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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 住吉神社の祭り

 住吉神社は、往古より海上の安全守護の神として漁民を護(まも)り、豊漁を授け、沃土の開発と療養健康保持、家内安全幸福を守る神として崇(あが)められ、日本全国に約600社ある。新立地区にある住吉神社は伊予国の藤の宮九社の一社で、神功皇后が三韓より凱旋したとき、住吉明神のお告げにより藤の枝を九本海中に流され、そのうちの一本が当地に漂着したので、住吉明神を祀(まつ)ったと伝えられている。慶長年間(1596年〜1615年)に大坂の住吉大社を勧請(かんじょう)し、明治43年(1910年)1月に信徒を挙げて社殿を寄進して篤く奉斎(ほうさい)した(写真1-2-4参照)。毎年10月13日から15日にかけて3日間行われる秋祭りの際には、住吉神社を出発した神輿が地区内を練り歩く。祭りの賑わいについて、満田泰三さんと仙波勲さんは次のように話してくれた。

ア 昭和10年代の秋祭り

 「松前町には六つの神社が氏神として鎮守し、地区によってその氏神が違っています。祭りの際の神事は氏神とされる各神社の神主が氏子の地区にある各神社を訪れて行いますが、新立地区の場合は玉生(たもう)八幡大神社の神主が住吉神社まで来て行っていました(図表1-2-5参照)。
 神事が終わると、御輿を担ぎながら地区内を練り歩き、地区の家々から『お花代』を集めて回りました。確か、当時のお花代は1銭か2銭くらいだったので、ほとんどの家が出してくれていました。集めたお花代は祭りの費用に充て、『おもりこぼし』という言葉があるように、集まってくれた人々にビールなどの品物を提供するなどして、御礼として地区の人々に還元していました。当時は住吉通りに万国旗が掲げられていて、人々もたくさん集まって大変賑やかだったことを私(満田泰三さん)はよく憶えています。」

イ 夫婦橋での神輿の鉢合わせ

 「本村地区と新立地区の神輿が夫婦橋(めおとばし)で行う鉢合わせは激しいものとして有名で、近郷近在から多くの人々がやって来て、それは賑やかでした(図表1-2-1、写真1-2-5参照)。本村側の神輿は蛭子(えびす)神社から、新立側の神輿は住吉神社からそれぞれ出発しますが、まず玉生八幡大神社の神主がそれぞれの神社に来て神事を行ってから地区を回り、それから夫婦橋へ向かいます。
 昭和20年代、私(満田泰三さん)が青年団の役員をしていたころのことですが、当時は『石投げ』と言って、エキサイトした観客がその辺にあるものを何でも神輿の方へ投げ込むということがよくありました。ある時、新立側の人が投げた物が神輿の上に上がっていた本村側の人の目に当たってしまい、病院に担ぎ込まれるという事故があり、私たち青年団の者たちが伊予署に呼ばれて指導を受けることになってしまいました。それ以降は、『石投げ』という行為はなくなりました。
 当時のことでさらに思い出すのが、喧嘩の境界線です。現在警察学校がある辺りがそうで、そこから玉生八幡大神社がある北側では喧嘩は絶対にさせないし、そのような人は入れさせないと警察が相当に力を入れていたことをよく憶えています。」

