データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 西条工場の記憶

 (1) 新入社員教育

ア 現場での研修

 昭和27年(1952年)に入社した北寛一さんは、入社後に行った現場での実習について、次のように話してくれた。
 「私(北寛一さん)が所属していた部署は機械課でした。機械課では製管や旋盤など、たくさんの仕事がありました。機械課の事務所はあまり広くありませんでしたが、当時はその中で10名ほどが事務の仕事をしていて、主任や担任、助手などの役職の方がいました。機械課に所属し、現場で仕事を行っていた技術職の方々は、ほとんどが戦時中に呉(くれ)(広島県)の海軍工廠(こうしょう)などで技術職として仕事をしてきた方々で、彼らの多くが機械や鉄鋼関係、溶接などの技術を持っており、機械課では棒芯(ぼうしん)格、今の班長クラスで仕事をしていました。私が入社して間もないころには、専門的な技術を持った先輩方の道具運びを手伝いながら、仕事を学びとっていました。また、新人研修とまでは言えませんが、入社後は、まず現場での実習を行ったことを憶えています。事務所に座って事務仕事を行う前に、『まず旋盤を1か月経験しろ。』とか、『製管を1か月経験しろ。』と指示が出され、油まみれになりながら現場での実習を経験しました。この実習では先輩社員が付きっきりで指導をしてくれたことを憶えています。ただ、新入社員である私は、仕事には当然のことながら不慣れだったため、先輩から、『あれ持ってこい。』と指示が出されると、『はい。』と大きな声で返事をして、すぐに必要な道具を取りに行くことくらいしかできませんでした。そのような先輩社員との仕事を1年余り経験した後に事務所での仕事に従事することができました。私が事務所でまず取り組んだ仕事は名簿作りでした。事務所で仕事をしていると、事務所に来た機械課の職員の方々と会話をする機会があったので、技術職の方も含めて職員の皆さんの名前を大体は覚えることができました。それでも当時は入社して数日で退職する、というような方もいて、職員の入れ替わりが多かったので、社員名簿を作成する仕事にも苦労しましたが、退職や新規採用が落ち着くことで、やっとしっかりとした名簿を作成することができたように思います。」

イ 厳しさの本質

 昭和31年(1956年)に入社した青木義雄さんは当時の新入社員教育の厳しさについて、次のように話してくれた。
 「私(青木義雄さん)は貝漁をやっていました。また、クラレに入社するまでは、中学校を卒業してすぐにバラスを取る船(砂利採取船)に乗って仕事をしていて、この船に乗っていたときには相当無理をして働いていました。1日2回の満潮時に合わせて海底の砂利を採る作業を行うので、仕事が夜中になる場合もあるのです。採取した砂利は多喜浜(たきはま)(現新居浜市)の流下式塩田へ搬入されていたことを憶えています(写真3-1-1参照)。
 その後、母からの提案もあって、私は昭和31年(1956年)5月に倉敷レイヨンへ入社しました。入社当時の養成教育は相当厳しいものでした。『人間の代わりはなんぼでもおる。しかし、製品を作り出す機械を大切に扱わなくてはならない。』ということから、部署によって違いはあると思いますが、厳しく行われていたと思います。根本に、『機械を大事にせよ。』という考えがあったので、機械の扱い方に関する研修は大変でした。入社後はすぐに三交替制での勤務形態に入り、新入社員の特性によって教育方法も違うと思いますが、とにかく厳しい研修だったので、『しまった、こんなところに入社するんじゃなかった。』と思ったこともありました。入社以前はほかの仕事をしていて、自分のペースで業務に当たっていたこともあり、タイムスケジュール通りに仕事をするということにさえついていくのが大変でした。例えば20分作業をして、次に15分作業をするというような流れ作業での仕事だったので、作業に戸惑って少しでも時間が狂ってしまうと、製品の出来具合に大きく影響してしまうのです。つまり、良い製品を作り出すために作業のタイムスケジュールがきっちりと決められており、そのタイムスケジュールの中で作業をし終えなければならなかったのです。今ごろは機械化が進み、このような作業自体がなくなっているので、それに比べると当時の仕事がいかに大変だったかがよく分かります。研修は6か月、長い方で1年間ほどあったので、会社がそれだけ従業員を大切に育てていたということの証でもあると思います。『一人前の社員になろうと思ったら、3年から5年はかかる。』と言われていたほどです。私が研修を受けていた当時は、指導をしてくれる先輩社員が半年間付きっきりで指導をしてくれました。」

