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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 日吉大橋下の木橋

 「日吉大橋下の木橋は昔からあり、昭和30年代にはすでにあったと思います(図表1-1-3の㋞、写真1-1-14参照)。この橋は、商店街の方から川向こうに徒歩で渡るときのルートの一つでした(日向谷川には、他にも道路よりも低い場所に架けられた橋がいくつかあり、人々は現在も使用している)。映画館や公民館などに行くときによく利用していました。
 実は、『案山子(かかし)』という飲食店の奥には、以前、銭湯がありました(図表1-1-3の㋟参照)。私たち商店街側でくらす人々だけでなく、川向こうでくらす人々もよく利用していて、この木橋を渡ってこの銭湯によく来ていました。今は、公民館だった所が集会所になっていて、そこへ行くときなどに、私たちはこの木橋を利用しています(図表1-1-3の㋠参照)。」

 (2) 川で遊ぶ

 「日向谷川沿いの、昔豚舎があった辺りは子どもたちの遊び場でした。現在は水深が浅くなってしまっていますが、ここは『坊ずがぶち』という民話でよく知られている場所でした。『ふち』と呼ばれていたので、川が深くなっている所で、子どもたちが飛び込んだり、泳いだりしていたことをよく憶えています(図表1-1-3の㋡、写真1-1-15参照)。」
付記 日吉の伝説・民話 坊ずがぶち(②)
 とんと昔、日向谷と下鍵山の境あたりに、三道成(さんどうなり)という所があったそうな。そのかたすみのあたりの小さな小屋に、旅の坊さんが永年住みついていたそうな。お坊さんは小さなろばたで、ざぜんを組みながら、静かに何かを考えていたそうな。外は嵐じゃった。冷たい雪混じりの北風が、そまつな小屋のかこいを通して、ひしひしと、はだにせまってきたそうじゃ。その時、どこからともなく、赤ん坊の泣き声が聞こえてきたそうな。始めは風の音かと思っていたそうな。「こりゃ子供の声じゃ」坊さんは、つえをつきながら、一生けん命ふぶきの中を、声をたよりにさがしたそうじゃ。すると石がきのそばに、ふくろに包まれた赤んぼうがいた。坊さんは、だきかかえて家に帰って、おかゆをたいてやった。赤んぼうは、あたたかさとまんぷくで、坊さんのひざの中ですやすやとねむったそうな。
 それから10何年かたって、赤んぼうは美しいむすめになったそうな。ところが秋のある日、むすめはとつぜんいなくなってしもうた。坊さんは、近くの山や野原をさがしたが、どこにもいなかった。夜になって、さがしつかれた坊さんは、少しやすんでいると、むすめの声がするようじゃった。さっそく外に出てみると、外は美しい月夜じゃったそうな。とうとう川のそばまで出てきたそうな。美しい月光に輝く川の水面は、かがみのようじゃった。その水の底から、むすめがしきりによんでいた。坊さんは、自分の体をわすれて、水に飛び込んだそうな。坊さんは死んだが、死体は何日たっても、出てこなかったそうな。村の人々は、ここを今でも、「坊ずがぶち」といっている。    

 (3) 人々の娯楽

 「昔はパチンコ店と映画館がありました。映画館は、現在の日吉集会所の所と武左衛門広場の下辺り、現在空き地になっている所の2軒があって、やはり当時の娯楽の中心でした。昭和30年代、私はちょうど中学生でしたが、何度も映画を観(み)に行きました。映画館の名前は、今の武左衛門広場付近にあった映画館は『明星』、日吉集会所の所にあった映画館は『日吉館』という名称でした(図表1-1-3の㋔、㋠、㋢、写真1-1-16参照)。
 客席は、『日吉館』では板敷きの床の上に座布団が敷かれていました。もともとは旅芝居の公演などを行っていた劇場を映画館に改造したものだったので花道もありましたし、2階建てで2階にも客席がありました。また、映画だけでなく、演劇の上演も行われていました。『明星』の方も2階建てで、こちらは椅子席でした。」

 (4) 闘牛場

 「当時の楽しみといえば、日吉中学校の寄宿舎のそばにあった闘牛場に行くことでした。国道197号を整備する際に整地されてしまいましたから、現在はそこが闘牛場であったことは全く分からなくなってしまっています。
 私は父野川の生まれで、昭和30年(1955年)に富母里小学校を卒業して日吉中学校に入学しました。寄宿舎に入った時に施設を見に行ったことがあり、よく憶えています。そのころは、闘牛はすでに行われていなかったと思いますが、施設の中には垣根や囲いがまだ残っていました。牛については、宇和島の闘牛が有名ですが、おそらく闘牛用に地元で飼育していた牛を連れて来ていたのだと思います。」

