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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 海辺の記憶

 (1) 塩屋の塩田

 『松前町誌』には「塩屋(しおや)は塩を焼いた場所で、古昔の塩田の所在地である(①)」と記されているように、塩屋はかつての塩田の跡地であった。しかし、同じく町誌には、「近世塩田経営で利益が大きかったのは、中期ごろまでで、後期にもなると燃料代・労働賃は高く、塩田経営は、苦しい事情であった(②)」とも記されており、江戸後期には塩田経営にも厳しい時代が訪れ、続く明治に入ると、国による専売制や輸入岩塩との競争により、合理化が押し進められ塩田は一層衰退したと考えられる。
 また、「戦後、外地から復員して塩屋に帰ってきたが、まだ塩づくりはしていたと、自信を持って話された(③)。」との古老の話にもあるように、戦中戦後の物不足により、自家消費程度の塩が作られたと考えられる。しかし、戦後になると、専売公社の設立や製塩箇所の統廃合などの影響により、塩屋の塩田はその姿を消した。

 (2) 地引き網の記憶

ア 地引き網の手伝い

 (ア) 親戚の手伝い

 「私(村井好明さん)の父には兄弟が6人いて、そのうち三男が家の跡を継いで漁業権を持ち、網元として仕事をしていました。その伯父は、屋号が丸留(まるとめ)だったので、その名でも呼ばれることがあり、さらに、力が強かったこともあり、宮相撲が行われるときには、『若緑(わかみどり)』という四股(しこ)名も持っていました。
 当時、漁をする船は伝馬船で、手漕(こ)ぎで操船をしていました。その船で網を広げ、陸(おか)で網を引く地引き網を行っていました。私は、昭和28年(1953年)、小学生のころから網を引く手伝いをしていたので、櫓(ろ)漕ぎの方法も覚えて、簡単な作業であれば船を自分で操船して手伝っていました。本格的に地引き網の手伝いをしていた期間は、小学校高学年のころから中学生のころだったと思います。私が高校生になった昭和35年(1960年)ころからは、動力船で沖に出るようになったので、地引き網自体がなくなり、手伝いをすることがなくなりました。」

 (イ) 近所の人の手伝い

 「私(藤崎茂さん)らが子どものころには、海岸へ泳ぎに行っていたとき、その横で地引き網が始まることがありました。そこで一生懸命手伝って、アジなどの魚がたくさん獲(と)れると、2匹ずつもらえていました。また、シロコ(一般的には、『シラス』と呼ばれるイワシの稚魚)がたくさん獲れると、何でも器になるようなものを持って行くと、すぐにシロコをくれていたので、麦わら帽子の頭の部分に入れてもらっている子どももいたことを憶えています。近所のお年寄りでシロコの釜揚げが好きな人などは、手伝い賃としてのシロコをもらおうと、腰に綱を付けて一生懸命に引っ張っていました。綱の先に重しとなる木を付け、下からポンと投げて網を引くための綱に絡ませ、その絡み付いた綱のもう一方を腰に回して結び、腰で引いていました。」

イ 地引き網の仕組み

 (ア) 地引き網を引く綱

 「現在、観光で行われている地引き網の写真を見ると、運動会の綱引きのように引き綱を直接手に持って引っ張っていますが、私(村井好明さん)たちの引き方は違っていて、引き綱に枝綱を付け、それを腰に回して、後ずさりするように引っ張っていました(写真2-2-1参照)。そのまま引くと綱が腰に食い込んで痛いので、腰に回した所には厚い布でベルトパッドのようなものを付け、痛くならないように工夫をしていました。
 枝綱は固定せず、陸の上の方まで引いたところで一度綱を解(ほど)き、一番下の水際まで行ってそこで再び結び、また引っ張っていました。枝綱をその都度結ぶ作業は面倒なようですが、そのようなことはなく、少し引っ掛ければあっという間に締まり、解くときも綱を緩めればすぐに解けるので、私たちは、これを『ちょんがけ』と呼んでいました(写真2-2-2参照)。
 結び目が引き綱の上で滑ってしまい、引っ張れないのではないかと心配する人もいるようですが、綱は十分に締まっているので、そのような心配は必要ありませんでした。
 網を引くときは引き綱を挟んで左右に分かれて引きますが、左右の人が同じ所に枝綱を結ぶのではなく、右側の人が結んだら、少し間隔を置いて左側の人、また間隔を置いて右側の人、というように千鳥(左右交互)に結んでいました。」

