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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 車掌として

 (1) バスに乗務する

ア 省営バス

 「昭和20年(1945年)、私(大西吉彦さん)が16歳の時に戦争が終わりました。戦時中、学校へ通っていたときには軍国主義的な教育が行われていたので、卒業後の進路について担任の先生からは、『満州(まんしゅう)(現中国東北部)へ行くか、軍隊へ行くかどちらかではないか。』と言われていました。しかし、私の兄が3人とも軍隊へ行っていたので、父や母が私に『家にいて欲しい』と強く希望したこともあり、一応軍隊に志願だけはしましたが、家に残ることとなり軍隊へ行くことがなくなりました。その後、周囲から『役場で働いたらどうか。』という勧めがあったので、学校を卒業した後は役場で一時お世話になりました。日吉の国民学校高等科を卒業後、昭和22年(1947年)まで役場で勤務をしていました。
 私は役場での勤務を辞めた後、すぐに国鉄バス(当時は省営バス)に就職をしました。当時、昭和30年(1955年)ころまでのバス路線は日吉(現鬼北町)と大洲(現大洲市)との間を結んでいました。戦前、バス路線の開設当初は近永(現鬼北町)から日吉を経由して魚成橋(現西予〔せいよ〕市城川〔しろかわ〕町)まで走っていたようです(写真3-1-1参照)。
 南予地方の山間部は特に交通の便が悪く、古くから地元の人々が鉄道路線の誘致運動を積極的に行っていたようです。大正11年(1922年)に公布・施行された改正鉄道敷設法には、当時の国防上の見地から計画線104号線として、『愛媛県大洲附近ヨリ近永附近ニ至ル鉄道』が明記されました。
 104号線は帝国議会でも鉄道路線開設のための予算化がすでに承認されていて、開設に向けた地元の人々の期待が高かったのですが、同様に路線の開設を望んでいた海岸沿いの住民の方々がこれに猛反発をしたようです。結局、戦時中のことで戦局が厳しさを増してきていたころだったので、物資や兵員の輸送を最優先させるということから、計画線にはない八幡浜(やわたはま)から卯之町(現西予市)を結ぶ海岸沿いの鉄道路線開設が優先的に行われ、昭和20年(1945年)に双岩(ふたいわ)(現八幡浜市)を経由する八幡浜-卯之町間が開通し、予讃本線に編入されたようです。鉄道の開設が実現できなかった日吉などの山間部にくらす人々にとっては、大洲や卯之町、宇和島へ出ることができる鉄道の代替措置としてのバス路線の充実が必要でした。」

イ 車掌の仕事

 (ア) 悪路への対応

 「私は就職した当初から日吉の営業所(昭和25年3月末では伊予大洲自動車区伊予日吉自動車支区、4月1日以降は伊予大洲自動車営業所伊予日吉支所)へ配属となり、車掌としてバスに乗務していました。車掌としての乗務を何年か経験した後に事務職へと異動しました(写真3-1-2参照)。
 当時は路線の道路の状況がとても悪く、運転手だけのワンマンで運行するということは考えられず、『安全にバスを運行させるためにはもう一人乗務員が必要である』ということから車掌が乗務をしていました。私が就職をしたころの道路の状況は、簡単に言うと馬車道でした。道幅が狭く待避所がないため、もし、車が離合をしなければならなくなった場合には、省営バスを管轄していた運輸省(現国土交通省)から、『省営バスが停車して対向車を避けて待つ』というような通達が出されるほどでした。また、道路状況の悪さから、バスが立ち往生するというようなことがありました。立ち往生してしまった場合には、当時のバスは乗車定員が30名ほどの比較的大きな車体であったため、車掌がバスの外へ出て、安全に切り返しを行うことができるように誘導をしなければなりませんでした。
 大相撲の双葉山が巡業に来た時には、貸切バスで巡業の一団を輸送しました。バスが日吉から梼原(ゆすはら)(現高知県高岡〔たかおか〕郡梼原町)へ抜ける道の布施ヶ坂(ふせがさか)という峠にさしかかると、あまりにもカーブが急で、しかも大勢の巡業団を乗せるバスは一般の路線バスよりもホイールベースが長く、それに応じて車体も長かったので、いっぱいにハンドルを切ってもそのカーブを曲がり切ることができませんでした。すると、バスに乗っていた双葉山がほかの若い力士にバスから降りるように指示を出し、大勢の力士でバス後部のフェンダーを持ち上げてバスの方向転換をして、カーブを曲がることができるようにした、という話を聞いたことがあります。
 バス路線の中で、特に『この場所の通行が難しい。』という場所を挙げる方が難しく、『路線の全てが難所だった。』と言った方がよいくらいです。後に、バスが運行されているということで、部分的に道幅を広げるなどの道路の改良が加えられましたが、それでもやっと待避所が整備された程度のもので、全体的な道路の改修が行われるということはありませんでした。」

