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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 愛宕柿の栽培

 (1) 父親の農園を受け継いで

 「私(曽我義一さん)の家は、もともとは山間部にある途中ノ川(とちゅうのかわ)で農業を営んでいました。子どものころ、父親が畑で和紙の原料である楮(こうぞ)や三椏(みつまた)、晩西条柿、サツマイモなどの野菜作りをしていたので、よく手伝っていました。現在の大郷(おおご)の方に移ってきたのは、昭和28年(1953年)ころのことです(図表2-2-2参照)。そのころは6反(約60a)の土地と田んぼからのスタートでした。それから少しずつ農地を増やしていきましたが、昭和30年代はカキ畑がほとんどで、ミカンは少し植えていた程度でした。
 当初、私は会社勤めをしていたのですが、父親の体調のこともあり、やはり私が後を継がなければならないと決意したのです。その時私は、『専業でやるならカキだけではいけない。他にも育てなければならない。』と考え、よく分からないままではありましたが、毎日収穫できるものがいいと思い、カキやミカンの栽培を続けながら、マッシュルームの栽培を始めました。
 知り合いの農家の方のところに行って、マッシュルームの出荷伝票を見せてもらいましたが、毎日10万円を超える収入がありました。1パック七つ入りのマッシュルームの価格が平均100円だとしたら、1周期(収穫するまでの約10日間)ごとに出荷するので、相当な収入になります。これを契機に私は会社勤めを辞め、農業に専念することにしたのです。」

 (2) 昭和30年代の愛宕柿栽培について

 愛宕柿は周桑郡石根(いわね)村(現西条〔さいじょう〕市小松〔こまつ〕町)が原産である。聖武天皇の神亀年間(724〜728年)、石根村大頭(おおと)に京都の貴船神社を勧請(かんじょう)した際、京都愛宕産の柿を供えたことがその由来であるとされている。大正2年(1913年)に田野(たの)村長野(ながの)(現西条市)の櫛部国三郎氏が良系統を選択したのが、現在の愛宕柿である。これを正月用の柿として有利に販売したことが、愛宕柿を栽培する農家の増加につながった。
 昭和30年代の愛宕柿の栽培について、次のように話してくれた。
 「昭和30年代は私が会社勤めをしながら農業を手伝っていた時期で、カキをパックの状態で出荷するのではなく、箱(1箱10kg)に詰めて出荷していて、カキの生産量も多かったです。昭和35年(1960年)ころのことですが、一番困ったのは胴枯病(どうかれびょう)による被害で、かなり広範囲に発生しました。これは、カキ園のカキの木の半分くらいが突然枯れてしまう病気で、枯れてしまえば葉も実も落ちてしまっていました。当時、原因を調べましたが、はっきりとした答えが見つからず、胴枯病の被害を受けてしまったときは、収入がかなり減ってしまって、本当に困りました(図表2-2-3参照)。現在でも、少しずつですが胴枯病の被害を受けるカキの木が出てきています。」

 (3) 脱渋の技術の変遷と取組

 脱渋(だつじゅう)とは「渋抜き」ともいい、渋柿の渋味をアルコールなどを用いて不溶化してなくすことをいう。昭和初年ころから愛宕柿の焼酎抜きが始まり、樽(たる)詰めとして京阪神・呉(くれ)・広島(ひろしま)・下関(しものせき)・門司(もじ)等へ出荷されるようになった。さらに昭和15年(1940年)ころからガス抜きが考案されて販路が京浜市場まで拡大し、近年ではアルコールやドライアイスなどによる脱渋も行われている。その技術の変遷について、次のように話してくれた。

ア 炭酸ガスによる脱渋

 「私がカキ栽培を始めたころは、『ガス抜き』と言っていたことをよく憶えています。『室(むろ)(大量に果実を密閉できる部屋のこと)』の中に収穫したカキと炭酸ガスを入れて渋を抜く方法ですが、これはたくさんのカキの脱渋を一度に行うので、カキの中には黒く変色してしまっているものもありました。ドライアイスを入れ、真空パックにしてその状態を保っていれば、保存期間が長くても黒くなることはないのですが、当時にはそのような技術がまだありませんでした。」

