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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 初代村長 井谷正命先生による町づくり

ア 建設当時と変わらない道幅

 「下鍵山の町づくりに奔走されたのは、初代村長の井谷正命先生です。先生は、この地が交通の要衝であり、宿場町にもなり得ることに着目され、ここに町をつくろうと構想されたのです。井谷先生はこの地域の庄屋の家の生まれで、この辺り一帯は全て井谷先生の所有地でした。
 現在の下鍵山の道幅は、車2台が十分に通ることができるほど広いのですが、これはこの町がつくられた明治のころと全く変わっていません(写真1-1-3参照)。しかし、地域の人々や宇和島以南の各町村の人々との交渉など、その実現にはかなりのご苦労があったことが、『日吉村誌』に書かれてあります。『こんなに広い道幅がいるのか。』と多くの人々から言われたそうですが、井谷先生は、『それだけの幅が必要だ。』と主張され、それを通されました。井谷先生は大阪で生活をされたことがありましたが、その時の大阪の街の様子が印象深かったのだと思います。やはり、井谷先生の町づくりの構想の中に、下鍵山がこの地域の中心であるという意図が、当初からあったのでしょう。
 この道幅のおかげで、後世の下鍵山の人々が恩恵を受けました。それは、道路を舗装した昭和44、45年(1969、70年)ころのことです。実は道路を舗装する際、道幅の広さによって地元の人々の負担金(受益者負担)の有り無しが決まっています。下鍵山はこの広い道幅のおかげで全て国の補助の対象となり、受益者負担が全くなかったので、本当に助かりました。偶然のことではありますが、明治時代の構想が後世の人々に恩恵を与えてくれたということばかりでなく、井谷先生が先進的な考えを当時すでに持たれていたことに驚いています。」

イ 周辺地域からの集住

 「井谷先生は、下鍵山の町づくりの趣旨と将来の展望について、さまざまな地域の人々に何度も説明をなさいました。現在下鍵山でくらしている人々の中で、昭和のころから商売を続けている方の多くは、その呼びかけに応じて下鍵山に集まって来られた方々です。松山(まつやま)市や城川町、面河(おもご)村(現上浮穴〔かみうけな〕郡久万高原〔くまこうげん〕町)から来られた方がいらっしゃいますし、現在の鬼北町内でいえば、三島(みしま)や日向谷の方から来られた方もいらっしゃいます。梅乃家旅館も、父野川からこちらに来て、木賃宿として開業したのが始まりです。もともとの住居は、富母里(とんもり)小学校の近くにありました。」

ウ 下鍵山と他地域をつなぐ道、そして水道

 「井谷先生は、下鍵山と他の地域をつなぐため、四辻(交差点)から四方に延びる道路も造られました。まず、四辻から南東(日吉小・中学校の方)へ延びる道路は下鍵山と父野川をつないでいます。次に、四辻から北西に延びる道路は下鍵山と城川町をつないでいて、日吉-野村線と呼ばれていました。さらに、四辻から北東へ延びる道路は下鍵山と日向谷をつなぎ、さらに高知県の梼原へと続いています。
 このように、道路を見ていくだけでも、井谷先生の町づくりは、今でいう『都市計画』であったことが分かります。井谷先生が町をつくられた時にできていなかったものといえば、水道だけでした。下鍵山に簡易水道施設が完成したのは、昭和29年(1954年)のことです(写真1-1-4参照)。その時には仮装行列なども出て、町全体が盛大に賑わっていたことをよく憶えています。このことを記念して建てられた碑が、明星ヶ丘にある『上水道竣工記念碑』です。この施設ができるまでは、井戸水を使っていました。
 下鍵山にはかつて、井谷酒造という酒屋さんがあって、『春駒』という銘柄のお酒を造っていましたが、この簡易水道施設ができるまでは、米磨(と)ぎを日向谷川で行っていました(写真1-1-5参照)。『日吉夢産地』から200mほど南に進んだ所に井谷酒造があったので、その付近でのことです。現在は松山の方に移られたのでお酒造りは行っておらず、家だけがあります。かつては城川の方にも『春駒』を造っているところがありましたが、そちらも酒造をしていないので、『春駒』はもう販売されていないと思います。」

