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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 近永の町かど

ア 競馬場で開かれた牛馬市

 「戦前には近永に競馬場があり、青年団の人たちが陸上競技や競馬を行っていました。そのため、競馬場の近くには馬の蹄鉄を作っていた鍛冶屋さんがありました(図表1-2-2①の㋐参照)。また、周辺の町村から博労(ばくろう)さんが競馬場に集まって馬市や牛市が催されていたことを私(毛利範男さん)は憶えています(写真1-2-1、図表1-2-2①の㋑参照)。競馬場の入り口を入ってすぐの所には食堂があり、博労さんたちがそこで飲食していました。」

イ 生活を支えた店

 (ア) 精米

 「私(上本啓子さん)の家では、近永新町地区の端にあった精米所をよく利用していました。昭和30年(1955年)ころは、水車でお米をついたり、臼にお米を5升ほど入れて足で踏んだりして精米をしている光景が見られていました(図表1-2-2①の㋒参照)。当時の子どもたちは、家庭の作業を手伝いながら勉強していたことを憶えています。」

 (イ) 鮮魚店と料亭

 「日吉、三島、近永、松野地区のお魚屋さんはどの店も宇和島へまだ暗い朝4時から5時ころに出かけてお魚を仕入れていました。近永は列車が通っていたので他の地区に比べて大変便利でした。 
 昭和30年代、浅野のお魚屋さんは、朝、宇和島まで仕入れに行って、午前11時ころ戻って、天秤でお魚を担いで売っていました(図表1-2-2①の㋓参照)。中央鮮魚のおじいさんは永野市の出身で、天秤を担いで魚の行商をしていましたが、近永へ出て来て店を構えました(図表1-2-2①の㋔参照)。春廼家さんは私(上本啓子さん)の同級生ですが、高校を卒業すると、長靴を履いて毎朝5時台の列車に乗って宇和島へ魚の仕入れに行っていました。当時は一番着飾りたい年頃なのに、頭が下がる思いでしたが、店を大きくし、今も老舗の料亭として繁盛しています(図表1-2-2①の㋕参照)。」

 (ウ) マーケット型の食料品店

 「昭和40年代に入り、三間町から来られた方が、駅前通りの食肉店の隣の、昔歯医者さんだった家を購入し、『とみや』というお店を開店しました(図表1-2-2①の㋖参照)。買い物の会計のとき、従来はそろばんで計算していたのを、新しくレジの機械を入れてレシートに買い物の明細が出るようにされ、お店も繁盛していました。」

 (エ) 菜種からの製油

 「戦前から高田醤油(しょうゆ)店の隣には搾油(さくゆ)工場があり、菜種と油を入れる一升瓶を持って行くと、油を搾って瓶に入れてくれました(図表1-2-2①の㋗、写真1-2-2参照)。かつては各地区にそういうお店があり、このお店も昭和30年代には作業をしていたことを私(上本啓子さん)は憶えています。その後、バスの切符と小物を売っていましたが、現在は高田醤油店がその土地を購入して倉庫兼車庫として利用しています。」

 (オ) アイスキャンデー

 「私(上本啓子さん)が子どものころ、近永では、米熊さんのお店とミドリヤさんでアイスキャンデーを売っていました(図表1-2-2①の㋘、㋙参照)。米熊さんは、自転車にアイスキャンデーを載せて、のぼり旗を立ててチリンチリンと鐘を鳴らしながら、毎日売りに来ていました。値段は1本5円でしたが、なかなか買うことができず、みんな水を飲んで辛抱していたことが多かったことを憶えています。米熊さんは早くにお店をやめてしまいましたが、ミドリヤさんではアイスキャンデーのほか、太鼓饅(まん)も長い間売っていました。しかし、当時の子どものお小遣いでは買うことができず、親がたまに買ってくれるくらいでした。」

