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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 林業と人々のくらし

(1)製炭の記憶

 ア 父親から学んだ炭焼き

 「私(Cさん)が父川(ちちかわ)小学校の富母里(とんもり)分教場に入学したころには、学校は現在の跡地よりも上にありました。この地区では、炭焼きを生業とするために多くの方が来られて住んでいたので、児童の数が多く組内だけで25人ほどの子どもがいました。終戦前後には炭焼きがブームとなった時期があり、この地区でも現金収入の手段として盛んに行われていました。そのころに、節安(せつやす)地区の辺りに移り住んでこられた方が多かったようです。
 私は小学校を卒業後、日吉中学校へ行きました。中学校には遠方から通学しなければならない生徒のために寮がありました。私は1年間だけ寮で生活し、残りの2年間は自宅から学校までの片道約12kmの道のりを自転車で通学をしました。晴れの日はしんどいとも思わずに通っていましたが、雨が降れば荷物や服が濡れてしまうし、時間がかかって大変だったことを憶えています。舗装されていない砂利道を通学していたので、自分でもよく通ったものだと思っています。
 炭焼きを始めたころは父親と一緒に仕事をしていました。私は炭焼きについて全く知らなかったので、父親と一緒に仕事をする中で、炭焼きについてさまざまなことを教えてもらいました。初めに木を切る方法から教えてもらいました。ノコギリで木を切っていると、切り目が『バリバリ』と音を立て始めます。そうなると逃げなければならず、私は木を切ることが怖くて仕方なかったのですが、いかに安全に作業をするかということを徹底して教え込まれたので、徐々にではありますが安心して作業をすることができたことを憶えています。炭窯から出る煙の見方など、父親と仕事をしているときは何もかもが勉強で、父親の働く姿を間近に見て、技術を継承していくことの大切さを学びとったような気がしています。」

 イ 炭窯

 (ア)炭窯を造る

 「炭窯を造る作業は本当に大変で、私一人の力でできることではありませんでした。山の斜面を窯の形に掘って、そこへ土を打ち固めて造っていくので手間と時間がかかり、簡単な仕事ではありませんでした。土を締めて固めるにはかなりの力が必要で、女子衆(おなごし)の力では足りず、男手でなければ窯を造ることができなかったので、普段から仲良く付き合っている近所の方や、炭窯造りに詳しい方などを何人か雇い、協力をして造らなければなりませんでした。私が穴掘りなどの炭窯造りの下準備をした状態から手伝ってもらったとしても、屋根を除いた部分だけが完成するのに2日はかかる作業だったことを憶えています。それから屋根を造っていくので、さらに日数がかかっていました。
 完成した窯は土を打ち固めて造られているので、強い火で一気に内部の温度を上昇させると急激に土の水分が奪われて内壁に亀裂が入り、『ドサーッ』と崩れてしまっていました。焚き口で火をぼつぼつと焚いて、徐々に土を乾かしていかなければなりませんでした。炭焼きは材料となる木がある場所で行うので、炭窯の近くの木を炭に焼いて周囲に木がなくなってしまった場合、遠くから木を持ってくることは大変なので、場所を変えて新たに炭窯を造らなければなりませんでした。切り出した木を運ぶ道を整備して、キンマ(木馬)などの運搬道具を使うことができれば、炭窯を使い続けることができました。しかし、切り出しから運搬、炭焼きと効率良く行うには、やはり炭窯の場所を変えていく方が良かったと思います(写真2-1-8参照)。」

 (イ)炭窯があった場所

 「家から1時間ほど歩いて行かなければならない、炭窯を造っていたような場所にはそれぞれに名前がありました。今では番号での地番表記になって分かりにくくなっていると思います。私はまだ憶えているのですが、若い世代の方は知らないと思います。例えば、私の家がある場所は『ゲマエダニ』と呼ばれていました。山中の地名にも『イシガウチ』とか『ホリノヤマ』、ほかにも『ガヤ』や『シロイヤマ』などという名称があり、地元の人たちはこれらの名称を使って生活をしていて、炭窯へ行くときにも、『どこそこのお窯よ。』と言えば、どこの窯へ行くのかが分かっていました。大きな山であれば、一つの谷に3人も4人も入って炭窯を築くというようなこともありました。炭焼きが盛んに行われていたときには、私の家の周囲の山では、炭焼きの煙が多数上がっていたことを憶えています。」

