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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) くらしの記憶

ア 戦時中の記憶

 「私(上本啓子さん)の父は教員をしており、父の赴任地であった松野町吉(よし)野(の)に昭和17年(1942年)から3年ほど住んでいて、昭和20年(1945年)に近永に帰って来ました。夜になると空襲警報のサイレンが鳴り、灯火管制のため辺りは真っ暗になりました。空を見上げると、B29が並んで飛んで来て、焼夷弾を何発も落としているのが見えました。昭和20年には、宇和島が空襲で焼けて、そのとき南西の宇和島の方の空が茜色になっていたことを憶えています。祖父は、目立たないように2階建ての家屋や倉を全て墨で黒く塗っていました。また、雨の夜に防空壕の中へ布団をかぶって逃げたこともありました。防空壕に逃げるときはいつも防空頭巾を右肩から左下にひもで掛けていました。」

イ 小・中学校の思い出

 「私(上本啓子さん)は昭和23年(1948年)に近永小学校(現鬼北町立近永小学校、写真1-2-10参照)に入学しましたが、職員室にはまだ教育勅語が残っていて、それを見るたびに、友だちと、『何だか怖いなあ。』と話していました。講堂は三つの教室を突き抜いたもので、今でいう多目的教室でした。正門は南側にあり、職員室が東側、北側と西側に校舎があり、L字型に建てられていました。朝礼は天気の良い日は運動場で行い、雨の日は職員室の方に向いて廊下に並んで行いました。そのころは児童数も多く、1学年3クラスあり、1クラスの人数は50人ほどでした。1年生の時でも教室は手狭でしたが、高学年になると児童の体格がよくなるので、さらに狭く感じたものでした。
 昭和29年(1954年)に、近永中学校と好藤中学校が統合されて北宇和中学校(近永町、好藤村中学校組合立北宇和中学校)が開校しました。急いで校舎を建築し入学式には間に合いましたが、窓にガラスが入っていない状態だったことを憶えています。当時は1学年が4クラスで、修学旅行には阪神方面へ行っていました。たいていは汽車で高松(たかまつ)(香川県)まで行き、そこから宇高連絡線に乗り換えて本州に渡りましたが、ときには夜に今治(いまばり)港から大阪行きの船に乗ることもありました。そのころは阪神地方も景気が良い時期でした。
 当時、中学校を卒業したばかりの生徒は『金の卵』と呼ばれ、ほぼ半数の生徒は家計を支えるために阪神方面などへ集団就職しました。そうした人たちは、弟を高校へ進学させたり、家も建てたりして家計を支えるなど、親や家族を大切にしていました。就職後は、何年かに一度帰省するくらいでした。集団就職は昭和40年代までで、昭和50年(1975年)ころから教育熱心な家庭が増えてきて、高校への進学率が高くなりました。」

ウ 食べ物の思い出

 「私(上本啓子さん)が子どものころ、おやつの代わりにサツマイモを蒸したり、干したりしたものを食べたり、芋飴(いもあめ)を作ってもらって食べたりしていました。家に畑がある人は、カキやクリ、モモ、ビワなどを作って食べていました。小学生のころには、学校からの帰り道に、友人たちとよくクワの実を食べていましたが、食べた後には、みんな口の中が紫色に染まっていたことを憶えています。ツクシが出る春先には、シブクサ(タデ科の多年草であるギシギシの別名)という渋い野草に塩を付けて食べていました。また、イタドリ(タデ科の多年生植物)の茎を採り、皮を剥(む)いて塩もみをして食べたりもしていて、お菓子を食べることはほとんどありませんでした。
 昭和30年代には、少しでもお腹をふくらませるために、お米に芋やトウモロコシを入れて炊いたものや、炭酸餅や米の粉を蒸した餅を食べたりしていました。炭酸餅というのは、小麦粉、砂糖、蜂蜜、卵、牛乳に酢で溶いた炭酸を加えた生地に餡(あん)を包んで、採って来た餅芝の葉に乗せて蒸したものです。今のような豊かな時代ではなかったので、そうした食べ物も、みんなが食べられたわけではありませんでした。」