 (カ) 行商の思い出

 「昭和30年代は行商の人が多く、小間物や反物、食料品、海産物などを売り歩いていました。また、昭和30年代から40年ころにかけて、こちらの人で、宇和島で仕入れた食料品を背負って農村部を売り歩き、その稼ぎで家を建てた人もいたそうです。旧旭郵便局の前には小間物屋さんがあり、小間物を箱に詰め大風呂敷に包み、自転車で農家のお得意さんを回って行商をしていました(図表1-2-2①の㋚、㋛参照)。また、反物屋さんも同様に大風呂敷に商品を包み、自転車で回っていましたが、昭和40年代からはオートバイで回るようになりました。当時はそのほかにも置き薬の行商の方が来ていたことを私(上本啓子さん)は憶えています。」

 (キ) 写真店

 「近永の写真店で一番古いのが兵頭さんのお店で、その次に古いのがアサヒ商会でした(図表1-2-2①の㋜、㋝参照)。北宇和農業学校(現愛媛県立北宇和高等学校)の時代には、卒業記念アルバム作成のお世話を兵頭さんの写真店が行っていましたが、昭和18年度は、製造工場が空襲に遭ったために卒業アルバムが未完成に終わったことを、私(芝令香さん)は憶えています。アサヒ商会はカメラ屋さんで、フィルムの現像もしてくれましたが、十数年前に閉店しました。」

 (ク) 繁盛していた美容院

 「松本美容院を開いた先生は都会でパーマを習っていて、近永駅前の高木さんは、日本髪が上手で定評がありました(図表1-2-2①の㋞、㋟、写真1-2-3参照)。そこで、お互いがパーマと日本髪を教え合ってから独立されました。昭和30年代から日本経済は右肩上がりに成長しましたが、そのころからパーマをかけるようになってきました。そのころ、女性の間では長い髪をアップにする髪型が流行していて、中には週に1回美容院に通う女性もいました。
 当時は結婚式の髪結いと着付けが各家庭で行われており、大きな荷物を自転車に載せたり、背負ったりして運ばなければなりませんでした。平地ばかりでなく、小さな坂道もあり、天気の良い日ばかりではなかったので、大変骨が折れたそうです。昔から、『髪結い亭主は安泰だ』などと言われていますが、あまりの繁盛ぶりに御主人は家事(炊事、洗濯、そうじ)を一手に引き受けられて、奥さんに昼食を一口でも差し入れるように気遣いをされていた、と私(上本啓子さん)は聞いたことがあります。甥御さん夫婦がお店を継いだのですが、奥さんは多くのコンクールで受賞するほどの腕前で、松本美容院へ行く人が一層多くなりました。」

 (ケ) 呉服店と洋装店

 「銀映(旭座)の隣には大丸呉服店があり、布団の裏地、足袋、布地から簡単な服まで売っていました(図表1-2-2①の㋠、写真1-2-4参照)。また、近永駅の近くに田中さんという呉服店がありましたが、このお店では、お金の都合のできない方は物々交換することができました(図表1-2-2①の㋡参照)。昭和50年代にお店が2代目になると、本格的な洋装店に変わりました。サイズの大き過ぎる人には縫込みをしてくれたのでお客さんから重宝がられ、ますます繁盛していったことを私(上本啓子さん)は憶えています。
 昭和30年代から40年代は洋裁を習っている女性がたくさんいました。女子は高校を卒業すると、50cmの竹さしとメジャーと裁縫箱を袋に入れて、宇和島のドレスメーカーに通っていた人が多くいて、65歳以上の方には今でも洋裁ができる人がいます。また、そろばん(簿記)ができると就職もよかったので、小学生から中学・高校生までそろばん教室が繁盛していました。」

 (コ) 病院

 「昭和20、30年代には、産婆さんがいて、自転車に乗ってみんなの家を回ってお産をしていたことを私(上本啓子さん)は憶えています(図表1-2-2①の㋢参照)。昭和37年(1962年)に母子健康センターができるとそちらを利用する人もいましたが、昭和40年(1965年)ころから病院でお産をする人が増えてきて、産婆さんは徐々に見かけなくなりました(図表1-2-2②の㋣参照)。
 今の北宇和病院(鬼北町立北宇和病院)は、以前は県立北宇和病院で、その前は町立近永病院といっていました(図表1-2-2②の㋤参照)。近永病院は昭和23年(1948年)に開院した当時、宇和島市立病院に次ぐ大きな病院で、ベッドが150床もありましたが、病室はまだ障子と畳の和室でした。先生は九州大学温泉治療学研究所などから来られていて、町民からは信頼されていましたが、県立病院に変わった昭和37年(1962年)ころ、松山(まつやま)や宇和島、近永などで開業した先生もいらっしゃいました。昭和30年代は、どちらかというと個人経営の医院よりも総合病院である北宇和病院へ行く人が多かったように思います。北宇和病院に産婦人科ができると、そちらで出産する妊婦さんもいました。」