エ 川沿いに建てられた住居の特徴

 「日向谷川の方から下鍵山の町の方を見ると、高く積まれた石垣の上に家が建っていたり、道路よりも低い位置に住居があったりする風景が見られます(写真1-1-6参照)。これは、井谷先生が町づくりをしたときの名残です。もともとは土地の高さはもっと低く、段差もなだらかでした(写真1-1-7参照)。周辺の土を掘り集め、盛り土をして道路を建設していきましたが、下鍵山の道路の高さは造られた当時と全く変わっていません。つまり、家を建てるときに、道路の高さに合わせる必要があったので、地階(ちかい)(『地倉(じぐら)』と呼んでいる人もいる)をつくったり石垣を組んだりして、高さを揃(そろ)えたのです。日向谷川だけでなく、鍵山川沿いに建つ住居も同じです。地階は、多くの人が倉庫として現在も使用しています。
 このようにして下鍵山の町並みができたので、川沿いを歩いてみると、家よりもかなり低い位置にある畑などをよく見かけます。これは、町づくりをする前の下鍵山の様子を今に伝えるものだと言えます。」

オ 地名について

 「下鍵山というのは、江戸時代のころの村の名称である『鍵山村』から来ています。『幸田町』はいつごろからそのような名称になったのかは具体的には分かりません。おそらく昭和に入ってからではないかと思います。正しくは『甲田(こうだ)』で、地名を付けるときに田の多い所に甲、畑の多い所に乙、山林に丙という漢字を当てたそうです。この辺りは水田が多かったので、『甲田』と付けられたのです(図表1-1-2、写真1-1-7参照)。」

 (2) 交通の要衝、下鍵山
  
 「下鍵山地域そのものが南予地域の交通の要衝だったことから、梼原や城川、宇和島などから多くの人が来て、宿泊をしていましたし、ここを拠点にして周辺の地域まで出向き、商売などをする人々がたくさんいました。例えば、卸屋さんが商売をしに来ていましたし、各家に置き薬を配るために薬屋さんもよく来ていました。
 薬屋さんは、一度来られたら2、3か月は滞在を続け、日吉村全域だけでなく、城川の方へも出向いて薬を販売していたことをよく憶えています。自転車の荷台の部分に薬を入れた箱を取り付け、全て自転車で配達をしていましたが、昭和35年(1960年)ころの日吉村の人口が4,800人ほどですから、日吉村全域に薬を配るだけでもかなりの時間がかかったと思います。また、宇和島からいろんな卸屋さんが来ていましたが、その方たちも下鍵山で泊まって、ここからあちこちに出向いて注文を取って回ったり販売をしたりしていました。さらに、昭和30年代といえば木材がよく売れていた時代だったので、木材関係の方が宿泊されることもありました。日吉村でいえば、川口(かわぐち)で運送会社を経営していた方や節安(せつやす)の方が、木炭の販売や木材の搬出などでかなりの利益を上げ、大型のトラックを購入していた時代でした。主にそのような方たちが宿泊客の中心で、観光で宿泊される方はあまりいませんでした。」

 (3) 下鍵山が交通の要衝となった要因

 「井谷先生の努力のおかげで、下鍵山は交通の要衝であり、商業の拠点にもなりました。日吉村には川口や大村(おおむら)のように小さな集落がたくさんあり、それぞれに店があったので、各地域に商品を卸していかなければなりませんでした。下鍵山はその拠点であり、宿場町でもありました(写真1-1-8参照)。
 下鍵山への物資は、そのほとんどが宇和島から運ばれていました。松山や大洲から物資がもたらされるということはあまりなかったように思います。里道日吉線があったので、それを利用して、多くの物資が下鍵山に運ばれてきたのです。それでも当時は、日吉から宇和島まで、車で2時間はかかっており、下鍵山を拠点にしなければ、効率良くあちこちへ行くことができにくく、だからこそ下鍵山で宿泊をする必要があったのです。下鍵山から宇和島まで、日帰りで気軽に行くことができるようになったのは、昭和57年(1982年)に国道320号が開通してからのことです。」

 (4) 道路沿いに連なる店舗等

 「下鍵山は、四辻を中心に東西南北に道路が走っていますが、その沿線にある家のほとんどがお店でした。感覚としては、今のコンビニとか大型店舗とかを逆に解体して、道路の沿線に個々に配置したという感じです。個人商店ですが、さまざまな店がありました。旅館や鮮魚店、精米所、薬屋、飲食店はもちろん、洋服店やクリーニング店、理容店など本当に揃っていました。さらに店と店の間に大工や左官、板金もあり、日吉商店街だけで日常生活の全てを賄うことができていました。さらに、日吉周辺からも人が集まってきていたので、本当に賑やかでしたし、経済が下鍵山中心で回っていました(図表1-1-3参照)。」

ア 高橋百貨店

 「高橋百貨店は、三越の小型版といった感じのお店で、日用雑貨など生活に必要なさまざまなものが販売されていました(図表1-1-3の㋐参照)。昭和30年代当時は『百貨店』という言葉自体が先進的で、その言葉を聞くと、『すごいな。』と感じたことをよく憶えています。」

