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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 事務職として

 (1) 厳しい指導

 「車掌から事務職へ異動をすると、当然のことながら仕事が大きく変わりました。技術系の後輩への指導はもちろんのこと、営業や現金の出納など多岐に渡りました。後輩への指導では、接客態度、特に言葉遣いは厳しく指導しました。私も先輩からの厳しい指導を受けてきて、当時を思い起こせば『辛かったな』と思いますが、社会人として仕事をしていく上では、この研修があって良かったと思っています。日吉の営業所では厳しい指導ではありますが、社会人として身に付けるべき基本が先輩から後輩へと確実に伝えられていたと思います。厳しい指導とは言っても、鉄拳制裁のような極端な指導ではありませんでした。このような指導を通して先輩や後輩との仕事を通じた良好な人間関係が構築され、私自身、先輩には大事にされ、後輩にはよく慕ってもらうことができたと思っています。
 私が事務職となった昭和30年代、日吉の営業所に関係するバスの便数は1日に12本から14本だったと思います。さらに枝線があったので、もう少し多いかもしれません。卯之町へ出るには日吉発で坂石(現西予市野村〔のむら〕町)まで行き、そこで卯之町方面行きのバスに乗り換えていました。バスで卯之町へ行くと、国鉄の列車に接続されるようにダイヤが組まれていました。」

 (2) 陳情への対応

ア 陳情を受けて

 「各機関から、バス路線の延長や新設の陳情書が提出されると、営業所の職員で該当路線についての調査を行います。バス路線では、停留所をほんの数メートル移動させるだけでも地元の陸運事務所へ届け出る必要がありました。バスを利用するお客さんからは、停留所の移動について多くの意見をいただきました。私たち職員は、お客さんの希望に沿いたいという思いは強く持っていましたが、実際に移動させるのはなかなか難しいことでした。希望に沿えず、移動させることができなかったときには、お客さんに対して気の毒な思いをもっていました。お客さんからの要望や各機関からの陳情があれば、その内容に基づいて現地の調査を行い、報告書にまとめていかなければなりませんでした。
 当時はコピー機がなかったので、報告書の作成に際しては複写機を用いていました。全て手作業での作成で、作成部数が多い場合はきれいに印字させるために力を入れて印刷しなければうまくいかず、大変な作業だったことを憶えています。報告書等に添付する地図についても一つ一つ丁寧に手書きで作成をしていました。私は地図を描くことが得意ではなかったので、分かりやすい地図を描くためにいつも悪戦苦闘していて、自分では『できた』と思って先輩に自信満々で見せると、『不十分だ。』とひどく怒られたことを憶えています。特に道路のカーブをうまく描くことが難しく、この作業にはとても苦労をしました。地図上に描く路線についても地図の縮尺に応じて描かなければならなかったので、細かい作業が要求されていたのです(図表3-1-2参照)。
 陳情書は数多く提出されていました。内容としてはバス路線の開設や延長、停留所の新設や移動などについてが多かったと思います。やはり、多くの要望が出るということは、それだけバスの利用者が多かったということだと思います。国鉄という公的な事業体ではありましたが、お客さんあっての事業という思いは強くもっていました。路線の新設に際しては、民間会社の既設路線と重複するようであれば、便数の制限を受けることがありました。例えば、1日に8便のバスが新しい路線を走ることが決まっても、3便しか途中停車による旅客の取り扱いができないという制限です。つまり残りの5便は、終点まで途中の停留所でお客さんを乗せることがなく走るので、回送便のような運行となってしまっていました。
 また、日吉には高知県交通のバスが梼原から乗り入れていて、高知とのつながりもありました。ただ、民間会社では便数の増加や停留所の設置などについては、採算性がなければ陳情を受けることが難しいので、地元の方々は国鉄バスに同じ路線に乗り入れてほしいと陳情を行っていました。しかし、すでに民間会社が運行している路線であったので、既設路線に後から乗り入れるということが難しいと判断され、実際には開設されませんでした(写真3-1-4参照)。
 近永から宇和島の間を結ぶ路線を開設するときには、陸運局で公聴会が開催されました。公聴会が開催されるまでは地元の方々も『是非開設してほしい。』という意見を出されていましたが、いざ公聴会が開催されると、どういうわけか一晩の間に状況が変わっていて、反対の意見が出されたということがあったようです。」

