データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 砂丘での農業

 戦前・戦後から昭和40年代ころまでを中心とする南黒田地区における農業と人々のくらしについて、岡井馨一郎さんに話を聞いた。

 (1) サトウキビ栽培と製糖

ア サトウキビの栽培と収穫

 「私の父は会社勤めをしていて、主に母が農業を行っていました。私が小学生のころ、昔の国道56 号(現県道22号伊予松山港線)より西側の、北黒田から新川(伊予市)辺りにあった畑の7割近くはサトウキビ畑だったと思います。北新川の辺りに私の家の畑が3反(約30a)余りあり、家の畑仕事を手伝いに行ったとき、辺り一面にサトウキビ畑が広がっていたことを憶えています(写真2-1-8参照)。その辺りは小石混じりのさらっとした土質で、米よりも野菜などを作るのに適していました。また、伊予鉄新川駅から少し西に行った所には伊予鉄が経営していた新川の海水浴場があったことを憶えています。
 4月になると畑に掘った穴に貯蔵していた種用のサトウキビを掘り出し、畑に植え付けていました。サトウキビはおよそ15㎝間隔で節があり、そこから芽が出ますから、なるべく良い節を選んで20㎝から25㎝くらいの長さに切り、それをある程度間隔を空けながら植え付けていました。夏場は乾燥させないために、毎朝水汲みをしていました。そして、夏が過ぎ稲の収穫が終わったころにサトウキビの収穫をするのですが、そのころにはサトウキビは人の背丈よりもはるか高くまで成長していました。サトウキビは一つの株から10本くらい茎が出るのですが、鎌で刈らずに株から1本ずつ折って収穫していました。1本ずつ折ると根元からきれいに折ることができました。残った根株は、次の作の邪魔にならないように後でおがし、収穫したサトウキビは稲わらで両側を縛って倉庫へ運びました。サトウキビを搾る前には渋皮を1本ずつ手でのけるのですが、その作業は子どもの手も借りて行っていました。収穫したサトウキビのうち倉庫に入り切らなかったものは屋外へ置いていました。当時はビニールシートがなかったので、雨よけと保温のために渋皮を縛ったものをサトウキビの上へ置いていました。搾る前のサトウキビが雨に当たったり凍結したりすると砂糖の質が悪くなるのでそうしていました。年末くらいに、収穫したサトウキビの一部を種用として土に埋めてその上に稲わらを置いて貯蔵し、翌年の4月ころに圃場(ほじょう)へ植え付けていました。また、サトウキビの収穫後には同じ圃場でほかの作物を作っていたため、連作障害が起こりにくかったのではないかと思います。当時は5、6反(約50、60a)から1町歩(約1ha)の田畑を所有している人がかなりいたので、サトウキビ栽培で生計を立てていた人の中には、サトウキビを2反ずつ、毎年違う圃場へ植えていくという方法を採る人もいました。」

イ 砂糖の製造

 (ア) サトウキビ搾り

 「戦前の南黒田には、個人経営と共同経営のものを合わせると4か所の製糖所がありました(写真2-1-9参照)。砂糖の製造作業は11月の初めころから2月の末ころまで行われ、私は子どものころ、冬場はほぼ毎日、製糖所で火の番や煙突の番をしていたことを憶えています。サトウキビを搾る作業のとき、古くは牛に石臼を回転させて搾っていたそうですが、私が憶えているのは、機械で搾るようになってからのことです。戦後の電力不足の時代には2年くらい、動力源として漁船で用いる焼玉エンジンを使っていたと思います。その後、私が小学2、3年生のころには、電気モーターを動力として鉄製のローラーを回転させてサトウキビを搾るようになりました。その機械は岡山県の会社で製造されたもので、機械を導入したとき、社長さんが機械の試運転や調整のために泊まり掛けで来られたことがありました。また、サトウキビの搾りかすは畑の肥料や牛の飼料として使っていたほか、搾りかすを圧縮したものを束にして、半年くらい乾燥させてから燃料として使っていました(写真2-1-10参照)。」

