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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 ノリ養殖の記憶

(1)ノリ養殖

 『松前町誌』には、ノリの養殖について写真付きで数行書かれているが、残念ながら「昭和48年ノリの製造を中止した(④)。」で結ばれている。それまでのノリ養殖の様子について、Cさん(昭和28年生まれ)から話を聞いた。

 ア 網ノリ養殖の始まり

 「『松前町誌』に掲載されている写真に写っているのは、私(Cさん)の父と母です。改めてこの写真を見て気が付いたのですが、この写真は、昭和38年(1963年)よりも前の写真であると言えます。なぜなら、ノリ網でなくて笹状になった竹に付いたノリを採っているからです。私は、小学校5年生からノリ養殖の仕事を手伝い始めたのですが、そのときは全て網養殖で行われていて、笹竹のようなものに付いたノリの収穫を手伝った記憶がないからです。
 また、写真の奥の方には、竹が立ててあることが分かります。西条(さいじょう)(西条市)の方では、網を用いた養殖が普及し、それに転換したのが昭和33、34年(1958、59年)ころのことと聞いています。私の父は、西条の方へ養殖の方法を教えてもらいに行っていたようなので、西条よりは少し遅いぐらいの時期の、竹養殖と網養殖の端境期ではないかと思います。
 竹養殖は、ノリの胞子が自然に付着するのを待ちますが、網養殖は、胞子を付けたカキ殻を網と一緒に海に浸すことで、網に胞子を付着させます。これらには、時期や温度の具合を見極めなければならないので技術が必要でした。町誌には、祖父がノリ養殖を始めたように書かれていますが、この技術を取り入れたのは父でした。この技術によって、それまでの養殖が画期的に変わったと聞いています。
 松前には、他(ほか)にもノリ養殖をしていた方がいたようですが、父がその人たちに技術を教えていて、リーダー的な存在だったようです。」

 イ 場所・養殖方法

 「私が手伝っていたのは、重信川河口でした。樋門は、現在の場所より200mから300mほど海側にあり、河口へはその樋門から下りていました(写真2-2-8参照)。階段を使って下りられる場所もありましたが、かなり遠回りになるので、いつも樋門の所から河口に出入りをしていました。
 河口では、一緒にノリ養殖をやっている方がいました。この方には海で出会うと、『兄やん、また来とんかい。』と言われて、よく『てがわれて(からかわれて)』いたことを憶えています。
 河口以外では、河口のすぐ近くの海岸でもノリ養殖が行われていましたが、ほんの少しだけだったと思います。松前漁港の辺りでも行われていたようですが、他の方の網のようで、手伝いに行ったことはありませんでした。」

 ウ 道具

 (ア)杭

 「網を取り付ける杭にはカシの木か、それに似た木が使われていました。
 木を杭に加工するには、丸ノコを回してノコを掛け、杭が打ち込みやすいように先を尖(とが)らせていました。手伝いをしていたころ、私も加工をやってみましたが、何事にもノウハウがあるのでしょう、なかなか難しい作業でした。」

 (イ)玄能とタコ

 「地面に少し穴を開けて、先を尖らせた杭を打ち込みます。最初は杭の位置が高いので、玄能(げんのう)(金槌(づち))の先を横にして打ち、杭が下がってきて打ちやすくなったら、普通に打つように玄能を振り上げて打ち込みます。
 次に、『タコ』と呼ばれていた道具で打ち込みます。タコは、鉄管の片方に頑丈な蓋を被せたような道具で、足を取り付けやすいように円盤を下部に取り付け、それに足を4本取り付けています。その足を1人が二つずつ、2人で持って、『よいしょ、よいしょ。』と声を掛け合って、杭を叩(たた)いて下に打ち込んでいきます(図表2-2-2参照)。タコを使うと、鉄管の中に杭が入っている状態で打ち込めるので、打ち損じがありませんでした。このタコという道具は、松前の漁師に頼んで作ってもらっていたと聞いています。
 玄能にしても、タコにしても足場の悪い河原での力仕事だったため、大変きつい仕事でした。杭打ちには力が必要だったので、その手伝いは中学生になってから始めたことを憶えています。」

 (ウ)網

 「ノリを付ける網は、幅が1m強、長さが20mほどの細長い網です。網の間隔は10cmくらいで、2mから3m間隔で打たれた杭に、潮の満ち引きを考えながら張る強さを調整して余裕をもって付けていきました。」

