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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 国鉄北伊予駅の記憶

 (1) 北伊予駅の様子

ア 蒸気機関車

 「昭和20年代には蒸気機関車が最盛期で、私(西村広武さん)が子どものころの列車といえば、蒸気機関車の印象が強く残っています。昭和30年(1955年)ころは、ほとんどの列車が北伊予駅に停車していました(図表3-2-3参照)。後に、松山駅を出ると、北伊予駅を通過して伊予市駅に停車する準急という列車が走るようになったと思います。昭和40年代の中ごろまで蒸気機関車が運行されていて、大勢の通勤や通学客が利用していたことを憶えています。
 蒸気機関車では、色々なタイプの機関車を見ましたが、C58形が強く印象に残っています(写真3-2-7参照)。C58形は、石炭車がある蒸気機関車で、子どものころには、『大きいなあ』と思って見ていました。動輪一つとっても、子どもだから大きく見えていたのかもしれませんが、大きな動輪が取り付けられていて、『すごいな』と感心していました。機関車の前方にはC58というプレートが付けられていて、とても格好良かったことを憶えています。後にディーゼルカーに置き換わっていきますが、新しく導入されたディーゼルカーを見たときには、蒸気機関車の大きさや力強いイメージと比べてしまい、『こんな機関車で動くのか』と思ったほどでした。
 蒸気機関車の運転席には機関士と助手が乗務していて、戦闘帽のようなつばの短い帽子を被(かぶ)り、あご紐(ひも)を掛けていました。機関士さんは運転台に座って、運転席の窓から片肘を出すような格好で前方を確認しながら機関車を動かしていたことを憶えています。北伊予駅を蒸気機関車が出発する前には、運転台にある汽笛のレバーを引き、『ポーッ。』と大きな音の汽笛を鳴らしてから出発していました。私は駅の近所でくらしていたので、当時は頻繁に鳴る汽笛の音が少しうるさくも感じていました。
 また、蒸気機関車を走らせるには水が必要ですが、駅の西側にある新泉(しんいずみ)の水が使われていたことがありました。恐らく昭和40年代の、蒸気機関車が姿を消してしまう間際のことではなかったかと思います。ポンプを使って新泉から水を蒸気機関車のタンクに補給している様子を実際に見て、『ここの水入れよるが』と思ったことを憶えています。
 列車には、前後に蒸気機関車を連結して運行しているものもありました。伊予市三秋(みあき)の峠の所の勾配がきつく、長い編成の列車で乗客が多くいると、その重さで蒸気機関車1両ではけん引して登ることができなかったのでしょう。確かに、三秋の峠の所では、蒸気機関車1両でけん引していた列車が前を向いて坂を登ることができず、乗客が、『三秋の所をよう越さなんだ。』と話していたのを聞いたことがあります。勾配が急で動輪が空回りして前に進むことができないときには、線路に砂を撒(ま)いて、動輪が滑るのを防いでいたようです。」

