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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 揚水ポンプを利用した灌漑

 周桑平野における灌漑用水確保の変遷や揚水ポンプを利用した灌漑について、栗田孝一さんから話を聞いた。

 (1) 揚水ポンプの導入以前の灌漑

ア はねつるべと踏車による灌漑

 周桑平野における干ばつ時の灌漑について、
  周布村を始め、吉田村・石田村周辺は、(中略)平素は、中山川の流水を井堰 によって直接導入せず、専ら伏流水が湧出する泉の水を主要な灌漑用水源として いた。しかし、旱魃の場合には、湧水の勢いも衰えてくるので、危急を救う手段 として、碓舂(たいしょう)(水車)で揚水したり、田ごとに隅に掘ってある井戸 水を刎釣瓶(はねつるべ)でくみ上げる人工灌漑に切り換えて、苦闘しながら稲を 育てていた。(中略)この地区で旱魃のとき活躍した刎釣瓶の支柱は、まるで港 に集まった和船の帆柱のように林立していたが、明治の終わりころには、田の隅 の井戸も埋められてしまった(①)。
と『東予市誌』に記されている。
 「10年以上前に、当時80歳くらいの方から、『昔は渇水になると地下水を汲み上げるために、人力による水車やはねつるべ、二人で使用する水をはね込むバケツのようなものなどを使って、全て人力による作業で田んぼに水を入れていた。』とお聞きしたことがあります(写真2-1-5参照)。はねつるべで水を汲み上げる作業は終日行われていたわけで、その苦労がしのばれます。
 踏車もはねつるべと同様に、灌漑用水が不足したときに使われました。踏車は主として自然に水を汲み上げることができない、高い場所にある田んぼへ水を汲み上げるときに使われる灌漑用具ですが、田んぼの横に水が流れていることが必要です。踏車は構造上、水車の半径より上に水を持ち上げることはできませんでした。大正時代以降に揚水ポンプが普及すると、この地域で踏車は使われなくなりました。」

イ 豊年満作を願う

 「古来、水不足のときには全ての田んぼに稲を作付することはできませんでしたし、この地域では稲作をあきらめて畑地にした場合もあったことが丹原町下町の嚆筒(らんとう)ポンプの記念碑文に記されています(写真2-1-6参照)。また、化学肥料などが普及していない時代には、地力の低下を防ぐために休作を行う必要もありました。ですから、この地域の農家の人たちの豊年満作、すなわち全ての田んぼに作付ができ、なおかつ豊作であることを願う気持ちは相当なものでした。」

 (2) 揚水ポンプの普及
  
ア 揚水ポンプの導入

 『周布村誌』には、茶城(ちゃしろ)ポンプ組合による揚水ポンプ導入時の苦労について、「大正に入るや機械で水をくみ揚る事が、出来ると言う事を聞き、当時の発起者(中略)が腰にわらじをぶら下げて松山(まつやま)の石井(いしい)まで見に行った。大正2年(1913年)に現在地に池を掘り始め、ごく少数の人によって手さぐりの工事が始った。それから吸入瓦(ガ)斯(ス)発動機を当時の金で約2千円にて買い入れた(②)。」と記されている。
 「大正時代に入ると、揚水ポンプを設置した先進事例である松山市石井地区などを参考にして揚水ポンプを設置する機運が起こり、周布村では矢継ぎ早に大規模な揚水ポンプが設置されました。各地にポンプを設置する組合が作られ、責任者の方々や協力者の方々の血のにじむような苦難の末に、それぞれの地区に揚水ポンプが設置されていきました。周桑平野で最初に泉掘り(枠組井戸)を利用した揚水ポンプを導入したのは、大正3年(1914年)の丹原町下町の嚆筒ポンプ組合で、続いて同年に周布村の幸木(さいのき)ポンプ組合、また、同4年(1915年)には小松町北川(きたがわ)の北川ポンプ組合が導入しています(写真2-1-6参照)。その後、昭和初期にかけて、この地域において、揚水ポンプは大変なスピードで普及していきました(写真2-1-7参照)。揚水ポンプが普及するまで、この辺りでは昔から干ばつに悩まされてきましたが、揚水ポンプの設置後は豊富な地下水の利用が可能となり、干ばつによる被害はなくなりました。」