 エ 手伝い

 (ア)刈り取り

 「私は、5人兄弟の二男でしたが、仕事の手伝いは私が一番していたと思います。刈り取りの手伝いも、小学校5年生のときから行っていたことを憶えています。
 刈り取りでは、潮の様子を確認しながら、潮がある程度引いたときに海へ入るので、作業を始めたときにはまだ水深が深い状態でしたが、手伝いを終えて帰るころには潮が完全に引いていました。
 網にはノリがびっしりと生えていて、海面上の網から20cmほど垂れている状態になっていました。これを長さが30cmほどある大きな握りばさみで、ノリの根元を2cmほど残して、網の目に沿って刈り取っていました。その際にタライを下に受けておき、刈られたノリが網から落ちると、そのままタライに入るように工夫をしていました。
 タライが一杯になると、担(にな)い籠に入れ、また刈りに行き、そして籠が一杯になったら、大人が天秤(びん)棒で振り分けにして、土手のリヤカーの所まで持っていきます。天秤棒に掛けられるように、籠には紐が4本付けられていました。籠に入れられたノリは、海水を含んでいるので、かなり重たかったと思います。子どものころのことで、実際に量ったことがないので、その思い出としての感覚ですが、10kg以上は確実にあったと思います。籠に入れられたノリは、ミカンを入れる場合とは違って隙間なく詰められていたことを憶えています。
 この籠は、今でもきれいなまま残しています。以前、『もう捨てるか。』と言っていた時期もありましたが、付き合いがある大工さんから、『こんなに上手に編んどる籠は、今ではなかなか手に入らんよ。』と言われたので、残していたのです。当時の職人の技のすごさを改めて感じさせられます。
 土手まで上げたノリを家まで持って帰るには、リヤカーを使っていました。樋門から家までリヤカーを引っ張っていましたが、当時はその距離を遠いとは感じていませんでした。それに、当時から重信川の土手は、コンクリート舗装がされていて道幅が広かったため、快適に運搬することができました。当時、国道以外は舗装がされていないような狭い道だったので、土手の道のその広さに、私は『一体何台のリヤカーを並べられるんじゃろか』と思っていたことを憶えています。
 刈り取りは冬に行う仕事なので、海水が冷たくてたまりませんでした。手はかじかんでしまい、軽く握った状態のまま動かすことができなくなっていました。握りばさみを持ったり、籠を担ったりするような、手先をあまり使わない仕事は問題なくできましたが、手はなかなか開きませんでした。手が冷たくなり、しびれてしまい、指先が痛くて大変だったことを憶えています。
 家に帰ってから何とか手を開こうとしても、なかなか手は開きません。そのようなときに一番良い方法は、井戸水に手を浸(つ)けることでした。井戸水を汲んで手を入れたら、『はあ。』とため息が出るほど、水が温かく感じられて気持ちが良かったことを憶えています。冷え切った手を元に戻す方法を知らない人は、『湯の中に浸けとけ。』と言って、お湯を沸かしてくれるのですが、ぬるま湯でもかなり熱く感じられるので、お湯には手を入れることができませんでした。
 私が小学生のころは素手で作業をしていましたが。年を経るごとに、普通のゴム手袋や肘近くまであるゴム手袋を母が着けていた記憶があるので、徐々に道具が良くなっていったのだと思いますが、ゴム手袋をしていても、手が冷えてしまうことは同じだったような気がします。」

 (イ)卒業試験と手伝い

 「高校を卒業する年、昭和46年(1971年)2月に3年生最後の試験があり、私はそれに向けてがんばって勉強をしていました。しかし、そのときには父が入院して家にいなかったので、母が勉強をしている私に、『手伝うてくれる人がおらんけん(いないから)、手伝うてくれんか。』と言ってきました。試験期間中に、しかも未明の1時か2時に海へ行け、ということだったので、一生懸命に勉強に取り組んでいた私は、『うそじゃろが』と思いましたが、手伝いも私の大切な役割であったので、海へ行くことにしました。
 夜中の手伝いだったので、海には懐中電灯を持って行きました。私が幼いころには、カーバイドランプ(炭化カルシウムと水を反応させて明かりをとるランプ)が使われていましたが、そのときには防水加工がされた懐中電灯を使っていたので、それを持って行きました。採りに行ってみると、すでに採る時期を逃してしまっていて、ノリが育ち過ぎて、網から外れて海へ流れてしまっているものがありました。普通なら20cmほどに伸びていたら刈り取りますが、その時は、刈り取ったノリを持ち上げてみると、地面に着いてしまうほどに成長していて、完全に採り遅れていました。 
 刈り取りが一段落したころ、ちょうど学校へ行く時間になっていました。同じ場所で養殖していた方から、『兄やん、あと手伝うとくけんの。もうええぞ、学校行けよ。』と声を掛けていただいたので、『ほしたら、たのまい(それでは、頼みます)。』と言って、自転車で急いで学校へ行きました。
 試験は、3教科ずつ3日間ありました。その間はずっと手伝いをしていたので、試験中は身体が疲れてしんどくてたまらなかったことを憶えています。何日目の試験だったか、3教科目に行われた試験は、開始後30分経(た)つと答案を提出して帰宅してもよかったので、30分経つと同時に答案用紙を提出し、急いで帰宅して、体力を回復させるために、すぐに寝ていたこともありました。
 採り遅れになるくらいになってから、『手伝うてくれ。』と言われたので、母は試験勉強をがんばっている私に遠慮をしていたのだと思います。私は、母から手伝うよう言われた時には、『試験中にそれはないじゃろ』と思いましたが、父が入院していたので、家族のことや仕事のことを考えると、断ることができなかったことを憶えています。」

