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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 上鍵山マンガン鉱山の記憶

 上鍵山のマンガン鉱山は、正確には黒瀬(くろせ)川と四万十(しまんと)川の支流広見(ひろみ)川との分水嶺を中心とする地域を占め、西予市城川町から旧日吉村にかけて広大に広がる一宝(いっぽう)鉱山に含まれる「鍵山坑」のことを指している(図表2-2-7参照)。開坑は明治末期と伝えられ、かつては地元の人の手による掘削が行われていたという。昭和12年(1937年)に城川町にある事務所とともに一宝鉱山として本格操業に入り、昭和38年(1963年)に休山するまで、上鍵山の人々の生活を支え続けた。
 昭和23年(1948年)から休山までの15年間、この一宝鉱山で鉱夫として勤務されていた萩森晴吉さん(昭和7年生まれ)に、当時の鉱山の様子について話を聞いた。

 (1) 鉱山で働き始めて

 「私は学校を卒業後、松山(まつやま)市の帝人で働いていましたが、家庭の都合から1年くらいで辞め、自宅に戻りました。ちょうどその時、桑正株式会社が一宝鉱山を買い取って従業員を募集していることを知り、入社することに決めたのです。それが、昭和23年(1948年)のことでした。それから閉山する昭和38年(1963年)まで、15年間勤務を続けました。桑正株式会社は兵庫県神戸(こうべ)市に本社があり、あらゆる商品を扱っていた会社で、その中の一つの部門が、一宝鉱山での鉱石の採掘事業だったのです。
 当時、上鍵山地区でくらしている人々の中で、一宝鉱山で働いていた従業員が50人ほどいました。城川町の方も含め、一宝鉱山全体では従業員が200人以上はいたと思います。また、マンガンの埋蔵量も非常に多く、昭和20年代には鍵山坑だけで300tくらい生産しており、私が鉱山に入ってから数年後のことですが、大量の鉱脈が見つかったのです。坑道の中にも、そのへりにもマンガンの鉱石がギッチリ詰まっていました。当時は本当に繁華だったことが思い出されます。秋の地鎮祭(土木、建築などで基礎工事に着手する前にその土地の氏神などを祀って、工事の無事や順調な竣工を祈願する祭儀のこと)のときには、バスを何台も借り切って大分県別府(べっぷ)市の方まで社員旅行をしたこともありました。
 上鍵山地区は、仕事といっても農業が中心で、当時の農業は現金収入がなかったので、一宝鉱山があるおかげで、鉱夫として勤務していた人は毎月の収入が必ずあって生活が潤い、商店の方も非常に賑(にぎ)わいをみせていました。」

 (2) 鉱山での作業と鉱夫のくらし

ア 坑道内の様子

 「坑口付近や坑道内の地盤の柔らかい所に、崩落を防ぐための木枠をマツなどの木を用いて設置していくのですが、一宝鉱山は岩盤が非常に固かったので、その設置に相当苦労しました。その意味では、崩落の心配をするということがあまりありませんでした。また、採掘した鉱石を坑道の外へ運搬するトロッコを走らせるためのレールが敷かれていて、採掘した鉱石を坑道の外へ運び出していました(写真2-2-13参照)。採掘場からトロッコまでは距離があったので、私たち鉱夫は幅60㎝ほどの木箱を持って行き、作業を行っていました。その木箱には、滑り止めが取り付けられていたことをよく憶えています。採掘した鉱石をまずその木箱に入れ、ある程度鉱石が溜(た)まったら、トロッコの上に設置されているじょうごの形をした容器に鉱石を入れてトロッコに移し替え、そして再び採掘場に戻って作業を続けるというのが私たち鉱夫の仕事でした。
 坑道は1本ではなく、何本も延びていました。上にもある横にもある、というように鉱脈をたどりながら掘り進めていった結果、そのようになっていったのです。また、あまり鉱石は出ませんでしたが、御在所山にも坑道がありました。上鍵山のマンガン鉱山は、明治のころからさまざまな人が掘削を行っており、それぞれの時代に採掘された坑道があって、それらを利用しながら鉱脈に沿って新しい坑道を作っていくというような方法だったので、坑道の数が多く、上下の坑道を縦につなげている所もありました。私は、坑道の奥の方にあった、鉱石の埋蔵量の非常に多い場所で採掘の仕事をしていましたが、坑口からかなり離れた奥深い場所にあったことをよく憶えています(図表2-2-8参照)。たくさんあった坑道の中では、鍵山坑の採掘量が一番でした。最大で月に300tの採掘量があったときもありましたし、月に200tの採掘量というのが普通でした。
 昭和33年(1958年)ころのことだったと思いますが、採掘に削岩機が導入されることになりました。それまでの手作業による採掘と比べると、採掘量が格段に増え、採掘の範囲も広がりました。非常に早く掘ることができたので、半日で5本も6本も穴を開け、発破を繰り返していました。また、坑道の長さもどんどん長くなり、城川町の方まで抜けていました。」