エ 結婚式

 「昭和20年代には、嫁入りの際、最初に花婿が仲人とともに花嫁の家まで迎えに行き、帰って来てから結婚式が始まっていたことを私(上本啓子さん)は憶えています。花婿が花嫁を自宅に連れて帰るとき、お嫁さんだけが木炭トラックに乗り、他の人はリヤカーや馬に荷物を載せて歩いて移動していました。昭和30年代に入っても町にタクシーは数台しかなかったので、婚礼に招待されたお客は歩いて婚礼会場まで行かなければなりませんでした。披露宴は夜から未明まで続いていたのが、次第に夜遅くには終わるようになりました。
 昭和40年代になると、神社で儀式を行い、料理屋さんの宴会場で披露宴を行うところが増えてきましたが、大きな家では自宅で行うところもありました。衣装も多かったため、結婚式にはトラックで荷物を運んでいました。」

 (2) 子どもの遊び

ア 野山で遊ぶ

 「私(毛利範男さん)が小学生のころ、近永の子どもと永野市の子どもが集団で、竹や棒などを手に持って、戦争ごっこをしていました。奈良川の河原でチャンバラをやって、相手方の子どもをより多く捕まえて自分の陣地へ連れて帰った方が勝ち、という単純な遊びでしたが、みんなでいたわり合いながら遊んでいました。」
 「私(上本啓子さん)が子どものころは、近所の子どもたちと缶蹴りや馬乗り、かくれんぼ、ゴム跳びをして遊んだり、水鉄砲や竹トンボを自分でこしらえて遊んだりもしました。」

イ 川で遊ぶ

 「私(毛利範男さん)が子どものころには、弓滝様(弓滝神社)の近くの弓滝橋の上(かみ)の方に岩場の堰があり、その岩場をウナギがいくらでも上っていました(図表1-2-2①の㋧、写真1-2-11参照)。私はやんちゃだったので、よく橋の上から飛び込んで遊んだものでした。
 また、役場の近くにある奈良川橋は、昔はアーチ状の形をしていたので、『太鼓橋』と呼ばれていました(図表1-2-2②の㋨、写真1-2-12参照)。私の子ども時分は、川の水量も多く、橋の下は深い渕になっていて、よく橋の上から飛び込んでは大人から怒られたものでした。『でちこんか』を始めたとき、子どものころに橋の下辺りまでアユが遡上(そじょう)していたのを思い出して、橋の下でアユのつかみ取りをすることを思いついたのです。」
 「私(上本啓子さん)が小さいころ、祖父のやり方を参考に、味噌(みそ)やイリコをかごの中に餌として入れて、川で毛ガニを獲(と)っていました。ウナギは、川にじごくという筒を仕掛けましたが、思うように獲ることができませんでした。昭和30年代から40年代は、深い所では胸の辺りまで水かさがありましたが、山林の伐採が始まって、水量がだんだん少なくなりました。また、河川がコンクリートで整備され、かつていたドジョウやナマズ、ウナギ、エビ、カニ、サギなどもあまり見られなくなりました。」