 (イ) 引き綱

 「引き綱は、1本の綱ではなく、20mから30mの綱を繋(つな)いでいました。そのときの潮の満ち引き加減や漁によって違いますが、大体5、6本の綱を、網を広げていくごとに『本結び』と呼ばれる方法で繋いでいました。綱の結び方はいろいろあるようですが、私(村井好明さん)は、片一方の綱(図表2-2-1中のA)を半分に折って輪を作り、もう一方の綱(図表2-2-1中のB)の端をその輪にくぐらせ、輪を作った方の綱に巻くように下から持って回して、そのことによってできた輪に通していました(図表2-2-1参照)。これだけでも引っ張って抜けることはありませんが、水に濡(ぬ)れると完全に固まった状態になり、どう引っ張っても抜けませんでした。
 網を引いていったら綱が余ってくるので、そのときには結び目を解いて綱を巻いていかなければなりません。仕事をしていた漁師さんから、よく、『ワイヤー巻きにしとけよ。』と言われていました。ワイヤー巻きとは、『8の字巻き』とも言われていて、次に広げるときに真っ直(す)ぐに綱を伸ばすことができる巻き方でした。
 巻き取った綱はとても重たいので、船に積み込みやすいようになるべく波打ち際に近い所で巻き取っていました。船は、遠浅の砂浜に乗り上げてまで接岸することはなかったので、綱を海に浮かしたままにしたり、ハンギリに積んで船まで持って行ったりして積み込んでいました。」

 (ウ) 網の仕組み

 「綱の先には網を付けますが、網は一番手前が目の粗い部分、次に小さい目、最後が袋になっていました。最初の目の粗い部分は大体10cmほどの大きさで、魚が網の内側から逃げないように、追い込みの役目をします。最後の袋は、家庭で使われている網戸の網の目の程度だったと思います。目が細かすぎると水が抜けずに網が重たいままになり、目が大きすぎると小さな魚が逃げてしまいます。シロコが来ている場合や、イワシが来ている場合、イワシでも小さなものと大きなものとで違うので、漁によって網の目は変えていたことを私(村井好明さん)は憶えています。」

 (エ) 漁区

 「松前(まさき)漁港から重信川河口までは、五つの漁区に分かれていました。また、松前町本村(ほんむら)には、私(村井好明さん)が手伝っていた丸留の村井のほかに、7軒の網元がありました。それらの網元が操業するときは、漁区ごとに札を掛ける場所があり、操業中に、その木札を掛けているときは、他の漁区に網を入れてはいけないことになっていました。今まで操業していた漁区での漁が終わると、すぐに他の漁区を確保するために、木札を持って札を掛ける場所まで走って行っていました。
 一般的に重信川河口でよく魚が獲れていたようです。やはり、川からの栄養分が流れているからではないかと思います。ただ、流木などが多く、網を痛めてしまうことが多かったので、獲れるからといって河口付近で網を入れることが多かったという訳ではありませんでした。また、網入れの回数なども、大潮や小潮、満ち潮や引き潮など、潮の状況によって、何度も網を入れる場合もありましたし、『今日は二番(2回)でやめておこう。』という日もありました。
 松前漁港から南の新川(しんかわ)(伊予〔いよ〕市)の方へ漁に行っていましたが、新川には伊予市の漁師がいて、漁場も狭いので、網が縺(もつ)れてもめ事を起こしてもいけないので、網を引く場所が空いていれば、網を入れる程度で行っていました。
 先に網を入れた方がよく獲れる場合が多いので、木札を勝手に掛け替えるなどの操作をして、漁場で争いになることもありましたが、8軒の網元は親戚筋に当たるので、大きな争いにまではなりませんでした。」