イ 大勢の乗客

 「蒸気機関車は客車を3両ほど連結して運行していました。昔の客車は、現在、普通列車として用いられている一般的なディーゼルカーよりも長く、より大勢のお客さんを乗せることができていました(写真3-2-8参照)。しかし、それでも朝のラッシュの時間帯には、松山方面行きの列車が入って来るプラットホームには人が溢れていて、短い列車の編成では乗客の数には対応しきれていないような状態だったことを憶えています。
 北伊予駅には、上野(うえの)、宮下(みやした)、八倉(やくら)の地域に住んでいる方も駅まで来て、列車で松山方面へ行く方が多かったので、朝は通学生を中心に乗客が多くいましたが、当時は乗客の安全についてそれほど厳しくなかったのか、客車のデッキに通学生がしがみついて乗っているというようなこともありました。デッキにしがみついて乗車するのが日常茶飯事で、乗客にしても当たり前であったために、北伊予駅から松山駅との間の路線では、デッキにぶら下がっていた乗客が落下したという痛ましい事故もありました。また、長い編成の列車にも対応できるように、当時のプラットホームは、駅舎から見て線路の向こう側にあるプラットホームが現在のプラットホームよりも南側に長くなっていました。それでも長い編成の列車が北伊予駅に停車すると、後方の客車はプラットホームからはみ出してしまっていました。客車の出入り口がプラットホームからはみ出している場合、下車するお客さんは線路上へと飛び降りていて、それを見ていた私や友だちは、『あれ、飛び降りよるが。』と言っていたことを憶えています。
 朝のラッシュを過ぎて、日中になると北伊予駅での乗降客の数は減り、デッキにしがみついて乗車する、というような光景は見られませんでした。冬場には客車の室内にはスチーム暖房がありましたが、デッキや連結部に乗っていると、外気に直接当たることになるので、それは寒かったと思います。さらに、北伊予から松山までの短い距離でも客車に乗っている乗客は蒸気機関車から出る煤(すす)で顔が真っ黒になってしまうので、特に女子学生は身だしなみを整えるのに大変だったと思います。」

ウ 駅で働く人々

 (ア) 駅員さん

 「北伊予駅には駅員さんが数名常駐していて、改札口では改札鋏(ばさみ)を持った駅員さんが、お客さん一人ずつの切符を確認しながら鋏を入れたり、定期券を確認したりしていました。当時の切符は厚紙で作られた硬券で、立派な切符だったと思います。また、当時は隣のプラットホームへとつながる陸橋が設置されておらず、隣のプラットホームへ渡るには、改札から駅に入って真っ直(す)ぐに進み、プラットホームに設置されていた階段を下りて線路上を歩き、停車している列車の先頭車両のすぐ前を横切って渡っていました。プラットホームに設置されていた階段は、跳ね上げ式の鉄板の蓋があり、列車がホームに入って来るときにはその蓋は閉められていて、階段を使用することができないようになっていました。列車が停止して安全が確認されると、駅員さんが蓋を持ち上げて開けるのですが、そのときには、『バターン。』と大きな音が出ていたことを憶えています(図表3-2-4参照)。
 また、駅構内の、単線から複線になる部分には分岐器(ポイント)があり、駅の南側にある分岐器の所に切り替えのレバーが設置されていました(図表3-2-4丸印〔点線〕部分)。列車が到着する時間に合わせて駅員さんがレバーの所へ歩いて行き、『ガチャン。』と大きな音を立てて、手動で切り替えを行っていました。このレバーには、定期的に油を差す必要があったようで、油が入った缶を手に提げて歩いて行き、レバーの可動部に油を塗る作業をしていました。
 北伊予の駅舎は現在も昔と変わっていません。現在は、窓が擦りガラスのサッシになっていますが、駅舎の東側には木の枠にガラスがはめられた窓があり、中で駅員さんが仕事をしている様子を見ることができていました。子どものころには、駅の事務所に友だちと入れてもらって、遊ばせてもらったことがありました。何をして遊んでいたのかは記憶が定かではありませんが、地元の子どもにはとても寛容な駅員さんだったという印象が強く残っています。
 また、夏には友だちと近くの泉で泳いで遊んでいましたが、泉の水はとても冷たかったので、身体が冷えてくると線路を横切って駅のプラットホームまで行き、日差しで温まったコンクリートのプラットホームに横になって身体を温めていました。何時ごろにどちらから列車が来て、どのホームに入るということは、この辺りに住む子どもたちは分かっていたので、線路を横切ることができていたのです。駅員さんに横切っているところを見られたことがありましたが、当時は特に注意を受けるというようなことはありませんでした。冬になると、事務所の中にダルマストーブという石炭を燃料とするストーブが置かれていたので、温まりに行くこともあり、ストーブの熱で事務所の中がとても暖かかったことを憶えています(写真3-2-9参照)。」