 (イ) 満員のバス

 「車掌は、切符切りや車内の乗客の整理を主な業務としていました。当時は乗客がとても多かったということが強く印象に残っています。普段の平日でも、乗客の全てを一便のバスに乗せることができるということはありませんでした。お客さんには学生さんなどの通学客や、一般の通勤客も多く乗っていました。朝の便に乗らなければ、時間帯の近いほかの便がないので学校や職場の始業に間に合わず、朝夕の便には集中してお客さんが乗っていたので、いつも満員の状態で運行していたことを憶えています。ただ、昼の便は空いているかというと、そういうわけでもなく、バスで買い物へ行く人などが多かったので、『バスは常に満員状態だった』と言えます。
 乗客がそれだけ多かったので、車掌はバスの車外の乗降口のステップに足を置いて、両手で手すりをしっかりと持ち、バスから溢(あふ)れてしまいそうなお客さんが車外に落ちないようにしていたほどでした。バスは大勢のお客さんですし詰めの状態だったので、車掌が車外へ出るしかなかったというところです。また、バス停で乗客が下車をするにも車内の通路が狭かったので、バスの奥側に乗っているお客さんを降ろすために、前方の乗降口付近に乗っているお客さんに一度降りてもらわなければなりませんでした。バス停ごとにそのようなことをしていたので、手間と時間がかかって大変だったことを憶えています。バス停に停車してお客さんを降ろしていると、『わしを乗せてくれ。』と言って、ほぼ満員のバスに乗り込もうとするお客さんもいて、乗降客をうまく処理することがとても大変でした。やはり、目的地へと急ぐお客さんは何とか乗り込もうとするので、そういったお客さんとのトラブルもあり、大変な業務だったと思います。乗り込もうとするお客さんに、『これ以上は乗せることができない。』と言って、乗車を断るようなことが度々ありました。お客さんにしてみればバス路線のほかに交通手段がなく、何とか乗り込もうと必死になっていたのでしょう。大勢のお客さんが乗り、往復で2時間程度かかる近永から魚成までの路線を、1日3往復から4往復くらい車掌として乗務していました。
 車掌はバスが走行している間に、『どちらまでですか。』と乗客に声を掛けて、肩掛けカバンに入っている切符を売っていました。切符を乗客に渡すときには改札鋏(ばさみ)で入鋏(きょう)してから乗客に渡していましたし、乗客がバスを降りるときに車掌が回収していました。」

 (ウ) 出発前の準備

 「始発の便に乗務するときには、出発の1時間くらい前に日吉の営業所へ出勤していました。バスに乗務したときは、一便往復に乗務して日吉に戻って休憩という形態で、便によって乗務時間が短い路線と長い路線とがありましたが、法律で定められた1週間の勤務時間を超えないように乗務割が調整され、組まれていました(図表3-1-1参照)。
 車掌として乗務をしていたときには、木炭を燃料として走る『木炭バス』がまだ運行されていました。木炭を使った出発前の準備は、運転手と車掌との共同作業で行われていました。日吉の営業所を出発して近永へ向かうバスは、日吉営業所で燃料となる木炭を入れ、近永へ到着したらそこでも木炭を入れていました。準備をするときにエンジンがスムーズにかかってくれるとよいのですが、木炭車はなかなかいうことを聞かず、一度の始動作業でかかることがありませんでした。また、木炭車にはバッテリーが搭載されていないので、送風機を手回しで動かして木炭を起こす(点火してガスを発生させる)必要があり、大変な作業だったことを憶えています。バスを動かすことができるように、私たち職員は必死になって始動の作業を行っていたものです。
 木炭車のほかに薪(まき)を燃料とするバスもありました。このバスは発生炉の燃料投入口が小さく、薪を10cmくらいの長さに短く切っておかなければなりませんでした。薪を発生炉に投入すると、煙がモウモウと出るので、地域の方からは、『その煙を何とかしてくれ。』と言われたことがありました。ただ、地域の方は地域の重要な交通手段である国鉄バスには協力的で、私たちの仕事の大変さもよく理解してくれていたので、『どうにかしてくれ。』と言われるといっても、それは直接的な意味ではなく、仕事をしている私たちに声をかけ、『大変な作業ですね。』というような労(ねぎら)いの意味合いが強かったと思います。仕事を一生懸命にする身としては、地域からの理解があり、非常に仕事がしやすい良い時代であったと今でも思います。『木炭バスが出す煙で周囲が煙たくなっても仕方ないな。』と思って過ごしてくれていたように、本当に地域の人たちは私たちの仕事に協力的でした。」