ウ 亥の子の思い出 

 「近永でも亥の子は行われていて、藁(わら)の亥の子さんでした。高岡金物店か横の路地辺りが上組と下組の境になっていて、二つの組で亥の子をついて回る家を奪い合っていました。私(毛利範男さん)が子どものころ、今の伊予銀行の前には少し土を盛った丘のような場所があり、そこが下組のお籠もりの場所で、その場所から亥の子さんをずっとついて回っていました。亥の子の歌は16番くらいまでありました。
 昔は他の地域では、亥の子のときには、親元で御馳走(ごちそう)してもらったりしたそうですが、ここではそういったことはなく、集合場所に戻って、年長者たちからおすそ分けをもらっていました。お金よりも食べ物をもらうことの方が多かったです。取り分は、年長者の方が多く、年下の方が少なかったことを憶えています。その時分は、藁の亥の子なども全て子どもだけで作っていて、大人は準備には全く介入しませんでした。自分たちで考えて、亥の子がすぐに傷まないように、真ん中に竹を入れるといった工夫をしていました。」
 「私(芝令香さん)は愛治地区に住んでいます。亥の子では、回った家からお金や餅、みかん、菓子など、いろいろなものをもらっていますが、最近はお金をもらうことが多いようです。亥の子のリーダーとなる学年は地域によって違いがありますが、当地では中学2年生がなっているようです。亥の子は、昔は男の子だけの行事でしたが、行事を絶やしてはいけないので、今は女の子も参加しています。地区によっては、大人が参加しないと人数が足りないところもあるようです。」

 (3) 地域に伝わる行事・伝統文化

ア 弓滝神社のお祭り

 「弓滝神社はもともと好藤地区のお宮で、好藤地区の氏子さんたちがお祭りを行っていました(図表1-2-2①の㋩、写真1-2-13参照)。今は、近永地区のお宮も弓滝神社ですが、かつて近永にあった別のお宮を弓滝神社に合祀したのです。はっきりとは憶えていませんが、戦前に近永駐在所ができたとき、その近くにあったお宮を移して弓滝神社に合祀したのだと思います。合祀された後は、好藤地区の氏子さんよりも近永地区の氏子さんの方が多くなりました。お祭りは昭和30年代がピークで、お練りが行われるなど、賑やかなものでした。 
 しかし、そのころから、地域によっては古くから伝わってきた行事などが徐々に中止されるようになり、秋祭りの行事も人手が足りないので取りやめた地域もありました。昭和40年代には、『私は氏子ではないから参加しません。』という人が増えてきて、その後、お祭りは衰退していきました。」

イ 海津見神社のお祭り

 「竜王神社(海津見〔わたつみ〕神社)は、梼原(ゆすはら)の四万川(しまかわ)(現高知県梼原町四万川)の竜王神社(海津見神社)が本社です。本社は300年以上前から続く神社で、明治7年(1874年)に本社の御分霊を勧請(かんじょう)したのが、こちら(鬼北町)の竜王神社の始まりということです。私(上本啓子さん)の家は、祖父母の時代から竜王神社の氏子で、昔は山道をいくつも越え野宿をして梼原へ行っていたそうです。祖父母、父母が時々寄付をしていて、私も退職後に洋式トイレやちょうちんを寄付しました。鬼北町の竜王神社のお祭りは昔ほどではありませんが、今でも行われています(写真1-2-14参照)。昭和30、40年ころは多くの出店があり、周りは鈴なりの人で、人をかき分けなければいけないほどでした。大野ヶ原(おおのがはら)(西予市)や梼原の海津見神社のお祭りも同じ日ですが、私は梼原のお祭りに行っています。お神楽などもあり、高知だけではなく、九州からも観光客が来るなど、大変賑わっています。」