 (2) 人々の楽しみ

ア 旭座

 「旭座には回り舞台や花道があり、小学校・中学校の時はここを借りて、学芸会をやっていました(図表1-2-2①の㋥参照)。旭座には時々、浪曲師が来たり、京都から『すわらじ劇園』が来たりしていましたが、昭和30年(1955年)早々に芝居小屋から映画館に替わり、名前も『銀映』に変わりました。私(上本啓子さん)はよく映画を観(み)に行っていましたが、やがて、学校では生徒が映画館に行くのを禁止しました。
 銀映では1日に2回、午後1時からと午後6時から映画が上映されていましたが、客席はほぼ満席の状態でした。観客は映画に引き込まれ、映画を観ながら手を叩いていたことを憶えています。また、映画館には俳優の顔が本物そっくりに描かれた、立派な看板もありました。」
 「私(毛利範男さん)の家の前に銀映があり、そこでいつもタダで映画を観られたので、よく行っていました。戦後、私の息子は子どものころ、小林旭の映画を観に行っては、ほうきでギターを弾くまねをしたりしていました。」

イ 近劇

 「近永には銀映のほかに、衆議院議員だった桂作蔵さんが建てた近劇(きんげき)という映画館があり、私(上本啓子さん)が中学生のころ、全校生徒で『二十四の瞳』を観たことがありますが、おそらく文部省(現文部科学省)推薦の映画だったのだと思います(図表1-2-2①の㋦参照)。私はよく近劇に映画を観に行きましたが、映画館の中はお客さんで一杯で、一度入ると映画が終わるまで出られないほどでした。東映の中村錦之介さんや美空ひばりさんとの共演の映画などを上映していました。普段は2本立てのところが、お盆や正月などは3本立てになりました。テレビはこの辺りでは昭和37年(1962年)から見られるようになりましたが、そのころから全国的に映画館が減っていったように思います。」

ウ 映画の巡回

 「近永に映画館ができるまでは、『野口英世』や『やまびこ学校』などの映画が巡回して来て、私(芝令香さん)は学校の講堂で観たことがありました。また、近永の周辺の地域では、教育委員会の社会教育担当者が公民館で映画を上映することもありました。」
 「私(毛利範男さん)は250ccの単車に乗っていたので、銀映や近劇の人に頼まれて、近永で上映した後、下大野(しもおおの)や日吉(ともに鬼北町)の映画館へフィルムを運んだり、遠いときは大洲(おおず)まで運んでいました。私のほかにもバイクを持っている人がいて、その人と二人で仕事と掛け持ちでフィルムを運んだこともあります。そうしたときは、こちらから要求したことはありませんが、謝礼をいただいていました。その時分の映画のフィルムは燃える材質で、肱川(ひじかわ)(現大洲市)の鹿野川(かのがわ)ダムの方へ行くところでバスが全焼する事故がありました。バスの中に積んでいたフィルムから出火したのが原因で、多くの乗客が亡くなったことを憶えています。そこには今でも慰霊碑が建っています。」

 (3) 商店街の活性化のために

ア 大型店舗の進出

 「商店街のお店が減った原因は、大型店舗が出店するようになってきたことや、駐車場がなかったために車で買い物に来るお客さんにとって不便であったことなどがありました(写真1-2-6参照)。昭和50年(1975年)の少し前ころ、私(毛利範男さん)は、商店街の通りに長屋の店舗を設けて、2階を自分たちの居住スペースにして、1階の更地になった部分は公共施設として使うという計画案を作りました。しかし、商店街の全ての人から賛同を得ることができなかったため実現しませんでした。
 また、広見にフジが出店したころ(平成10年〔1998年〕ころ)、私は商工会の役員をしていましたが、フジの出店には反対しませんでした。そのころ、商店街には空いた場所がかなりあり、フジが出店するのであれば、そこへ出店してもらうように話を進めようとしました。その方が商店街に買い物客が集まると考えたからですが、結局、それも実現しませんでした。」