 ウ 炭を焼く

 「昭和30年代の半ばごろ、私が若いころには炭焼きの仕事が主でした。当時は山に炭を運搬するためのワイヤーを張っていなかったので、家から遠い山に設置した炭窯から炭をオイコに積んで、かるて(背負って)道路まで下ろしていました。炭窯は、道が整備されているような便利な場所に設置されるのではなく、原料となる木が切り出しやすい場所への設置が優先されていたので、道もないような、あるとしても獣道程度の道がある程度の場所でした。家を出て1時間くらい山道を歩かなければならないほどの、遠い場所で炭を焼いていたのです。朝早く、薄暗い時間帯に家を出て炭焼きへ行くこともありました。雨の日も関係なく炭窯へ行って仕事をしていました。夜間でも窯の火を止めなければならないときには、真っ暗な山の中を歩いて行くことさえありました。炭焼きをしていたときには休みがなく、雪がたくさん降って山へ行くことができないときが唯一の休みだったことを憶えています。ただ、窯に火が入っているときには、雪だろうが台風だろうがどんな状況でも山へ行って仕事をしていました。一度台風が来たときには、谷に雨水がどんどん流れ落ちて来ていて、大水の状態でなかなか渡ることができず、それでも窯へ行かなければならないので、谷沿いに山を登って水量が少ない場所を渡って窯まで行ったことがあります。山の頂上に近い所まで登って行ったので、かなりの遠回りをしたことを憶えています。
 炭窯は火を入れたまま放っておくことができません。夜中の12時だろうが1時だろうが、必要なときには窯へ行って、土で空気穴や煙突を塞ぎ、酸素の供給を遮断して火を止めていたのです。炭窯は、山へ入ってそこに生えている木の種類や状態を見渡し、どこへ造れば最も効率良く木を窯へ運ぶことができるか、ということを考えて造ります。結局、効率を考えると山の谷あいに造るということが多かったと思います。炭焼きに使う木を切り倒すときにチェーンソーが使えるようになると、作業が楽になり時間も短縮されましたが、それまではいくら大きな木でも2尺(約60cm)ほどのノコギリで切り倒していたので難儀していました。切り倒した木は、おおよそ1m弱くらいの長さに切って、谷に造った窯の所まで斜面を手で転がして下ろしていました。山の中ですから、木を下ろすための集材機のような機械を入れることができないので、ほとんどが手作業でした。大きな木を切り倒すと、たった1本の木でも何回手がかかるか分からないほどの手間をかけた作業でした。
 この辺りではクヌギが生えていなかったので、山に生えていた木の中で最も良い炭にすることができたのはカシの木でした。ほかの種類の木も切り出して炭にしていましたが、カシに比べると火持ちが悪く、すぐに灰になって火が消えてしまうので、品質が良いものとは言えませんでした。カシの木や比較的品質の良い炭ができるナラ、クヌギ以外の品質が良くない炭になってしまう木、例えばケヤキなどは『ザツ』と呼んでいました。
 いろいろな木を炭窯に入れて焼きますが、木によって窯のどこに置いて焼くかは違っていました。窯の奥の方へカシなどの良い炭になる木を詰めて置き、ザツは焚き口の方へ置いていました。焚き口から火を入れるので、焚き口の方へ置いた木は灰になることが多く、窯の中で効率良く熱が伝わるのは奥の方だったので、良い木は奥へ、という置き方をしなければなりませんでした。
 窯の中に木を置いていくときには、1mほどの長さに切った木を立てた状態で、奥から詰めて置いていました。立てて並べた木と、炭窯の天井部分との間にできる隙間には、小さな木を横にして隙間を埋めるように置いていました。焚き口から火を入れると、火は天井部分に沿って窯の中に広がっていくので、天井付近の小さな木が熱を持ち、その熱が下の木に伝わっていくことで炭ができていました。
 炭を焼いているときには、空気口の大きさを絞って送り込む空気の量を調節します。空気口は絞ることはあっても開けることは滅多にありませんでした。空気口を開いて送り込まれる空気の量が増えると、窯の中の火が勢いよく燃え始め、その影響で炭が脆(もろ)くなってしまい、窯から出すときに折れてしまうので、窯に火を入れると一定の温度を保つことが大切な難しい仕事でした。ただ、炭を焼いているときの窯の中の温度は、測ったことがないので分かりません。中の温度は大体が経験による勘で判断していました。煙突から出る煙の量や色から窯の中の温度を予想していたのです。例えば、窯の中の温度が高くなっていれば、青白い、透明に近いような煙が出ていました。逆に温度が低いときには水蒸気をたくさん含んだ白い煙がモクモクと出てくるのです。恐らく木に含まれる水分が水蒸気になって出ていたのでしょうが、水分がなくなり水蒸気が発生しなくなると煙が青白くなっていました。その後、煙が全く出なくなったときに空気口と煙突を土で完全に塞いで火を止めるのです。白炭であればその時点で窯から出すのでしょうが、この辺りでは黒炭を作っていたので、窯の中で火を蒸し消してから出していました。」