 (イ) 線路工夫さん

 「北伊予駅には松山保線区の北伊予線路班があり、線路を補修する線路工夫(職名は線路工手)さんが詰所に6名ほど常駐していました。駅員さんは、松山などから通って来ていた人が多かったと思いますが、線路工夫さんは地元の方が多かったことを憶えています。
 工夫さんは、北伊予駅付近の線路の維持について、一人が約1kmの範囲に渡って担当し、ほぼ毎日作業を行っていたことを憶えています(写真3-2-10参照)。線路上で作業を行うときには、列車が通らない時間帯に足踏みで進むトロッコを線路に乗せて動かして、作業用の資材とともに移動し、作業箇所まで行くとそのトロッコを線路から外して作業を行っていました。
 保線区の北伊予線路班は、昭和40年(1965年)くらいまではあったと思います。駅の南側には線路班の事務所として使われていた建物がありました(図表3-2-4参照)。」

エ 閉塞器

 「列車が駅に到着したときや、後に準急ができて駅を通過するときには、駅員と列車の乗務員が輪の形をした閉塞器(通票、タブレット)のやり取りをしていました。特に準急が運行され始めたときには、列車の乗務員が乗務員室の窓から閉塞器を差し出し、駅員さんが閉塞器の輪の部分を腕で引っ掛けるようにして受け取っていました。しかし、駅員さんと乗務員さんが直接閉塞器をやり取りすることは危険が伴っていたので、後にプラットホームには螺旋(らせん)状の形をした、通票受器が設置され、通過する列車の乗務員さんは、そこへ閉塞器の輪の部分を引っ掛けて駅に置いていくという方式に改められたようです(図表3-2-4、ホーム上の●部分)。
 列車が通過した後には、閉塞器が螺旋に沿って勢いよくプラットホームに落ち、それを駅員さんが拾い上げて、次にその区間へと入っていく列車の乗務員さんに渡していました。また、駅を通過する列車が受け取る閉塞器は、乗務員さんの受け取りやすい高さに設置されていたので、通過する際には、『ガチャン。』と大きな音を立てながら受け取っていたことをよく憶えています。
 蒸気機関車に代わってディーゼルカーが運行され始めると、車両の外側にはこの閉塞器を受け取るためのアーム状の機器が取り付けられていたようです。やはり、列車の高速化が進み、駅を通過する列車のスピードが上がったことが影響しているのではないかと思います。」

 (2) 貨物の取扱い

ア 引込線へ入る貨車

 「当時の北伊予駅では貨物が取り扱われており、貨物用引込線の終点部分の傍には、貨物列車で運ぶ荷物を保管するための倉庫が建てられていました(図表3-2-4、3-2-5参照)。倉庫は上屋の高い建物で、この倉庫へ農産物などが集荷されていました。
 荷物を積み込むための貨車は、蒸気機関車に押されて引込線へ入ります。そのとき、貨物列車の先頭には、緑色の旗を持った職員さんが乗っていて、旗を振って機関士に前方の安全を知らせ、前進を指示していました。私は旗を振る職員さんが、引込線への入線が完了する間際に、貨車から線路へ飛び降りているところを見て、『危ないなあ』と思ったことがありますが、当時としてはこれが当たり前のことだったのかもしれません。
 引込線に入れられた貨車の停車位置を微調整するには、テコの原理が用いられていて、駅の職員さんが長い棒で車輪を、『カチャン、カチャン』と押してやることで、少しずつ動かすことができていました。私は子どものころ、その道具を持ってみたことがありましたが、鉄製の道具でとても重たかったことを憶えています。また、貨車には手動で操作するブレーキが付いています。重量がある貨車を止めるためのブレーキだけあって、鉄製のしっかりとした器具でした。スピードが緩くなったときに、レバーを『ガチャン。』と音を立てて下ろすと、車輪にブレーキがかかり、停止させることができていました。
 引込線に貨車が入ると、蒸気機関車はそこで切り離されて引込線から出ていたので、引込線には貨車だけが残っていました。貨車が引込線に入線すると、当時は担当の職員さんが一つ一つの荷物を貨車に積み込んでいたので、とても時間が掛かっていたようです。引込線へ入っている貨車に荷物を積み終えるころには、もう一つの引込線へ貨車が入ってくるので、次はその貨車に荷物を積み込むというようになっていたのではないかと思います。
 貨車への荷物の積載作業が終わると、貨車は再び蒸気機関車と連結されて引込線から本線へと出されていました(写真3-2-11参照)。」