イ アルコールによる脱渋からドライアイスの使用へ

 「炭酸ガスからアルコールによる脱渋に切り替わったのは、『あたごゴールド』という名称で愛宕柿を販売し始めた昭和33年(1958年)ころのことです(写真2-2-1参照)。最初は焼酎を使って脱渋を行っていたのですが、高値になるのでアルコールに切り替えました。これは、東予園芸の組合長で県会議員も務められた玉井恒栄さんが考案したものです。
 しかし、この方法にも課題が生じました。袋の中に少しでも悪いカキが入っていると、渋が抜ける時間がかかり過ぎてしまうのです。ですから、その課題の解消のためにドライアイスを用いた脱渋の方法が昭和40年代の後半に考案されました。ドライアイスであれば確実に渋を抜くことができます。そして、匂いを消すためにアルコールも併用して脱渋を行うようになりました。私自身はドライアイスと焼酎を併用していますが、匂いも質も良い焼酎を使用しています。そうすると、袋を開けたとき匂いが良いカキができ上がります。現在は、アルコールとドライアイスの併用、アルコール又はドライアイスの単独での使用の三つの方法がとられていますが、焼酎の匂いがいいので、多くの農家がドライアイスと焼酎を併用した脱渋を行っています。ただし、焼酎の入れ過ぎは、カキがべとついてしまうので良くありません。このさじ加減は、やはり経験で習得していきます。
 ドライアイスの真空パックで脱渋を行うようになってからの話ですが、同じようにしていても農家によって渋抜きの結果に差が生まれてしまい、『うまくいかない。』と嘆く方もおられます。真空パックでの脱渋に成功している私の家に、『その方法を教えてくれ。』と尋ねに来た方がいましたが、『教えてくれと言われても、それは自分の勘です。』と答えました。脱渋は、ドライアイスと焼酎を入れた袋の中にカキを入れ、真空状態にして約10日間寝かしておくという方法で行うのですが、その後別の袋にカキを移し替えて再度真空状態に戻すという作業をしていきます。『うまくいかない。』という人は、この作業の際に空気が入ってしまったことに気付かないままだったり、気付いても空気を抜く作業をしていなかったりするのだと思います。カキを入れた袋は密閉状態にしているので、カキが呼吸をしドライアイスのガスを吐き出すと、袋が膨らんで真(ま)ん丸になります。しかし、外気が入っていては本当の真空状態にはならず、うまく渋を抜くことができません。私はこれまでの経験から、袋がどのような状態ならドライアイスのガスによる膨らみ方かが分かるので、そうでないと感じるときには、袋の角をハサミで切って外気を抜き、袋詰めをやり直すようにしています。ちょっとした加減ではありますが、このようにして真空状態に戻してやると、カキがドライアイスのガスを再び吸い込みます。この状態に戻すことが脱渋を成功させるコツで、これができれば、きれいなカキが完成します。この技術は経験がないと習得できません。常に作物と向き合い、どのようにすることが一番良いかを考え続けていかなければならないのです。」

ウ 脱渋後に必ず試食

 「私の場合は、何百箱作ったとしても、試食をして渋が抜けきっているのかを必ず確認します。ですから、市場に出荷して、台の上に並んでいるのを見ても、柔らかすぎるカキがあるということはありません。自信があります。脱渋に関しては、袋に針の穴程度の穴が一つ空いているだけで、渋が抜け切っていないということがよくあります。脱渋ができていないカキを一度でも出荷したら、すぐにお客様から『ここのカキは渋いぞ。』と言われてしまい、信用を回復するまでにかなりの時間がかかってしまいます。必ず試食をしてから出荷する、これが一番大切です。
 ただし、大きなカキを一つ一つ試食することはできないので、選果するとき、同じカキの木で育った出荷できないような小さなカキを試食用に一つ、わざと選んで箱の中に入れておきます。そして、脱渋の作業が終わった後、そのカキを試食して渋が抜けていることを確認してから出荷します。その小さなカキを一つ食べるだけで構いません。同じ場所で育てたカキなので、それで箱全体の渋抜きの状況が分かります。でも、本当に手間がかかりますし、気を遣います。」

 (4) 剪定作業

 「カキは収穫した後、すぐに剪定(せんてい)をしなければならず、休むことができません。私の農園ではたくさんの農作物を育てているので、カキなどの出荷に1月の中旬ころまでかかりますが、他の農家は、そのころにはすでに剪定作業が終わっています。私は1月の中旬から剪定作業を始めますが、次の芽の出るころまでかかります。普通、3月上旬ころに芽が出始めますが、体で芽を触ってその芽が落ちるころ、3月末までには作業を終えておかなければなりません。私はキウイフルーツも栽培していますが、カキよりも水が上がるのが早いので、こちらの剪定の方を先にしなければならず、カキの剪定作業が終わるのが遅くなってしまうのです。」