イ 伊予日吉国鉄バス営業所

 「現在、日吉支所住民センターがある所は、かつては国鉄バスの営業所でした(図表1-1-3の㋑、写真1-1-9参照)。営業所設置までの経緯についてですが、これはもともとは井谷先生が奔走されていた、日吉村への鉄道誘致(大洲-近永間の鉄道104号線)に始まります。設計もできて予算も付いていたのですが、政変があって取りやめになり、今の予讃線が開通することになったのです。この政変とは、昭和4年(1929年)、立憲政友会から立憲民政党に与党が変わった時のことです(田中義一内閣から浜口雄幸内閣へ。井谷正命氏は立憲政友会員であった)。その時、鉄道誘致ができなかった代わりに、当時は『省営バス』と呼ばれていましたが、国鉄バスの開通に伴い、営業所が設置されることになったのです。(省営バスの開通は昭和11年〔1936年〕3月1日のことで、近永-魚成橋(うおなしばし)間37.5㎞を運行した。当初は、国営鉄道南予線伊予日吉自動車であり、その後昭和24年〔1949年〕に国鉄自動車へと改称された。)
 この営業所は、大洲以南のバス路線の営業の拠点となりました。この営業所を中心にバス路線のダイヤを組んで(編成して)運行していたのです。昭和30年代には、国鉄バス関係の職員が日吉村に100人はいたので、家族も含めると、400人から500人ほどが日吉村でくらしていたと思います(写真1-1-10参照)。当時は営業所の近くに国鉄職員のための住宅がありましたし、町中の方でくらしていた方も何人かはいました。また、明星ヶ丘の中にきれいに石が積まれている所(鬼北町歴史民俗資料館西側)がありますが、そこはもともと国鉄の寮があった場所で、独身の職員はそこで生活をしていました(図表1-1-3の㋒参照)。この建物は2棟で、長屋方式のアパートのようなものでした。そして、現在武左衛門一揆記念館が建っている所は田んぼ、明星草庵がある所はみどり保育所、さらに現在武左衛門堂がある所が子どもたちの遊び場でした(図表1-1-3の㋓、㋔参照)。昭和57年(1982年)に現在の国道が開通しましたが、このような町の様子が昭和60年(1985年)ころまで続いたと思います。」

ウ バス利用の記憶

 「昭和30年代は、まだ自動車が各家庭に普及していないころだったので、バスの利用者が一番多かった時代だと思います。私は近永から下鍵山までよく利用していましたが、なかなか座ることができませんでした。下鍵山を拠点に、宇和島方面や大洲方面など、四方にバス路線が伸びていました(写真1-1-11参照)。バスの便数は多い方で、大体1時間ごとに出発していたと思います。また、高知県梼原町からは、高知県営のバスがこちらまで来ていました。そのバスの色が赤かったので、私たちは『赤バス、赤バス』とよく言っていました。当時としては珍しいことですが、女性の方が運転をしていて、新聞にも掲載されていました。おそらく、女性ドライバーのはしりでしょう。
 昭和32年(1957年)には富母里の方へもバス路線が開通しました(日吉-大村線)。そのころには、父川(ちちかわ)小学校や富母里小学校に新しく赴任する先生方が、その前日に下鍵山で宿泊して、翌日の朝にバスで出勤するということがよくありました。それぞれの学校のそばには教員住宅があったので、それ以外の日は下鍵山で宿泊することはないのですが、赴任する前日に梅乃家旅館に宿泊されていたことをよく憶えています。」

エ 旅館

 「日吉村には、旅館が全部で6軒ありました。日吉屋旅館や梅乃家旅館、よしの旅館、ゆたか旅館、松屋旅館、それから丸高(まるたか)タクシーがあった所も以前は旅館でした(図表1-1-3の㋕、㋖、㋗、㋘、㋙、㋚参照)。日吉屋旅館は明治時代にはすでにあったと聞いています。本当かどうか分かりませんが、坂本龍馬が宿泊した宿であるという言い伝えがありました。
 梅乃家旅館の歴史は古く、昭和10年(1935年)の大火以前からあり、最初は木賃宿だったそうです。山を歩いて来た人が宿泊するための宿で、『馬つなぎ(馬をつないでおく場所)』もあったと聞いています。大火で焼失したのち、昭和11年(1936年)に再建されました。建物は2階建てで、2階はお客さんが宿泊する部屋になっていました。最初は部屋数も少なかったのですが、徐々に建て増しをして部屋数を増やし、現在の旅館の形にしていきました。宿泊するお客さんの数は少くなっているようですが、現在も営業を続けています。」