 オ 刈り取った後

 (ア)簾

 「ノリを採って帰ってからは、仕事がさらに忙しくなるので、近所の方に作業の手伝いをお願いしていました。
 ノリを採って帰ると、それをミンチ状にする機械にかけます。機械の上部から、刈り取ったままの長いノリを入れると、細かいミンチ状になって出てきていました。それを大きな容器に入れて水に溶き、ちょうどノリ巻に使うような簾(す)に四角い枠を置いて、水に溶かしたノリを枠に合わせて入れていきます。すると、簾から水分が抜け、板ノリとなります。水分は、すぐに落ちるのではなく、少しずつ抜けていました。
 簡単な仕事のようですが、水にノリを溶く作業は、水の加減が難しく、必ず試し漉(す)きを行わなければなりませんでした。さらに難しい作業が、底が斜めに切られている長方形の升を使って大きな容器からノリをすくい取り、それを簾に移す作業でした。タイミング良く一気に移さなければ、濃くなったり薄くなったりして均一なきれいな板ノリにはなりませんでした。きれいにできなければ、また容器へノリを戻してやり直さなければならず、上手に移さなければ仕事が前に向いて進みませんでした。
 私は、子どものころに試しにやらせてもらったり、こっそり練習をしてみたりしましたが、上手に移すことができなかったので、手伝わせてもらうことができませんでした。作業場では、祖母が上手に移していた姿が強く印象に残っています。
 私が中学生や高校生になると、勉強や部活動で自由に使える時間が少なくなり、あまり仕事を手伝うことができませんでした。そのころにはノリ漉き機が導入されていて、ノリを漉く作業自体がなくなっていました。」

 (イ)けた

 「簾にノリを移すと、『けた』に張り付けて天日で乾燥をさせます。『けた』に簾を張り付けるときには、簾を重ねた状態で持って来るので、一枚一枚上手に取っていかないと下の簾のノリが取った簾の裏側に付いてしまったり、はがれてしまったりして、作業にはならなかったので、子どもが手伝うには無理な仕事でした。私は、祖母が『けた』の上に置いていった簾をきれいに並べた後、U字型の釘(くぎ)で止めていく手伝いをしていたことを憶えています。」

 (ウ)乾燥機

 「乾燥機が導入される前は、天日干しでノリを乾燥させていました。小学生のころにかくれんぼをして遊んでいて、友だちと『寒いから乾燥機の中に隠れとこや。』と言って、乾燥機の中へ入ったことを憶えているので、そのころには導入されていたと思います。
 乾燥機は正面から見ると箱状で、中に回転する軸があり、それに枠が繋がれています。その枠に洗濯物を干すように『けた』を20枚から30枚ほど掛けていきます。乾燥機に『けた』を入れると、軸を中心に回転させ、同時にボイラーで重油を焚(た)いて、熱風を送り込んで乾燥させていました。乾燥させた後、『けた』を取り出す作業を手伝っていたら、汗が出るほどだったので、取り出すときには中の温度が30℃から40℃はあったのだと思います。
 この熱が冷めないうちに、次の『けた』を入れた方が効率良く乾燥ができるので、漉く工程を効率良くしていく必要が生じ、ノリ漉き機が導入されたのだと思います。」

 (エ)出荷

 「乾燥させたノリは、簾から取り外します。私は、この作業も手伝っていました。ノリが破れないように外さなければならず、簾の端を揺するとノリの端が少し外れるので、そこからきれいに外していました。外したノリを10枚重ねたら1帖(じょう)となるので、その1帖分のノリをブックスタンドのような土台に置いていきました。ノリは100枚ずつの束にして帯封を付けますが、少しでも破れていたら、取り除かなければならなかったので、自分の目でノリを1枚ずつ確認しながら作業を行っていたことを憶えています。」