 (5) 温州ミカンの増殖ブームのころの記憶

 「胴枯病の被害に悩まされていたころに温州(うんしゅう)ミカンの増殖ブームが起こり、『酸っぱくても作ったら売れる、ジュースにもしよう。』、『カキよりもミカンの方がいい。』ということで、この辺りでも多くのカキ園がミカン園に転換されていきました。私自身はカキなどの栽培を続けながら、農地の1町(約1ha)くらいをミカン園に転換してモノレールも設置しました。家族だけでは人手が足りなかったので、全体で30人から40人くらい雇用して農作業を続け、農協にも出荷していました。また、立間(たちま)(現宇和島〔うわじま〕市)まで視察に行ったり、菊間(きくま)(現今治〔いまばり〕市)辺りにできたミカン御殿を見に行ったりしたこともあります。そのころのことでよく憶えているのは、雪の日のミカン園のことです。積雪のためにミカンの木の枝が折れてしまわないように、ミカン園の上の方から順番に除雪をして、下まで進んで上の方を見たら、また枝に雪が積もってしまっていたので、また上の方に戻って除雪をして、ということを繰り返して大切にミカンを育てました。しかし、この辺りのミカンは南予のミカンとは違って、酸っぱくてあまりおいしくはありませんでした。
 そのころは壬生川(にゅうがわ)駅の近くに大きな園芸共同選果場(東予園芸)が整備されるなど、一時期は農地のほとんどがミカン園に変わるくらいの勢いでしたが、昭和40年代に入ってミカンの価格が暴落しました。その影響を受けなかったのはカキを専門で栽培していた農家の方くらいでした。」

 (6) ミカンの価格が暴落して

 「昭和47年(1972年)ころ、温州ミカンの生産量が増えすぎて生産調整を行う必要から、ミカンの木を伐採する農家に対して、国からの補助金が出たことがありました。確かその機会が二度あったと思います。最初はミカン農園10a(約1,000㎡)につき5万円、2回目は10aにつき30万円の補助金が支給されたので、多くの農家がミカンの木を伐採していきました(図表2-2-4参照)。その当時は、伐採する範囲を農家ごとに1反(約10a)ずつ分けるという話も出ましたが、喧嘩になってしまったことを憶えています。結局はくじ引きをして伐採する範囲を決めるということで落ち着きました。
私自身の経験を言えば、『ミカンの木が大きくなったらカキの木をすべて伐採してしまおう。』と思っていたそのときにミカンの価格が暴落したので、私は自分が所有するミカンの木を全て伐採して、カキの木の方を残すことにしました。その後、カキの価格が少し良くなったので、結果的にはそれがよ良かったのかもしれません。伐採後はなかなか手が行き届かなかったので、新しい木を植えるということまではできませんでした。」
 国からの補助金について、『愛媛県史 社会経済1 農林水産』には、「47年の価格暴落以後、温州ミカンの過剰化が問題となり、国は49年度から『改植等促進緊急対策事業』を開始、愛媛県では、それをうけて53年までに5億550万円の補助で温州ミカン569haが改植された。(中略)温州ミカン園の転換事業は、次第に国の果樹施策の中心に位置付けられ、とくに54年度から58年度にわたる『温州ミカン園転換促進事業』は、(中略)愛媛県でも、補助金23億円で4,176haの温州ミカン園が転換された(①)。」と記載されている。曽我さんのお話は、この時のことである。

 (7) 農協に頼らず、自身で販売を 

 「温州ミカンの増殖ブームの時、多くの農家がミカン園に転換していく中で、私がカキの木を伐採してしまわなかったのは、農協に頼ることなく、カキのパック販売を自分自身ですでに始めていたからです。『自分の作ったものを自分で販売するということをしなければ、生き延びられないのではないか。』という危機感が常にありました。自分で販売する場合は、サイズが小さくて少し重いカキでも、例えばMサイズからLサイズに昇格させて販売すれば、お客さんが農作物そのものを見て買ってくれて収入増につながるので、業者のところに直接農作物を持って行き、販売してもらっていたのです。このように、農協であれば販売しないような農作物も、方法を変えて販売することで現金化することができたので、農業を続けてこられたのです。
 農協がパックでの販売を本格的に始めたのは、ちょうど温州ミカンの価格が暴落したころです。私は、まだパック販売自体が珍しかったころ、すでに独自でパック販売を始めていました。農協よりも数年早かったと思います。自分で考えて箱も作り、一つの箱にカキを2個入りパックで詰めて販売していました。もちろん、脱渋も自分たちで行いました。当時としては2個入りということ自体が珍しかったことと、量が適量で食べやすいということで値が付き、本当に儲(もう)かりました。当時、5kgで3,000円ほどの値が付いたことをよく憶えています。
 しかし、みんながパック販売を行うようになると、資材の価格が高くなってしまい、困ってしまいました。ナイロンでも、農協であれば大量に注文をするので価格が安くなりますが、私たちは2個入りのパックだったので同じようにはなりませんでした。例えばLサイズのナイロンを、1ロット(製造時の最小製造数単位のこと)25,000枚くらい注文しなければ、価格は下がりませんでした。さらに、M、L、2L、3Lなどカキの大きさに合わせて注文をしなければならなかったので、支出が激増しただけでなく、出荷後にナイロンが余るという状況にも陥ってしまいました。カキの価格が良かったので、生産するカキの量を増やすなどして対応したこともありますが、パック販売を行う場合は数人で作業ができることから、結局は人件費を削って対応することになり、1日に100ケースというように、毎日きちんと計算をしてから作業を行いました。
 また、マッシュルームの貯蔵庫の壁に発泡スチロールを貼っていましたが、それをカキの倉庫としても活用するようにしました。これは、外からの空気を貯蔵庫の中に入れないための工夫です。箱の中にドライアイスを入れて渋抜きをしますが、この貯蔵庫の中で渋抜きをすると、柔らかくなり過ぎず、良い感じのカキができ上がります。手間はかかりましたが、このような方法で私は乗り切ることができたのです。」

