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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 伊予鉄道の記憶

(1)伊予鉄道で働く

 ア 伊予鉄道への入社

 「私(Aさん)は市内電車の車掌として、昭和27年(1952年)に伊予鉄道に入社しました。3月に講習を受けて4月から現場で仕事をしたのですが、4月に入ってからの最初の仕事は、病院前駅(赤十字病院前駅)や道後駅(昭和36年〔1961年〕道後温泉前駅と改称)での切符の販売業務でした。駅に立って、束になっている切符を大勢いる乗客に1枚ずつ手渡しで販売したことを憶えています。
 市内電車は今と同じように料金が一律で、当時は大人が8円で子どもが4円でした(図表3-2-2参照)。料金が8円だったので、乗客の方は切符を購入するときに拾(10)円札を出してくる場合が多く、少しでも効率よく販売をするために、お釣りとなる新札の1円札を2枚のセットにしたものを事前にいくつも作って現金を入れる肩掛けカバンの中に入れておき、すぐに切符とお釣りを渡すことができるように工夫をしていました。
 また、松山市駅から森松駅を結ぶ森松線が運行されていた当時は、日中は1時間に1本の割合で列車が走っていました。私は入社して間もないころ、車掌として乗務したことがありました。
 椿さんが開催されるときには、予備勤務で応援にも行きました。このときには、列車には貨車が繋(つな)がれ、有蓋(ゆうがい)車(屋根付きの貨車)にはお客さんを乗せていて、客車も貨車もお客さんがすし詰め状態で乗っていたことを憶えています。郡中線でも電化される前には長い編成の列車が走っていましたが、森松線でも椿さんのときには同じくらいの長さの列車が運行されていて、立花駅や石井駅、森松駅では、ホームが椿さんへ行き来するお客さんで溢(あふ)れて大変だったことを憶えています。また、予備勤務では、森松線の各駅でお客さんと関わる業務とともに、列車の運行管理も行っていました。伊予鉄道では、閉塞といって、一区間に一編成の列車しか入れてはいけないという厳しい規則があったので、石井駅から立花駅や森松駅に閉塞電話で『これから列車を入れるぞ。』と連絡をしていました。
 森松線は汽車が運行されていて、先頭で客車や貨車をけん引していた機関車は、森松駅に到着すると切り離され、前進した後に後退して隣の線路へと入り、さらに後退してけん引してきた客車や貨車の最後尾を過ぎた所で前進して元の線路へ入って再び連結されていたので、松山市駅へ向かう機関車は、後ろ向きで走っていました。森松駅には駅長と、予備勤務で入った私しかいなかったので、機関車の入れ替え業務も行っていたことを憶えています。」

