データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 加茂地区の林業と人々のくらし

 (1) 昭和20年代

ア 植林

 「昭和20年代は、山の草木を焼いた焼畑で作物を作っていました。最初の3年くらいはヒエやアワなどを作り、その後でスギやヒノキと一緒にミツマタやカミソを植えていました。スギやヒノキは7、8年して木が大きくなると手入れをしなくてもよくなったので、昔は山を持っていたらそれほどの手入れ賃を必要とせずに山ができ上がっていました。
 加茂地区では、昔から3mおきに植林することを『一丈植え』と言っていて、1ha当たり1,000本くらいの木を植えていました。昭和25、26年(1950、51年)ころになると、当時は木材の相場が良かったので、1ha当たり3,000本の木を植えると、県が苗木代くらいの補助金を出してくれるようになり、私(上野清七さん)はそれを活用して植林をしていきました。植林後は、徐々に間引きをする必要があったのですが、私は、『せっかく植えた木なのでもったいない。』と思ってそのままにしておいたら、胴のしっかりしていないひょろ長い木になってしまい、昭和44、45年(1969、70年)ころの豪雪や台風で被害を受けました。しかし、補助金を受け取らず一丈植えを貫いていた人もいて、彼らの植林した木は広い間隔で植えられていたので被害を受けませんでした。」

イ 伐採現場から道路端までの搬出

 (ア) とばし

 「私(上野友治さん)は、明治38年(1905年)生まれであった祖母から、加茂地区で行われていた木流しや曾祖父が用いていた『とばし』という索道についての話を聞いたことがあります。ブレーキも付いていない滑車を付けて落とすだけという原始的な方法のことを、祖母は『とばし』と言っていて、そのとき使われていた滑車が家に残っていました。後に、とばしに替わり『つるべ式索道(軽便索道とも呼ぶ)』が普及しましたが、いずれも伐採現場から道路端までの搬出に使っていたものです(写真3-2-2参照)。」

 (イ) つるべ式索道

 「私(上野清七さん)が高校を卒業した昭和33年(1958年)ころには、とばしからつるべ式索道による搬出になっていきました。つるべ式索道には引き回し線があり、木材を積んだ滑車が山の上から下りてくると、下の方から空(から)の滑車が山へ上がって行く、井戸のつるべのような仕組みになっていました。加茂地区で木材搬出用のつるべ式索道が広まったのは、他の地域と比べてもおそらく早い方だったと思います。昭和20年代から30年代にかけて、県外、特に山口県や九州へ伐出作業の出稼ぎに行き、そのまま住み着いた人が大勢いました。その人たちは、『木材搬出用のつるべ式索道の技術を生かしてお金儲けをしよう。』と思って出て行ったのです。昔は滑車を手に提げて山へ上がっていましたが、つるべ式索道だと片一方が上がるともう一方は下りるので合理的でした。かつて基安鉱山では索道で鉱石を運んでいましたが、そのとき使用していたワイヤーは、おそらく10年か20年に一度交換されていたと思います。私たちはそれを住友金属鉱山から払い下げてもらい、木材を出すワイヤーとして使っていました。ワイヤーの太さはちょうど小指くらいあり、それを7、8本撚(よ)り合わせて太く強いワイヤーにしていました。つるべ式索道が使われていたのは昭和44、45年(1969、70年)くらいまでで、その後はエンジンで動く索道になりました。」

ウ 木馬による運材

 「私(上野清七さん)が子どもの時、荒川では木馬(きんま)(伐採した木材を積んで下ろす橇〔そり〕に似た道具で、木を横に敷き並べた木馬道を滑らせる)で木材を出していました。加茂地区では明治時代以前から、瓶ヶ森(かめがもり)の麓にあったお寺への参拝道を開設していました。その参拝道沿いに集落ができ、そこから枝分かれして開設された木馬道がいくつもあったため、木馬で木材を出す人が多かったのです。
 また、一山(ひとやま)を全て伐採したときなどは『スラ(搬出する丸太で樋形の道をつくり、その中を滑り下ろすもの)』を使っていて、運搬が終わると、上の方から取り外しながら順々に集材する仕組みになっていました。何度かスラを使っていると、自然に土が掘れて幅2mくらいの谷のようなものができましたが、それも『スラ』と呼んでいました(写真3-2-3参照)。スラに各所から木材が集められると、みんなが『トチカン(大きな釘の頭に太い輪がついたもの)』の尖っている部分を木材に打ち込み、縄で山から木馬道まで引っ張り下ろしていました(写真3-2-4参照)。そこから木馬道を利用して木材を出した帰りには、空になった木馬を馬に引っ張らせて上げたり、人が担いで上げたりしていたことを憶えています。スラを用いて木材を集めていたのは昭和34、35年(1959、60年)くらいまでだと思います。荒川では木材を背負って出すということは少なく、昭和20年代までは木馬を用いて木材を出していました。」