 エ 炭の出荷

 「炭窯で焼いた炭は出荷していました。ガスが普及していない時代には生活必需品として需要が多く、大勢の買い手がいたことを憶えています。今は炭を焼いても必要としてくれるのは焼肉店くらいではないでしょうか。日吉には3軒ほどの買い付け業者がいました。炭は炭窯から出すと、業者が買い付けにくる場所がある道路まで下ろします。炭焼きをしている人の親方(買い付け業者)はそれぞれ違い、○○さんはA店、××さんはB店というように、それぞれが業者と契約を結んで出荷していました。それぞれの炭焼きをしている人の家へ買い付けに来る親方は決まっていて、相互の結び付きも強かったので、『いつまでに焼いておくので、お金を貸しておいて欲しい。』というような商品代金の前借りすら可能でした。また、山を多く所有していない人は、炭を焼くための木材を確保するために山を購入しなければならないので、親方が購入代金を肩代わりして払ってくれていました。肩代わりしてくれた購入代金は、親方が炭を買い付ける際に『1俵当たりいくら』というように購入金額から差し引かれ、残った金額が炭を焼く人たちの実質的な現金収入になっていました。炭俵は自分でも編んでいましたが、ほとんど全て親方が用意してくれていました。当然タダで与えられていたということではなく、使った俵や縄の代金も購入金額から差し引かれていました。炭で現金収入を得ることができたということは間違いありませんが、差し引かれる額が大きく、生活は苦しかったことを憶えています。
 炭ができると山で俵に詰めてオイコでかるて、何度も山道を歩いて道路端の炭小屋まで下ろしていました。私の窯は小さめで、一度に30俵分の炭を出すことができていました。炭俵はどれも1俵当たりの重さが約13kgになるように、6cmから8cmの長さに切られた炭が詰められていて、『ザツ』と呼ばれていた炭は、叩き割られて大きさや形が一定ではない状態で詰められていました。私はオイコで一度に3俵は下ろしていたので約40kgを運んでいましたが、力がある人は一度に約130kgにもなる10俵をかるて下ろしていたことを憶えています。炭を小屋まで下ろすと、品質検査のために検査員が来ていました。検査をしてもらって、『上等じゃ。』と言われ合格をもらうと出荷できていました。当時検査員が『ザツの1級。』とか『ザツの2級。』と言っていたのを憶えているので、炭の品質にも等級があったのだと思います。ザツでもケヤキやエンジ、ツバキは比較的良い炭ができていました。炭の検査日はあらかじめ分かっているので、その日になると炭を買い付けに来る親方たちが大きなトラックに乗って来て、荷台から溢(あふ)れんばかりの炭俵を積んで帰っていました。当時は道が狭く舗装もされていなかったので、買い付けて炭俵を積んで帰るのも大変だったと思います。途中でトラックがぬかるみにタイヤを取られて立ち往生し、後ろから手で押してやっとのことで動かした、というような話を聞いたことがあります。
 山へ行くと、炭を下ろさないときには、風呂を焚くための薪(まき)をオイコでかるて持って帰っていました。また、牛を飼っている家では、牛の餌となる草も山で採って帰っていたので、山から下りるときには必ず重たい荷物を持っていました。
 私の家でも牛を飼っていた時期があります。この辺りは小さな田が多かったのですが、それでも牛を使った牛耕を行っていました。私は牛の世話も毎日していたので、朝早く起きて牛に餌をやり、それから山へ行くという毎日でした。当時は米を作るときに消毒などをしなかったので、藁を草に混ぜてそのまま牛に与えることができていました。また、博労(ばくろう)が牛を牽(ひ)いてよく来ていました。博労が連れて来る牛は三崎(みさき)(現西宇和郡伊方(いかた)町)の黒牛で、体型や毛艶などがとてもきれいで良い牛でした。この牛を飼っていたときには、とても大事に育てました。餌も草だけではなく、大豆をすり鉢で摺(す)ったものを飲ませていました。牛を育てて売買することで現金収入の一つになり、何より一番の目的は田や畑で使う堆肥を取ることでした。化学肥料ではなく牛の肥を使って育てると、米でも野菜でも良い作物が収穫できていたことを憶えています。」