 (8) 他の農家との農法の違い

 「昔なら、自然にできたカキでも売れていましたが、今は大きさが揃(そろ)い、かつ、きれいなカキでないと売れません(写真2-2-2参照)。きちんと摘果(てきか)をしていても、成長し過ぎて桁(けた)が外れたようなものができてしまうことがあるので、例えば2Lなら同じ大きさのカキをきちんと選別してから出荷しなければなりません。しかし、私たちの場合は全ての作業を自分たちで行っていて、大きさが小さいカキでも、2個入りを一つのセットとして真空パックにすればまあまあ売れるので、大きさの違うカキでも方法を変えて全て出荷しています。
 また、肥料のやり方も全然違っていて、他の農家であれば、『途中で肥料を与えれば、作物に色が付かない。』と言って、時期外れに肥料を与えることはあまりしないのですが、私の場合はこれから身が太るという時期にも肥料を与えています。これは、他の農家と比べて私の所有する農地が広く、栽培する農作物の種類も多いため、雪が降る時期まで農作業が続くことがあるからです。仮に肥料を与えなかった場合、実に色が付いていたら日持ちせず、熟れ過ぎているカキは10日間くらい置いておくと、柔らかくなり過ぎてしまって製品にならないのです。時期外れでも肥料をきちんと与えて、きれいなカキが収穫できていれば、正月ころにドライアイスを入れて脱渋をしても、カキはきれいなままです。」

 (9) 良いカキをつくる秘訣と現在の状況

 「園地の条件にもよりますし、いい肥料を与えることも大切です。やはり、鶏糞(けいふん)や豚糞(とんぷん)だけを使うというのではおいしいカキはできないと思います。私の場合は、自分で栽培をしているということもありますが、高価でもいい肥料を使っています。そして、カキを収穫したら1週間はそのまま置いておきます。それは、収穫後すぐに脱渋をした場合に『ハチマキ』の状態になる(カキの柔らかくなった部分が、ハチマキを巻いたときのように円状になる)ことがあるので、それを防ぐためです。もちろん、カキを入れたパレットに収穫した日付を必ず書いておくだけでなく、古いものから順番に運び出せるように、パレットを置く位置にも気を遣います。また、広い倉庫も必要です。私の農園には、幅7m長さ14m、幅7m長さ20m、幅7m長さ18mの大きさの倉庫があり、選果機や脱渋のための機械も設置して、倉庫の中で出荷までの作業ができるようにしています(写真2-2-3参照)。
 しかし、多くの作物を同時に育てるので、年齢のせいもありますが、それを続けることが本当に難しくなってきています。特にカキなどは放棄しなければならないと考えているくらいです。
 キウイフルーツについては、提携している業者から、『何日までに出荷してくれ。』という要望があれば、その日までに収穫を終えてしまわなければならないので、1日か2日かけて、朝の涼しいうちに収穫してしまって、倉庫で選果をしてから出荷します。最近、『ゼスプリゴールド』用の選果機を購入し、自分たちでキウイフルーツの大きさや重さなどを測るという手間をかける必要がなくなったので、本当に助かっています。」


図表2-2-2 途中ノ川と大郷の位置

図表2-2-2 途中ノ川と大郷の位置

昭和28年地理調査所発行の5万分の1地形図「西條」による

図表2-2-3 愛宕柿の生産量の推移

図表2-2-3 愛宕柿の生産量の推移

『県果樹統計資料』から作成

写真2-2-2 形の揃った富有柿

写真2-2-2 形の揃った富有柿

西条市 平成28年11月撮影

写真2-2-3 選果機

写真2-2-3 選果機

西条市 平成28年11月撮影