エ 森林軌道の記憶

 森林軌道にまつわる思い出について、上野清七さんは次のように話してくれた。
 「森林軌道で木材を搬出するときは、2個から4個のトロッコを連結して運搬していました。森林軌道の始点は川来須で、終点は船形でしたが、昭和25年(1950年)ころには終点が長瀬(ながせ)に変わりました(図表3-2-1参照)。このころまでは、川来須より奥の場所ではまだ川流しをしている人もいて、谷川の幅が狭いため筏を組まずに1本ずつ流していました。
 昭和20年代には、河ヶ平下に『かんかん場(ば)(秤〔はかり〕の上に木材を積んだトロッコを載せて、運搬賃を計算する場所)』があり、加茂森林組合が管理をしていました(写真3-2-5参照)。せとうちバスが町(まち)(西条市街)から河ヶ平下の集落まで開通した昭和27年(1952年)ころに、河ヶ平下より下(しも)側(西条市街側)では軌道が撤去されましたが、それより奥ではまだ残っていたと思います。私が高校を卒業した昭和33年(1958年)には森林軌道がなくなっていて、トラックによる運材が行われていましたが、ゴムタイヤや鉄車の付いた荷馬車による運材も行われていたことを憶えています。
 私が小学1年生くらいの時から、隣の家のおじさん(谷利治さんのお父さん)が森林軌道による運材をしていて、河ヶ平と長瀬の間を朝と午後の2往復していました。私が小学生のころは、まだバスなどの交通の便がなかったので、友達と西条へ遊びに行ったり買い物に行ったりするときには、おじさんに頼んで木材を搬出するトロッコに乗せてもらっていました。おじさんは、私たちが乗りやすいように木材を上手に階段状に積んでくれていて、私は木材のてっぺんに駆け上がって乗っていましたが、今思えば大変危険なことでした。帰りは、午後の便の帰りに乗せて帰ってもらおうと思って、『おいちゃん、帰りは何時くらいになろか。』と尋ねると、『長瀬で待ちよれや。』と言われたものでした。森林軌道の幅は狭くて、1m50㎝もなかったと思います。行きは下りで軌道に傾斜があるので、エンジンなしでもかなりスピードが出ていて、馬が付いて行きかねるほどで、終点には案外早く着きました。帰り道は上りになるので、馬にトロッコの台車を引っ張らせていました。終点の船形で木材を下ろした後、帰りは生活物資などをトロッコに積んで運んでいました。船形には雑貨店が2軒あり、食料品のほかに日用品もそろっていたので、加茂地区のみなさんによくお買い物を頼まれていました。当時、お小遣いが欲しくなると、私は山でこしらえた薪をトロッコに積んで船形まで運び、雑貨店にそれを買い取ってもらっていましたが、家から薪を背負ってトロッコまで運ぶのが大変だったことを憶えています。」

オ 良い値で売れたスギの皮

 「昭和20年代までは屋根の瓦の下側にスギの皮を葺いていた家が多かったので、スギの皮は非常に良い値で売れていました。私(谷利治さん)は、製材所からの注文があると夏から秋にかけてスギの皮を剥いでいました。スギの皮がある程度乾燥すると、製材所の人が索道で山の下へ下ろしていました。」
 「私(上野清七さん)はスギの木をけん切り(皮を剥ぐために木を切ること)にして皮を剥いでいました。スギの皮は乾燥させて束にしたものを大工さんや左官屋さんたちに売っていて、彼らは良いスギの皮が取れる山の、あまり枝のない木であれば無料で木を切っていました。」

(2) 昭和30年代から40年代

 昭和30年代から40年代の加茂地区における林業について、上野清七さんから話を聞いた。

ア 山林を買い増す

 「昭和33年(1958年)に私が家業を継いだ時、100haくらいの山林を所有していました。その後、少しずつ山林を買い広げ、今では300haくらいの山林を所有しています。
 大保木地区には民有林が7,000haくらいありますが、地元の人が所有している山林は200haくらいで、ほとんどは大保木地区と関わりのない人が所有しています。加茂地区には民有林が6,000haくらいありますが、地元の人が1,000haくらい所有しているほか、加茂地区から西条市や新居浜市へ出て行った人が3,000haくらい所有していて、今でも加茂とつながりのある人が所有している山林が多いのです。地元の人と全く関わりのない人が所有者になると、その人から代替わりしたとき、伐採・搬出用の林道開設等の用地交渉が難しくなります。そこで、地元の人が、『山を売りたい。』と言うと、そのほとんどを私の一族で買い取っていました。」