イ 与荷の慣行をめぐる地主と小作の対立

 『東予市誌』によると、「周桑郡の中でもポンプ灌漑が最も普及したのは周布村で、ポンプ組合が15あり、(中略)中淵(なかぶち)ポンプ組合が設置されたのは大正11年(1922年)であるが、(中略)地主に対しては従来の『井出(手)並与荷(よない)』の慣行が継続されていた。ところが昭和5年(1930年)、郡外居住の一地主の小作米取り立てと与荷の拒否が発端で地主側と小作側の全面対立となり(中略)訴訟事件に発展する小作争議が起きた(③)」という。「与荷」というのは、干ばつなどで灌漑のための労力が著しく多かった年に、その労力に対する部分的負担、補償として、地主から小作者に特別に「与荷米」を供与する慣行のことである。
 「周布村ではポンプ場の完成後も天保期(1830~44年)から続く与荷米の慣習が残っていました。ポンプ場の完成後、干ばつ時の費用補償(与荷米)をめぐって昭和初期に数か所のポンプ組合で争議となり、調停の結果、旧来の与荷の慣行を廃止しポンプ設備の一切に関する債務を地主側が肩代わりするとともに、ポンプ汲み上げにかかる経費を地主と小作で折半することで解決しています。なお、ポンプ場の建設費については主に自作農が負担し、地主は費用負担に非協力的でしたが、その背景には、地主側が最初は泉掘りの効果の絶大さを理解していなかったという面もあったと思います。」

ウ ポンプ場の構造

 (ア) 泉掘り(枠組井戸)

 「大正時代の揚水ポンプは渦巻ポンプ(ヒューガルポンプ)といって、陸上に据え付けられていました。このポンプの基本的な構造は、今でも受け継がれており、陸上ポンプや水中ポンプにも多く採用されています。これらの揚水ポンプの設置は、取水源に松の木で枠を組み、その内側を掘り下げていく方法が採られ、大規模な井戸が造られました。木の枠組は1辺が8mほどで、それが1枠から5枠ほども連なる壮大なもので、これを地面から10mから18mも掘り下げて大きな井戸としたのです。このような枠組井戸は、この地域では『泉掘り』と呼ばれますが、『いずん掘り』とも呼ばれます。語源は定かではありませんが、周桑地域では、泉から水が湧き出している様子を、『水がいずんでいる』と言い、泉のあった場所を深く掘り下げて井戸をつくったことから、このような枠組井戸のことを『泉掘り』と呼ぶようになったのだと思います。
 こうした大規模な枠組井戸は、地域の方々が計画・設計し、作業を行って完成させましたが、枠組をつくるには、地面を掘り下げ木組を行った上で寸分の狂いもなく組み立てる必要があります。当時の方々が、土木工事の経験の乏しい中で勉強して、この大変な工事を一年もかからない工事日数で完成させたことには本当に驚くばかりです。吉田地区鴨ノ窪(かものくぼ)にある六道ポンプ場の池は水が澄みきっていて底まで見通すことができるため、枠組のありさまを見ることができます(写真2-1-8参照)。今でも泉として大量の湧出があり、農業用水として利用されています。」

 (イ) ポンプ小屋

 「泉掘りの隣にはポンプ小屋があり、地上に発動機(ガスエンジン)とポンプが据え付けられ、それらがベルトでつながれポンプを回していました。ポンプから下側には吸込管があり、空気弁、真空ポンプ、その先にフート弁が取り付けられていました。ポンプから上側には吐出管があり、仕切弁(バルブ)で吐出量の調整が行われていました。
 しかし、干ばつ時に地下水位が6m以下になると、水を汲み上げることができません。というのは、陸上ポンプは、大気圧の関係で6m以下の水を汲み上げることができないからです。その後、大正9年(1920年)に大きな干ばつがあり、6m程度の吸い込み能力では不足が起こり、汲み上げる能力を深さ16m程度にまで向上させるために、枠組の深度化とポンプの水面下設置が行われました。地表面よりポンプそのものを10mほど下げて設置するわけですから、通常時、ポンプは水面より下部になります。そのため、コンクリートの枠組で囲った地下室(水に囲まれた部屋)を造り、そこにポンプを設置したのです(図表2-1-5参照)。このころから動力源は電気に変わり、吸い込み能力は6m程度、ポンプからの押し上げは10m以上で、地下水を16m程度まで汲み上げることが可能となりました。昭和40年(1965年)ころまでは、全てこの方式で取水していました。
 地下室を下げれば下げるほど、より深い所にある地下水を汲み上げることができるため、相当深い所まで掘り下げて地下室を造った例もあります。おしぶの森(福岡八幡神社樹叢)から南へ1㎞くらい行った所にあった分又(わけまた)ポンプ場には、非常に深く掘られた地下室があったのですが、惜しいことになくなってしまいました。」

エ ポンプの動力の変化

 「ポンプを駆動させる動力は、最初は木炭を燃料としたガス発動機や蒸気機関が使用されていましたが、蒸気機関は効率も悪かったので、ガスエンジンが主流でした。大正4年(1915年)に稼働した茶城ポンプの動力はガスエンジンで、一日に40俵もの木炭を燃料として使用したという記録があります。40俵の炭というと大変な量ですが、それだけのお金を払う価値があったわけです。その後、動力は石油発動機に替わり、電気が送電されるようになるとすぐに電動モーターに替わりました。モーターは巻線モーターと呼ばれるもので、回転子に巻線が施されており、外部巻線とともにトルクを発生するため起動トルクが大きいという特長があります。また、速度を変えることができるので小さい容量の電力で効率的な運転を行うことができ、現在でも大型のクレーンや大型の送風機やポンプ、製紙機械などに使用されています。」