 イ 駅での仕事

 「私(Aさん)は松前駅で1年間勤務しましたが、勤務したのは1週間のうちで日勤の2日間だけで、あとは土居田駅で2日、新川駅で2日の勤務で、朝7時ころにそれぞれの職場へ出勤していました。私が土居田駅で勤務している当時は、ホームが土でできていました。ホームには、信号士が1人で入る『ゲレット』と呼ばれていた建物程度の大きさしかない、小さな駅舎だけがありました。横河原線の見奈良駅や梅本駅も土居田駅と同じような構造をしていたと思います。私が勤め始めたころには、横河原線の石手川公園駅や福音寺駅、北久米駅、鷹ノ子駅はなく、松山市駅を出ると、立花、久米、平井、田窪、見奈良、横河原の6駅でした。見奈良には駅員がいなかったので、立ち番で切符を売りに行き、お客さんがいないときには、ゲレットで休憩を取っていたことを憶えています。
 昭和31年(1956年)当時、松前駅には駅長、出札担当、貨物担当、私の4人の駅員がおり、私の仕事は改札業務が中心でした。当時、改札口には扉があり、電車が到着すると改札に立って扉を開け、『松山市駅行きです。』とか、『郡中港行きです。』と、待合で電車を待つお客さんに案内をし、ホームへと入ってくるお客さんの切符を1枚ずつ切っていました。
 松前駅には、この駅で折り返す臨時便が入ります。今はホームへと電車が入って来ますが、当時は駅にこの電車が近づくと、係員が青色の旗(実際は緑色)と赤色の旗を持って駅手前の信号の所まで走って行って、入線させるために線路のポイント切り替えを手動で行い、切り替えの完了を確認してから、『オーライ。』と旗を振りながら声を出し、電車を入線させていました。松前駅で折り返す臨時便は朝のラッシュ時間帯の運行だったので、この電車の入線に対応するために、朝早く出勤しておく必要がありました。
 また、松前駅では東洋レーヨンに勤務する職員が使用する定期券の発行業務を手伝っていました。200人から250人分の定期券の申込書を東レの女性職員が窓口まで持って来ていたことを憶えています。当時、私は松前駅に勤務する職員の中で一番若かったので、定期券の発券業務を任せてもらうことができず、先輩の駅員が一生懸命に定期券を発券している様子をただ後ろから見ていることが多かったことを憶えています。
 当時の定期券は、電車とバスの共通定期券でした。東洋レーヨンは三交替での勤務形態だったので、電車が運行されていない時間帯に出勤や退勤になる場合があり、職員さんは勤務形態に合わせて出勤や退勤にちょうど良い時間の電車かバスに乗る必要があったので、どちらにでも乗ることができる定期券が発行されていたのです。その定期券には、『共通』という文字が書かれていました。また、定期券は一目で有効期間が分かるようになっていて、伊予鉄道の定期券は、券面に3本線が入っているものが1か月、2本線が3か月、1本線が6か月定期を示していました。」

 ウ 鉄道に携わる人々

 (ア)女性職員

 「昭和30年(1955年)ころ、伊予鉄道で踏切番(踏切手)がいたのは、横河原線の立花駅と高浜線の大手町駅、郡中線では郡中駅で、主に女性の方がこの仕事を担当していて、男性では大手町駅に1人いたと思います。古町駅を高浜方面に出てすぐの所にある、六軒家踏切にも女性の踏切番がいました。
 昭和30年ころには、伊予鉄道にも女性の職員が多かったのですが、これは戦時中に男性の働き手が不足したことによります。戦時中から伊予鉄道で仕事をしていた女性は、戦後になって男性の職員が増えてくると、乗務課の職員のための風呂焚(た)きの仕事をしたり、仮眠室の布団を直す仕事をしたりしていて、各課に配属されていた女性でも、お茶汲(く)みなどの仕事をしていました。
 また、当時は駅員には宿直があり、仮眠を取るための布団が必要だったので、厚生課という部署が各駅に布団を送っていました。布団を送るためには、解(ほつ)れた部分を縫ったり、洗ったりしなければならないので、本社に女性がたくさんいて、『今日はどこどこの駅へ行って布団直し。』というように割り当てられて仕事に来ていたことを私(Aさん)は憶えています。」

 (イ)仲士さん

 「松前駅と郡中駅には駅で荷物を取り扱う仕事を担当する仲士(なかし)さんがいました。戦後から昭和30年(1955年)ころにかけても、まだ荷物運搬用のトラックは少なく、郡中線では電化前には汽車が、電化後には電車が松山市駅からの荷物を運んで来ていました。当時、松山市駅には貨物用の引き込み線があり、現在の伊予鉄道本社ビルの辺りに荷物の受付所がありました。
 仲士さんは、地元の方が務めていたので、松前駅に荷物が届くと、配送先へ持って行ったり、荷物の運搬を頼まれると受け取りに行ったりしていました。昭和31年(1956年)当時は、大きな荷物であろうが小さな荷物であろうが、10kg以内の重量であれば、配送料は一つ当たり40円だったことを私(Aさん)は憶えています。」

 エ 今、思うこと

 「昭和30年ころは、お客さんが多くて大変でしたが、世の中がおもしろいと感じていました。仕事にやりがいを感じていたことで、世の中がおもしろいと思えたのだと思います。松前駅だけでなく、どこの駅で仕事をしても、同じようにやりがいを感じることができていました。仕事は大変でしたが、日々の生活が充実をしていました。私(Aさん)は、伊予鉄道での仕事には、やりがいがあったという思いは今も強く持っています。」