イ 造林の請負業を始める

 「私は、昭和37年(1962年)から西条市森林組合で非常勤の理事を務めていて、そのころは加茂農協の非常勤の幹事と兼務していました。そのころには、加茂川の左岸(西側)に西条市森林組合の木材市場がありましたが、昭和41年(1966年)に県森連(愛媛県森林組合連合会)と共同経営の木材市場になり、昭和46年(1971年)には、飯岡(いいおか)(西条市飯岡)に県森連の木材市場ができたため、西条市森林組合の木材市場は閉鎖されました。昭和43年(1968年)に、私は西条市農協を辞めて、上野林業という法人化されていない任意の団体をつくり、10人ほどの作業員とともに伐採や造林、間伐の請負業を始めましたが、不在地主の民有林の請負が多かったことを憶えています。」

ウ チェーンソーによる伐採

 「私が昭和43年に伐採や造林などの請負を始めたころにはすでにチェーンソーを使っていたので、加茂地区でチェーンソーによる伐採に替わったのは昭和40年(1965年)ころだと思います。それまでは、小さな木を切るときは『腰のこ(腰に吊って使える小さなのこぎり)』、大きな木を切るときは『けん切りのこ(長い歯ののこぎり)』を使っていました。加茂地区では、私が率先してチェーンソーを導入しました。発売当初のチェーンソーは重かったのですが、やがて、ドイツのスチール社から軽くて性能の良い製品が発売されました。当時のチェーンソーは1台30万円もする高価なものであったため、最初は上野林業で購入していたのですが、『会社(上野林業)の所有物だと作業員が雑に扱うから、個人で買ってもらった方がいいんじゃないか。』とみんなに言われ、チェーンソーを所有する従業員の賃金を引き上げる代わりにリースで購入してもらうようにしました。チェーンソーを使うようになって伐採作業は大変楽になりましたが、当時のチェーンソーは今のものより振動が大きかったので、白ろう病やそれに近い症状になる人もいました。」

エ 林業研究グループの結成

 「昭和43年の春には雪が50cmくらい降り積もり、雪の重みで多くの木が倒れてしまいました。人夫さんを雇って倒れた木をロープで引っ張り起こして復元させようとしていたところ、今度は昭和45年(1970年)と同47年(1972年)の二度にわたって台風による大きな被害を受けてしまいました。昭和25年(1950年)ころに植えた木は、その時ちょうど20年生くらいで、あと15年くらいすると伐採できて良いお金になるはずだったので、山林所有者たちの落胆ぶりは相当なものでした。そうした状況の中で、県の勧めもあって、昭和46年(1971年)10月に、私は、西条の若手の山林所有者6名で西条林業研究グループを設立しました。その後、昭和48年(1973年)にグループ員は8名となり、昭和56年(1981年)2月には、グループを発展的に解消して、新たに西条林業研究会を設立し、グループ員は45名に増加しました。」

 (3) 昭和50年代以降

 西条市森林組合が取り組んだ森林施業団地共同化事業など、昭和50年代以降の加茂地区の林業について、上野清七さんから話を聞いた。

ア 森林組合の再建に取り組む

 「昭和50年(1975年)ころには、西条市森林組合は経営不振に陥っていました。私は、『これは何とかしなければ大変だ。』という思いがあり、林業研究グループの仲間からの後押しを受けて、同年1月に、それまでの非常勤の理事から専務理事となりました。それまでは、山林所有者はあまり森林組合を利用しなかったのですが、多くの山林所有者が森林組合の事業に協力してくれるようになり、森林組合の事業も急速に拡大していきました。」