 (オ) ハンギリ

 「今は、お祭りとしてのハンギリ競漕でしか見られません(写真2-2-3参照)。しかし、私(村井好明さん)は、当時ハンギリが、いろいろな場面で活躍をしていて、沖の船との連絡や、ちょっとした荷運びにも使われていたことを憶えています。また、地引き網の網や綱が絡んだときには、沖へ出て網を直すときにもハンギリを使っていました。地引き網の綱を手繰っていくこともあるのですが、多くの場合はハンギリを前後にゆすって漕いでいました。今の人とは比べ物にならないぐらい、上手に早く漕いでいたことを憶えています。」

ウ 獲れた魚の行き先

 (ア) シロコ

 「私(村井好明さん)たちは『シロコ』と呼んでいますが、『チリメン』や『釜揚げ』と呼ばれることもある、イワシの稚魚が主な漁獲でした。また、もう少し大きな、煮干しになるくらいのものも獲っていて、季節や漁によって獲る大きさを変えていました。獲ったイワシは塩屋にある3軒のイリコ屋さんが買い取って、海岸の堤防のすぐ裏側の斜面にある作業場で加工していたようです。買い取りの値段は、一番網、二番網と、徐々に安くなっていました。恐らく、水揚げが遅くなると、日が高くなって品質が落ちてくるからだろうと思います。ただ、漁師とイリコ屋さんとの間で値段の駆け引きのようなものはあったと聞いています。
 イリコ屋さんから漁師への支払いは、一時金はありましたが、そのほとんどが年末払いという仕組みになっていました。納品をするごとに台帳に付けられていくのですが、支払の時になって、『数字が違ごとる。』などと言ってもめてしまうこともあったようです。」

 (イ) その他の魚

 「砂浜で行う地引き網では、キスやトラハゼ、カレイ、『ベラ』とも呼ばれるギゾなどが一緒に獲れます。時々、回遊魚であるアジなども獲れました。これらは、漁師の奥さんなどが、おたたさんとして、北伊予(きたいよ)(同駅方面)やお城下(松山〔まつやま〕市内)へ売りに行っていました(写真2-2-4参照)。地引き網をしていたころは、桶(おけ)を頭の上に載せて売り歩くおたたさんがいたことを憶えています。昭和35年(1960年)ころから、漁師が機械船で沖合へ出るようになって、地引き網がなくなるのと同じころに、桶を頭上に載せて売り歩くおたたさんの姿を徐々に見なくなっていきました。おたたさん自身が高齢化により、桶を頭の上に載せて売り歩くことが大変になってきたこともあるでしょうが、機械船で沖へ出て、シロコ以外の漁獲が増えたことで、販売すべき魚の種類も増え、頭の上に載せきれなくなったことも理由の一つであると私(村井好明さん)は思います。そのころから、リヤカーや自転車に魚を載せて売り歩くようになっていきました。」

エ 松前の漁師の気質

 「本村には網元が8軒あり、深い浅いはありますが、いろいろとつながりがあります。身近な所で、みんなが、『何を引くのぞ。』と言えば、『今の季節イワシ引くのじゃったら網の目は、なんぼ(いくら)じゃのう。』などと言って、情報交換をしていました。海の上ではライバル同士になるので、本当は隠しておきたい情報もありますが、少しでも身内の者が魚を獲ることができたらうれしいものだったので、お構いなしに教え合っていました。これは、松前の人の人情の深いところだと私(村井好明さん)は思っています。
 また、網元と網子との関係にも人情が深いものがありました。網子は漁がなければ遊ぶためのお金を得ることができないので、『おいさん、回してや(お金を貸してや)。』などと言って網元からお金を借りていました。そのころは、一度や二度は痛い目に遭っても(貸し倒れになっても)、網元が『あれ(網子)が言うんじゃったら貸してやれや。』というように面倒を見ていました。そういう人情のある方は、年を経ると周りのみんなから頼られ、やがて網元の頭になっていました。当然、借りた網子の方も網元に対して恩義を感じます。このようにして、網元と網子の間には深い深い、人情の世界ができていました。」