(2)郡中線の記憶

 ア 電化前

 「私(Aさん)が入社したときには、郡中線はすでに電化されていました(昭和25年〔1950年〕営業運転開始)。電化される前は他の路線と同様に、郡中線にも蒸気機関車が走っていて、その当時は17、18両で列車が編成されていたので、私は、『長いなあ』と思ったことがあったくらいです。この列車には貨車と客車が連結されていて、客車とはいえ車内に椅子が設置されておらず、乗客は立ったままで乗車しなければならないような車両だったことを憶えています。それだけ長い列車で、乗客や荷物を多く積んで運行していたので、1両の機関車ではけん引することができないため、先頭と真ん中、そして最後尾と3両の機関車が連結されていたと思います。機関車1両で運行すると、出合の堤防へと差しかかる坂道を登ることができず、登っている途中に後ろへ向いて下がってしまうことがありました。横河原線でも同様のことがあって、石手川の土手に向かう坂道を登り切ることができず、坂を下りてしまうので、そのような場合にはさらに後退して坂との距離を取り、列車をスピードに乗せ、その勢いで坂を登らなければなりませんでした。
 郡中線では、朝のラッシュ時の運転間隔が、電化前は45分に1本、電化後は30分に1本となり、それが20分、15分と、どんどんと縮小されていきました。私が入社したころは、たしか横河原線も1時間に1本程度の運行で、平井駅で行き違いをしていたので、横河原線を走る列車が上下線とも平井駅にいるころに、森松線の列車が立花から松山市駅間の横河原線の線路を走るというように、うまくダイヤが組まれていたことを憶えています。
 また、私の家の最寄り駅である地蔵町駅は、電化されるまではホームの高さが現在よりも低く、現在、駅舎が建っている高さと同じだったと思います。駅前にはマツの木があって、そこに駅を利用する人たちが自転車を置いていました。」

 イ 電化後

 「電化された当時の電車の色は、濃い茶色だったと思います。この電車は早くから電化されていた高浜線を走らせるために伊予鉄道が購入していた電車で、郡中線が電化されたことで、郡中線でも走るようになったのです。昭和30年(1955年)ころ、郡中線を走る電車は3両編成でした。電化されていた高浜線や郡中線を走る当時の電車は戦前に造られた車両で質が良く、車体の外枠は溶接で留められているのではなく、すべて鋲(びょう)打ちされて留められていたので、造りがしっかりとしていました。
 また、私(Aさん)は地蔵町駅から郡中線の電車に乗って通勤をしていました。現在、地蔵町駅は行き違いができるように上りと下りのそれぞれのレールが敷かれていて、ホームが二つありますが、当時はこの駅での行き違いがなかったことからレールは上下線共用で、ホームが一つしかありませんでした。電化前の機関車が運行されていたときには、郡中線は日中では1時間に1本で、朝夕のラッシュのときになると45分、それが30分、20分、15分というように間隔が短くなっていきました。20分間隔のときには松前駅で離合(行き違い)が行われていましたが、15分間隔になったときに、土居田駅、岡田駅、地蔵町駅でも行き違いを行うようになったのです。
 朝のラッシュ時間帯は、この地蔵町駅でも利用者がとても多かったことを憶えています。当時、高浜線の三津駅では1日に2,600人くらい、松前駅では、1日に2,000人くらいの利用者がいました。昭和30年前後には、東洋レーヨンに勤める社員の通勤手段は電車が多く、松前駅の利用者は、もっと多かったかもしれません。松前から松山市駅方面へ出掛ける人も、地蔵町や松前、岡田の駅まで自転車で来て、駅に自転車を置き、電車を利用していたので自転車置き場が一杯になっていたことを憶えています。」