 (ア) 西条森林開発株式会社

 「私が森林組合の専務理事になった時、それまでの上野林業という名称を上杉林業に変更し、その労働者を森林組合の作業班に組み込みました。上杉林業という名称は、私の姓の上野と、西条林業研究グループの会員であった方の姓の頭文字を取って名付けたものです。上杉林業では約120人を雇用し、森林組合を経由して、西条市内の国有林・県有林・民有林の伐採・搬出の請負業を始めました。昭和55年(1980年)6月に西条森林開発組合(みなし法人、組合と作業班員の共同出資)が発足し、昭和57年(1982年)5月までに作業班員は122名になりましたが、そのうち80名くらいは加茂地区の人だったと思います。同年6月に森林組合が出資して法人化した西条森林開発株式会社が発足すると、西条森林開発組合から若手中堅作業員70名を分離しました。70名を別会社とした最大の理由は、事業の多様化を図り、作業員の通年雇用を実現させるためでした。西条森林開発株式会社には、ブルドーザーやクレーン車、林業架線作業などの免許を持つ技術者がおり、林業の作業のほかに土木業や林道開設などの下請けも始め、土木業の仕事だけで2億円くらいの工事高がありました。林道の開設は昭和52年(1977年)くらいから急増し、昭和58年(1983年)ころがピークだったと思います。年間に20路線くらいの林道を開設していて年間4億円くらいの工事高があり、それ以外にも県から広域基幹林道開設のための予算を付けてもらって、笹ヶ峰(ささがみね)の下から新居浜の国領(こくりょう)川辺りまでの林道開設工事を行ったりしていました。
 ところが、私が発注者側である西条市森林組合と、受注者である西条森林開発株式会社の両方に所属しており、西条市森林組合が西条森林開発株式会社の全株式を所有していたため、『組織が複雑だ。』とか『民間業者を圧迫している。』という声もありました。そこで、平成10年(1998年)に西条市森林組合と新居浜市森林組合が合併して新居森林組合が発足したのをきっかけに、西条森林開発株式会社では土木建設業をやめるとともに、従業員を徐々に森林組合の直接雇用に切り替えていき、平成15年(2003年)には会社自体を解散したのです(写真3-2-6参照)。」

 (イ) 森林施業団地共同化事業

  西条市森林組合が行った森林施業団地共同化事業について、『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』には、「森林施業団地共同化事業は一定林地内の山林所有者が協力して、造林や保育、林道や作業道の開設などを行うものである。施業計画は団地内の山林所有者が協議して策定するが、造林や保育、林道や作業道の開設などの諸作業は森林組合に委託するものである(①)。」と記されている。
 「私は、昭和50年(1975年)に森林施業団地共同化事業を計画し、当時の西条市長さんに、組合が共同で山の手入れをした場合には補助金を出してくれるようにお願いすると、それが認められて補助金を60%出してくれました(図表3-2-2参照)。それで、今度は県や国の林野庁にも働きかけることにし、林野庁には愛媛県出身の国会議員に連れて行ってもらいました。当時、木を植えることには補助金を出してくれても間伐や下刈りには出してくれなかったのが、翌年(昭和51年〔1976年〕)から全国に出してくれるようになりました。一森林組合の専務の発信から国が動いてくれたので、やりがいを感じました。森林組合と共同で山仕事をすると、70%くらいは国・県・市の補助金を出してくれるようになり、山林所有者は自分の山林の山仕事を森林組合に委託し、自らはその作業員となることで賃金を受け取ることができました。その代わりに自己負担金を30%くらい出さなければなりませんでしたが、受け取った賃金で十分払うことができました。こうした事業は全国的に見ても先駆的であったため、全国の多くの森林組合が西条へ視察に来るようになりました。
 この事業のおかげで加茂地区の森林は荒れずにすみましたが、その代わりに農業は振るわなくなりました。県外産の野菜が入ってくるようになり、高冷地野菜を高値で販売できなくなったため、それまで農業に従事していた比較的若い人たちの多くが森林組合の作業員として働くようになったのです。それでも、昭和40年から50年代の加茂地区はまだ大変活気がありました。」

イ 蒲原式集材機の導入

 「昭和53年(1978年)ころ、私が森林組合で木材の伐出の請負をしていた時に、『国有林の仕事もやってみないか。』という話がありました。ちょうどその時、高知には蒲原(かもはら)式というトラックエンジンの付いた大きな集材機があるという話を聞き、作業員に高知で1か月ほど研修を受けさせて、それから蒲原式の集材機を購入しました。つるべ式索道では、枝払いをした後に玉詰めにしてから出さなければならず、山での集材に苦労していました。そこで、木の元切りをして、枝付きのままで土場まで出して来て、林道沿いで枝払い・造材を行うという方法に変えたところ、木材の伐採・搬出作業の能率が上がって、つるべ式索道を使用する人は少なくなりました。」