 (イ) 煮沸と冷却

 「当時は、サトウキビの搾り汁を釜で煮詰めて水分を蒸発させ、それを冷却し固めて砂糖を製造していました。鉄釜の上に桶(おけ)枠を付けた砂糖釜が、焚(た)き口から直列に一番釜、二番釜、三番釜と3個据えられ、奥には煙突がありました(図表2-1-2、写真2-1-11参照)。三つの釜の大きさは二番釜が最も大きく、三番釜が少し小さいものでした。昭和26、27年(1951、52年)くらいまでは材木を燃料として使っていましたが、石炭が十分に出回るようになると石炭に替わっていったと思います。
 サトウキビの搾り汁は、最初に一番釜と二番釜に同量を入れ、一番釜の液が沸騰すると二番釜へ移し入れ、搾りかすなどの不純物を取り除いた後、石灰を入れて不純物を沈殿させて、上澄みを『すまし桶』と呼ばれる桶へ入れます。この桶の直径は1m、高さは1m50cmくらいで、桶の中で不純物を沈殿させました。
 こうした釜や桶を使用しながら、最終的には一番火力の強い一番釜で煮詰めて砂糖を仕上げていました。一番釜で煮詰めた後、かき混ぜることによって一層水分を蒸発させ、残った粘り気のある汁を、高さが1m近くある壺へ二つないし三つに分け入れて熱を冷まします。そして、搾り汁が7割から8割程度固まった段階で鍋や桶などに移して倉庫に入れておくと、冬場のことなので冷えて自然に固まっていました。砂糖の最盛期には、搾り作業、煮沸作業ともに二交替制あるいは三交替制で24時間操業で行われていました。搾り作業も煮沸作業も二人一組で行っていて、三交替で行う場合には6人必要でした。搾り作業は2台の機械で搾っていたので6人でよかったのですが、煮沸作業はそれが2系統あるので、12人必要でした。昭和20年代から30年代の半ばまでは、この辺りにも農業に従事している青年が結構いたので、それだけの人手を確保することができました。また、私の子ども時分は、南黒田には民家が140 戸から150戸くらいあり、子どもの数もかなり多かったため、製糖作業を手伝う子どももたくさんいました。作業中の製糖作業場は、甘くてとても良い匂いが広がっていて、製造中の砂糖をこっそりなめているところを煮沸作業中の大人の方に見つかって、お仕置きされたことも懐かしい思い出です。」

ウ 高値で売れた砂糖

 「戦前から戦後の物不足の時代には、この辺りで製造された砂糖が飛ぶように売れていて、砂糖20斤(約12㎏)が今のお金の価値に換算すると30万円から40万円くらいの価格で取り引きされることもあったそうです。昭和20年代には、この辺りの換金作物の中ではサトウキビの値が最も良く、南黒田と北黒田の農家の人たちにとっては良い現金収入であったと思います。砂糖の最盛期には、製造した砂糖が倉庫に入り切らなかったため、家の中へ何段も積んで並べていましたが、それを税務署の人が見に来ていました。砂糖を販売するには税務署の検印が必要で、ヤミ流通を防ぐため、税務署は歩留まり(原料の投入量から期待される生産量に対して、実際に得られた生産量の比率)を計算し監視していたのです。
 その後、外国から輸入された安価な砂糖が増えてきたこともあって、南黒田と北黒田にあった製糖所も次第に姿を消していき、最後まで残っていた私の叔父の家の製糖所も、昭和36年(1961年)にやめてしまいました。」

 (2) さまざまな野菜の栽培

ア サトイモの栽培

 「私は叔父から、戦前はハクサイやダイコン、キャベツを作っていたという話を聞いたことがあります。収穫したキャベツなどを箱詰めして、伊予市の港へ運んで船に積み、そこから大阪の方へ出荷していたそうです。この辺りではキャベツも冬場であれば作ることができますが、夏場は虫がたくさん寄って来るので3日にあげず(間をおかず)消毒しなければ出荷できませんでした。
 サトウキビ栽培が終わる前後くらいから、サトイモやタマネギ、カボチャなどが作られていました。私が中学生のころには、この辺りでもサトイモがかなり作られていましたが、昭和20年代の末ころから作られていたと思います。サトイモやソラマメは連作障害を起こさないように3、4年は空けて栽培しなければならないので、広い圃場を所有する農家でなければなかなか作ることができませんでした。また、サトイモの栽培には多くの水が必要なので、朝と昼の2回、畑へ行って揚水ポンプで汲み上げた水を一旦タンクへためて、タンクから自分の家の畑に水を送っていました。昼に水汲みをした後は、天気が良ければ近くの海で泳いで帰るのが子どものころの日課でした。しかし、雨が降ると水汲みをしなくてもよい代わりに泳ぐことができないので、つまらない思いをしたことを憶えています。サトイモの収穫は8月に入ってからお盆明けくらいまでの2週間程度で行っていました。午前2時から3時ころに起きてサトイモを収穫し出荷できる状態にしておくと、朝には松山の小栗(おぐり)、藤原(ふじわら)辺りの業者さんが買い付けに来ていました。業者さんはサトイモをほかの業者さんに売ったり、洗って皮をむいた状態で八百屋さんに卸したりしていました。サトイモは重量物であるため栽培する農家が減り、今では自家用くらいしか作られなくなりました。」

