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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 商業とくらし

 (1) 商店街のにぎわい

ア 子どものころの思い出

 「私(三瀬芙美代さん)は城川町土居(どい)(現西予市)の出身で、中学校を卒業すると卯之町にあった母の実家に下宿して高校(愛媛県立宇和高等学校)に通学していました。昭和39年(1964年)に高校を卒業した後、昭和44年(1969年)くらいまで卯之町の銀行に勤めていました(図表1-1-3の㋐参照)。結婚後、夫の転勤で一時期宇和町外に住んでいましたが、平成元年(1989年)ころに卯之町へ戻ってきました。
 卯之町は母の故郷(ふるさと)なので、小学生くらいまでは学校が休みになるとよく遊びに来ていましたが、生まれた土居とは比べられないほどのお町でした。小学生のころ、母の実家の近所にあった王子神社の境内に紙芝居が来ていて、親から10円くらいのお金をもらって観(み)に行ったことを憶えています。紙芝居のおじさんが紙芝居の道具を自転車に積んでやって来て、合図の拍子木をカチカチと鳴らすと、近所の子どもたちがあちらこちらから集まって来ました。また、時期は正確には憶えていませんが、子どものころ、王子神社の境内にサーカスの一座が来たこともありました。」

イ 縁日と七夕

 「卯之町がまだ松葉町と呼ばれていたころ、卯之町界隈(かいわい)はしばしば火災に遭ったため火除(よ)け地蔵がお祀(まつ)りされています(写真1-1-1参照)。そのお地蔵さんの縁日が明石(あげいし)さん(四国霊場43番札所明石寺〔めいせきじ〕)の縁日と同日の8月9日の午前中にあり、お餅まきが行われて近所の大人も子どもも喜んで拾ったものでした。お地蔵さんの縁日のお世話役は近所の人たちがされていました。ちょうどその時期は月遅れの七夕祭りもあり、商店街では商工会主催の七夕飾りのコンクールが行われ、どのお店も競い合って店頭を飾り付けていました。聞くところによると、一年がかりで準備されていたようです。私(三瀬芙美代さん)の勤めていた銀行でも忙しい仕事の合間に一生懸命作ったことを思い出します。笹飾りといえば内子町のものが有名ですが、卯之町の方でも古くから行われていたように思います。
 明石さんの縁日は子どものころからの楽しみの一つで、家族や友人と、結婚してからは夫や子どもたちとお参りしました(図表1-1-2参照)。縁日の夜には参道の両脇に出店が並び、参道は参拝者で一杯になっていました。町外や浜の方からの泊まり掛けの参拝者も多かったと思います。汗をかいて参拝した後に食べたかき氷の味は今でもよく憶えています。」

ウ 商工会の運動会

 「私(三好教貴さん)が小学生のころ、宇和町中学校(現西予市立宇和中学校。当時の校地は現愛媛県立宇和特別支援学校の校地)の運動場で宇和町商工会主催の運動会が行われていました。父はにぎやかなことが好きだったので、のぼりを作っていました。グラウンドに建てられたテントの中にはうちのお店の関係者だけで30人から40人も入っていて、運動会では仮装行列も行われ、大変な盛り上がりをみせていたことを憶えています。」

エ さまざまなお店

 「私(三瀬芙美代さん)は高校時代、下校時は友人と商店街を通って帰っていました。高校の下の旭町(あさひまち)商店街から中心街(ちゅうしんがい)、銀座(ぎんざ)商店街、栄町(さかえまち)商店街、馬場(ばば)商店街にはあらゆるお店があり、とてもにぎわっていました(写真1-1-2、図表1-1-3参照)。当時、生徒たちがよく利用していた食堂のチャンポンやキャンディー店の太鼓まんの味は忘れることができません(図表1-1-3の㋑参照)。また、そのころ宇和島自動車の営業所は商店街にあり、明浜や東多田からバスで通学していた友人を送って行くこともしばしばで、バスが来るまでの間、いわきやさんに寄って話していました(図表1-1-3の㋒、㋓参照)。
 銀行に勤めるようになってからは、仕事が早く終わったときに同僚と洋品店を見て回ることが楽しみでした。当時は、『銀ブラ(ウィンドウショッピングのこと)』という言葉がはやっていて、私たちも、『今日は銀ブラでもしようや。』と言って商店街を歩いたものです。そのころは既製服があまりなく、布地を買ってそれを仕立て屋さんであつらえてもらうことがほとんどでした。
 商店街には大きな家具店もあり、たんすや鏡台などの嫁入り道具も調達することができました。このように、食料品、日用品から家具まで、買えないものはないくらい商店街で十分に買い揃(そろ)えることができていました。昭和39年(1964年)ころには大小のスーパーマーケットがあちこちにできました。商店街の人たちが出資して建設された大型の宇和ショッピングセンターには、1階にテナントのような形でお店が入っていて、2階には卓球場もありました(図表1-1-3の㋔参照)。」

