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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 くらしを支えた農業

 松山平野の南西部に位置する松前町は、そのほとんどが海抜高度20m未満の低平な扇状地または三角州性の沖積平野である。耕地は町の全面積の約4割にも及んでおり、温暖な気候にも恵まれ古くから米麦の穀倉地として発展し、レタス、タマネギ、ソラマメ、イチゴ、ネギ、花きなどの都市近郊型農業もさかんである。
 大麦の一種である裸麦については、愛媛県は30年連続日本一の生産量(平成28年〔2016年〕現在)を誇り、松前町は西条(さいじょう)市、東温(とうおん)市とともに裸麦の県内の三大産地となっている。
 また、松前町の北黒田(きたくろだ)、南黒田から伊予市の新川(しんかわ)にかけての砂丘地帯では野菜栽培が盛んに行われてきた。砂丘における畑作経営は砂礫(されき)質土壌が地温の上昇を早め、促成栽培できる利点がある一方で灌水(かんすい)に苦労し、かつての「はねつるべ」による井戸水の取水は大変な重労働であったが、今日では揚水ポンプが利用されている。江戸時代には、麦・豆・ソバなどの自給作物が栽培されていたが、幕末の嘉永元年(1848年)に讃岐国より甘蔗(かんしょ)(サトウキビ)が導入され、明治年間には最も重要な作物となった。明治・大正年間には、夏作の甘蔗と冬作の裸麦の二毛作が一般的な作付体系であった。昭和10年代には減少した夏作の甘蔗は、第二次世界大戦後の物不足の中で復活し砂糖ブームが再来したが、それは一時的な現象にすぎず、やがて製糖所も姿を消した。
 本節では、裸麦栽培を中心とする農業についてAさん(昭和12年生まれ)から、砂丘でのサトウキビや野菜の栽培について、Bさん(昭和17年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。