イ 荷物

 (ア) 太いキュウリ

 「私は、『戦後すぐのころには、キュウリを炭俵に詰め、貨車に積んでどんどん送り出していた。』ということを、父から聞かされていました。キュウリは畑で放ったままにしておくと、かなり大きく成長します。大きいものになると40cmを超えるものもあり、緑色ではなく、黄色や赤茶けたような色になってしまいます。通常では、商品になったり、食べたりするようなものではありませんでしたが、戦後の食糧難の時代でもあったので、『キュウリは太ければ太いほど消費者が喜ぶ。』と言われていて、北伊予駅から大量に貨車に積み込んで出荷していたそうです。」

 (イ) 大きなスイカ

 「私が小学校2年生のころには、この辺りで収穫されたスイカがこの倉庫へ集荷され、貨車に載せられて出荷されていたことを憶えています。
 スイカを積み込んで運ぶ車両には有蓋車が用いられていて、スイカを積み込む際には、コンベアなどの機械がない時代だったので、倉庫から貨車までの間に6名ほどがほぼ等間隔に立ち、スイカの一つ一つを手送りで投げ渡す、リレー方式で運搬されていました。私は、投げ渡されるスイカの大きさを見て、『大きなスイカだなあ』と感心していました。特に大きなスイカは、倉庫の中にある事務机の上に、飾りのように大事そうに置かれていて、そのスイカを見た私は、『おお、太いのう。』と、友だちと話したことを憶えているほどで、職員さんにとっても珍しい大きさのスイカだったのではないかと思います。
 大きなスイカが貨車に積み込まれるときには、時々、手が滑ってスイカを落としてしまうこともあったようですが、小学生だった私には、それがとてもおもしろく感じられていました。当時、スイカは貴重で高価な食べものだったので、職員さんが落として割れてしまったときには、友だち同士で、『あれ、食わせてくれんかのう。』と、話をしていたことが思い出されます。
 倉庫に山のように積まれているスイカは、一つ一つ丁寧に品質の検査を受け、基準に達しているスイカには、合格の判が押されていました。合格の判が押されたスイカは、化粧箱に入れられることもなく、そのままの状態で積まれますが、積み込む人の経験なのでしょう、貨車一杯に整然ときれいに並べられて積まれていたので、私は子どもながら、その仕事ぶりにとても感心していたことをよく憶えています。」

 (ウ) 満穂鉱山(旧広田村)の黄銅鉱

 「昭和30年代に入ると、貨物の引込線の傍には砥部(とべ)の方(旧広田〔ひろた〕村、満穂鉱山)から運ばれて来た鉱石(黄銅鉱)が置かれていたことも憶えています。北伊予駅に運ばれてきた鉱石は無蓋(むがい)車(屋根なしの貨車)に積まれて運ばれていました。鉱石は少し青みがかり、金粉を吹いているように見え、きらきらと光ってきれいなものでした。とてもきれいな鉱石だったので、それを見た子ども同士で、『これ、金(きん)じゃ、金じゃ。持って帰るか。』と、言っていたことをよく憶えています。」