ウ 指導者として

 「新入社員に対する養成期間が十分に取られる理由は、作業を間違えたり規則を守らなかったりすれば、爆発という大事故に結びつく可能性があったからなのです。普段の生活の中にある、『ちょっと。』とか、『これくらい。』というような意識が工場にとっては命取りになってしまう危険があったのです。製造過程のレーヨンは33℃になると自然発火することを一般の人は知りません。機械が動き続けると当然熱を持ってしまうので、常時温度管理をしておかなければなりませんでした。目で見て、音はいつもの音と変わらないか、そして体感温度が変わっていないかどうかなど、このようなことに気を付けながら仕事をしなければなりませんでした。経験を積むと機械の近くを歩くだけで、ちょっとした違いに気付くことがあったくらいです。レーヨンの仕事は本当に経験がものをいう仕事だったと思います。
 新入社員が一人で仕事ができるようになるまでは、指導役の先輩の従業員が付きっきりで指導をしていました。指導を受ける従業員の仕事を見ておかなければ、いつ、どのようなトラブルが発生するか分からず、トラブルが発生してしまうとほかの工程はもちろん、製品の品質にまで大きな影響を出してしまうので責任重大でした。指導する側としては、指導を受ける従業員に責任を負わせるわけにはいかなかったのです。とにかくエラーが発生することなく、工程通りにスムーズに流れていくのが当たり前の世界でもあるのです。だからこそ経験が必要で、硫化作業が二硫化炭素(CS2)を加えて65分、フィラメントであれば2時間15分、この工程の終点については経験とそれに基づく判断力によるというような、曖昧(あいまい)な表現でマニュアルにも文章で記されているので、経験を積まなければ完璧な仕事はできませんでした。これで良いというマニュアルのようなものではなく、経験による判断力が求められていたのです。色具合や粘り具合、副反応を起こして色が付いていても粘りがないとか、これを見極めるだけの力を付けるのに相当な時間がかかるのです。
 ビスコース(原料となるパルプをアルカリ苛〔か〕性ソーダで浸漬し、圧搾機で搾って粉砕し、それを冷却して二硫化炭素を混ぜ、アルカリ水で溶かしたもの)の良し悪しは、製品の品質を決めます。よく、『品質の85%はここで決まる。』と先輩方から言われていました。この工程では、原料パルプを計量してアルカリ液に浸漬するときが飛散して危なく、飛沫(まつ)が飛んで、皮膚に付着すると皮が剥(は)げたり、目が痛くなったりして、中には目に入って失明した人もいるため、最も注意を要していました。アルカリ浸漬、老成と作業を行い、これに温度をかけて繊維を短くし、硫化の作業へと移りますが、この硫化がCS2を用いるため危ない作業でした。CS2は限界点を越えると自然発火しますが、少しでも火が出ると大変な事故につながってしまいます。発火点だけで火が収まれば問題ありませんが、そのようなことはあり得ないのです。私は直接経験をしていませんが、私が勤めている間に発火してしまったということがあったようで、小規模で収まったのが不幸中の幸いだったようです。私が入社する前の話ですが、入社後の訓練が十分でなく、発火することを知らない従業員がいたころには爆発による死亡事故が起こったことがあるそうです。
 硫化機には真空バルブとエアバルブがあり、急激にこれらのバルブを開けてしまうと、圧力の変化による温度差で熱が発せられるので、バルブは徐々に開けなければならないという規定があります。入社間もない社員が規定外の開け方をしているときには、先輩として厳しく指導しなければなりませんでした。私も若いころには作業手順に関しては、先輩方から本当に厳しく指導をされていました。私が指導を受けているときには、2階で私の仕事を見ていた先輩が、鉄製の手すりを棒で叩いて『カンカン』と音を出して作業をしていた私を振り向かせ、大声で、『いかんぞ。』と注意をしたことがありました。工場内での仕事は先輩から後輩へ、そしてまたその後輩たちへと厳しい指導を通してきっちりと受け継がれています。機械の操作マニュアルは冊子としてあり、輸入してきたドイツの黒本(製造工程のマニュアル。一般の従業員は見ることができないマニュアル。)を基に操作方法を会社が独自に作っていたので、私が社員の養成をする立場にいたときには、『何ページを読んでこい。』などと厳しい指示を出していたことを憶えています。
 私が若いころには先輩から厳しく指導をされましたが、厳しく言われたことに対して不満に思ったことは一度もありません。指導を受けたときには、素直に反省をすることができていたように思います。先輩後輩や上下関係というような、どこにでもある人間関係がよりきっちりとしていたからこそ指導を受け入れ、技術を習得し、後輩へと伝えることができていたのだと思います。常に周りの仕事の状況などをよく観察し、考えながら自分の仕事を進めるということが必要だったのです。このような従業員同士の関係が乱れていくと、絶対に良い製品はできません。私も含めて従業員は、『良い製品を作る』という意識をもつことを徹底して叩き込まれました。良好な人間関係と仲間を労(いたわ)わるというような気持ちがなければ、原液の部署で仕事をすることはできません。良い製品を作るための組織がしっかりとできていたのではないかと思っています。仕事をしていないときは、自由でも構いません。しかし、『原液の扉を一歩入ったら、それではいけない。』というように先輩から教えられてきたのです。」