 (3) 「海辺の遊び」と「遊漁の記憶」
 
ア 子どもの頃の海水浴

 「私(藤崎茂さん)らが子どものとき、海水浴場として指定されていたのは、今の国近川河口の少し北側の所だったと思います。当時の国近川は、今のように海岸に向かって真っ直ぐに流れていなかったので、場所の感覚が今とは随分違っています。当時は、『かま』と呼ばれていた、石積みをした突堤と突堤の間を目印に赤い旗が立てられていて、『この間で泳ぎなさい。』と言われていました(写真2-2-5参照)。砂浜は、今よりも大きく、なだらかに海へと続いていて、遠浅となっていました。
 海水浴場には地域の親たちが監視員として順番に来て、子どもたちの安全のために見張りを行っていました。この海水浴場へ来ると、小さめのかまぼこ板のような板切れに名前を書いた、『命札』と呼ばれるものを監視員に預けてから海に入るように決められていました。今と違い、当時は子どもの数が多く、そこでしか泳いではいけなかったせいか、いつも30人から40人は泳いでいたので、子ども一人一人を見守る監視業務の仕事は大変だったと思います。
 同じ場所で泳がなくてはならない中学生は、『もうこんなとこ(所)、餓鬼と一緒に泳げるか。』と生意気なことを言って、重信川の河口側で泳いでいると、監視員の方から『ルールを守らんか。』と言われてひどく怒られていたものです。ルールといえば、水中メガネでも、楕円形の鼻まで覆ってしまうメガネは、飛び込んだときにずれてしまい、口と鼻を覆って窒息してしまう恐れがある、という理由で使うことができず、使用が認められていたのは両目だけを覆うメガネに限られていました。しかし、当時は、『そんなかっこ悪いんできるか(格好が悪いものを使えるか)。』と言って、楕円形のメガネを使用していたことを憶えています。」

イ 東レの海水浴場

 (ア) 海の家の開設

 「私(村井好明さん)の父は、東レの工事に出入りをしていた関係で、東レの営繕担当の方から、『海の家の管理人をしてくれないか。』と言われ、管理業務に従事していました。海の家は、今の国近川河口から少し南の辺りにあったことを憶えていて、確か私が小学校4年生のころだったと思います。私は本村の方に住んでいたのですが、父が海の家の管理をする期間だけは、海の家に住み込みをしていました。
 海の家での生活で使う電気は、東レが工場の一番近い所から仮設で入れてくれていました。しかし、水道は、最初の2、3年はない状態だったので、私と弟が水を汲(く)みに行っていました。当時、海岸と陸地は、堤防のようになっている砂丘で隔てられていたので、その丘を降りて、田んぼのあぜ道を通って近くの民家まで水をもらいに行っていたことを憶えています。その井戸は掘り抜き井戸で、地中深くまでパイプを打ち込んでいるようで、ポンプで水を汲み上げていました。海岸から200mも離れていない所で海に近い井戸でしたが、その井戸からは真水が出ていました。水を汲み終えると、水が一杯に入った重たいバケツを、両手で一生懸命に運んでいました。これが一番の苦労で、大変だったことをよく憶えています。海の家で子どもが手伝える仕事は、水汲みのような仕事しかなかったので、手伝いは一生懸命にしていたことが心に残っています。」