イ 高校生のために

 「陳情の際には、前もって営業所の方に『内々に検討しておいてほしい』という話があります。この話を受けて関係する地域へ出向き、地域の代表者数名から事前に聞き取りの調査を行っていました。また、事務所には、事前に交通量調査を行い、その区間はどのようなお客さんが多い、というように実態を把握し統計を取ったものがあったので、それを利用して路線の検討をしていました。
 昭和41年(1966年)に提出された野村高校(現愛媛県立野村高等学校)への通学生のためのバス便を土居(どい)(現西予市城川町)まで延長させる陳情はよく憶えています。下五味(しもごみ)(現西予市城川町)までの路線を土居まで延長し、野村高校の始業時間や放課後の時間に合わせて、バス便を利用して通学している生徒の利便性を向上させるための陳情でした。授業が終わってから帰宅するまでに、長い間バスを待たせて時間をロスさせることが、生徒さんにとっては良くないということがあったようで、できれば生徒の登校時刻や下校時刻に合わせてバスを運行してほしいという内容でした。私はこの陳情を受けて路線の調査を行いました。営業所ではバス通学生向けの定期券を発行していたので、収入に直結する通学生徒数の現状や将来の見込み数などの調査が主でした。また、学生だけではなく、一般の方の利用がどれくらいになるのかということについても調査を行いました。これらの利用動向の調査から、バスを走らせる時間帯を考える必要があったのです。
 調査した内容は報告書にまとめられ、国鉄の四国地方自動車事務所から国鉄の本社、運輸省へと上がっていくので、しっかりとした調査を行い、報告をする必要がありました。お客さんの流れに沿って運行時刻を決めるのが本来のあるべき姿ですが、ほかのバスのダイヤの影響でなかなか思うようにいかないということがあったと思います。野村高校からの陳情については、その後実現できてバスを利用して通学する生徒の利便性が向上したので、とても良かったと思ったことを憶えています。これらの報告書の作成は営業所の上司を含めて3名で行っていましたが、現地調査は担当の職員1名がほとんどのことを行っていました(写真3-1-5参照)。」

 (3) バス通学生

 「日吉の営業所では定期券の発行業務を行っていましたが、バスを利用して通学する小中学生は個人が購入に来るのではなく、学校から一括して注文書を送ってもらい、営業所で定期券を発行して学校へ発送していました。定期券の代金についても学校で一括して集金してもらい、学校の事務担当の方が営業所まで持って来てくれていました。定期券は城川町や魚成、三島(みしま)(現鬼北町)の小学校などへ発送していたことを憶えています。
 日吉の子どもたちは、中学校を卒業後、一部は宇和島の高校へ進学することもありましたが、近永の北宇和高校(現愛媛県立北宇和高等学校)へ進学することが多かったと思います。また、野村高校には畜産科があったので、将来、畜産関係の仕事に携わることを希望する生徒は野村高校へ通っていました。村外へ通学している生徒は、ほとんど全員が国鉄バスを利用していたので、かなり多くの生徒がバスに乗って通っていたことをよく憶えています(写真3-1-6参照)。
 昭和30年代から40年代はバスで通学する高校生が特に多かった時代でした。昭和40年代には乗客が増えたこともあってバスが大型化していきましたが、乗客で満員の状況に変わりはなく、道路の状態もそれほど改善されてはいませんでした。日吉の営業所でも便によってはバスを待つ人が多くいた時間帯がありましたが、途中の停留所からも多くのお客さんが乗り込んで来るので、学校までは満員の状態が続いていました。
 学校の始業時間や生徒の帰宅時間に合わせたバスはそれぞれ一便だけでした。ただ、あまりにもお客さんが多かったので、生徒さんと一般のお客さんの全員がバスに乗ることができるようにバス2台が連なって走る、というようなことがありました。2台で同時に運行しているバスには、どちらへ乗っても構わないのですが、1台には高校生が乗り込み、もう1台には一般のお客さんが乗り込むというように自然となっていたようです。高校生の中には、男の子と女の子がどちらのバスに乗って帰るかということを事前に約束して仲良く乗っていたということがあり、仲睦まじい様子は今でもよく憶えています。」