ウ 縁日

 「昔は今のようにレクリエーションが盛んではなかったので、各地で行われる神社などの縁日(ある神仏に特定の由緒ある日)のお祭りには必ず露店などが立ち並び、それは賑やかだったことを憶えています。お祭りの日程を順番に挙げると、最初が7月17日の黒住教、次が7月21日の住吉神社と続きます。それから玉生八幡大神社のお祭りが8月1日、海から拾ってきたと言われる観音像を祀(まつ)るお祭りが8月9日、お大師さんと大念寺のお祭りが8月20日、そして8月24日に行われる北黒田の延命地蔵のお祭りで最後になります。約1か月間お祭りが続くので、私(満田泰三さん)たちはどのお祭りにも参加して楽しんだものです。
 特に、地域の人々が自分の家にあるさまざまな物を用いて形を作る『ツクリモノ(家にあるものを使って作られた人形や出し物のこと)』をそれぞれ出し合って道路に飾ったり、演芸をしたりして、本当に賑わっていました。例えば人形を作る際には、タワシを目玉にしたり、バケツを逆さにしたりするなど各家庭それぞれの工夫が見られ、さまざまなアイデアで作られた人形はなかなか見応えがありました。この『ツクリモノ』は松前町では見られなくなりましたが、伊予市や中山(なかやま)町(現伊予市中山町)では今も盛んに行われています。」

 (2) かつて新立にあった二つの大坪座

 「旧松前町にはかつて、第一大坪座と第二大坪座という二つの芝居小屋がありました。第一大坪座は夫婦橋の南側にありましたが、その場所はもともとお墓だったので、人骨がだいぶ出て来たと父から聞いたことを私(満田泰三さん)は憶えています。第一大坪座を経営されていたご家族が敷地の中に小さな祠(ほこら)を作って、霊を弔っていたそうです(図表1-2-6、写真1-2-6参照)。
 第二大坪座は現在の松前町ふれあい広場の所(ふれあい広場になる前は伊予銀行松前支店)にありました。戦前は『五彩座(ごしきざ)』といい、五人の経営者が株式を募ってつくった芝居小屋で、東京の国技座並みの建物でした。映画も上映していて、私は映画を観(み)るためによく通いましたが、入場料をタダにする代わりに『下足料』を観客から徴収していたことをよく憶えています。下足料とは履物の預かり賃のことで、確か2銭か5銭くらいだったと思います。上映開始の1時間くらい前から、『今日の映画は5銭です。』というように町中に宣伝をしていました。しかし、『共同ものは水に流れる』という言葉の通り、経営がうまくいきませんでした。戦後、満州(まんしゅう)(現中国東北部)から戻って来た坪内壽夫さんが五彩座を買収して、第二大坪座という名称にしたのです。それ以降は、(営業成績を良くしようと)二つの大坪座が互いに競い合っていました。」

 (3) 水と人々のくらし

ア 地区ごとに異なる水源

 「松前町の中でも水量が豊富で水質が良いのは、徳丸(とくまる)地区、中川原(なかがわら)地区、大間(だいま)地区、恵久美(えくび)地区を流れ、さらに西古泉(にしこいずみ)地区の水源地へと至る西へほぼ一直線に続く範囲で、そこが松前町の水脈です。南黒田(みなみくろだ)地区や横田(よこた)地区では金気(かなけ)(水中に溶けて含まれている鉄分のこと)が出ますし、出合(であい)辺りの河川流域は水量があまりありません。 
 また、国近川の源流は出作(しゅっさく)地区付近で、そこから大間地区、上高柳(かみたかやなぎ)地区、昌農内(しょうのうち)地区、西古泉地区、筒井地区と西へ流れています。かつて松前町には泉がたくさんあり、全て自噴でした。私(仙波勲さん)が松前町役場に就職した昭和33年(1958年)ころ、中川原地区から通勤していた私の先輩が、『中川原地区では、付近の人は作業着や野菜、生活用品などを泉のきれいな水でいつも洗っている。』と言っていたことを憶えています。
 私たちは泉の水を農業用水として利用していますが、地区ごとで水源が異なっています。私が生活している筒井地区の場合は、神崎(かんざき)地区の福徳泉の水を利用しているので、毎年5月には、水系の鶴吉(つるよし)地区、永田(ながた)地区、西古泉地区、筒井地区から農家の方がそれぞれ5人ずつ参加して泉の清掃を行っていましたが、昭和39年(1964年)に道前道後水利総合開発事業により面河ダムからの通水が開始されるとその役目は終わり、現在は町管理になっています。筒井地区の南隣りに位置する新立地区の場合は、別の泉の水を利用しています(図表1-2-7、写真1-2-7参照)。」