(2)シイタケ栽培の記憶

 ア 300年以上続く家で

 「私(Dさん)の家は日向谷(ひゅうがい)では古い方で、300年以上続いていると思います。江戸時代には伊予と土佐の御番所が麓にあったようですが、それよりも古くから代々続いているようです。所有する山や土地を維持して、昔から自作農で生活をしてきています。私の家には明治の時代に発行された地券が残っています。『ヒトセマチタ』と記されている地券があります。この辺りには3か所ほど麓から段々畑が斜面に沿ってあって、一畝ほどの狭い土地でも田や畑にしていたことで、その土地が記されているのだと思います。『長者窪(ちょうじゃくぼ)』という地名は私の家の宅地を指します。今は住所表記が数字による地番になってしまったので、この地名も忘れ去られてしまうかもしれません。私は地名にはそれぞれ意味があり、重要なものだと思っています。
 私は二男としてこの家に生まれ、兄がいましたが、軍事教練中に体調を崩し、昭和18年(1943年)にそれが元で亡くなってしまいました。戦争中は食糧が不足していたので、栄養状況が良くなかったということも原因だと思います。兄が亡くなってしまったことで、私が家の農作業の手伝いをしなければならなくなりました。田んぼや畑での仕事だけでなく、炭焼きや養蚕の仕事など、多くの農作業の手伝いをしていました。
 戦後になると、換金作物を栽培して生活費を稼ぐために、養蚕に加えて三椏(みつまた)やお茶などの栽培が盛んになりました。戦時中、三椏は風船爆弾を作るための材料として利用する目的で、山を開いて栽培されていました。それらが栽培される前には『開き畑(ひらきばた)』と呼ばれた焼畑で、小豆やトウモロコシなどを栽培していました。戦後、三椏の需要がなくなってくると焼畑自体が減少し、スギやヒノキが植えられていきました。ただ、三椏は紙幣に使われるということで、収穫された三椏は委託を受けた地元の農協から大蔵省(現財務省)へ送られていたようです。当時、私の父は農作業が多く、仕事を少し減らすために三椏の栽培をやめようとしていましたが、農協からの依頼もあって、細々と三椏の栽培を続けていたようです。しかし、しばらくすると紙幣の原料が海外から輸入されるようになり、三椏の需要が斜陽化していったことで栽培をやめてしまい、植林が始まったのです。」

 イ シイタケ栽培

 (ア)日吉のシイタケ栽培

 「日吉のシイタケ栽培は、大分県の方から『豊後(ぶんご)人』と呼ばれていた人たちが父野川の節安へ移住してきて、そこで山を購入して栽培したことが始まりです。それから住居としての山小屋や乾燥場を建てて大量に生産をされたそうです。父野川地区の方たちは、これに刺激を受けてシイタケ栽培を始めた方が多かったそうです。シイタケ栽培が盛んだった昭和40年代の後半には、日吉村全体で約60tの乾燥シイタケが生産されていました。大規模に生産をされていた方は、1戸で2tほど生産されていました。それだけ大規模だったので、シイタケを乾燥させるための燃料として、ドラム缶60本ほどの灯油を使ったこともあったそうです。」