 (エ) 駅前のマルツウ

 「駅前の広場には今よりも広いスペースがあり、広場の横には日通の営業所があったことを憶えています。日通の営業所ができる前には馬屋があり、馬車引きさんがいたという話を聞いたことがあります。私たち子どもは駅前にあった日本通運を、『マルツウ』と呼んでいました。会社のマークが、『丸の中に通の字』だったので、そう呼んでいたのだと思います。
 日通の営業所があったころには、まだ木炭車が使われていました。営業所の方が木炭車を動かすときには、朝早くから木炭車に取り付けられていたガス発生装置に堅炭を『ガラガラ。』と入れて、エンジンをかけるために木炭に火を起こし、火力が強くなると、スターチンというエンジンを回す道具を用いてエンジンを始動させ、『ガララン、ガララン、ガラガラガラ。』とエンジンが大きな音を立てていたので、その音を聞くと、『おっ、マルツウの車が出だしたぞ。』と思っていたことを憶えています。
 いつごろのことかは記憶が定かではありませんが、コウゾやミツマタが日通のトラックで北伊予駅に運ばれて来ていたことを憶えています。どこから運ばれていたのか分かりませんが、恐らく砥部や広田、久万(くま)の辺りから運ばれていたのではないかと思っています。そのころには日通のトラックも木炭車ではなく、ディーゼルエンジンを搭載したトラックが使われていたと思います。
 駅の貨物置き場には、お茶碗(わん)や湯飲みなどが藁で筒状に包まれて置かれていました。磁器であったことは間違いないと思うので、それが砥部焼だったのかもしれません。また、磁器の碍子(がいし)も置かれていたと思います。碍子も藁で梱(こん)包されていたのかもしれません。」

 (3) 駅周辺の記憶

ア 駅前の広場

 「北伊予駅が開設されるときには、この辺り一帯には盛り土がされたそうです。昭和初期の話になりますが、『馬車で土を運んでいた』ということを私の父から聞いたことがあります。この辺りは、『山王原』と呼ばれている所で、駅ができる以前は、昼間でも薄暗いような、木が生い茂っていた場所だったそうです。
 駅前の広場からは、延長が70mほどの短い道路が県道として整備されています。この県道は、当時の周辺の道路と比べても、明らかに道幅を広く取って整備されていることが分かります。また、駅と周辺の住宅地との土地の高さを比べると、2mくらいは駅の方が高くなっています。それだけ盛り土がなされている大工事だったと思われるので、北伊予駅が開設されるときには、駅を中心とした、将来のこの地域の発展というものが予測されていたのではないかとも考えられます。私が子どものころには、駅前広場の面積も、現在と比べると広かったと記憶しているので、駅前広場とそれに続く県道を一体とした北伊予駅の整備だったのでしょう。
 北伊予駅は、戦時中にはアメリカ軍の戦闘機から攻撃を受けたこともあったようです。特に列車が駅に停まっているところを狙われていたようで、私の父も含めて、駅前の広場付近に住んでいる人たちは、『早よ列車が駅から出りゃええのに』と、思っていたこともあったようです。また、私の家は茅葺(かやぶ)きの屋根であったので、父は、『焼夷(しょうい)弾が屋根の上に落ちたら、早くつまみ落とさないかん。』と言っていたそうです。
 昭和30年(1955年)ころ駅前の広場では、お盆の時期になると櫓(やぐら)が組まれて盆踊り大会が開かれていました。櫓では音頭に合わせて太鼓が叩(たた)かれ、地域の人々が櫓を中心に輪になって踊っていたことが思い出されます。広場には子どもの私が見て、『大きいなあ』と思えるようなサクラの木が3本あって、春にはお花見も盛んに行われていたことを憶えています。」