 (2) 四組三交替制の勤務

ア 辛い夜勤

 工場内での勤務について、青木義雄さんは次のように話してくれた。
 「昭和31年(1956年)当時、私(青木義雄さん)は自宅から通勤していました。三交替は四組三交替で、勤務はそれぞれ朝8時から16時まで、16時から夜中の12時まで、夜中の12時から朝8時までとなっていました。四組三交替制では、12日が1サイクルになっていて、夕勤が3日あれば休みが1日あって、夜勤を3日したら休みが1日あって、自由出勤があって、朝勤3日という勤務形態でした。勤務時間がさまざまで、体の調子を心配したこともありましたが、私はとても元気だったので、交替制の勤務で体調を崩すというようなことはありませんでした。しかし、仕事をしていて辛かったのはやはり夜勤で、夜勤のときには本当に眠たかったことを憶えています。昼間に寝て体のリズムを整えようとするのですが、夜勤だけは何十年とやっても慣れることがありませんでした。また、昭和37年(1962年)に結婚した後は、夜勤のときには夜中に起こしてもらったり、夕勤のときには夜中に帰って来たりしたので、妻には大変な苦労をかけたと思っています。」

イ 大切なチームワーク

 「朝勤の終業は16時ですが、終業時刻の10分前には夕勤で仕事に入る職員との引継ぎが行われていました。始業の10分前に引継ぎが行われるので、朝勤の場合は8時から仕事が始まりますが、7時50分には仕事場へ入って、夜勤の方からの引継ぎを受けなければなりませんでした。朝勤のときには朝礼があり、始業前体操などで仕事に向けて気合を入れていました。また、一人ずつ順番に、『本日はがんばろう。よしっ。』と声出しをしていました。
 勤務開始後、お昼近くになると、交替で一人ずつが休憩に入るため、3人一組で行っていた仕事を2人で行わなければなりませんでした。最初に45分の休憩を取る人が抜けているときには、残りの2人で機械を見ておかなければならないということです。当時は11時になったら最初に休憩を取る人が食事に出て、11時45分になったら次の人が12時30分まで、三番目に取る人は12時30分から13時15分までとなっていました。つまり、11時から13時15分までの間は、通常3名で行う仕事を2名で行わなければならないので、3名が普段から連携を取ることが大切であり、そのためにも職場での良好な人間関係を築き上げておくことが必要でした。また、仕事では、スムーズに機械を動かすためにも横の連携が大切にされていました。私(青木義雄さん)は10種類ほどの工程についての仕事をマスターしていたので、急な欠員ができた場合ほかの工程で仕事をすることがありました。工程のうち一つや二つしかマスターしていない従業員もいましたが、私は従業員として成長する過程で多くの工程での仕事を習っていたので、たくさんの仕事を覚えることができたのです。当時は2人くらいが常時休みを取ることができるようにシフトが組まれていましたが、その後、人員の関係でそれだけの余裕がなくなり、そのときにほかの工程で仕事をすることがありました。」

ウ 昼の過ごし方

 三交替制の勤務と夜勤の際の昼間の過ごし方について、永島義勝さん、青木義雄さん、安藤雅康さんは次のように話してくれた。