オ 映画館の思い出

 『宇和町誌』及び『広報うわ 第228号』によると、栄座は、大正元年(1912年)に宇和町唯一の常設劇場として設立され、昭和32年(1957年)に映画館となり、東映映画館とともに地域の娯楽の殿堂として人々を楽しませてきたが、同42年(1967年)にはパチンコ店となり、同48年(1973年)には町営駐車場に姿を変えた。
 「テレビが普及するまでは、娯楽といえば映画でした。卯之町には2軒の映画館がありその一つは栄座と言いました(図表1-1-3の㋕、写真1-1-3参照)。元は芝居小屋でしたが、後に映画館になると升席は取り除かれ椅子席に替わっていました。栄座では主に洋画が上映されており、高校生のころには、いとこと『エデンの東』や『ベン・ハー』などの映画を観たことを憶えています。また、駅前には東映という映画館があり、そこでは東映や日活などの映画が上映されていました。当時はほかに娯楽があまりなかったので、映画館には多くのお客さんが入っていたと思います。昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころからテレビが普及していき、映画館が衰退していったと思います。」
 「私(三好教貴さん)は高校(愛媛県立宇和高等学校)卒業後に消防団に入りましたが、消防団員は栄座と東映の無料入場券をもらうことがよくあり、消防団の法被(はっぴ)を着たままで映画を観に行っていたことを憶えています。栄座は木造建築で、現在残っていないのが本当に残念です。」

 (2) 醤油店を営む

 卯之町で約70年の歴史をもつ醤油(しょうゆ)店を営まれている三好教貴さんから、仕事にまつわる思い出について話を聞いた。

ア 醤油・味噌作り職人となる

 「私のお店は昭和23年(1948年)の創業で、当初から醤油と味噌(みそ)の製造・販売をしていました。お店の醤油蔵は、元は明治時代の終わりころに清澤屋(末光家)の醸造蔵として建てられたもので、その後、6か町村(多田村、中川村、石城村、宇和町、下宇和村、田之筋村)の農協から成る宇和連合醤油醸造利用組合の所有となり、醤油等の醸造に造詣の深かった父が、組合から蔵を譲り受けてお店を始めました。私は昭和38年(1963年)に高校を卒業してから、お店で醤油・味噌作りの職人として働き始めました。当時、この辺りでは米と麦(裸麦)の二毛作をしている農家が多く、うちが原料となる麦を買い取る代わりに醤油を卸すという委託販売を行っていました。多いときには1,000俵(1俵が約65、66㎏)近くの麦が集まり、醤油・味噌の製造に使わなかった麦は俵詰めにした後に宇和町農協へ出荷していました。」