 ウ 郡中線を利用した人々 

 (ア)行商人

 「おたたさん(伊予郡松前町の女性行商人。のちには、松山近辺の女性行商人の一般的な呼称となった。)はよく郡中線を利用していました。利用客の中には、知り合いのおたたさんがいたので、その方に、『がんばるのう。』と声を掛けていたことを私(Aさん)は憶えています。
 おたたさんは松前駅から郡中線で松山市駅まで行き、横河原線に乗り換えて横河原方面へ行っていたようです。また、高浜や郡中にもおたたさんがたくさんいたことを憶えています。松前や高浜のおたたさんは、横河原線や森松線に乗って、海産物等の販売に出掛けていました。
 土橋駅(昭和28年〔1953年〕4月営業開始)ができた後のことになりますが、卵を売り歩く男性の行商人もいました。この方は卵を一杯に入れた籠を天秤(びん)棒で担いでいました。朝早くに電車で郡中に来て卵を購入し、再び郡中線に乗って土橋駅まで行き、そこで売っていたようです。聞いた話になりますが、卵一つ当たり1円の利益があったそうです。
 土橋駅ができる前は、そこには池がありました。私が郡中線を使って汽車で松山の学校へ通学していた昭和23、24年(1948、49年)ころには、池を迂回するように線路が敷かれていましたが、池を埋め立てて土橋駅ができ、それに合わせて線路が直線に敷き直されたのです。
 あるとき、映画のフィルムをやりとりする担当者から『映画にでも行けや。』と言われて、招待券をいただきました。当時は、電車でフィルム缶のやりとりを行っていて、松前駅にフィルムが着くと、映画館に電話で連絡をしてあげていたので、その付き合いの関係で、松前駅の職員には何枚かの招待券が配られていましたが、私はちょうどそのときには映画を観(み)る時間がなかったので、電車を利用するために駅に来たおたたさんに、その招待券を渡したことがあります。するとそのおたたさんは、私が渡した招待券で映画を観るために郡中へ電車で行くときに、シャコエビを持って来てくれて、『これ、食べて。』と声を掛けられました。私は、『ありがとう。』と言ってそれをいただきましたが、今になって思えば、駅員と乗客の間にも触れ合いが多くあったのだと感じています。」

 (イ)東レ社員

 「郡中線は、松前から松山への通勤・通学客を運ぶという役割を担っていたと同時に、松山から東洋レーヨン(東レ愛媛工場)への通勤客を運ぶ役割がありました。当時、工場には多いときで約3,000人の従業員がおり、工場の北側には一戸建ての社員住宅や東側には社員用の集合住宅が何棟か建っていて、多くの社員がここに住んでいたことを私(Bさん)は憶えています。」
 「電車通勤をしていた東洋レーヨンの社員は、松前駅で下車をして、ほぼ全員が歩いて工場へ通っていました。大勢の日勤の社員が松前駅を利用してくれていたので、駅はお客さんで賑(にぎ)わっていました。夕方になると、工場では日勤の社員の勤務時間の終了を告げるサイレンが鳴らされていました。サイレンが鳴ると再び松前駅が帰路に着く社員で賑わっていました。
 東洋レーヨンの社員の多くが松前駅を利用していたころ、駅の近くには靴店や書店がありました。また、駅から中学校(松前町立松前中学校)の方へ向いて行くと、縄屋があり、店の方が藁(わら)で縄を編んでいたことを憶えています。この縄屋が店を閉じた後に、ダンスホールになりました。このダンスホールへは、仕事を終えた東洋レーヨンの社員さんたちが、帰り際に大勢行っていたことを憶えています。私(Aさん)もこのダンスホールへは何回か行ったことがありました。ダンスホールとは言っても、終戦後に縄屋を営んでいた店の建物を、改装もしないでそのまま利用していたので、看板もない状態でした。ただ、駅の近くにダンスホールができたというクチコミで知られていき、お客さんが増えていったのです。当時は今ほど娯楽がなかったので、建物や店内が簡素でも若者が集まって遊ぶ場所として認識されていったのだと思います。
 映画館は第一大坪座、第二大坪座の二つがあったと思います。なぜ松前に映画館があったのかというと、東洋レーヨンには中学校を卒業後に就職した社員さんなどが入寮していた青雲寮がありました。若い女性社員が大勢いたので、映画の需要が相当あり、映画館が二つもあったのです。
 昭和30年(1955年)ころ、松前の映画館では、映画の封切り当日から上映が始まっていました。遅い地域では封切りしてから半年くらい経(た)ってからの上映もあったようですが、松前の人は最新の映画を早く観ることができていました。当時、松山の映画館と松前の映画館が同じ映画を上映する場合は、時間をずらして上映していました。その場合、それぞれの映画館の担当者が、上映が終わった映画のフィルムをフィルム缶に入れて、郡中線の電車で送り合いをしていたのです。フィルムを送るのも1缶が40円でした。郡中線沿いには、松前の第一大坪座と第二大坪座、郡中の寿楽座と旭館があり、郡中の映画館も松前の映画館とフィルムを融通し合っていました。」