オ 二つあった銀行

 「昭和30年代、下鍵山には高知相互銀行と愛媛相互銀行の二つの銀行がありました。高知相互銀行は木山縫製があった所に、愛媛相互銀行は理髪店の西隣りにそれぞれありました(図表1-1-3の㋛、㋜、㋝参照)。」

 (5) 歴史的建造物の保存について

 「木山縫製は、城川出身の方が経営しておられました。残念ながら、今年操業をやめてしまいましたが、その建物は本当に貴重なものです(写真1-1-12参照)。老朽化して朽ちかけているので、今のうちに塗装などもやり直しておければよいと思います。
 ただ、昔ながらの建造物を残してほしいという人もいますし、逆に残しても仕方がないと考える人もいて、それぞれ価値観が違いますから、本当に難しい問題です。内子(うちこ)町のように、町を挙げて保存に取り組もうとする体制ができれば話は違ってくるのですが、もう地域住民の力だけでは無理があるのかもしれません。
 下鍵山の町並みにおいても、数年前から古い建造物を壊していくようになりました。丸高タクシーがあった辺り(四辻付近)ですが、すでに更地になってしまっています。もしかしたらこれから、そのような場所が増えていくのではないかと危惧しています。」
付記 この建物は、昭和11年(1936年)10月から昭和25年(1950年)5月まで郵便局、昭和28年(1953年)4月から昭和45年(1970年)9月まで高知相互銀行、昭和49年(1974年)12月から平成28年(2016年)4月まで木山縫製として利用され続けた。

 (6) 井谷正命先生について

 「やはり、井谷正命先生はすごいと思います。道路の整備もそうですし、養蚕の普及や林業の振興を図るなど、産業の育成にも努められました。さらに、『産業の振興を図るためには教育が大事である。』と考えられ、日吉実業学校も開校されました。学校のあった場所は現在の井谷邸のすぐ隣で、多くの子どもたちを集めて教育を施されたと伺っています。井谷先生に学んだ卒業生が90人近くいらっしゃって、彼らが議員や村長などを歴任して、井谷先生以後の日吉村を支え続けてこられたのです。
 日吉村の歴史を考えたとき、このつながりは本当に大きなものだと思います。こうしたつながりが、『日吉村の活性化のために何かをしなければならない』という意識を人々に生じさせ、現在の『武左衛門ふるさと祭り』まで脈々と続いているのでしょう。日吉村の人々が武左衛門のことを語り継いでいるのは、やはり井谷先生の功績です。井谷先生が武左衛門の業績を発掘し、研究を通して人々に紹介するだけでなく、自らが中心となって武左衛門の供養を始められたことが人々の心に浸透し、現在に至るまで武左衛門を顕彰しようという行為につながっているのだと思います。」

 (7) 井谷正吉先生について

 「井谷正吉先生は社会党の衆議院議員でした。社会党といえば、革新的で激しい政治活動をするというイメージですが、そんな印象は全くなく、穏やかな方でした。やはり、農地解放や人権・同和教育などさまざまな民主化運動に携わってこられた方ですから、『人間は平等である』という感覚がものすごくあった方だとの印象が強く、本当に庶民的でした。明星ヶ丘が、愛媛県で最初にメーデーが行われた場所ですが、井谷正吉先生がいらっしゃらなければ、行われていなかったかもしれません(写真1-1-13参照)。
 井谷正吉先生のことで憶えているのは、非常に気さくで、親近感のある方だったということです。日吉村に戻って来られたときには、真(ま)っ先に梅乃家旅館まで来られてお風呂に入り、それから自宅に戻られていました。うちの方でも来訪を喜んで、井谷先生をよく接待したという話を聞いたことがあります。本当に温厚で、優しい方で、多くの人から慕われていました。」



写真1-1-3 下鍵山の町並み(四辻付近)

写真1-1-3 下鍵山の町並み(四辻付近)

鬼北町 平成28年3月撮影 道幅は約7.5mある。

写真1-1-6 日向谷川沿いの住宅

写真1-1-6 日向谷川沿いの住宅

鬼北町 平成28年10月撮影 写真中の線は、下鍵山の道路の高さを示している。

図表1-1-3 昭和30年代の下鍵山「幸田町」の町並み

図表1-1-3 昭和30年代の下鍵山「幸田町」の町並み


写真1-1-12 木山縫製跡

写真1-1-12 木山縫製跡

鬼北町 平成28年10月撮影 入り口に「高知相互銀行」の文字が見える。

写真1-1-13 明星ヶ丘碑

写真1-1-13 明星ヶ丘碑

鬼北町 平成28年10月撮影 「明星ヶ丘」の文字は、堺利彦の書を使用している。