イ 配達の思い出
 
 「私の店では、醤油の注文を受けた家を一軒一軒訪ねて配達し、盆と節季に集金に行っていました。昔は醤油も味噌も量り売りで、個人のお宅に醤油の配達に行くときには三升樽(だる)(約5.4ℓ)や五升樽(約9ℓ)などで配達していましたが、私が高校を卒業したころから一升瓶(約1.8ℓ)で販売するようになり、今はペットボトルの容器に入れて販売しています(写真1-1-4参照)。当時は10人近く家族がいるお宅もあり、1か月に一升瓶で10本以上も使っていた家が何軒もありましたし、調味料は醤油と味噌くらいしかなかったので、醤油は作ればいくらでも売れていました。あるとき、集金に行ったお宅で、『お金の代わりに米を持って帰ってくれや。』と言われて、20俵以上の米を持って帰ったことを憶えています。
 かつて叔父が洋服関係の仕事で三崎(みさき)(現伊方〔いかた〕町)の方まで行っていたこともあり、昭和40年(1965年)ころから、叔父の知り合いのお宅から醤油の注文を受けて配達するようになり、今でもわずかではありますが、三崎のお宅から注文を受けて配達に行っています。当時の佐田岬(さだみさき)半島は道路事情が悪く、三崎までは舗装されていない曲がりくねった細い道が続き、車が離合するにも骨が折れました。今は国道197号が整備され、こちらから三崎まで1時間余りで行けるようになりましたが、当時は片道で3時間はかかったため、三崎へ配達に行ったときは1泊して翌日に戻っていました。また、惣川(そうがわ)(現西予市)のお宅から注文を受けて何年か配達に行っていたことがありましたが、そこまでの道も曲がりくねった悪路だったことを憶えています。」

ウ 醤油ができるまで

 「私がお店で働き始めたころ、醤油作りは全て手作業で、従業員は店の奥にある蔵で働く職人が6人くらい、店頭に女性が2人、外回りの人が3人くらいいました。私がお店に入ってからは新たに従業員を雇っておらず、以前から勤めていた人に長い間勤めてもらいました。昭和44、45年(1969、70年)ころから機械の導入を進めました。核家族化や調味料の多様化などもあって、うちでも醤油の販売量が最盛期の3分の1から4分の1に減り、作業も機械化されたために今は誰も雇わず私1人で醤油を製造しています。
 手作業で醤油を製造していたころは、まず、小麦を唐箕(とうみ)で選別し、炒(い)り釜で炒った後に挽(ひ)き臼で挽き割っていました。挽き割った小麦と蒸した大豆を筵(むしろ)の上に薄く広げて混ぜ、その上に種麹(こうじ)を加えて混ぜ合わせ、もろぶた(麹蓋〔こうじぶた〕)に盛り込んで室(むろ)(麹室)へ運びます。そして、室から出した麹を櫂(かい)で混ぜながら塩水を入れた仕込み桶(おけ)に少しずつ入れていく、仕込みという作業を行い、その後、櫂入れ、もろみの圧搾、火入れ、樽詰めといった作業をしていました。当時は『ため桶』と呼んでいる1斗(約18ℓ)くらいの片手桶で醤油を運んだり、桶から樽に醤油を入れ替えたりする作業がとてもしんどかったことを憶えています。
 今は、あらかじめ炒って挽いてある麹麦を使用しているので作業が随分楽になりましたし、大豆を蒸す作業も回転式の蒸煮(じょうしゃ)缶を使って高圧で蒸しているため、40分から50分で蒸し上がり、蒸す時間は昔の3分の1ほどに短縮されました(写真1-1-5参照)。これから新しい設備を導入しようとすると、一つの設備で1,000万円くらいはかかるので、うちでは今の設備を修理しながら大切に使っています。
 また、大手の醤油メーカーでは3か月くらいで醤油を製造できるそうですが、うちではもろみを作ってから製品になるまでに1年くらいかかります。私は今でも自分の感覚を頼りに手作業で仕込みを行っていますが、その感覚を習得するには経験が必要です。昔のように、年に麹を20室から30室も作って何回も仕込みをしていれば感覚を習得するのも早くなりますが、今は年に麹を4室くらいしか作らず、仕込みも年に1回なので、感覚を習得するまで何年かかるか分かりません。醤油製造は、『ちょっとやってみようか。』という軽い気持ちで始めるのは無理なのです。」


写真1-1-1 火除け地蔵

写真1-1-1 火除け地蔵

平成29年9月撮影

図表1-1-3 昭和40年ころの銀行付近の町並み

図表1-1-3 昭和40年ころの銀行付近の町並み

聞き取りにより作成(民家は表示していない)

写真1-1-4 醤油店で使用されていた桶と樽

写真1-1-4 醤油店で使用されていた桶と樽

宇和民具館にて平成29年8月に撮影。左から四石桶、四斗樽、二斗樽、一斗樽、五升樽、三升樽

写真1-1-5 回転式の蒸煮缶

写真1-1-5 回転式の蒸煮缶

平成29年8月撮影