ウ 盛んに行われていた相撲

 「愛治地区の中心集落である清水(せいずい)には、天満神社の秋のお祭りのときに神輿等が出る広い御旅所(八幡宮の境内)があります(図表1-2-1、写真1-2-15参照)。八幡宮前に土俵が造られ、そこで相撲が行われていました。相撲は秋祭りと別の時期に行われ、盛んだった当時は、子どもから大人まで相撲を取っていました。現在80歳代の人たちが子どものころに参加したと話しています。御旅所や土俵が西中組(にしなかぐみ)にあったので、西中組の男の人が土を入れたり、柱を立てたり、餅をついたりして相撲の準備をしていて、私(芝令香さん)も区長として相撲のお世話の責任者をしたことがあります。相撲はかなり長い間続いてきましたが、ある年、『特定の宗教行事に参加するのは好ましくない』という理由で、小学校側が子どもたちを参加させなくなったため、土俵を準備する必要もなくなりました。相撲が中止されたのは平成12、13年(2000、01年)ころであったと当時お世話をしていた人が話していました。」
 「かつては各地区の神社で相撲が行われていて、中野川(なかのかわ)では、8月の盂蘭盆(うらぼん)の日にやっていました(図表1-2-1参照)。『ぼでん(孟宗竹(もうそうちく)に幣帛(へいはく)をはさんで作った、相撲の勝者に与えられる御祝儀)』を当番の人みんなで分担して、一日かかって作っていたことを私(上本啓子さん)は憶えています。昭和30、40年代は、大人にとっても子どもにとっても、地域のお祭りは楽しみな行事でしたが、今は児童数も少なくなり、公民館や学校の協力を得なければ子どもが集まりません。亥の子にしろ、相撲にしろ、その謂(いわ)れを知らない子どもが増えていますが、そういったことは周りの大人が教えてあげないと、後世に伝わっていかないと思います。」

エ 鬼北に伝わる文楽

 「泉地区の文楽は、明治時代の初めにやって来た旅の一座がそこで解散し、村人がその一座の人形頭や衣装・道具を譲り受けたことに始まるとされています(図表1-2-1、写真1-2-16参照)。私(毛利範男さん)は、伝統を一生懸命受け継いできた人の思いを汲んで、後世に伝えてほしいと思っています。」
 「鬼北文楽は、最近、年1回開催される県大会にも出演しないときがあり、指導者が少ないので、私(芝令香さん)は、『早く継承しないと途絶えてしまう。』と感じています。
 最近は子どもの数が少なくなっており、鬼北町では、少数の中学生と保存会員が組んで練習をしているほか、泉小学校(鬼北町立泉小学校)がクラブ活動で鬼北文楽を取り入れています。鬼北文楽保存会も懸命に活動されているので、地元住民を中心に他の多くの方々による支援が必要ですし、行政からの積極的な支援にも期待しています。」

オ 仙台から伝わった鹿踊り

 「鬼北町には無形文化財の鹿踊りが6組あり、その歴史は宇和島藩主伊達秀宗が仙台から伝えたと言われています。現在、6地域によって人数や踊り方等も少々異なっていますが、秋祭りに見られることは共通し、心豊かになります。
 清水五ツ鹿踊りは、『県内で2番目に古い』と西予市城川町民俗資料館に表示されていますし、愛媛県指定無形民俗文化財となっています(写真1-2-17参照)。踊り子の多かった昭和30年代には、中国・四国ブロック大会に数回出演したり、国民文化祭に参加したりしたこともあります。最近は、少子化の影響を受け、関係者は大変苦労しています。私(芝令香さん)は、地域住民の力を借りたり、行政の協力を得たりするなどして、ぜひ継承を続けてほしいと思います。」

参考文献
・ 近永町『近永町々制實施記念』1941
・ 広見町『広見町誌』1985
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ (財)愛媛県まちづくり総合センター『舞たうん 第33号』1993
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
         『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 広見町商工会『平成5年度中小商業活性化事業広見びっくり市実施報告書』1994
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『鬼北盆地の風土と人々のくらし』1999
・ 広見町『広見町誌 続編』2004
・ 広見町『広報ひろみ』
・ 鬼北町『広報きほく』




写真1-2-10 現在の近永小学校

写真1-2-10 現在の近永小学校

鬼北町 平成28年11月撮影

写真1-2-11 現在の弓滝橋

写真1-2-11 現在の弓滝橋

鬼北町 平成28年10月撮影 橋の向こうに見えるのが弓滝神社。

写真1-2-13 弓滝神社

写真1-2-13 弓滝神社

鬼北町 平成28年10月撮影

写真1-2-15 八幡宮の境内

写真1-2-15 八幡宮の境内

鬼北町 平成28年12月撮影