 (イ)シイタケ栽培を始める

 「昭和20年代ころのシイタケ栽培では、原木を1mほどの長さに切って鉈(なた)で木に目を入れ、その鉈目に着いた自然の胞子からシイタケに成長させる鉈目栽培を行っていました。胞子は一つ一つが目に見えるものではありませんが、シイタケの傘が大きく開ききった状態になると胞子を発散するので、早朝にほだ場へ行ってみると湯気のようにボワーっと漂っていることが分かりました。目には見えない胞子ですが、大量に集まって飛散している様子を確認することができ、それが枯れた木などに付着すると、そこからシイタケが生えてくるのです。昭和30年代には全国椎茸普及会を母体とする施設から指導員の方が来て、若い私たちのためにシイタケ栽培の方法などについて指導をしてくれていました。その方は鳥取県からオートバイで来ていたように思います。シイタケ栽培でのほだ場の立地条件から種菌を植える時期や植えてからの手入れの方法など、細かく指導をしていただいたことを憶えています。このころのシイタケは換金作物として出荷目的で栽培していました。品質の良いシイタケを作るために、東南向きの風の吹かない場所にほだ場を設置していました。条件の良い場所で栽培されたシイタケは品質が良くなるのです。
 また、30年代には、菌興(きんこう)(シイタケの品種)の種菌の改良が進み、クリやナラの木の皮を叩(たた)いて取り除き、その部分に打ち込み機という器具を使って10cm間隔程度で穴を開けて菌を植える方式に変化していきました。打ち込む種菌はおがくずに培養されていたので、それを穴の深さの七分目くらいまで埋めていました。鉈目から打ち込みへと手法が変わったことで、シイタケが確実に生えて収穫量が増えたので、私たち農家にとってはとても良いことでした。」

 (ウ)家族を養うために

 「昭和40年代になると、シイタケ栽培に加えてクリの栽培を始めましたが、間もなくイノシシによる被害が拡大してきました。また、シイタケ栽培では、山にあるナラやクヌギをシイタケのほだ木として利用していましたが、山に生えていたこれらの木は、1mの長さに切るとそれだけで重さが100kgほどもある大木だったので傾斜地での作業が難しく、なかなか利用できるものではありませんでした。私には子どもが6人いたので、家族を養うには農業の収入だけでは難しいと思い、当時盛んに行われていた国道改修などの土木工事の仕事に従事するようになりました。土木工事では、佐田岬(さだみさき)半島の三机(みつくえ)(現西宇和郡伊方町)の現場へも行きました。従業員が寝泊まりできるように、工事会社が現場近くの民家を借りてくれていましたが、私には農作業があったので、日向谷から三机まで毎日車で通っていました。当時は家の前まで車で来ることができず、車を麓へ置いて、仕事帰りの疲れた状態で山道を歩いて家まで帰っていました。冬場は雪や凍結で道路状況が更に悪くなるので、早朝5時には家を出て職場へ行っていました。日向谷から三机までは片道2時間以上かかっていたことを憶えています。
 夫婦二人で土木工事に従事したこともあり、シイタケ栽培の規模は徐々に縮小されていきました。ただ、農業を全てやめてしまったわけではなく、家族が食べるだけの米や野菜は継続して作り、耕作地だけは荒らすことがないように細心の注意を払っていました。」

 (エ)無農薬でのシイタケ栽培

 「昭和50年代になると、露地キュウリの栽培が盛んになり、収穫されたキュウリは主に阪神方面の市場へ出荷されていました。私の農地があるこの場所は海抜が640mあるため、一日の気温の差が大きく、市場のニーズに合った良いキュウリを収穫することができていました。夏場はキュウリ栽培などの農業に専念し、収穫時期が過ぎて冬場の農閑期になると土木工事へ行くという生活でした。
 露地キュウリの栽培では良い収入を得ることができていましたが、栽培の過程では農薬を使う消毒を6回ほど行わなければなりませんでした。栽培していた当時は、消毒1回につき2時間から3時間は休むことなく農薬を撒(ま)き続けていました。キュウリはベト病や斑点細菌病などのさまざまな病気に罹る可能性があり、それらに対応できるだけの薬剤を撒くので、その中で仕事をしていた私自身の視力が低下してきてしまいました。その後、体調を崩したので病院へ行くと、医者から、『あなたは10年以上、農薬を使って仕事をしていませんか。』と言われました。私は長い間、防護マスクや防護メガネを装着することなく農薬散布を行ってきたので、このことが身体に大きく影響していたのです。私は自分の身体のためにも、『これ以上は農薬散布を行うことができない。』と判断して、露地キュウリの栽培をやめたのです。露地キュウリの栽培をやめてからは無農薬でのシイタケ栽培に力を注ぎました。」