ウ 加茂地区の人口減少

 「国道194号が整備されてからは、加茂地区から西条の町にある鉄工所や建設会社へ働きに行く人が増えました。そうした人たちは、仕事からの帰り道に、『わしは何しに加茂へ戻って来よんだろか。』と思うようになり、『いっそのこと、西条の町へ借家でも借りて住もうか。』と考えてとりあえず借家を借りるのです。やがて、町に自分の家を建ててそのまま住み着くようになり、加茂地区から多くの人が西条の町へ出て行ってしまいました。昭和31年(1956年)に西条市と合併した時、加茂地区の人口は2,500人くらいだったのですが、その後減り始め、昭和45年(1970年)には約1,000人になり、昭和50年(1975年)には700人台にまで減ってしまいました(図表3-2-3参照)。
 私の長男(上野友治さん)がまだ幼かったころ、河ヶ平にはまだ保育園がありませんでした。そこで、自治会で加茂保育園を設立して昭和39年(1964年)に加茂公民館長さんに保育園長になってもらい、6歳以下の子どもが通園できるようになり、その後、加茂保育園は西条市の認可を受けて昭和44年(1969年)から市立の保育園になりました。また、昭和47年(1972年)に加茂地区にあった荒川・千町・中之池・下津池の小学校4校が加茂小学校に名目統合されると、若い親たちの多くは、『家から遠い学校へ子どもを通わせるのはかわいそうだ。』と言って、西条の町の方へ出て行ってしまいました。私の長男は加茂小学校の第1回の卒業生ですが、校舎ができるまではそれまで通学していた荒川小学校の校舎に通っていました(写真3-2-7参照)。昭和48年(1973年)に開校したころの加茂小学校には、まだ100人以上の児童がいました。」

エ 山仕事

 「私たちが山仕事に出るときは、朝5時には起きて7時ころ(冬は7時半ころ)には事務所に集合していました。作業は、朝8時半ころから始めて午後4時ころまでやっていました。事務所から作業現場の近くまでは、トラックの荷台に乗ったりして移動していましたが、昭和48年くらいからは、ワゴン車に8人ほどが乗って移動するようになりました。木材価格は昭和55年(1980年)をピークに値下がりする一方でした。木材の需要が落ち込んだことに加えて、海外から価格の安い外材がどんどん入ってきていたのです。平成10年(1998年)ころには加茂地区でもある程度林道が整備されましたが、いくら林道ができたといっても、今でも現場まで1時間くらいは歩かなければならず、移動距離によって請負単価も違っていました。従業員が120人くらいいたころは、現場1か所当たり5人くらいで仕事をしていて、全部で24、25か所で仕事をしていました。」

オ 会社経営の苦労

 「私が上杉林業を経営するにあたり、従業員に対して一番気に掛けていたのは、『けがや病気をさせたらいけない。』ということでした。ただ、けがの場合は、死亡事故でもない限り労災保険が下りますが、もっと辛かったのが、山での作業中に、従業員が脳こうそくなどの病気で倒れたときで、そんなことが4、5回ありました。そういう場合は、監督署が労災と認定してくれず保険が下りませんでした。勤務時間内に倒れているのに面倒を見てあげられなかったので、本当に気の毒で、辛かったことを憶えています。私は今でも労働災害保険の事業主の認定を受けており、誰かに仕事をしてもらうときには、必ず労災保険を掛けることにしています。
 私が林業を始めたころ、周りには林業に従事する若者が大勢おり、その人たちも60歳から65歳になりましたが、今でもお付き合いが続いています。上杉林業は厚生年金に加入して従業員の年金を掛けていたのですが、山林所有者からは、当時、『ちょっと請負単価が高いんじゃないんか。』と言われ、逆に従業員からは、『賃金が少し安いんじゃないんか。』と言われていました。私は、『老後はええんぜよ。』と言っていましたが、当時の従業員も今では、『年金で生活ができるから、上杉林業へ行っていて良かった。』と言って喜んでくれています。私は上杉林業の経営をやめた後は、他からの請負仕事は行わず自分の山の手入れだけを行うようになり、そのときから一緒に仕事をしてくれていた人が3人くらいいました。その人たちにも平成23年(2011年)ころ、『もうお互い70歳を過ぎたけんやめようや。』と言って山仕事をやめてもらいました。」