 (ウ)沿線住民

 「私(Bさん)の実家からは郡中線の線路が見えていました。郡中線は私が小学校に入学するころの昭和25年(1950年)に電化されますが、電化の工事を終えて試運転で走る電車の音が聞こえてくると、新しく導入される電車を眺めに行っていたことを憶えています。当時の電車には熱電線を利用した床暖房がありましたが、冷房がなかったので暑い夏場にはどの車両も窓を全開にしていました。
 郡中線は20分ないし30分に1本の間隔で運行されており、生活の足としてとても便利だったので、親と買い物に行くときにもよく利用していました。子どもたちが学校で使うノートや筆記用具などの文房具は、地蔵町(じぞうまち)の街道沿いに文房具店があったので、そこで購入していたことを憶えています。しかし、衣料品などになると、松前の町の中にも店がありましたが、郡中の駅前にはそのような店がたくさんあったので、郡中へ出かけて購入することが多かったと思います。
 また、私がまだ幼いころには、祖母が月参りで石手寺へ行っていたので、一緒に連れて行ってもらうときには、郡中線で松山市駅まで出て、市内電車に乗り換えて道後まで行き、道後の駅から石手寺までは歩いて行っていました。子どものころは、電車に乗って出掛けることができるときはとてもうれしく、かなり遠くへ行けるという感覚を持っていたので、祖母に、『行くか。』と言われて、連れて行ってもらうときには、『今日はお城下へ行ける』と思ってとても気持ちがワクワクしていたことを憶えています。お参りをした帰りは、市内電車を大街道口で降りて、買い物をしなくても大街道や銀天街の商店街を歩いて松山市駅まで帰るのですが、松山市駅の駅前には日切焼きを販売する澤井本舗があったので、お参りからの帰りに日切焼きを一つか二つ祖母に買ってもらい、店の中で食べることが子ども心に楽しみでした。
 小学校や中学校での遠足でも郡中線を使うことが多く、行き先は五色浜(ごしきはま)や谷上山(たがみさん)など、伊予市の郡中方面まで電車で行くことがほとんどだったと思います。あるときには、郡中港駅で国鉄に乗り換え、上灘(かみなだ)(現伊予市双海(ふたみ)町)や長浜(ながはま)(現大洲(おおず)市長浜町)方面へ行っていたことを憶えています。
 昭和30年代、地元の子どもの多くは中学校を卒業後、地元に高校がなかったこともあり、町外の松山市や伊予市の高校へ進学していました。私は高校へ通うのに、地蔵町から松山市駅まで郡中線を利用していました。当時、地蔵町駅には駅員さんがいて、窓口で切符や定期券の販売を行っていたことを憶えています。
 私の家は地蔵町駅から150mほどの所にありました。通学のために乗らなければならない電車が地蔵町駅へ入って来るときには、駅の傍(そば)の踏切音が鳴っていたので、その音が聞こえてくると、家から鞄(かばん)を小脇に抱えて飛び出して、急いで駅に駆け込んで電車に乗っていました。当時は乗客が多く、乗り込むのに時間がかかっていたため、停車時間が長かったということも間に合っていた一つの要因だと思いますが、家を出ると必死に走ってどうにか電車に間に合わせるという状況でした。本当に必死に走っていたので、しんどかったのと電車に間に合った安堵感からでしょうか、一度だけですが電車が余戸駅に着いたところで気を失って倒れてしまったことがありました。その電車には同じ学校に通う友だちが乗っていたので、余戸駅の近くの病院へ連れていってもらい、診察を受けてから学校へ行ったことを憶えています。
 私が通学で使っていた朝7時台から8時台前半に運行されていた電車には、松山への通勤・通学客が多く乗っていました。地蔵町駅の辺りでは、まだ乗客が少ない方で、私たち高校生はドア付近に立って話しをしながら電車に乗っていましたが、一駅ごとに大勢のお客さんが乗り込んでくるので、最終的にはぎゅうぎゅう詰めの状態となり、友だちとの会話を楽しむ余裕がないほどになっていました。」