 「昭和25年(1950年)に入社した私(永島義勝さん)は、青木義雄さんの先輩に当たり、製造課で勤務していました。西条工場では人絹とスフ(ステープルファイバー、レーヨンの短繊維)を製造しており、私はスフの製造工程の中の原液という部署で仕事をしていました。製造工程は24時間稼働していたので、交替制の勤務でした。交替制では、やはり深夜の仕事が一番きつかったように思います。四組三交替での仕事でしたが、深夜業は一番体に堪(こた)えました。本当に長いこと深夜業に従事したものです。仕事は流れ作業で、前の工程から流れてきたものを、自分たちの工程で加工して次の工程へ流していました。仕事自体はそれほど難しいということはありませんでしたが、ただ、作業で失敗をすることがないように、細心の注意を払って仕事に従事していました。作業は毎日同じで、自分の仕事を確実にこなしていくことが最も大切ですが、自分の工程のことだけではなく、前後の工程のことも考えて作業を行っていたことを憶えています。前の工程から送られてきたものにきちんと作業をして、次の工程に譲るということが大切なのです。作業を失敗してしまうと、前後の工程に多大な迷惑をかけてしまうことになりかねないので、本当にしっかりと仕事をしていました。これは私が所属していた原液の工程だけではなく、どこの作業でも同じことで、分担し、任されている仕事に関しては正確に処理して次の工程へ流すということが最も大切なことでした。三交替制の勤務では、勤務時間が変則になってしまうので大変でした。やはり、年を重ねるに従って深夜の勤務が大変になっていきました。夜の勤務だから昼間に寝ておけば良い、と思われがちですが、実際には昼間に寝ることができないのです。睡眠時間が十分に取れないまま、『今夜も行かないかんのか。』と思いながら日中を過ごしていたことを憶えています。工程では交替する技術者が同じ仕事を引き継いで行います。工程の機械は24時間365日停止させることがないので、自分が仕事に入るときには、前の勤務の方から入念に仕事を引き継いで、工程の状態をしっかりと把握しておくことが必要でした。夜勤に従事する人で元気な人は昼間に農作業をしていましたが、私は会社での仕事だけだったので、昼間に何をしたというような特別なことはしていません。昼間はどうしても眠れないので、ウトウトしながら過ごしたというくらいのものです。」
 「ただ、中には昼間の時間が確保できるので、『交替制の方が都合が良い。』と言っていた人もいたことを私(安藤雅康さん)は憶えています。それはやはり、昼間の時間を使っていろいろな仕事ができるということが大きな理由で、昼間に農作業やノリの養殖などを行っている人にとっては都合が良い勤務形態であったと言えるのです。昼間は農作業などをして、夜、会社での勤務に従事すると寝る暇がないのですが、それでも体が丈夫で頑張っている人もいました。」
 「仕事を終えてからの楽しみはいろいろとありました。当時は近くの海に貝がたくさんいたので、漁業権を持っていた私(青木義雄さん)は、空いた時間にアルバイトのような感覚で貝漁に従事していました。ただ、ダム(黒瀬〔くろせ〕ダム、昭和48年〔1973年〕3月完成)が完成してからは、毎年獲(と)れていた貝が隔年でしか獲ることができなくなりましたが、たくさん獲れた年には、月の収入が会社の給料よりも良かったときが何か月かはありました(写真3-1-2参照)。」