 (イ) 海の家の運営

 「海の家での仕事は最初は単なる管理だけで、泳ぎに来た東レの社員が空腹になっているだろうと、私(村井好明さん)の母が主体的におにぎりを作って無償で配っていました。しかし、しばらくすると、それではいかんだろうと、会社で食券が配布されるようになり、その食券と引き換えとなりました。その後、ほかの物を販売しても構わないことになり、パンやおでん、飴(あめ)湯やラムネ、アイスキャンデーなども販売するようになりました。
 パンは、玉生(たもう)神社(玉生八幡大神社)の西側にあったパン屋さんから仕入れていました。また、ラムネやジュースは、伊予市にあったラムネ屋さんから仕入れていました。松前の夫婦橋(めおとばし)の近くにもラムネを作っていた人がいたので、そこから仕入れることもあったようです。仕入れたラムネは三輪自動車で海の家まで運ばれて来て、納品されていたことを憶えています。
 海の家は、漁師が地引き網を引く所の近くでもあったので、漁をしている漁師もあれこれと注文に来ていました。ただ、漁師は、全て付けでの購入で、年末に集金をしなければなりませんでした。東レに勤めている人は、大体が現金払いで購入してくれていましたが、時々、『給料もろたら。』とか、『ボーナスもろたら。』と言って、付け払いにして名前だけを書いて帰る人もいました。
 夏の終盤になると水泳大会が開催されていました。本当に競泳だけをするのではなく、言わば会社から社員への感謝祭のようなもので、宝拾いやスイカ割り、『桃投げ』といって、沖合の船から投げられた桃を泳いで拾いに行くゲームなどが行われていました。海に浮かぶ桃を拾い上げてきれいに洗うこともなく食べていたのですから、海がそれだけきれいで、何も心配をする必要がなかったということでしょう。」

 (ウ) 海の家の安全管理

 「海水浴場では、人命救助の対策も必要とされていたので、私(村井好明さん)の父が伝馬船を一艘(そう)雇い入れ、遊泳客がいる間は沖で待機させていました。雇われた人も、『(日当は)何ぼでもええよ(いくらでもよいですよ)。』とは言ってくれていたようですが、人々の安全のために仕事をしてくれていることへのお礼の気持ちも込めて、それなりの金額を払っていたようです。
 やはり、安全対策はするもので、泳いで沖の方まで出てしまい、岸に戻れなくなった子どもを伝馬船に引き上げて救助したこともあります。また、沖で体力が尽きてしまい、溺れそうになって、『もうよう泳がん。』と、救助を求めて来た方を助けたこともありました。
 海水浴場は遠浅だったので、海水浴客だけではなく、マテガイやアサリなどを採る方もいました。貝を採ることに夢中になっていたら、潮が徐々に満ちてきて、沖合の州のような所で採っていた方は、取り残されて帰れなくなってしまうことがありました。伝馬船から、『泳いで帰るか。』と声を掛けると、『よう泳がんけん(泳げないから)乗せてくれ。』と言われ、岸まで乗せて帰ったこともありました。」

ウ 海岸での釣り

 「私(矢田弘さん)が東レに入社した昭和30年(1955年)ころは、塩屋の海岸にはマツの木がたくさんあり、とてもきれいな海岸だったので、東レに勤める若い従業員の格好のデートスポットになっていました。夏には、海の家が開かれていたので、そこからござを借りたり、管理人がいないときには、黙って使ったりしていたこともあったようです。
 また、当時の東レには女工(女性工員)が2,000名余り、男性工員が1,000名余りと、従業員がたくさんいたため、部活動などの従業員の活動が盛んに行われていて、柔道部などの体育系の部員は、基礎練習でよく塩屋の海岸を走っていたことを憶えています(写真2-2-6参照)。
 海岸は、砂地の遠浅だったので、私はよくキス釣りをしていました。塩屋の海岸で釣れるキスは、白くてきれいだったことを憶えています。海釣りは、潮に左右されるので、朝勤(7時から15時)、午後勤(15時から23時)、夜勤(23時から7時)の三交替で仕事をしていた私たちにとって、勤務の時間帯と潮の具合とをうまく合わせることが、よく釣れるポイントになっていました。
 現在の東レ西工場や松前町の浄化センターがある、塩屋の海岸から飛び出たような埋立地ができた当初のころのことです。ここは遠浅を沖合まで埋めた所で、すぐに水深が深くなっています。そこに消波ブロックを置いていたので、魚の格好の隠れ家になっていたようで、そこでは大きいものから小さいものまでカサゴがよく釣れていました。しかし、残念ながら今は全然釣れません。キスもカサゴも少なくなってしまったようです。あまり釣れなくなり、マツも最近植えた小さなマツしかありませんが、海に沈む『だるま夕日』が見える景色は昔のままで、今も変わっていません。」