 (3) 戦後の揚水ポンプ

ア 陸上ポンプから水中ポンプへ

 「戦後、農地改革によって地主・小作人の関係は一掃されました。また、各地区に土地改良区という組織ができて、揚水ポンプは土地改良区に権限・権利が委譲されました。ポンプ組合は道前平野土地改良区という面河ダムの水を分配する組織の下にあり、その目的はポンプを過誤なく稼働させて、水の供給を滞りなく行うことでした。周桑地域では面河ダムからの給水がないときには、今でも揚水ポンプによって地下水が利用されています。
 最近では、異常気象などのために、昔に比べると地下水位が下がることが多くなっており、吸い込み揚程(ポンプの位置から井戸の水面までの高さ)の低い陸上ポンプでは、安定的な用水確保が難しくなってきました。今では、ボーリングで井戸を掘削し、地中深くの帯水層(礫や砂からなる透水層で、地下水を含んでいる地層)に水中ポンプ(モーターとポンプが一体化したもので、大気圧に関係なく水を汲み上げることができるもの)を取り付けて地下水を汲み上げる方法に更新されています。」

イ 面河ダムからの給水

 「道前道後水利事業により、昭和38年(1963年)から面河ダムからの給水が一部で始まりました。昭和42年(1967年)からは給水が本格的に行われ、農業用水として使われるようになり、水を得る苦労は大きく緩和されました。地下水の源としては、山間部や平地に降る雨が地面に浸透して涵養(かんよう)されますが、農地そのものも水を湛えているので地下水の供給源になっています。結果的にダムの水は地下水の涵養源として貢献をしています。しかし、道前道後の水利事業の完成後、この地域の多くの溜池が埋め立てられてしまいました(図表2-1-4参照)。」

ウ 先人の苦労を後世に

 「私の家では、江戸時代から鋳物業を家業としていて、農業用の鋤(すき)を作っており、この地域はもちろん、松山や宇和島の方も商圏としていました。私は、昭和42年(1967年)に高校を卒業してから鋳造業に従事しましたが、そのころには耕耘(うん)機が普及しており、鋤の需要はなくなっていました。30歳の時に会社(株式会社栗田鋳造所)を設立し、現在は3社を経営していて従業員が200人くらいいます。私自身は農家の方ほど水のことで身につまされたことはありませんが、揚水ポンプや発動機などの機械の発達の歩みをたどると、技術者という職業柄、発動機を開発した人々の苦労や競争の様子のほか、機械の発達により慢性的な水不足を克服しようとする当時の人々の思いがうかがえます。
 旧式の陸上ポンプの隣に地中深くボーリングを行った井戸ができて、その中に水中ポンプが造られると陸上ポンプは不用になり、いずれは泉掘りも消えてしまうことになると思います。現在、私は、この地域に残っている陸上ポンプの写真や図面を記録として残したり、ポンプ場の枠組井戸の復元模型を製作したりして、この地域の先人たちが、昔から水を得るために大変な苦労を重ねてきたことを伝えるための活動をしています(写真2-1-9参照)。できれば、そうした先人たちの技術の結晶である泉掘りを後世に残し、水の大切さを実感することができる農業遺産にしてほしいと願っています。」

参考引用文献
① 東予市『東予市誌』1987
② 周布村誌編集委員会『周布村誌』1978
③ 東予市『東予市誌』1987

その他の参考文献
・ 田野村誌編纂委員会『田野村誌』1957
・ 愛媛県『石鎚の水ここに展く 道前道後用水史』1978
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門
                『愛媛の地域調査報告書 1980』1980
・ 丹原町『丹原町誌』1991
・ 小松町『小松町誌』1992
・ 西条市ホームページ 水の歴史館
       (http://www.city.saijo.ehime.jp/site/mizunorekishikan/)


写真2-1-6 下町嚆筒ポンプ記念碑

写真2-1-6 下町嚆筒ポンプ記念碑

西条市 平成28年10月撮影

写真2-1-8 六道ポンプ場

写真2-1-8 六道ポンプ場

西条市 平成28年10月撮影

図表2-1-5 幸木ポンプ場の見取図

図表2-1-5 幸木ポンプ場の見取図

栗田孝一さんが作成された見取図に加筆

写真2-1-9 幸木ポンプ場の復元模型

写真2-1-9 幸木ポンプ場の復元模型

西条市 平成28年10月撮影 栗田孝一さんが実物の30分の1の縮尺で製作