(3) 入社してくる若者たち

ア 人生の転換点

 「私(安藤良文さん)は香川県琴平(ことひら)(現、香川県仲多度〔なかたど〕郡琴平町)の出身です。私が入社する前は大東亜戦争(太平洋戦争)の時代でした。私は戦時中、海軍の予科練に合格しており、山口県の防府(ほうふ)(現、山口県防府市)へ赴任することになっていたため、『どうせすぐに兵隊になる。』と思って、赴任までの日々を家で自由にくらしていたときに昭和20年(1945年)8月15日を迎えました。終戦となったので、役所の方から『もう予科練には行く必要がない。』と言われ、しばらくは実家の農業などを手伝っていました。当時は企業へ就職するにしても日本全国が焼け野原になってしまっていて、すぐに就職できるような企業が少なかったので、たまに公共職業安定所へ行って仕事を探していました。ある日、安定所へ行くと、倉敷絹織西条工場と神戸製鋼所が社員の募集をしていました。私が家へ帰って家族に相談すると、『神戸製鋼所へ就職すると体がもたんぞ。』と言われたので、『それなら倉敷絹織の方を受験してみようか。』ということになって、試験を受けて合格し、西条工場での仕事がスタートしたのです。当時は就職するにも、国内に新入社員を募集するような企業がありませんでしたが、幸いにも私はそれから西条でお世話になるようになったのです。」