イ ガスランプの明かりを頼りに

 「坑道の中では、ガスランプを取り付ける場所が随所にありました(写真2-2-14参照)。取り付けるといっても、ガスランプに結んでいる紐(ひも)を引っ掛けるだけのもので、採掘をするときには、採掘場付近の所定の場所にガスランプを引っ掛けて、その明かりを頼りにして作業を行っていました。採掘の道具は、盛山棒などを用いていました。当初は全て手作業による採掘だったので、時間も体力もかかってしまい、本当に大変だったことを憶えています。ただし、月ごとの鉱石の採掘量についての基準はあったのですが、それ以上に採掘した分については報奨金が出ていたこともあり、一生懸命に働きました。」

ウ 発破 

 「私は、発破の責任者を務めていたこともあります。朝の採掘前にそれぞれの坑道で必要な数だけダイナマイトを配り、その日の夕方に残ったダイナマイトの数を帳面(ノート)に付けていくという仕事を毎日行いました。ダイナマイトは危険物で、月に一度か二度、警察がダイナマイトの使用本数などを確認しに来ていたので、ダイナマイトの数をきちんと把握しておかなければならなかったのです。
 発破については、まず盛山棒で岩盤に穴を開けます。そして、その中にダイナマイト数本と赤土を詰めて固定させてから、導火線に火をつけるというやり方でした。赤土は、現場付近に大量にあったので、それを坑道内に搬入して用いていました。
 ダイナマイトの使用本数は、多いときには1日に100本ほど使用していました。やはり埋蔵量が多く、作業場もたくさんあったので、そのくらいは必要としていたのです。」

エ 選鉱

 「次は選鉱の作業に移ります。発破して岩盤を割っていきますが、割られた岩盤の全てが鉱石というわけではないので、マンガン鉱石とそれ以外の不純物(ズリと呼ばれる)などを選別しなくてはなりませんでした。選鉱は、坑口の近くにあった選鉱場で、女性の従業員の方たちが行っていました。そして、選鉱が終わったら、マンガン鉱石を山の麓まで運搬していました。当時は、今みたいに道路が開通していなかったこともあり、ワイヤーでつながれたつるべ式の索道を用いて運搬を行っていました。」