イ 神取泉の水を利用する新立地区

 「私(満田泰三さん)が生活している新立地区の川筋は地下水が豊富で、昔は5mほど掘れば水がすぐに湧き出て来ていました。ただし、農業を行うには大量の水を必要とするので、鶴吉地区の神取(かんどり)泉から流れて来る水を農業用水として利用しています(図表1-2-7、1-2-8参照)。水は私たちの生活にとって必要不可欠なので、それを供給してくれる泉をきれいにすることは私たちの大事な行事の一つです。毎年夏になると必ず新立地区の人々総出で神取泉へ行って泉浚(さら)えを行っていましたが、泉の端から上流の方までかなりの距離を浚わなければならず、作業が終わるまで3日ほどかかっていたと思います。作業が終わると、泉のそばに建てられていた『協議所(集会所のこと)』という建物に集まって食事をし、一杯お酒を飲んでから家へ帰っていました。また、大量の水が供給されなければ稲を育てることができないので、川上の方へお酒を持って行って供え、『どうぞ水を通してください。』とお祈りをしていたこともよく憶えていますし、『川浚えをすることは私たちにとって義務である』という意識が常にありました。」

ウ 泉の枯渇、地下水の水位低下

 「昭和27年(1952年)ころ、松山市にさまざまな企業が進出して地下水を汲(く)み上げ始めると、松前町の泉がどんどん枯れていきました。そのため、松山市の人々と松前町の人々との間に水利権を巡る争いが頻繁に起こっていたことを私(仙波勲さん)は憶えています。現在は、松山市西部の工業地帯の企業などが地下水を工業用水として大量に汲み上げて使用していますし、杖ノ渕(じょうのふち)公園や中央高校(愛媛県立松山中央高等学校)の近くに大きな揚水施設をつくって地下水を汲み上げて使用しているので、松前町の地下水の水位がどんどん低下しています。
 終戦直後は打ち抜きをすれば地下水がすぐに噴き上がって来ていましたが、今は地下15m付近にある泥岩層を越えてさらに2mくらい掘り進めなければ、水質の良い水を確保することができなくなってしまっています。」

 (4) 青年団長として
 
 満田泰三さんは、昭和20年代前半の2年間青年団長を務め、さまざまな取組を通して戦後の松前町の発展に尽力された。「自らが携わった取組の中でも、特に公民館建設運動、農産物品評会の開催、盆踊り大会の開催の三つの事業が今でも印象深く残っています。」と話してくれた。

ア 公民館建設運動

 「昭和20年代前半に、公民館建設運動がありました。旧松前町にはまだ公民館がなかったので、私たち青年団は町長等に働きかけて公民館建設の実現を訴えました。その時、NHKの藤倉修一アナウンサーが街頭録音(ラジオ放送番組の一形式。時事問題などについて、一般民衆の意見を街頭で収録し、放送するもの。昭和21年〔1946年〕にNHKが行ったのが最初)をしてラジオで放送していたので、『自分たちでもやってみよう』と考え、現在、松前町ふれあい広場がある辺りで公民館建設に関する街頭録音を実際に行いました(写真1-2-8参照)。
 その際、『公民館を建設するために町が予算化までしていたのに、議会の反対で保育所(現在の松前町立松前保育所の前身)建設に変わり、保育所内の遊技場を公民館にするという話に変わってしまうというのはおかしいのではないか。』という意見があったので、それをガリ版で刷って地域に配布しました。すると、『議会を冒涜(とく)している。』と非難され、青年団長である私は議会で説明をしなければならなくなりました。その時私は、『公民館建設は若者たちの願いであり、遊技場を公民館とすることには賛成できない。』と主張し、結局原案のままで進めることが決まりました(『松前町誌』によれば、青年団が社会教育の必要性を町当局に要望したのは同23年〔1948年〕12月11日のこと)。その後、この時の公民館建設がきっかけとなって東公民館や西公民館等が次々と建設されていきました。公民館建設運動は、私が青年団長を務めた2年間の中で一番の思い出です。」
 青年団の熱意に動かされた旧松前町は松前小学校講堂2階に公民館を設置し、開館記念文化祭を2日間開催して公民館活動の方向を町民に示した。そして、昭和26年(1951年)には松前保育所に併設の松前公民館を建設し、常勤主事を配置した。」