エ 河口の記憶

 (ア) 石積み

 「私(村井好明さん)は、重信川河口では川ガニやウナギを獲っていました。石を積み上げ、シキビやススキの葉っぱを敷き、また石を積み上げて、3段くらいにします。その上から網で覆って、その網が流れないように杭(くい)を打って取り付けます。そうすると川ガニやウナギが石の間に入り込んで巣にします。1週間くらいして、この石積みを解体する時に、被(かぶ)せていた網を下流に受けておくと、その網に獲物が入ります。ボラやハヤなどは、上流に泳いで逃げることができるので、魚の類いはほとんど獲れませんでしたが、タコなども獲れていました。河口であるため、汽水で、淡水と海水の両方の生き物が獲れました。」

 (イ) シラス漁

 「私(村井好明さん)は、シラス(ウナギの稚魚)漁が盛んに行われていた時期があったことを憶えています。冬の寒い時期になると、夜にバッテリーを持って海へ行き、電灯を点(つ)けてその明るさに寄ってくるシラスを目の細かい網ですくっていました。シラス漁には鑑札が必要なので、漁業組合にいくらかのお金を支払って漁の権利を買うのですが、当時一番稼いでいた人は、一冬で100万円、200万円と稼いでいて、良い小遣いになっていたようです。昭和40年(1965年)から昭和50年(1975年)くらいが一番盛んに行われていたと思います。獲りすぎたためか、また、川自体がウナギが住むことができるような環境ではなくなったせいか、今では本当に少なくなってしまいました。」

 (ウ) 流れてくる筵

 「私(藤崎茂さん)の祖父は、カニが好物でした。私が獲ったモズクガニをバケツに入れて、祖父の家まで持っていくと、とても喜んでくれていたことをよく憶えています。
 普段は石の間にいるモズクガニを獲るのですが、大雨が降って川が増水し、筵(むしろ)が河口まで流れてくることがありました。流れ着いた筵を捲(めく)ってみると、必ずと言っていいほどモズクガニが3匹くらいはいました。今は筵が流れてくること自体ありませんし、たとえ流れて来ても何もいません。当時は、流れる筵にも付くくらい、カニがたくさんいたのだと思います。」

 (エ) 大きなアサリ

 「河口では、アサリがよく採れていたので、大勢の方が採りに来ていました。ちょうどアサリが採れる所に養殖ノリの網があったのですが、アサリを採りに来た人たちが変に思われたらいけないと思ったのでしょうか、ノリ網の下には採った跡が全くありませんでした。それを見て私(藤崎茂さん)は、『あの人らはノリは盗らない、貝を採るのでもノリを作っている所の下まではいろわん(触らない)のじゃな』と思っていました。ノリ網の周りは、ほとんど全部掘り返されていましたが、網の中は絶対に手が付けられていなかったことには、今でも感心しています。
 養殖ノリの仕事を手伝っていても、子どものことですから、途中で飽きてきます。私は手伝いに飽きてしまったときには貝掘りをしていました。網の下を掘ってみると、ハマグリかと思うような大きなアサリがたくさん出てきていたことを憶えています。アサリを採りに来ていた人たちが誰も手を付けていなかったからでしょう。私はバケツ一杯になるくらいのアサリを採って帰っては、自分の家で食べるだけではなく、近所の方たちにも配っていました。」


写真2-2-1 引き綱の引き方

写真2-2-1 引き綱の引き方

平成29年9月撮影

写真2-2-2 ちょんがけの結び方

写真2-2-2 ちょんがけの結び方

平成29年9月撮影。引き綱を棒で代用している。

図表2-2-1 本結び

図表2-2-1 本結び

村井好明さんの実演から作成

写真2-2-5 塩屋の海岸

写真2-2-5 塩屋の海岸

平成29年12月撮影。国近川北側の海に突き出ている石積みの「かま」。背景は東レ工場。