(3)戦時中の記憶

 「終戦となった昭和20年(1945年)、私(Aさん)は松前国民学校初等科の6年生でした。戦時中は食糧不足で、農家の方は米を食べていたようですが、農業を営んでいなかった私の家ではサツマイモを薄く輪切りにして干したカンコロをよく食べていました。学校の運動場も食糧増産のために使われるようになり、4年生か5年生のころには、私もイモを植えたことを憶えています。また、6年生になって終戦が近くになったころだったと思いますが、私の家のすぐ上を飛んでいたアメリカ軍の戦闘機が機銃掃射をし、その薬莢(やっきょう)が屋根に当たって、『カラン、カラン』と音を立てているのを聞いたことがあります。その戦闘機は、海岸側から飛来し、山の辺りで旋回をして松前港の船着き場に停泊していた東洋レーヨンの貨物船を狙っていたようです。機銃掃射に驚いた私は急いで避難しましたが、それまでは家の玄関の物陰に隠れてその様子を見ていました。
 当時、この辺りでは各家庭に防空壕(ごう)を敷地内に造っていることが多く、私の家でも家族が避難できるように、庭の一角に防空壕を掘っていました。防空壕には家族の食料が1日分保管してあったことを憶えています。
 戦時中、アメリカ軍の爆撃機や戦闘機が飛来する恐れがあるときには、警戒警報や空襲警報が鳴らされていました。警戒警報と空襲警報とではサイレンの鳴り方が異なり、警戒警報はサイレンが『ウーン、ウーン』と1回ずつ鳴り、空襲警報では『ウーンウーンウーン』と連続して鳴っていたように思います。
 昭和20年(1945年)7月26日の松山空襲の様子も私の家から見えました。空襲による市街地の大きな炎の明るさで夜空が照らされ、立ち込める煙の間からは、松山城の上空を何度も旋回しているB29が見えました。悠々と旋回しているB29に対して、照明弾が打ち上げられたり、高射砲で砲撃したりするなどの地上からの応戦はほとんどなかったのではないかと思います。このような光景を、私は家の裏のサトウキビ畑から見ていましたが、あれだけ真っ赤で大きな炎は見たことがありませんでした。後に就職してから、ふと空襲のことを思い出したときに、炎が見えた方角から考えると、『石井(いしい)から三津(みつ)の間がひどくやられたのかな』と思ったことを憶えています。
 また、8月6日には、広島(ひろしま)に投下された原子爆弾によって発生したキノコ雲が見えました。その日は学校が夏休み中で、私は学校で飼っている鳥やウサギのエサやり当番に当たっていたので、同じく当番だった友だちと一緒に、8時ころから学校へ歩いて行っていました。当時、この辺りには高い建物がなく、高いものといえばマツの木くらいで比較的見晴らしが良かったので、歩く足を止めて友だちとキノコ雲を眺めながら、『あれ、何やろなあ。』と言っていたことを憶えています。
 私は実際に松山空襲や広島の原爆で生じたキノコ雲を見ましたが、就職して会社の先輩方にこの経験を話しても、それを知らない方が多くいました。私はそれが不思議でならなかったのですが、私の先輩に当たる少し上の世代の方は、皆さん戦地に行かれてそれぞれの場所で苦労をされてきていたことを知ることができました。」

図表3-2-2 軌道(市内電車)の運賃の変化

図表3-2-2 軌道(市内電車)の運賃の変化

『伊予鉄道七十年の歩み』により作成。