オ 索道による運搬

 「勾配があるので自然に走るということで、鉱石の運搬は手動で行われていました。索道には途中に何か所か中継点があり、中継点ごとに鉱石を別のカゴに移し替えるための作業員が働いていました。坑道付近で鉱石をカゴに移したら、下の中継点にいる作業員に、『今から下ろすぞ。』と声をかけ、ワイヤーを操作します。もちろん、速度を調節するためのブレーキが取り付けられていました。
 そして、索道の終着点に到達したら、今度は鉱石を車に移し替えて近永駅まで運び、さらに貨車に積み替えて近永駅から神戸まで運んでいたと思います(写真2-2-15参照)。鉱石の運搬には日本通運を利用していましたが、採掘量が多いときは、毎日かなりの数の車が入り、往復していました。
 鉱石を運搬する車も、当時はダンプカーのようなものがなかったですから、鉱石を積み込む所がただヒラボテの(平らで長い)車を使用していたことをよく憶えています。さらに、鉱石を積み換えるときには全て手作業で行わなければなりませんでした。また、現在のように広い幅の道があるわけではなく、道路事情も悪かったので、近永駅まで運搬するのに1時間以上はかかっていたように思います。」
 『愛媛縣西部マンガン鉱床調査報告』(宮本弘道氏、大津秀夫氏による)によれば、昭和25年(1950年)10月の調査時、「一宝鉱山の月平均出鉱量は240t、出鉱先は信越化学、日本電気冶金、川崎重工業、日本鋼管、八幡製鉄所(③)」とある。このことについて萩森晴吉さんは、「乾電池の製造など、鉱石の種類によってさまざまなものの製造に鉱石を利用していたので、神戸からそれらの会社にさらに運ばれていたのでしょう。」と話してくれた。

カ 労働組合

 「一宝鉱山の労働組合は、日吉村出身で社会党の衆議院議員でもあった井谷正吉さんの指導を受けて結成されました。昭和26、27年(1951、52年)ころのことだったと思います。従業員みんなで話し合って、『やはり結成したほうがいいから賛成する。』ということになったことをよく憶えています。
 会社の主張も聞かなければならないのですが、労働環境や待遇の改善など、労働組合で話し合い交渉したところ、会社側が結構労働組合の意見を取り入れてくれていました。勤務時間も規定通りで、朝から夕方まで、夕方から夜の12時ころまで、夜の12時ころから朝までの三交替制でしたし、ボーナスもきちんと支給してくれていました。これは、労働組合が結成されたおかげでもあります。それ以前は月ごとの給料だけでボーナスが出るということはありませんでした。また、あまり行われていなかった健康診断も、労働組合結成後は毎年定期的に行うようになりました。」

キ 採掘作業による弊害

 「採掘作業の際に粉塵(ふんじん)(スス)を吸い込んでしまうので、珪肺(けいはい)(塵肺〔じんぱい〕の一種)になってしまい、会社を辞めてしまった人もいました。マスクを付けて採掘作業を行うのですが、坑道内の地熱の暑さでマスクを付けずに作業を進めてしまったり、作業中にマスクが外れてしまったりしていたのです。
 坑道内は、坑道どうしが連結している所は比較的涼しかったのですが、30℃を超えている所もあったように思いますし、地中深く進めば進むほど温度も上がって行きました。また、送風機などもありませんでした。私も実は珪肺にかかりかけたことがあったのですが、その時は診断してもらった結果、『良くなっている。』ということで、問題にはなりませんでした。しかし、珪肺で亡くなられた方は多くいたようです。」

ク 楽しみだった慰労会

 「一宝鉱山での15年間を振り返ると、仕事は本当に大変でしんどかったのですが、月に一度か二度開かれていた社員慰労会は本当に面白かったことをよく憶えています。会社の事務所で行っていましたが、お金を出し合ってお菓子などを買い、仲間と一緒にお酒を飲んだり、歌ったり、芸を披露したりと、いろんなことをやりました。また、現場に家を建てていた人もいて、確か4家族ほどいたと思います。そこから坑道まで働きに行ったり、慰労会のときなどに事務所まで来たりしていました。」

