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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 父野川富母里水銀鉱山の記憶①

 わが国において人々が水銀を使用した事例は非常に古い。古墳時代にはすでに石室の壁面や石室を覆う粘土面などに塗る塗料として使用されていたし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、「難波長柄朝廷遣大山上安倍小殿小鎌於伊予国、令採朱砂(難波長柄朝廷〔なにわながらのみかど〕は孝徳天皇の治世のころの都。孝徳天皇が即位していた645〜654年、大山上安倍小殿小鎌〔おおやまのかみのあべのおどのおがま〕という人が伊予の国に遣わされ、朱砂〔しゅさ〕を採掘したという意味(①)。)」とあり、かつて伊予の国には他に朱砂すなわち水銀鉱が発見されたという記録がないことから、旧日吉村の水銀鉱のことであろうとされている(図表2-2-1参照)。その後の沿革は、同じ『続日本紀』に、文武天皇の2年(698年)に「伊予の国から白鉛、鉛鉱及び朱砂の献上があった(②)。」という記録があるほかには明らかではない。
 明治時代以降の父野川富母里水銀鉱の採掘の歴史は、大阪の合資会社藤田組が採掘権を得た明治27年(1894年)に始まる。以降、採鉱と休山、幾多の経営者の交代を経て、昭和27年(1952年)の休山まで続いた(図表2-2-2参照)。その後、この水銀鉱山の採掘は全く行われず、長い年月の間に坑口(坑道の入口)は土砂崩れのために完全にふさがってしまい、また樹木が生い茂ってしまっているため、そこが水銀鉱山の跡であるとは一目では分からない状態になっている(写真2-2-1参照)。
 昭和20年代前半の父野川富母里水銀鉱山の採掘のようすと、父野川地区の昭和30年代までの人々のくらしについて、宮成(みやなる)地区で現在もくらしている山崎武雄さん(昭和9年生まれ)、山崎フミ子さん(昭和15年生まれ)から話を聞いた。

 (1) 学校の帰りに立ち寄って 

 「私(山崎武雄さん)が富母里分教場(富母里小学校の前身。昭和29年〔1954年〕に父川〔ちちかわ〕小学校より独立して富母里小学校となる。)に通っていたころのことですが、私の父が現場責任者であったこともあり、学校帰りに遊びついでに鉱山の仕事場へ行って、鉱夫の方々が作業をしている様子を見たり、その周辺で遊んだりしたことをよく憶えています。坑道の中は暗かったですが、その中で遊ぶのは本当に楽しみでした(写真2-2-2参照)。
 昭和20年代は、父野川水銀鉱の辰砂(しんしゃ)(朱砂と同じ)の埋蔵量はかなり少なかったそうです。坑道は辰砂の鉱脈に沿って掘られていましたが、鉱量が多い所ばかりではなく、少ない所もあったので、坑道を延ばしていくには相当長い時間がかかったそうです。また、雑石もだいぶ(たくさん)出ていたと当時伺いました。」 

 (2) 坑口付近の様子と坑道

ア 坑口付近の様子

 「坑口付近には、選鉱場だけでなく、会社の事務所や火薬庫なども置かれていました(図表2-2-3、写真2-2-3参照)。社長さんが事務所に泊まり込んで、鉱山の経営に熱心に取り組んでいたことをよく憶えています。事務所で商人たちと話し合いをしている様子をよく見かけました。
 もう一つ、事務所のことで憶えているのは、事務員の方が広見(ひろみ)川に入ってウナギを獲(と)ってきて、みんなにふるまっていた光景です。今ではウナギは全然見なくなってしまいましたが、当時は本当に多かったのです。」 

イ 坑道の様子

 「私は坑道の中に何度も入ったことがあります。鉱石はトロッコで運搬され、トロッコの先にはガスランプが取り付けられていました。坑口から奥の方に向かってレールが敷かれていて、トロッコを手で押しながら坑道の奥へと入っていきます。レールはかなりの長さがあり、当時、『藤川(ふじかわ)の集落にある神社の付近まで抜けるんじゃないか。』と鉱夫の方も言っておられたので、おそらく2㎞前後はあったのではないかと思います。レールに耳をつけてみたことがありますが、鉱夫の方が坑道の奥から坑口の方へ移動しているということが、振動で分かりました。それはお昼前のことでしたから、おそらく昼食をとるために戻ってきていたのでしょう。
 それから、坑道を100mほど奥に進んだ所には、『立坑(たてこう)』がありました。『立坑』とは、上部と下部にある坑道を縦につなげるためのものです。また、坑道は結構大きくて、縦は1.7mから1.8m、横は1.7mほどはあったと思います。そのおかげで、坑道に入るときに腰をかがめる必要がなく、頭をぶつけることもありませんでした。そして、坑口がマツの木で作った丸太で補強されていたことをよく憶えています。ただし、今のように機械で掘り進めていったわけではなかったので、坑道の途中には、狭くなったり広くなったりしている所がありました。」

