家が多く、私(信宮克行さん)の家でも蚕の世話をする女性を2人くらい雇い、座敷にまで棚を置いて蚕を飼育していました。うちには宇和の製糸工場で糸を取る技術を身に付けた10代半ばから20歳過ぎの女性に来てもらっていました。品質の良い繭は良い値で売れましたし、少し色の付いたような繭でも糸にして売ると少し値が良くなりました。太平洋戦争に入ってからは食糧難になり、国の方針で食糧を増産するため、桑の木を全て掘り上げてサツマイモを植えて切り干しなどを作っていました。小野田地区には養蚕をしていた当時の建物は残っていませんが、郷内(ごうない)地区には養蚕農家の2階建ての家屋が今も残っています(写真1-1-11参照)。」

エ 農地解放と小作地

 「戦後の農村における最も大きな改革は、農地解放によってそれまで小作人であった方たちの権利が認められ、小作人の所有地が増えたことだと私(松山義廣さん)は思います。昔から寺院や神社では所有する田んぼを小作人に耕作させていて、小作人の方たちは、たとえ寺院や神社の所有地であっても小作地として全て分配してもらわなければいけない、と主張していました。野田地区にある寺院では昔からかなり広い田んぼを所有していたのですが、戦後になって、所有していた田んぼの全てを解放したと記憶しています。」
 「昭和45年(1970年)ころには、まだ小作地が残っていたことを私(信宮克行さん)は憶えています。小野田地区では、小作地の権利配分について地主6分、小作人4分とすることに決まり、土地を売却してその金額を配分するか、圃場整備後に土地をその比率で配分するかということについては両者が話し合って決めることになりました。両者の話し合いで決まらなかった場合には、小作地を小作人の所有地とする代わりに、小作人が地主に対して通常の小作料の60%を納めることにしていた時期もありました。」

オ 小野田地区のため池

 「小野田地区には五つのため池があり、その一つである三蔵宮(さんぞく)池は、周辺の山から流れてくる水を集めて築かれています(写真1-1-12参照)。ため池が築かれた年代ははっきりしませんが、私(信宮克行さん)はかなり古い時期に築かれたのではないかと思います。普通、排水路は田んぼの真ん中を通る場所に築かれるのですが、三蔵宮池の排水路は田んぼより少し高い所に築かれており、この水路のことを地元では舟川と呼んでいます。第二次農業構造改善事業で根笹川と舟川の改修を県に陳情したとき、土木課の人から、『こうした高い場所に排水路が築かれている農村は珍しい。』と言われたことを憶えています。」

カ ミカン農家に嫁ぐ

 「私(信宮克行さん)が高校生のころ、宇和高校の農業科には吉田や宇和島、八幡浜の方から多くの生徒が通学していました。私の同級生にはミカン農家の子もいましたが、そのころはとても景気が良かったことを憶えています。妹は立間(たちま)(現宇和島市)のミカン農家に嫁ぎましたし、同級生の女性の中でも3、4人くらいが立間などのミカン農家に嫁いでいました。ミカンの値が良かったころは、宇和町ではミカン農家に嫁ぐ若い女性が比較的多かったように思います。」

キ 出稼ぎ

 「農閑期になると、この辺りの建設現場で働いていた農家の人もかなりいましたが、より多くの稼ぎを求めて、都会へ出稼ぎに行く人もいました。宇和町では農業委員会が事務局となって出稼ぎのあっせん、取りまとめを行っていて、私(信宮克行さん)も一時期は農業委員として出稼ぎのあっせんをしていました。出稼ぎ先は大阪周辺が中心で、毎年1回は現場視察にも行っていました。そのころ、農業委員会によるあっせんのみの人数で、多いときには宇和町全体で年間130人くらいの人が出稼ぎに行っていました。」
 「昭和54、55年(1979、80年)までは、野田地区からも農閑期に出稼ぎに行く人が結構いたことを私(松山義廣さん)は憶えています。関西方面への出稼ぎがほとんどでしたが、香川県などにも行っていました。また、四国の高速道路の工事が行われたときには、重機関係の仕事はもちろん、土木作業員としても出稼ぎに行っていました。農業委員会や職業安定所のあっせんを受けずに出稼ぎに行った人のなかには、工事中にけがをしても補償が下りないということもあったそうです。そのような人たちは、賃金が通常よりも少し高いという理由で行っていたのだと思います。」

ク 卯之町とのつながり

 「私(信宮克行さん)は、高校時分から映画を観るのが楽しみで、若い時分には小野田から卯之町の栄座や東映の映画館によく行っていました。また、馬場商店街にも小さな劇場があり、そこには歌手の方が来たこともありました。妻も買い物はほとんど卯之町で済ませていて、松山(まつやま)へ買い物に出かけることはほとんどありませんでした。」

参考文献
・ 宇和町『広報うわ 第228号』1973
・ 宇和町『宇和町誌』1976
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 宇和町『宇和町誌Ⅱ』2001
・ 西予市教育委員会『西予市の文化財』2008
・ 西予市『西予市誌』2015


写真1-1-6 耕地整理記念碑

写真1-1-6 耕地整理記念碑

平成29年9月撮影

写真1-1-11 かつての養蚕農家の家屋

写真1-1-11 かつての養蚕農家の家屋

平成29年12月撮影

写真1-1-12 三蔵宮池

写真1-1-12 三蔵宮池

平成29年9月撮影