イ タマネギの栽培

 「戦後、黒砂糖が白砂糖や輸入品の砂糖に押されるようになると、この辺りでは主にタマネギが栽培されるようになり、サトウキビが植えられていた田畑にもタマネギが植えられていました(写真2-1-12参照)。タマネギは、国の指定産地になっていた時期もありました。東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕開催)や大阪万博(昭和45年〔1970年〕開催)のころはタマネギの値が結構良かったので、南黒田では多い人で1町歩(約1ha)くらい、少ない人でも2、3反(約20、30a)くらいの畑でタマネギを栽培していて、南黒田全体ではタマネギを10町歩(約10ha)は栽培していたと思います。圃場によっては3作(同じ作物を年3回収穫すること)の所もありましたし、連作障害を防ぐために空いた所へ植えたりする人もいました。カボチャはタマネギと同じ圃場で作られていて、植えているタマネギの間に植えられていましたが、植える時期が少しずれていたのでタマネギの収穫後にカボチャの蔓(つる)が伸びてくるという状態になっていました。
 タマネギの品種としては主に早生(わせ)系と中生(なかて)系のものを作っていました。10月下旬から11月くらいに植え込むと早生系の収穫時期は3月末から4月で、中生の収穫時期は4月の末から5月の連休明けくらいでした。田植えの時期までにタマネギの収穫を終えることができたので、収穫後には田んぼを整備してから田植えをしていました。」

ウ タマネギなどの出荷

 「昭和30年代から、タマネギやカボチャは主に伊予園芸(現えひめ中央農協)へ出荷していました。タマネギの出荷には人手がいるので、学校が休みの日には子どもも手伝っていました。キャベツやダイコンなどは松山の土橋(どばし)にあった市場へ出荷していましたが、温泉青果(現えひめ中央農協)の市場(現松山市中央卸売市場)ができるとそちらへ出荷するようになりました。昭和30年代のことだったと思いますが、タマネギは自分で作った木箱に20㎏くらい詰めて出荷していたことを憶えています(写真2-1-13参照)。木箱は幅が10㎝くらいの板を打ちつけて作ったもので、板と板との隙間から中のタマネギが見えていましたが、通気性が良く箱も軽いという利点がありました。やがて木箱の材料費が高くなり、タマネギの価格も下がってきたので、赤色のネットに20㎏分のタマネギを入れて出荷するようになりました。
 伊予園芸へ集められたタマネギは、職員が出荷先を振り分けたり、市場契約できている業者へ出荷したりしていました。伊予市にはかつて個人経営の青果市場があり、松前町でも個人で農作物を契約している業者へ発送している人もいました。大阪万博が終わってから4、5年の間は価格が安くてもタマネギを作っていましたが、その後、外国産タマネギの輸入が増えて、タマネギの取引価格が10㎏当たり400円から600円くらいにまで下落すると、採算が取れない上に重量物であるため、タマネギを生産する農家は急激に減っていきました。」

エ 伊予市とのつながり

 「私の家のある南黒田は松前町、家の畑があった北新川は伊予市に属していますが、江戸時代にまでさかのぼるとどちらも大洲(おおず)藩領であり、そうした関係もあって昔から南黒田は伊予市とのつながりが強かったのです。まだスーパーマーケットなどがなかったころ、南黒田の人たちは、肥料や農薬といった資材関係や生活用品などの8割くらいは伊予市の個人商店で買っていましたし、今も南黒田の農産物は伊予市でも販売されています。また、以前ほど多くはありませんが今でも南黒田の人の中には新川辺りの土地を所有している人がいます。」