 (エ) 職員間の協力

 「当時の勤務形態は、今のように土日が連休というようなことがなく、たまの休みに『休みじゃ』と思ってゆっくり休んでいると、そのようなときに限って『勤務している職員が体調を崩して休んだけん、代わりに出て来てくれ。』という連絡が入っていました。このような連絡が入ると、『せっかくの休みなのに。いややなあ。』と思ったこともありました。しかし、誰がいつ体調を崩すかは分かりませんし、『私もお願いしなければならないときが来るかもしれない』と思い、快く出勤していました。私が勤務した中で一番きついと思ったのは、代わりの勤務が続いて3か月間休みを取ることができなかったときでした。このように思ったのはこの1回だけで、後にも先にもありませんが、このときはさすがに『休みが欲しい』と思いました。休んだ職員の代わりに出勤すると、後日、『穴埋めは必ずするけん。』と申し訳なさそうに言われました。しかし、職場はみんなで協力しながら仕事を進めていこうという雰囲気で、仕事に対する士気が高く、職員みんなで協力し合いながら仕事を進めることができていたと思います。」

 (オ) 先輩職員の言葉

「最終便に乗務したときには、手が凍えてしまいそうな冬の寒い日でも、日吉の営業所に戻ってから、運転手の方と2人で必ずバスの洗車を行ってから勤務を終えていました。寒い日にバスを手で水洗いして、きれいに拭き取ることまでしなければならなかったので、水の冷たさで手が痛くなり、大変だったことを憶えています。洗車が終って、『やれやれ』と思いながら帰宅する準備をしていると、先輩職員に洗車したばかりのバスの車体の下やボンネットの裏などを確認されて、『まだ土がついとるやないか。』と指導を受けることがありました。若い職員に対する厳しい指導ではありましたが、『仕事道具でもあるバスを大切に管理せよ』という意味がその言葉の中には込められていたのだと思います。」

(2) お客さんとの思い出

ア 地方祭

 「地方祭が開催される日には、大勢のお客さんがバスに乗っていました。宵祭りなどが開催されるときには、お祭りを観(み)る家族連れが路線沿線の親戚の家へ泊まりがけで行っていたのです。当時、農家の方々にとっては、お祭りで親戚の家へ行くということが1年のうちでとても楽しみにしていたことだったようです。家族総出での移動でしかも宿泊をするため、一人一人の荷物がかなり多い状態で、大移動という言葉がピッタリと合うような光景でした。」

イ 高校生の気配り

 「バスの乗客が普段の日でも多かったので、高校生が多く利用する朝の便の車内では、座席に座っている高校生が、立っている乗客の荷物を膝の上で抱えていました。車内には座席の上に荷物を置くための網棚がありましたが、大きな荷物を置くことはできませんでした。他人の荷物を持つことは、立っている乗客への気配りもあるのでしょうが、バスを運行する立場からすると、乗客で狭くなっている車内にさらに乗り込んでもらうことがとても気の毒だったので、少しでもゆったりと、多くのお客さんを乗せることができるスペースを確保することができ、とてもありがたいものでした。お客さんが多い便では、高校生がすすんで、『私が荷物を持ちます。』と言って、自分の大きな学生カバンとほかのお客さんの大きな荷物を膝の上に抱えていた姿は、今でも良い思い出として残っています。当時は、バスに乗るにもお客さん同士が協力し合って乗っていたということでしょう。マナーが良く、ほかのお客さんに気配りができる高校生には本当に感心していたものです。」

ウ お客さんの協力を得て

 「道路が砂利道で状態が悪かったときには、バスが道路に落ちている釘(くぎ)などを拾ってしまい、タイヤがよくパンクをしていました。タイヤがパンクをすると、乗務員がバスの外へ出て車体をジャッキアップしてタイヤ交換を行っていたのですが、雨の日にそのような作業が必要になると、お客さんが2、3人一緒に降りて来て、交換の作業が終わるまで私たち乗務員に傘を差してくれていました。本当にお客さんには大事にしてもらったという思いを強く持っています。
 また、冬の寒い時期に乗降口のステップに立っていると、手すりをもつ手が凍えそうだったのですが、あるとき、バスに乗って高校へ通っていた女子生徒が、『車掌さん寒いでしょ、よかったら私の手袋を使ってください。』と言って手袋を差し出してくれたことがありました。私は、手すりで手袋が擦れてしまったら申し訳ないと思い、『気持ちだけいただきます。』と言ってこの申し出を断り、素手で手すりをつかんだまま乗務しましたが、この女子生徒の気持ちがとてもうれしかったことをよく憶えています。」