イ 寄宿舎

 「当時は男女とも中学校を卒業するとすぐに就職する方が多かったと思います。昭和40年代でもまだ、中学校を出て就職する人たちのことを『金の卵』と呼んでいたので、当然のことだと思います。クラレでも昭和50年(1975年)ころまでは中学校卒業者を採用していたと思います。遠い方は九州からという人もいましたが、大体は高知、徳島も含めて四国内の出身者が多かったのではないかと思います。私(安藤雅康さん)は、それでも愛媛の南予出身者が一番多かったことを憶えています。本当に世の中が、特に経済面で目まぐるしく移り変わっていっていた時代だったと言えます。話をしてくれている先輩方が入社したころと同じように、昭和40年代の高度成長期は『金の卵』と言う言葉が生まれるくらい人を必要としていて、入社する人を集めないといけないという時期でした。これらの新入社員が生活をする寄宿舎では、さまざまな教室が開かれていて、生け花教室や洋裁教室、俳句や詩などを学ぶ教室も開催されていました(写真3-1-3参照)。寄宿舎で生活している女性社員はその多くが中学校を卒業して就職してきた人たちだったので、寮母さんらがそれらの教室の先生を務めて、若い社員に教えていたことを憶えています。」
 「特に、南予からは女性が多く来ていました。私(北寛一さん)が女性の新入社員に、『どこから来たの。』と聞くと、その多くが『南予です。』と答えていたことが印象に残っています。当時は社員を募集する勤労課という部署の担当者が、あっち行き、こっち行きして社員を募集していたことをよく憶えています。」
 「いろいろな地域で社員を募集していたので、男性寄宿舎と女性寄宿舎とが工場の正門を入って東側に建っていました(写真3-1-4参照)。当時は男性寄宿舎を縮めて『男寄(だんき)』、女性寄宿舎を『女寄(じょき)』と呼んでいました。私(安藤良文さん)は男性寄宿舎に入っていましたが、その時の寮生というのは多いときには3,000人ほどいたのではないかと思います。男子寮は全部で6棟あって、それぞれに仁・義・礼・敬・智・信というような名前が付いていて、『義寮(ぎりょう)』などと呼ばれていました。」
 「寄宿舎は木造の2階建てで、学校のような造りだったと思います。部屋には押入れがあって、寝るときにはそこから布団を引っ張り出して寝ていました。一つの部屋に10人以上が生活をしていたので、ほぼ10畳ちょっとの広さの部屋では、畳1畳に1人というような感じでした。私(北寛一さん)が生活をしていた部屋には、野球部や柔道部、バレーボール部とさまざまな運動部に所属する社員がいました(写真3-1-5参照)。それだけ多くの運動部の選手が寄宿舎で生活をしていたということです。男寄には玄関を入ってすぐの所に広い部屋がありました。本当に広い部屋で、大広間と言っても過言ではないくらいの部屋でした。この部屋にはテーブルが三つも四つもあって、それぞれのグループがそれぞれの娯楽を楽しんでいたことをよく憶えています。それぞれの部屋では大勢の社員がゆっくりと休みの時間を過ごしており、その中でワイワイと騒ぐことができなかったので、その広い部屋へ行って仲間と過ごすことが多くありました。部屋で大きな音を立てるようなことがあると、休んでいる人たちの機嫌が悪くなる、というようなことがあったので、遊ぶときにはこの大広間を使って、という社員同士の了解があったと思います。私たちは運動の選手で、昼専(交替制ではない)の部署で勤務している者が多かったのですが、寄宿舎には交替の仕事をしている人が多くいたこともあり、仕事前や仕事を終えてゆっくりと寛(くつろ)いでいる仲間の時間を大切にしないといけない、という気持ちが心の中にあったように思います。
 寮には大きくてきれいな浴槽の風呂が用意されていたので、『お風呂は良かった』という思い出があります。西条には水が豊富にあるので、工場のボイラーから出る蒸気の熱で24時間お湯を沸かすことができ、ほぼ掛け流しの状態でいつでも入浴することができました。また、寮の食事で出てくる肉料理は豚肉が多かったと思います。寮で食事の準備をすると、どうしても残飯が出てきます。それをうまく処理するために工場の東側の方で豚を飼育していたのです。頭数までは憶えていませんが、1頭や2頭ではなく、多くの豚を飼育していたことを憶えています。
 寄宿舎で生活をしていた人が結婚をすると、寄宿舎を出て生活をすることになりますが、社宅の数に限りがあり、社宅にはなかなか入れなかったようです。社宅に入れなかった夫婦の中には、民家の一室を借りる、間借りをして生活をしていた方もいたようです。部屋を貸してくれる家は、大きな家をもつ農家でした。そのような家の襖(ふすま)一枚を隔てただけの空間に夫婦二組が入る、というようなことがあったようです。」
 「私(安藤良文さん)は、結婚するまで寄宿舎で生活していました。寄宿舎では時間に余裕のあるときには、いろいろと好きなことをして過ごすことができました。スポーツはもちろん、文化的な活動をすることができました。結婚後は、私も社宅に入るということを考えましたが、市内に一般の家を借りました。社宅では、どうしても会社の人間関係の延長のようになってしまう、というようなことがあるのです。気にならない人もいるでしょうが、気にしてしまう人はとても大変だったと思います。特に社宅で生活する社員の御夫人の方が近所付き合いなどで大変だったのではないでしょうか。このようなことがあって、私は社宅へ入居して生活することを選択しなかったのです。当時、私だけではなく、ほかにも社宅への入居を断っていた人がいたことを憶えていますが、恐らく同じような理由で断っていたのだと思います。」