 (3) 採掘作業

ア 掘削

 「鉱夫の方は、自分で作ったワラスボの中に盛山棒(せいざんぼう)(ビット、タガネとも呼ばれた細長い棒)を入れて作業場まで運んでいました。掘削作業は、ガスランプの明かりだけが目当てだったそうです。ガスランプのほのかな灯りをともしながら、辰砂の色である赤色を見つけて掘削を行っていました(写真2-2-4参照)。」

イ 発破

 「坑道内では、現場責任者の指揮のもと、鉱夫の方々が作業をしていましたが、固い岩石を割る必要があるときには、ダイナマイトによる発破が行われていました。ダイナマイトを差し込むために、盛山棒を用いて岩石に穴を開けていきます。穴を開ける場所は、『天井開け』とよく鉱夫の方が言っておられたので、頭上の岩石に穴を開けたのだと思います。盛山棒は1番棒、2番棒、3番棒の3種類あり、数が大きくなるごとに棒が長くなっていて、穴の深さによってこの3種類を使い分けていました(山崎武雄さんがまとめられた『宮成水銀鉱山の由来』には、盛山棒の長さは、50㎝、1m、1.5mと記録されている。)。
 開けた穴の中にダイナマイトと火縄を詰め、火をつけて爆破させます。火縄は、火縄銃に用いていたあの火縄と同じもので、必要な長さにちぎって穴の中に詰めていました。この発破作業を担当していたのが私の父ですが、当時ですから免許は必要ありませんでした。点火してから坑道の外に出るまでの時間やタイミングなどは、全て自分の経験と勘でした。」

ウ 選鉱

 「掘り出した鉱石の選鉱作業は、女性たちが7、8人で行っていました。これは、鉱石内の赤くなった部分(辰砂)を取り出す作業です。金槌(かなづち)を使って鉱石を割り、選鉱作業が終わると集めた辰砂を叺(かます)に入れ、索道を使って川向こうの集積場まで運んでいました(写真2-2-5、2-2-6参照)。この選鉱作業に携わった方は、今はもう90歳を超えています。」

エ 生水銀の収集

 「それから、坑道の両脇には、坑内のドブ水(下水)を外に出すための溝が掘られていて、トロッコのレールに沿って奥まで続いていました。そのドブ水の中には生(なま)水銀が含まれていたので、取り出してよく集めていました。私は、社長さんが取り出す作業をしているのを見させてもらったことがあります。まず、黒色の椀子(わんこ)を使ってドブ水をすくい入れ、椀子を揺すります。そうすると生水銀が集まってくるので、必要のないものは捨て、残った生水銀を取り出すという方法です。そして、取り出された生水銀は鉄でできた一升瓶に入れられ、出荷されていました。
 私が当時もらった鉱石と生水銀は、しばらくの間は自分の家に保管していましたが、やはり日吉村の歴史を伝えるために大切なものだと考え、大野作太郎地質館に展示してほしいとお願いしたのです。展示の許可が得られているので、今は、地質館に行けばいつでも見ることができます(写真2-2-4参照)。」

 (4) 「日吉鉱山」から「双葉鉱山」へ

 「採鉱の状況が思わしくなくなってくると日吉鉱山が採掘をやめ、その後に経営者が変わりました。確か、双葉鉱業(ふたばこうぎょう)株式会社という名称だったと思います。私が鉱山の様子を見させてもらったのは、日吉鉱山がまだ経営していたころのことですが、双葉鉱山が父野川の水銀鉱を採掘した最後の会社でした。日吉鉱山になるまでにも多くの経営者がこの水銀鉱に携わっていましたが、採鉱と休山の繰り返しでした(図表2-2-2参照)。鉱脈が大量にあれば採算があっただろうと思うのですが、本当に残念なことです。」


図表2-2-1 父野川水銀鉱の位置

図表2-2-1 父野川水銀鉱の位置

平成21年国土地理院発行2万5千分の1地形図「下鍵山」による

写真2-2-1 水銀鉱山跡の現況

写真2-2-1 水銀鉱山跡の現況

鬼北町 平成28年11月撮影

図表2-2-2 父野川富母里水銀鉱山の経営者の変遷

図表2-2-2 父野川富母里水銀鉱山の経営者の変遷

『日吉村誌』の記述をもとに作成。山崎武雄さんのお話は、日吉鉱山操業中の昭和22、23年ころのこと。

写真2-2-2 富母里小学校跡

写真2-2-2 富母里小学校跡

鬼北町 平成28年10月撮影

写真2-2-6 叺の集積地の現況

写真2-2-6 叺の集積地の現況

鬼北町 平成28年11月撮影