オ ネギの栽培

 「南黒田では、昭和40年代くらいからタマネギやカボチャに代わってネギが広く栽培されるようになりました(写真2-1-14参照)。タマネギやカボチャの価格が安くなったこと、農家の方も高齢化してきて重い農作物を持ち運ぶのが難しくなったことなどがその理由でした。また、昭和40年代の半ばまでは南黒田でも米の裏作として麦が栽培されていましたが、麦の価格が安い上に生産量もそれほど多くなく採算が取れないために栽培されなくなりました。
 私も最初は父と同じように会社勤めをしており、農作業と言えば土日に手伝うくらいのものでした。私の家では、サトウキビ栽培をやめた後は主にタマネギとカボチャを作っていたほか、自家用の作物を作っていました。私は若いころに会社を辞めてからは、自分の家の畑と叔父の畑の一部を合わせて5反(約50a)余りの畑でネギを作ってきました。ネギは軽量で単価も比較的高く、生産性も高いため、何とか生計を立てることができています。ネギはトラクターや耕うん機で畑を鋤いた後、一定の間隔で畝立てをして機械で種を播きます。以前は手で播いていましたが、今は良い種播き機ができているので、機械で畝1列当たり2条ずつ播いています。圃場に種を播く時期によって、1年に3作できる圃場もあれば2作で終わる圃場もありますが、平均すると2.5作くらいの割合で作っています。現在、私はネギしか作っていませんが、この辺りでは家庭菜園のような広さの畑で自家用のカボチャやスイカ、キュウリ、ナス、ダイコンなどの野菜を作っている人もいます。なかにはオクラやエダマメを作って農産物直売所に出荷している人もいますが、出荷量はそれほど多くありません。野菜作りで手一杯で田んぼの管理までは手が回らないという農家の中には、ほかの人に米を作ってもらっている人もいますが、米作りをしている農家は本当に少なくなりました。南黒田でも、会社などに勤めたり農地を売却したりする農家が増えてきて、現在ではネギを作っている農家も4、5軒になりました。一時期は松山の卸売市場に登録していた農家が30軒くらいあったと思いますが、今では5、6軒の農家が日々出荷しています。南黒田では、農業で生計を立てている家はせいぜい10軒くらいだと思います。自身は会社勤めをしながら、ほかの人に農地を耕作してもらっている人もいます。田んぼの場合は、雑草が生えても水を入れて鋤き込めば比較的雑草を取り除くことができるのですが、畑の場合は1週間も放っておくと雑草が伸びてしまい除草に時間がかかるため、なかなか難しいのです。」

カ 揚水ポンプの利用

 「昔はそれぞれの圃場に井戸を掘り、『はねつるべ』で水を汲んでいて、そのころは、夜中の2時か3時に起きて水を汲みに行っていたそうです。しかし、私が子どものころには、共同利用の動力ポンプを利用して水を汲んでいました。何軒かの農家で組を作って井戸を掘り、配水用の素焼きの土管を何本もつないで地下に埋設し、動力ポンプで汲み上げた水を畑へ送っていました。今では私も含め、ほとんどの農家が自分の畑に個人所有の1馬力の動力ポンプを設置して地下水を汲み上げ、農業に利用しています(写真2-1-15参照)。」

参考文献
・ 松前町教育委員会『まさきのくらし』1973
・ 松前町『松前町誌』1979
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1985
・ 四国民家博物館『讃岐及び周辺地域の砂糖製造用具と砂糖しめ小屋・釜屋≪調査報告書≫』1987
・ 松前史談会『松前史談 第29号』2013
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『松前町の風土と人々のくらし』2017


写真2-1-10 サトウキビの搾りかす

写真2-1-10 サトウキビの搾りかす

平成29年9月撮影

図表2-1-2 製糖釜の配置図

図表2-1-2 製糖釜の配置図

聞き取りにより作成

写真2-1-11 製糖に使用していた釜

写真2-1-11 製糖に使用していた釜

平成29年9月撮影

写真2-1-14 ネギ畑

写真2-1-14 ネギ畑

平成29年12月撮影

写真2-1-15 ブロック造りの揚水ポンプ小屋

写真2-1-15 ブロック造りの揚水ポンプ小屋

平成29年9月撮影