ウ 通勤風景

 「私(北寛一さん)は、正門に自転車用の空気入れが置かれていたことを憶えています(写真3-1-6参照)。退勤時間になると、そこで大勢の社員がタイヤに空気を入れて帰宅していたようです。自転車が人々の足として利用されていて、西条から新居浜の住友へ通勤している人でも自転車で通っている人がいたと聞いたことがあります。今のような舗装された道ではなく、海岸線の仏崎(ふっさき)付近を一生懸命にペダルをこいで通勤していたようですが、たびたびタイヤがパンクして困る、ということがあったそうです。」
 「私(安藤雅康さん)が入社した昭和45年(1970年)当時は、まだ自転車通勤をする社員が多く、最初はその数に圧倒されたことを憶えています。出勤する人で正門付近は大変混雑していました。構内に設置されていた社員用の自転車置き場も大変広かったことを憶えています。新居浜の住友さんの通勤時間帯の自転車の量もすごかったとよく聞きますが、クラレの出勤時間帯もそれに負けず劣らずといった状態だったと思います。また、汽車通勤をされていた社員も多かったようです。会社の正門前には仮泊所が整備されており、交替勤務で夜中に勤務を終える方は最終の列車に間に合わないので、ここで泊まって翌朝の汽車で帰宅していました。」
 「夕勤の方が夜中の12時に仕事を終えて、帰宅するにも汽車が走っていないので仮泊所で一泊し、翌朝西条駅へ行って始発の汽車で帰宅して日中を家で過ごし、その日の午後3時には再び出勤するという生活を送られていたようです。当時は夜中に勤務を終えると帰宅する手段がなかったので、三交替制で勤務している社員のために、仮泊所を設置しなければなりませんでした。汽車で通勤される方は、今治(いまばり)方面や土居(どい)(現四国中央〔しこくちゅうおう〕市)方面から仕事に来ていたので、夜中に自転車で帰るというわけにはいかなかったのです。私(永島義勝さん)は家が会社から近かったので夜中に帰宅するのにも問題がありませんでしたが、汽車で通勤をされていた方を見ていると、仮泊所を朝8時ころに出て帰宅しますが、帰ったと思ったら、すぐにまた会社へ出勤してこなければならない、という感じでした。」
 「私(北寛一さん)は氷見(ひみ)(西条市)から通勤していましたが、昭和36年(1961年)に国鉄の伊予氷見駅が開設されるまでは最寄りの駅が伊予小松駅だったので、出勤のときには予讃本線の線路まで歩き、線路上を歩いて西条駅とは反対方向の伊予小松駅まで行って汽車に乗っていました(写真3-1-7参照)。当時、西条駅方向に石鎚山駅がありましたが、自宅からは石鎚山駅より伊予小松駅へ行く方が近かったので、そちらを利用していたのです。もし、汽車に乗り遅れた場合は、自転車に乗って禎瑞(ていずい)(西条市)を抜けて会社へ行っていました。当時の自転車は今のように軽量化されているものではなく、鉄製の重たいものだったことを憶えています。」
 「通勤の面で見ても、この時代には新しい道路が整備されていき、通勤手段が自転車から単車へと変化し、昭和40年代の後半になってくると、私たちが夢にまで思っていたマイカーの時代が到来するのですから、時代が変化していくことを肌で感じながら日々の生活を送っていたように思います。私(安藤良文さん)は昭和53年(1978年)に自動車の普通免許を取得しました。これは会社が時代の変化を見越して、社員が自動車の免許証を取得することを奨励したためです。当時は会社から新居浜の自動車教習所へ社員を通わせていました。また、会社内でも安い費用で免許が取得可能であるとの宣伝が盛んに行われていたことを憶えています。免許を取得後、私も車を購入してマイカーの時代の波に乗りました。それ以来、車に乗っていますが、今でも免許を取らせてもらっておいて良かったと日々の生活の中で感じています。」


図表3-1-1 倉敷絹織株式会社西條工場

図表3-1-1 倉敷絹織株式会社西條工場

昭和28年地理調査所発行の5万分の1地形図「西條」による。破線部分が「倉敷絹織株式会社西條工場」。

写真3-1-7 JR四国伊予小松駅の現況

写真3-1-7 JR四国伊予小松駅の現況

西条市 平成28年12月撮影