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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 宇和町のくらし

 旧宇和町は愛媛県の南西部に位置し、北は大洲市、八幡浜市(いずれも旧市域)、南は旧三間(みま)町、旧吉田(よしだ)町(いずれも現宇和島市)、旧明浜町(現西予市)、東は旧野村町(現西予市)、西は旧三瓶町(現西予市)と接する。肱(ひじ)川の支流宇和川が北から南に貫流し、周囲を500~700m級の山々に囲まれた海抜200m前後の盆地の町である。
 明治22年(1889年)の町村制の施行により、多田(ただ)村、中川(なかがわ)村、笠置(かさぎ)村、山田(やまだ)村、上宇和(かみうわ)村、宇和町、下宇和(しもうわ)村、田之筋(たのすじ)村が生まれた。大正11年(1922年)に上宇和村が宇和町に編入され、昭和29年(1954年)、多田村、中川村、石城(いわき)村(昭和4年〔1929年〕笠置村と山田村が合併して成立)、宇和町、下宇和村、田之筋村が合併して宇和町となり、昭和33年(1958年)に大洲市の鳥坂(とさか)・正信(まさのぶ)を編入した後は、平成16年の合併で西予市となるまで行政区画の変更はない。
 宇和町の中心地である卯之町(うのまち)は、南予地方の戦国大名西園寺氏の小城下町松葉(まつば)町に起源を発する。江戸時代初期に町の中心は山の手を行く旧街道沿いの中町(なかのちょう)に移動し、以来、卯之町は中町を中心に宇和島藩の在郷町・宿場町として発展した。卯之町の市街地は3本の道路沿いに形成されているが、近世の古い街並みが残る中町通りとその周辺は昭和48年(1973年)に県から「宇和文化の里」の選定を受け、平成21年(2009年)には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 明治33年(1900年)に中町通りの西側に県道が開通し、昭和36年(1961年)にはさらにその西側に国道56号が開通すると、商店街や官公庁が西方へ移動し、それに伴って市街地も西方へ拡大した。また、周辺の大洲市、八幡浜市、宇和島市などに魅力的な商業集積地が生まれると、これら都市部への購買力流出が多く見られるようになり、さらに国道沿いに駐車場を完備した郊外型店舗などの出店が増加すると、地元商店街離れが顕著になった。こうした状況に危機感を抱いた商店街では、昭和50年代に街路灯の設置やカラー舗装の実施などにより商業の活性化に努めてきた。
 農村部に目を転じると、宇和盆地の大部分の地区では、明治後期から大正年間にかけて耕地整理が実施され、乾田化が図られた。第二次大戦後、宇和町における耕地の基盤整備は農業構造改善事業の一環として実施された。昭和36年に始まる第一次農業構造改善事業では、伊賀上(いがじょう)地区が同38年(1963年)に事業指定を受け、工事は翌39年(1964年)から42年(1967年)にかけて実施され、50.1haの圃場(ほじょう)が整備された。続いて同46年(1971年)に始まる第二次農業構造改善事業では、上宇和地区(小野田(おのだ)、久枝(ひさえだ)〔久枝2区〕地区)と竜王(りゅうおう)地区(野田(のだ)、別所(べっしょ)〔久枝3区〕、神領(じんりょう)地区)の併せて93.5haの圃場が整備され、さらに続いて同53年(1978年)に始まる新農業構造改善事業では、伊野窪(いのくぼ)地区(旧田之筋村)の27.1haの圃場が整備された。宇和町は3回の構造改善事業後も圃場整備を進め、県下でも圃場整備が進んだ地域といえる。
 本節では、昭和20年代から40年代ころまでの中心商店街を中心とする地域でのくらしについて、Aさん(昭和19年生まれ)、Bさん(昭和20年生まれ)から、戦時中から昭和40年代ころまでの農業を中心としたくらしについて、Cさん(大正15年生まれ)、Dさん(昭和11年生まれ)からそれぞれ話を聞いた。