 (オ)ふるさと日吉の子どもたちのために

 「シイタケ栽培では、大きなほだ木でも手作業で『天地返し』を行わなければなりません。『天地返し』はほだ木を上下逆さまにひっくり返すことで、種菌の活性化や雨が当たっていない部分に雨を当て、水分を均等にほだ木内に配分させることを目的に行う作業です。去年(平成27年〔2015年〕)から、この天地返しの作業を日吉小学校の子どもたちに体験してもらっています。子どもたちはとても楽しそうに作業に取り組んでくれますが、単に農作業を経験する、ということだけでなく、作業を通じて生まれ育つこの日吉地区にも誇れる特産物があることや、ふるさとが歩んできた歴史を身近なものとして学びとり、ふるさとに愛着をもってほしいと考えています。また、ふるさとで収穫されたシイタケなどの農産物を実際に食べてみて、好きになってもらいたいという思いで体験活動に関わっています。作業を体験した子どもたちから送られて来た、『ありがとう。』と一言添えられた感想文や、地元の子どもたちが一年一年成長している姿を見ると、生産者としてとてもうれしく思い、地元の子どもたちの成長に自分の仕事が役立っていることを実感できます。」

 ウ 終戦後の記憶

 (ア)進駐軍のジープ

 「私が日吉国民学校高等科1年のときに終戦になりました。終戦後、高知県からジープに乗った進駐軍が山を越えて日吉村へやって来ました。彼らは村内でさまざまな調査を行っていましたが、学校でも調査が行われ、軍事教練で使われていた道具などが残っていないかどうかをチェックをしていました。当時は高知県からの山越えの道は1週間に車が1台通る程度の道でしたが、ガソリンで走るジープはそのような山道でもスピードを出して走ることができていたことを憶えています。村内では木炭車が多く走っていて、梼原に住んでいる方が宇和島で購入したものを持って帰るなど、愛媛と高知との間をさまざまな物資を積んで運んでいました。進駐軍のジープとは違って、ガラガラと音を立てながら、小学校の低学年の子どもが走っても追い付くような速さで走っていました。木炭車のほか、炭などを運ぶときには馬車が使われていたと思います。馬車の車輪はほとんどが鉄の輪で、ゴム製のタイヤを付けていたものはほとんどありませんでした。それだけに、ジープが速いスピードで走り去る光景が目に焼き付いているのです。」

 (イ)昭和の南海大地震

 「私は昭和の南海大地震を経験しました。地震が起こった時には立って歩くことができないくらいの揺れだったことを憶えています。揺れで家が潰れることはありませんでしたが、石垣が崩れてしまいました。当時、居間には囲炉裏があり、埋め火をしていたので、揺れると同時に父が、『火事になったらいかん。』と言って、這(は)って囲炉裏の傍(そば)へ行き、近くにあった茶釜の水で火を消していました。正確な時間は分かりませんが、2分か3分ほど揺れが続いていたように思います。また、大きな地割れが発生した所もありました。私の家の耕作地にも地割れを起こした場所があったので、鍬(くわ)で掘り起こして地割れ部分を潰していったことを憶えています。」


<参考文献>
・愛媛県農林統計協会『愛媛県市町村別統計要覧 昭和40・45・50年』 1977
・愛媛農林統計協会宇和島支部、日吉村『日吉村の農林業』 1982
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・日吉村誌編集委員会『日吉村誌』 1993
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・宮本幸孝『高研山八城 森の住人』 2002
・小西禮子『おもひ出つづり』 2005
・愛媛県市町振興協会『愛媛県市町要覧』 2014

写真2-1-8 炭窯

写真2-1-8 炭窯

この炭窯は現在も使われている。鬼北町。平成28年12月撮影