イ 農産物品評会の開催

 「農産物品評会は、昭和25年(1950年)に盆踊り大会が開催されるまで、松前小学校の講堂で行われていました。旧松前町でつくられたタマネギやネギ、ダイコンなどを農家の方々が出品し、農作物の出来栄えを競い合います。そして、品評会が終わった後には農作物の即売会が行われ、飛ぶように売れていたことをよく憶えています。多くの人が参加してくれたので、農産物品評会は本当に大盛況でした。」

ウ 盆踊り大会の開催

 「青年団が盆踊り大会を始めたのは昭和25年のことで、資金がなかったので地域の人々から寄付を集め、松前小学校のグラウンドで2日間にかけて開催しました。約3,000人もの人々が参加したので、旧松前町にあった第一大坪座、第二大坪座という二つの芝居小屋が空になってしまいました。その時、経営者の方から、『あんたたちがいらん(必要ない)ことするけん、お客さんが入らなくなってしまったじゃないか。こらえて(勘弁して)ください。』と言われてしまったことをよく憶えています。これが、松前町盆踊り大会が最初に開催された時の記憶です。私が松前小学校の校長を務めていた昭和50年代も同じ場所で行われていました。後に義農公園に場所を変え、『松前町夏祭り』という名称に変わりましたが、実は私たち青年団がかつて開催した盆踊り大会が前身なのだということを地域の人々に知ってもらいたいと思います。」

 (5) 戦争と災害の記憶

ア 供出

 「昭和20年(1945年)、私(仙波勲さん)が小学2年生の時、運動会の綱引きで使用する綱を船の係留用として軍隊に供出しました。おかげで、その年の運動会では綱引きは行われませんでした。また、昭和19年(1944年)の2、3月ころに軍から金物供出の指令が出て、花生けの道具や宣徳火鉢(せんとくひばち)、制服の金ボタンまで全て供出しなければなりませんでした。供出後、木製のボタンが支給されたので、それを付けて登校していたことを憶えています。供出しなかったものといえば火の見櫓(やぐら)の鐘くらいで、櫓は鋼材から杉柱に変わりました。」
 「戦前のことですが、学校の職員室の横に日露戦争当時の魚雷やロシア兵のサーベルが置かれていたことを私(満田泰三さん)は憶えています。しかし、戦時中の金物回収で、お寺の鐘や学校の二宮金次郎像などと共に全て供出してしまいました。」

イ 松山空襲

 「昭和20年(1945年)7月26日、60機ほどのB29が松前町から松山市の上空を旋回していました。最初に焼夷弾(しょういだん)が落とされたのは古町(こまち)(松山市)付近ですが、松山市内が真っ赤に炎上している様子がこちらから目前に見え、驚きと怖さを感じたことが今でも忘れられません。松前町には被害はありませんでしたが、東レの西側の海に焼夷弾が落ちたことを私(仙波勲さん)はよく憶えています。」

ウ 宣伝ビラ

 「昭和20年7月20日ころ、アメリカの飛行機が松山市内に落とした宣伝ビラを、松山商業に通学していた私(仙波勲さん)の兄が、友人からもらったと言って持ち帰って来たことを憶えています。ビラは白黒の印刷でサイズはB5版の用紙より少し小さく、日米のヘルメットを被(かぶ)った兵隊が握手をしている絵が描かれていました。また、日本語で『日本よい国、強い国、7月8月灰の国』というような文字が書かれていたことも憶えています。」