エ 木炭車での出来事

 「木炭車には車両の後部に発生炉が取り付けられていました。車内がお客さんで満員となり、『これ以上乗せることができない』というときには、車内へ乗り込めなかったお客さんが発生炉の所にあるスペースにしがみついて乗っていたことがありました。車掌としてバスの安全運行を第一に考え、このお客さんに『やめてください。』と言うと、お客さんは素直に『分かりました。』と言って発生炉から降りてくれました。しかし、木炭車は馬力がない上に道路の状態が悪く、緩い勾配の上り坂では大幅にスピードが落ちる状態で、大勢のお客さんを乗せていれば平地でもスピードが出せなかったので、少し足に自信があるお客さんであればバスの後ろをついて走り、車掌の目が届かないところでまたしがみついているということがありました。」

オ 思わぬ出会い

 「日吉から近永への路線では、後に社会党の委員長となる浅沼さん(浅沼稲次郎)に出会ったことがありました。近永に到着するまで私は全く気付かず、声をかけることすらできなかったので、今でも『大変失礼なことをした』と思うことがあります。普通であれば随行の方がいるはずですが、浅沼さん一人で一般のお客さんと一緒に気軽に乗車されていたため、まさか日吉に浅沼さんが来られているとは夢にも思っていなかったのです。地元の方がバスに乗っていれば、大体どこの誰かということは分かっていたので、『地元の方ではないな』と、早く気付けばよかったのですが、そのときは全く気付かず、気付いたときには姿が見えなかったので乗車のお礼も言えず、あとの祭りでした。」

(3) 観光バス事業

ア 民業圧迫

 「昭和24年(1949年)に日本国有鉄道が発足し、バスの名称が『省営バス』から『国鉄バス』へと変りました。ちょうどそのころは民間のバス会社との競争が激しくなり、民間のバス会社が国鉄バスの事業に対して、『民業圧迫である』ということを申し出ることが多かったと思います。国鉄バスに勤務する者としては、その民間事業者の申し出が大変なプレッシャーになっていたことは否定できません。当時の国鉄バスには貸切バス事業があり、一般路線の乗客から得る収入だけでは採算が合わず、観光に力を入れて事業を展開していました。しかし、この事業にはさまざまな制約があり、その制約はほとんど全てが民業圧迫にならないようにするためのものだったと思います。当時の国鉄バスの職員はこれらの制約の中で利益を生み出すことができるよう、みんなが苦労しながら協力して仕事をしていたことを憶えています。
 私は昭和30年代半ばくらいまで車掌としてバスに乗務しました。バスに乗務している間にバスの車体が更新されていきましたが、特に貸切バス事業では『デラックスバスを導入すること自体が民業圧迫ではないか。』と言われていたので、国鉄側の一存では車体の更新すらスムーズに行うことが難しかったのではないかと思います。民間のバス事業者との折り合いをつけながら、国鉄バスとしての事業を行わなければならないという、国鉄バス側からすれば昭和30年代という時代は本当に難しい時代だったと思います。」

イ 観光案内

 「貸切バスでは、車掌が観光案内を行っていました。私は昭和30年代、高松(たかまつ)(香川県高松市)在勤時に屋島(やしま)観光で用いた案内マニュアルを今でも残しています。そのマニュアルに沿ってガイドを行いましたが、民間のバス会社のガイドさんのようにうまくしゃべることができなかったことを憶えています。この案内マニュアルの内容は全て暗記しておく必要があり、私も当時は時間をかけて内容の全てを暗記していました。私は日吉に生まれ育ち、就職するまで宇和島でさえほとんど行ったことがなかったのですが、いきなり他県の観光案内をしなければならないということで、とても苦労したことを憶えています(写真3-1-3参照)。
 戦中から戦後すぐのころには、旅行をするには公用か私用かなどを記した証明書や許可書のようなものがなければ、バスに乗るための切符すら売ってもらえない時代でした。また、交通が便利だったとは言えず、宇和島はもちろんのこと、近隣の近永でさえ、自由に行くことができなかったのです。行ったことがなく、当然、見たことがない場所を案内するのですから、今にして思えば『暗記して一生懸命説明している内容と場所が一致していなかった』ということがあったのではないかと思います。ただ、苦労はしましたが自分の仕事として一生懸命に取り組んだことなので、今、屋島へ行くと、当時自分が携わっていた観光バスの仕事の内容が鮮明に蘇(よみがえ)ってくるのではないかと思います。」