イ 近永日曜市

 「近永日曜市は、私(毛利範男さん)の発案で昭和58年(1983年)に始まりました。当時、商店街の中心部で空き家になっていたお店があり、それを商工会が無償で取り壊して公共駐車場を設けました。近永日曜市は、その駐車場を利用して毎月第三日曜日に開催されました。日曜市が始まったころは、商店街のいろいろなお店も参加して賑(にぎ)わっていましたが、ややマンネリ化してきたのか、少しずつお客さんや出店者が減り始めました。近永日曜市実行委員会の会長を務めていた私は、何とか日曜市の活性化を図ろうと思い、役場の産業課の人たちと一緒に、県内や高知県で行われていた市(いち)を視察して回りました。高知県では高知市の日曜市をはじめとして、各地で異なる曜日に市が開かれていました。そのうち、南国(なんこく)市では、昭和44年(1969年)から土曜市を開いていて、組合員の信頼の厚い女性組合長のもとで見事な運営がなされていました。そこで、役場の助役などと一緒に南国市に出向いて提携を持ち掛け、双方で検討を重ねた結果、昭和59年(1984年)9月の近永日曜市では双方の関係者が出席して姉妹提携宣言式が行われました。姉妹提携以来、年に2、3回の割合で双方が出店し合って、お互いに特産品を販売するようになり、友好関係を深めていきました(写真1-2-7参照)。南国市の方々とは今でもお付き合いが続いており、私にとっては貴重な財産になっています。」

ウ 広見びっくり市

 「昭和55年(1980年)から、町のイベントとして『ふるさと物産市』が行われていて、町役場から、『日曜市も一緒に参加してください。』と頼まれました。ふるさと物産市では、町内特産品展示即売コーナーなどさまざまなコーナーが屋内の会場で行われていましたが、日曜市は屋外にテントを張って出店しました。私(毛利範男さん)は、『地域の物産を広く知ってもらい、販売するような催しは、屋外で開いた方がいいですよ。』と提案し、それを実践したのが、平成5年(1993年)9月に広見町商工会が主催し、近永商店街で開催された『広見びっくり市』でした。近永保育所駐車場に特設ステージを組んで、鬼北文楽公演や和太鼓の競演、県警ブラスバンド演奏、よさこい鳴子踊りなどが行われたほか、本通りでは、ミニSLを走らせて、子どもたちには大人気でした。イベントのメインである、県内及び南国市と地元商店街との交流市には、12市町村から67店が出店し、日用品から各地特産品までが販売されて、特に好評でした。広見町では初めての大イベントでしたが、町外からの来訪者も多く、参加者は当初の予定を大きく上回る約15,000人で、商店街全域が終日多くの人で賑わいました(写真1-2-8参照)。」

エ でちこんか

 「第1回の『でちこんか』は、平成6年(1994年)11月5、6日に、広見町合併40周年記念行事の一つとして開催されました。これは前年までの『ひろみふるさとふれ愛まつり』をスケールアップしたもので、物産市や愛護班まつり、健康まつり、町民作品展等の行事に加え、前夜祭での和太鼓コンサートやふれあい動物園、人形劇などイベントが盛りだくさんでした。私(毛利範男さん)は町に『でちこんか』を開催するよう提案し、その運営にも17年間携わりました。びっくり市はでちこんかのコーナーの一つになっていて、原則として店舗を持っている人しか出店を認めていませんが、店舗を持っている露天商であれば出店を認めています。『でちこんか』は今も続いていますが、良いと思うものは積極的に取り入れて、魅力的なイベントであり続けてほしいと思います(写真1-2-9参照)。」



図表1-2-2 昭和30年代の近永の町並み①

図表1-2-2 昭和30年代の近永の町並み①


図表1-2-2 昭和30年代の近永の町並み②

図表1-2-2 昭和30年代の近永の町並み②


写真1-2-6 現在の近永の町並み

写真1-2-6 現在の近永の町並み

鬼北町 平成28年10月撮影