 (5) 「武左衛門ふるさと祭り」

 「昭和60、61年(1985、86年)ころのことだったと思いますが、プロジェクトチームを地区ごとに五つ立ち上げ、日吉村の活性化についての話し合いを行いました。その中に『武左衛門一揆の顕彰をやろう』との案があって、その実現のためにまず『武左衛門一揆顕彰委員会』を設立したことが始まりです。その後、何度も話し合いを繰り返して、現在の形の『武左衛門ふるさと祭り』を開催することになったのです(写真1-1-17参照)。
 このような案が出てきた背景には、以前より下鍵山の人々が武左衛門の供養を続けていたという歴史があります。毎年お盆のころには、日吉神社で慰霊を続け、武左衛門広場で『武左衛門相撲』も行っています。この相撲は、もともとは『六地蔵奉納相撲』という名称ですが、武左衛門広場で行うことから、いつしか人々がそのように呼ぶようになりました。そのようなこともあって、『日吉村の活性化のための一番のメインとなるものは武左衛門ではないか』との考えが出てきて、『武左衛門ふるさと祭り』の実施につながったのです。
 この祭りが始まるまでは、現在のように扮(ふん)装をして町を練り歩くということまでは行っていませんでした。日吉神社を起点にして、牛鬼や四ツ太鼓を担いで町内を練り歩くというのが従来の日吉村の祭りです。御旅所が4か所あって、そこで休みながら、再び日吉神社まで戻ってきます。近年では、『武左衛門一揆の道を辿(たど)る』というイベントも行われるようになりました。
 このイベントは、『武左衛門ふるさと祭り』が始まった後に何度か行いました(『日吉村誌続編』によれば、その第1回目は平成5年〔1995年〕2月に実施している)。宇和島の八幡河原(はちまんがわら)で気勢をあげて、三間(みま)(現宇和島市)からさらに日吉まで約40㎞の道を歩くというもので、第1回目は私も参加しました。現在は、『日吉一希を起こす会』がその主催をしていて、今年(平成28年)行われるイベントで4回目になります。昨年は日吉から宇和島まで歩きましたので、今年はその逆で宇和島から日吉まで歩きます。途中休憩はありますが、疲れてしまって、最後の方は足が言うことを聞かなくなります。私が宇和島から歩いたときには、堀切(ほりきり)大橋付近の少し坂になっている所で足が上がらなくなってしまいました。最後は当然、武左衛門広場に上がるために階段を登らないといけないのですが、どうしようもありませんでした。」

 (6) 偉業の顕彰を続けていくことの難しさ

 「先人の偉業を顕彰するということは、日吉村の伝統でもあります。しかし、祭りに参加する人々がみんな高齢になってきているので、継続するということ自体がなかなか難しくなってしまっています。また、『武左衛門一揆顕彰委員会』の事業として、武左衛門広場にある武左衛門堂を建てたのが、平成10年(1998年)のことです(写真1-1-18参照)。そのころはまだ参加者の数も多かったのですが、現在はどんどん少なくなり、運営をすること自体が本当に難しい状況です。ただし、若い人たちの中に顕彰事業を一緒に行いたいと考える人が何人かいるので、彼らにどのように引き継いでいくかが現在の私たちの課題です。
 また、日吉小学校では現在、武左衛門一揆についての学習の一つとして、フィールドワークを行っています。私も講師として小学生と一緒に彼の足跡を歩き、その偉業を伝え続けています。私の話を聞いた彼らが日吉に残ってくれたらというのが今の願いです。しかし、多くの若者たちが日吉から出てしまい、戻って来ないというのが現状でもあるので、どのようにしてこの顕彰事業を維持していくべきなのか、なかなか悩みは尽きず、本当に難しいと感じています。」

参考引用文献
① 日吉村『日吉村誌』1993
② 日吉村、前掲書
その他の参考文献
・ 日吉村『日吉村ふるさと写真集 未来へ向けて 日吉村百有余年の足跡 日吉時往来』2004



写真1-1-14 日吉大橋の真下にある木橋

写真1-1-14 日吉大橋の真下にある木橋

鬼北町 平成28年10月撮影

写真1-1-18 武左衛門堂

写真1-1-18 武左衛門堂

鬼北町 平成28年10月撮影