エ 牛飼ヶ原のマツの木が伐採された日

 「昭和23年(1948年)、私(仙波勲さん)が小学校5年生のころは、新川(しんかわ)(現伊予市)付近にマツの木が少しは残っていて、戦時中に松根油を採った斜めの傷跡が付いていたことをよく憶えています。最後まで残っていたのは松前小学校の敷地内に生育していたマツの木ですが、それも今はなくなってしまいました(写真1-2-9参照)。」
 付記 松前小学校前のマツの木は町文化財として指定されていたが、松喰(まつくい)虫の被害により枯死したため、昭和53年(1978年)に伐採された。その切株は記念樹として松前小学校の玄関に展示されている。

オ 枕崎台風と南海大地震

 「枕崎台風が襲来したのは昭和20年(1945年)9月17日のことでした。台風が来た時はちょうど稲が穂を出し始めたころだったので、この年は稲があまり実らなかったことを私(仙波勲さん)はよく憶えています。被害の大きな品種は本来の収穫量の一割程度、松前町全体では平均にして50%くらいしか収穫できなかったそうです。
 昭和21年(1946年)12月21日、南海大地震が四国を襲ったのは、朝の3時半ころのことでした。昭和18年(1943年)7月以降続いた水害で家が被害を受けていたところに大きく揺さぶられたので、瓦がずれ落ちたり壁が崩れ落ちたりして戸を開けることができませんでした。また、東レは上高柳地区の水源地から工場まで送水管を通して工業用水を確保していますが、長さ3m、直径70㎝くらいのヒューム管を連結させていただけだったので、地震によって管がずれてしまい、そこから水がどんどん吹き上がりました。東レの職員が現地で修理を行いましたが、その日から半年くらいは水漏れが随所で続いていたことを憶えています。さらに、地震のために1m以上沈下してしまっていた海岸部の改修工事が昭和26年(1951年)ころから行われ、港湾の中の岸壁も全てコンクリート製の防潮堤が伊予市から松前町の塩屋(しおや)まで築かれました。当時、新川の海水浴場付近を訪れた人々が、『松原の向こうに潮が見えない。』とよく言っていたことを憶えています。防潮堤の管轄部署は場所によって違い、松前港付近は運輸省、それ以外は建設省がそれぞれ管轄していました。」
 付記 平成13年(2001年)の中央省庁再編の実施に伴い、運輸省、建設省、国土庁、北海道開発庁を統合して国土交通省が設置された。

参考引用文献
① 松前町『松前町誌』1979
② 豫陽叢書刊行會『松山叢談(二下)』1935
③ 松前町松前史談会『松前史談 第10号』1994
④ 松前町『松前町誌』1979
⑤ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
⑥ 松前町松前史談会『松前史談 第6号』1990

その他の参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』1986
・ 松前町東公民館『北伊予の伝承Ⅳ』1998


写真1-2-4 住吉神社

写真1-2-4 住吉神社

平成29年8月撮影

図表1-2-5 松前町内の氏神と氏子の分布

図表1-2-5 松前町内の氏神と氏子の分布

『松前町誌』P.1083の表をもとに作成

図表1-2-6 二つの大坪座の場所

図表1-2-6 二つの大坪座の場所

住宅地図をもとに作成

写真1-2-6 第一大坪座跡に残る供養塔

写真1-2-6 第一大坪座跡に残る供養塔


図表1-2-7 筒井・新立地区の水源

図表1-2-7 筒井・新立地区の水源

平成11年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「松山南部」、平成12年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「郡中」による

写真1-2-7 福徳泉

写真1-2-7 福徳泉

平成29年1月撮影。現在は、公園として整備されている。

写真1-2-8 街頭録音を行った場所の現況

写真1-2-8 街頭録音を行った場所の現況

平成29年11月撮影