 (4) 二つのトンネルの開通

 昭和40年代以降の加茂地区における交通事情の変化や、自ら開設した加茂地区の歴史を紹介するホームページなどについて、上野友治さんから話を聞いた。

ア 寒風山トンネルの開通

 「森林軌道を撤去した跡が国道194号になったのですが、私が小学校低学年のころの国道は、道幅が大変狭く、舗装もされていませんでした(写真3-2-5参照)。昭和39年(1964年)に寒風山トンネルが開通してからも、加茂地区のような山間部の村に車で見知らぬ人が来ることはめったにありませんでした(写真3-2-8参照)。加茂地区から寒風山トンネルまでは狭い道がくねくねと続いている上に、冬場はよく凍結したため、昭和30、40年代は本当に車が通行しにくい道でした。県境を越えての交流というのは、昭和20年代から30年代にはあったのかもしれませんが、私の子どものころにはそうした記憶はありません。何しろ2,000m級の険しい山を越えて行くのは大変困難なことだったので、高知県との県境にあった基安鉱山が昭和47年(1972年)に閉山となり、鉱山集落がなくなってからはそのような交流はありませんでした。
 私が小学生のころ、たまに西条の町に住んでいた親戚の家に泊りに行くことがありましたが、そうしたときは主にバスを利用していました。当時、西条の町に映画館が三つか四つもあったことや大屋デパートの屋上に遊園地のようなものがあったことを憶えています。しかし、西条の町へ行って遊ぶということはほとんどなく、毎日のように近所の子どもたちと自然の中で遊んでいました。」

イ 新寒風山トンネルの開通

 「昭和50年(1975年)ころに、国道194号の道幅が拡張されてからは交通量が増えました。その後、平成11年(1999年)に新寒風山トンネルが開通してからは、さらに交通量が増えました(写真3-2-9参照)。新寒風山トンネルの開通後、高知の大川(おおかわ)村や本川(ほんがわ)村(現高知県いの町)から西条のスーパーマーケットまで30分くらいで来ることができるようになり、今はそちらの方が結構買い物に来ているようです。古いトンネル(寒風山トンネル)の時代は、加茂地区から本川村へ行くのに1時間以上かかり大変だったようですが、今ではトンネルを抜ければすぐに高知県に行くことができます。私が子どものころには、高知県がこんなに近くなるとは思ってもみなかったので、本当にすごい時代になったものだと思います。」

ウ ふるさとの歴史をホームページで紹介

 「私は、卒業論文のテーマを当初は加茂川林業の歴史にして、調査をしていましたが、途中で西条市森林組合が行っていた森林施業団地共同化事業に変更しました。父(上野清七さん)から、『せっかく調査したんじゃけん、大学の卒論に使わなくても、何かの形で残したらどうか。』と言われたので、『加茂の荒獅子』というホームページを開設し、加茂川林業の歴史に関する膨大な資料を載せるとともに、加茂地区の歴史についても詳しく記しています。加茂地区に生きてきた私たちの祖先は、急峻(きゅうしゅん)な山々に囲まれた最悪の立地条件のもとで苦しい生活を強いられましたが、生活の知恵を働かせながら一生懸命生きてきました。この地で生まれ育った私にとって、祖先の生活とふるさとの歴史を知っておくことは意義のあることだと思っています。」

参考引用文献
① 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988

その他の参考文献
・ 相馬正胤『愛媛の山村』1963
・ 西條市『西條市誌』1966
・ 西条市『西条市生活文化誌』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『西条市の地理』1993
・ 篠原重則『愛媛県の山村』1997
・ ホームページ『加茂の荒獅子』
     (http://9.pro.tok2.com/~arajishi/index.html)



写真3-2-2 つるべ式索道

写真3-2-2 つるべ式索道

西条市 平成28年10月撮影 谷利治さん所有の索道

写真3-2-3 スラの跡

写真3-2-3 スラの跡

西条市 平成28年11月撮影 中央の土が掘れている部分がスラの跡

写真3-2-4 トチカン

写真3-2-4 トチカン

西条市 平成28年11月撮影 上野清七さん所有のトチカン

写真3-2-6 いしづち森林組合林業センター

写真3-2-6 いしづち森林組合林業センター

西条市 平成28年12月撮影 平成20年に新居森林組合と周桑森林組合が合併し、いしづち森林組合となっている。

図表3-2-2 西条市の総合施業団地(昭和51年)

図表3-2-2 西条市の総合施業団地(昭和51年)

『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』から

図表3-2-3 加茂地区の人口推移

図表3-2-3 加茂地区の人口推移

『国勢調査』から作成

写真3-2-9 新寒風山トンネル

写真3-2-9 新寒風山トンネル

西条市 平成28年8月撮影 愛媛県側から撮影