 カ 協力を得て

 「ノリの養殖が思うようにできなかった場合、父は、『県に聞こう。』と言って県の指導を仰いでいて、県の若い担当の方がよく指導に来てくれていたようです。私は、父が『ノリの種付けは、県の人に指導してもらってできだした。』と言っていたことを憶えています。
 また、ノリ養殖が盛んに行われていた西条(西条市)へも、バイクに乗って行き、勉強をしていたので、西条の方との付き合いができ、西条からも私の家のノリを見に来られていて、お互いに情報交換を行っていたようです。私の家で製造したノリは、西条へ持って行き、検査を受けていたこともあって、西条の方の指導を受けていたのだと思います。」

 キ 青ノリ

 「黒ノリの時期が終わった3月ころには、青ノリも採っていました。青ノリは、石に付いて生えていて、海底の一面に、まるでじゅうたんを敷いた様にきれいに生えていたことを憶えています。また、青ノリは香りが良く、黒ノリよりも磯の香のような匂いがして、とてもおいしかったことを憶えています。青ノリを採るには、石に着いている先の部分を摘むという感じではなく、根こそぎ剥(は)ぎ取っていくように採っていました。青ノリは厚みがあるので、潮が引いて少し乾燥していたら、『バリバリ』と音を立てながらきれいに剥いでいくことができました。途中で破れてしまうことなく、どれだけ大きく採ることができるか、ということを自分で意識ながら採っていました。
 採った青ノリには、根の部分に小石がたくさん付いているので、その場でザルに入れ、足で踏んで石を落とさなければなりませんでした。石が残っていると、ミキサーに入れたときに歯が折れてしまうことがあったからです。ミキサーには、ノリ用の歯が取り付けられていたので、石のような硬いものが当たると折れてしまっていました。
 採った青ノリの出荷もしていましたが、その量はほんの少しでした。一回採ったら終わりで、『そこにあるから黒ノリのついでに採ってみようか』という程度でした。」

 ク 梅津寺のノリ

 「私は、高校生のころ、ボート部に所属していたので、練習をするために梅津寺(ばいしんじ)(松山市)の海岸へ行っていました。当時は、近所の方が梅津寺に隣接する港山(みなとやま)の岩場で自生しているノリを採っていたことを憶えています。私も手伝いで寒い思いをしていたので、その方を見て、『寒いのにえらいのう』と思っていました。採られたノリは漉かれて梅津寺の海岸に干されていましたが、穴がたくさん空いているようなノリでした。漉く技術がないということもあるでしょうし、手作業で適当に切っているだけでしょうから、ノリが細かいミンチ状になっておらず、きれいなノリができなかったのだと思います。」

 ケ ノリ養殖の終焉

 「私が高校を卒業する時には、父が入院していたこともあり、採り遅れの時期になってしまいましたが、たくさんノリを採ることができたと思います。高校卒業後は手伝うことがなかったので、詳しいことは分かりませんが、暖冬の影響もあってノリ養殖があまりうまくいってなかったようです。冬場に暖かいとノリの品質が悪くなり、色が黒色ではなくて紫色になってしまうので、素人の方が見ても分かるほどになってしまいます。
 また、父も退院後で、すぐに元通りの体力にはならず、しんどかったのでしょう。そのようなことが重なって、昭和48年(1973年)、私が20歳のころに一旦ノリ養殖を止めてしまいました。ノリ養殖が本当に最後になったのは、私が25歳で役場に入った年でした。その年に父が少しだけノリを作り、私に、『自分で始めたノリじゃけん、食べるほどでもやりたいんじゃが。』と言いました。私は、『そんなこと誰ができるんよ。自分が食べたり、ちょっとお土産もんにしたり、そんな道楽もん誰がするんよ。お父さん、自分がするんならええで。でも、自分がせずにおって、子にせい言うても通らんじゃろ。』と、つい強く言ってしまいました。父はその後、何も言わなくなってしまい、ノリ養殖はそれっきりとなってしまいました。
 畑仕事であれば、家庭菜園のように小規模にでもできますが、ノリ網を使った養殖では、ある程度の規模が必要で、本腰を入れてやらねばなりません。私は役場に就職をしていて、未明のノリ採りや、日中のノリ漉きなどの仕事ができないということもありました。父に言った言葉は厳しいものだったのかもしれませんが、このような事情があって、私はノリ養殖ができなかったのです。」


<参考引用文献>
①松前町『松前町誌』 1979
②松前町、前掲書
③山野芳幸『愛媛松前界隈はええとこぞなもし』 2014
④松前町『松前町誌』 1979

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・松前町『広報まさき』1986.3、1988.7

写真2-2-8 現在の樋門

写真2-2-8 現在の樋門

写真右側の建物が樋門。平成29年5月撮影

図表2-2-2 タコ

図表2-2-2 タコ

聞き取りにより作成。