 (3) 表彰されて

「鉱山で勤務し始めて4年後、昭和27年(1952年)のことですが、私は優良社員として表彰されました。その時は、鍵山坑から1人、城川の方から1人、そして女性の方が1人の計3名が表彰の対象者でした。私の名前が呼ばれてびっくりしましたが、無欠勤でがむしゃらに働いていたことが評価されたのだと思います。私は上鍵山といっても、もともとは御在所山付近の長谷(ながたに)地区という山上の集落の出身です。そのころから一宝鉱山に勤務していましたが、結婚を機に現在くらしている黒川地区に転居しました。長谷地区は坑道のすぐ近くでしたが、黒川地区からは現場までかなりの距離を歩いていかなければならなくなりました。それでも毎日通い続けました。その時の表彰状は、今も自宅に飾っています。額は、私の父が地元の大工さんに頼んで作ってもらったものです(図表2-2-7、写真2-2-16、写真2-2-17参照)。
 桑正株式会社には、今でも本当に感謝しています。働いている当時は厚生年金があるということ自体を知らなかったのですが、きちんと掛けてくれていたようで、実際に年金をもらう年齢になって調べてみると、15年間の積み立てがあることが分かりました。今は、年金も活用しながら生活をしています。」

 (4) 閉山

 「閉山のきっかけは、会社の倒産でした。昭和30年代に入って次第に採掘量が減り、新しい鉱脈を見つけることができなかったので、次第に採算が合わなくなっていったのだと思います。そのころ、桑正株式会社よりも前に一宝鉱山を採掘していた人々が捨てていた鉱石が、山の中から大量に発見されました。その当時は、本当に質の高い鉱石のみを搬出して、それ以外の鉱石は捨てていたのでしょう。山の木を伐採して、何とかその鉱石を搬出しようと考え、索道の係の人たちが一生懸命搬出作業を行っていましたが、それでも経営の回復というところまではいきませんでした。結局鍵山坑では、従業員を最終的に3人残して採掘を続けようかという話になったのですが、『こうなった以上は、みんな一緒に辞めよう。』と残ったみんなで話し合って、全員が辞職をしたのです。
 辞職した後、近所の人々が、『別の所へ行って出稼ぎでもやろうじゃないか。』と言っていたので、私もそれに同意して神戸で出稼ぎの仕事を5、6年続けました。それからまたこちらに戻ってきて、今はここで農業を中心に生活をしています。
 一宝鉱山が休山してしばらく経(た)ってから、再び坑道の中に入ってみたことがあります。見てみると、かつて鉱石がたくさんあった所は陥没してしまっていました。やはり、休山してから人の手が全く入っていなかったので、植林や長年の地盤の変化などが重なって、陥没してしまったのでしょう。しかし、今でも鉱山があった辺りに行ってみると、マンガンの鉱石が普通に落ちていますし、鉱脈はまだ残っていると思います(写真2-2-18参照)。現在、黒川地区には子どもが2人しかおりません。もし、一宝鉱山が休山せず続いていたら、今はもっと違ったことになっていたのかもしれません。」

参考引用文献
① 日吉村『日吉村ふるさと写真集 未来へ向けて 日吉村百有余年の足跡 日吉時往来』2004
② 日吉村『日吉村誌』1993
③ 宮本弘道氏、大津秀夫氏『愛媛縣西部マンガン鉱床調査報告』1950

その他の参考文献
・ 平凡社『愛媛県の県名』1980
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 日吉村『日吉村誌続編』2004
・ 鬼北町『広報きほく』




図表2-2-7 上鍵山マンガン鉱山(一宝鉱山)の位置

図表2-2-7 上鍵山マンガン鉱山(一宝鉱山)の位置

平成22年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「土居」による

図表2-2-8 鍵山坑の坑道断面図

図表2-2-8 鍵山坑の坑道断面図

聞き取りにより作成

写真2-2-15 索道の終着点

写真2-2-15 索道の終着点

鬼北町 平成28年11月撮影

写真2-2-17 鉱山への登り口

写真2-2-17 鉱山への登り口

鬼北町 平成28年11月撮影

写真2-2-18 現在も残る鉱石

写真2-2-18 現在も残る鉱石

鬼北町 平成28年11月撮影