イ 引込線付近

 「現在、駅の駐輪場になっている場所にも倉庫がありました。当時、この辺りの土地は盛り土の影響もあって、周辺よりも1.8mほど低くなっていたので、高床式で建てられていました。この倉庫の中には入ることができず、入って遊ぼうとすると駅の職員さんに注意をされていたので、高さが1.5mほどあった床下に入り込んで遊んでいました。小学生のころだったので、腰を曲げて入る必要がなく、床下を走り回っていたことを憶えています。
 当時は、泥棒ごっこという遊びが流行(はや)っていました。これは、泥棒役と警察官役に分かれて、警察官役が隠れている泥棒役を捕まえる遊びでした。警察官役が泥棒役を捕まえると、藁縄で床下の柱に縛り付けていました。ただ、床下で見通しが何とか効くくらいの明るさの中での遊びだったので、捕まえた側の警察官役が、縛り付けた泥棒役のことを忘れてしまい、そのままにして帰ってしまうこともありました。少し時間が経ってから、『あっ、忘れとった。』と言って、みんなで再び床下へ入り、縄を解いて謝っていたことを憶えています。
 また、引込線の東側には私の家が所有していたミカン畑がありましたが、後に農協へその土地を売却し、そこには倉庫や小さな事務所が建てられたと思います。事務所には農協の利用部が入っていて、私たちは、それを『リョウブ。』と呼んでいました。ここでは醤(しょう)油が醸造されていて、中川原(なかがわら)に住んでいた職人さんが仕事に来ていたと思います。農協は北伊予小学校の前にもありましたが、そこは信用部で、事務所も立派だったので、本部の機能を兼ね備えていたのではないかと思います。」

ウ 南北の踏切

 「駅舎から駅の南側の踏切へと続く道には、店が立ち並んでいて賑わいがありました。ただ、駅の乗降客が利用するというよりは、地域の方の生活を支えるための店であったという側面の方が強く、通勤や通学のために、他の地域から駅に来ていた人たちが利用するというようなことはあまりなかったのではないかと思います。
 駅の南側の踏切には警報機はありませんでした。警報機が付くまでは、踏切番の方がいて、踏切の傍にあった家に家族で住まわれていました。踏切番の方は、列車が近づくと手動で遮断機を下ろし、手に持った白っぽい色の旗を振ります。この旗を振るのは、通行人に対して列車が近づく危険を知らせるのではなく、踏切に進入しようとしている列車の運転士に対して、踏切の安全が確保されているということを知らせるためだったようです。今でも保線作業をしている方が列車に対して通行可であることを示すために白い旗を振っているところを見ることがあるので、それと同じことだったのではないかと思います(写真3-2-12参照)。 
 また、駅のすぐ北側には警報機も遮断機もない簡易踏切がありました。この踏切に続く道は、幅が2.5mほどで私たち地域の住民はよく利用していました。現在、道路は残っていますが、簡易踏切は廃止され、線路を渡ることができないように閉鎖されてしまっているので、駅の向こう側へ行くときには少し不便になっています。土の道路ではありましたが、当時は駅の東西を結ぶ幹線であったと言ってもよいくらいです。」

参考文献
・ 日本交通公社『時刻表 通巻370号』1956
・ 伊予鉄道株式会社『伊予鉄道七十年の歩み』1957
・ 日本国有鉄道四国支社『四国鉄道七十五年史』1965
・ 伊予鉄道株式会社『坊っちゃん列車と伊予鉄道の歩み』1977
・ 松前町『松前町誌』1979
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』1986
・ 伊予鉄道株式会社『伊予鉄道百年史』1987
・ 松前町東公民館『北伊予の伝承Ⅲ』1996


図表3-2-3 北伊予駅時刻表(昭和31年)

図表3-2-3 北伊予駅時刻表(昭和31年)

『時刻表 通巻370号』により作成

図表3-2-4 北伊予駅(S30ころ)

図表3-2-4 北伊予駅(S30ころ)

聞き取りにより作成

図表3-2-5 予讃本線の輸送量の推移

図表3-2-5 予讃本線の輸送量の推移

昭和33年の数値を100として表示。『四国鉄道七十五年史』により作成

写真3-2-11 貨物引込線の現況

写真3-2-11 貨物引込線の現況

平成29年11月撮影