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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 旧丹原町における水利と農業

 (1) 中山川取水堰による灌漑

ア 釜之口堰

 釜之口堰は中山川最大の取水堰で、江戸時代以来、田野(たの)・丹原・周布(しゅう)地区の1,000町歩(約1,000ha)を潤す重要な堰の一つであったが、洪水のたびに流出・破損したり関屋川からの流出土砂の堆積で井口が閉塞されたりすることが度々あった。昭和25年(1950年)のジェーン台風・キジア台風による被害を受けて釜之口堰の移転改築が決定され、2年間の工事を経て昭和29年(1954年)に新堰が完成した。関屋川の河床下を暗渠とし、コンクリート工法による新堰によって釜之口用水取水問題は解決した(図表2-1-1参照)。
 「昔は台風が来ると関屋川が大量の土砂を運んで来て、釜之口堰の水の取入口が埋まってしまうことがあり、それを『大時化(しけ)』と言っていました。大事な田んぼに水が流れて来ないのですぐに土砂を取り除かなければならないのですが、当時は全て人力で行わなければならず、相当な日数がかかっていたことを私(永井富夫さん)は憶えています。今の釜之口堰は水門を電動で開閉させることができるようになっていて、取入口に入った土砂を川へ戻すための装置を備えています(写真2-1-1参照)。大時化のときは、土砂が入らないようにポンプを閉めますが、次にポンプを開けようとしたときに、溜まった土砂に押されて樋門が開かないことがあります。そういうときはユンボで土砂を掘ると、土砂が流されて沈砂池に溜まり、溜まった砂が樋門から川へ吐き出される仕組みになっています。また、中山川に架かる橋の一つである金比羅橋の近くには小松町(現西条市)の方へ水を取り入れる大頭(おおと)堰がありますが、こちらも電動で水門の開閉を行うことができるようになっています(図表2-1-1参照)。現在の大頭堰では、砂が溜まらないための排水溝が堰にあって、時化が来たときにはその溝を開けておくと、土砂が樋門の方へ行かずに下へ流れて行くような仕組みになっています。中山川には水を取り入れるための堰が何か所かつくられていますが、それらの堰は全て道前平野土地改良区によって管理され、分水量もきちんと調節されています。」

イ 掛井手

 「私(永井富夫さん)の家は長野(ながの)で農家をしていて、16歳くらいから親の農作業を手伝っていました。そのころはまだ農業機械はなく、牛を使って田を鋤(す)いていました。畑で必要な水のほとんどは掛井手という水路から汲んでいました。掛井手というのは、江戸時代に中山川から兼久大池に水を引くために造られた水路です(図表2-1-2参照)。兼久大池の築造の際、『大池予定地の方が中山川の水流より高く、釜之口から池に用水が流れないからやめた方がよい。』と難色を示す意見が大勢であった中で、来見(くるみ)村(旧丹原町)庄屋の越智喜三左衛門が、釜之口から大池予定地まで提灯を並べ、中山川の南側の赤坂山に登り目視して土地の高低を調べたという話が伝わっています。」
 「道前道後用水ができるまでは、掛井手が中山川の釜之口堰から大池へ用水を引き込む唯一の水路で、今でも、池之内水利組合が掛井手の管理をしています。戦後、私(眞鍋治夫さん)が22歳から25歳くらいのころ、当時の釜之口水利組合の事務所が今の田野機動隊消防団の場所にあり、掛井手をコンクリートで改修する工事が行われました。私もその工事に従事し、手でコンクリートを切るなどして水路を改修したのですが、その後、コンクリートに穴が開き、水路の下は砂やバラスだったため水が大池に到達する途中で抜けてしまうようになりました。そのため、4年ほど前から改修工事を始めて、去年(平成27年〔2015年〕)でほぼ終わりました。」

ウ 掛井手と釜之口幹線水路

 「釜之口堰からの幹線水路は、長野末友(すえとも)地区の樋門で掛井手と釜之口幹線水路に分水され、掛井手は途中で長野の水田へ水を落としています(写真2-1-2参照)。ここから大池までの水路(掛井手)は池之内水利組合の管理管轄になっていますが、水については道前平野土地改良区で管理しています。また、釜之口幹線水路については道前平野土地改良区の管理管轄となっています。
 長野末友地区で分水され北田野や田野上方(うわがた)を流れる水路のことを、この辺りでは昔から『大川』と呼んでおり、北田野や田野上方ではこの大川から農業用水を取っています。大川は掛井手と同様に道前平野土地改良区によって管理され、最終的に高松川へ流れ込んでいます。しかし、面河ダムからの水が来るまでは、農繁期になると、みんなが大川の水をせき止めて自分の田に引いていたため、高松まではほとんど水が流れて来なかったことを私(眞鍋治夫さん)は憶えています。丹原地区や池田(いけだ)地区などの用水としては大池に溜めた水が利用されており、その辺りには泉の水が溜まってできた溜池や、大池からの水を引き込んだ溜池がありました。」

 (2) 溜池を利用した灌漑

 兼久大池の水を利用した灌漑や池の管理について、兼久大池を管理する池之内水利組合長である眞鍋治夫さんに話を聞いた。

ア 池之内水利組合

 「私はもともと農家の生まれで、田が1反半(約15a)、畑が1反半の合計3反(約30a)くらいの耕地で農業をしていました。小学校(田野村立田野尋常高等小学校)5年になると、牛を使って田を鋤(す)いたり、鍬で田の稲株を切ったりして、農作業を手伝っていたことを憶えています。一時期、丹原町議会議員を務めていたこともありましたが、丹原町が西条市と合併する2年前くらいに議員を辞めて、それからまた農業に従事しています。 
 平成8年(1996年)ころからは池之内土地改良区の理事長となり、兼久大池や兼久前池(泉池)の管理などを行うようになりました(写真2-1-3参照)。平成17年(2005年)に池之内土地改良区は丹原土地改良区、北田野土地改良区と合併して丹原土地改良区の一組織となり、名称も池之内水利組合となりました。北田野、田野上方なども土地改良区から水利組合に変わり、それらの組合によって丹原土地改良区は運営されています。」

イ 兼久大池の用水の管理管轄

 「兼久大池の用水の管理管轄は願連寺(がんれんじ)、池田、今井(いまい)、高松(たかまつ)の各地区でしたが、道前平野土地改良区の前身の釜之口土地改良区ができたときに願連寺地区が脱退したので、現在はその負担分を高松地区と今井地区で折半しています。当時の古い文書によると、願連寺地区は釜之口土地改良区を脱退して用水の権利を放棄したということです。昔から続いている各地区への分水割合は、負担金の割合に応じて決まっていたのだと思います。昔は、池田地区が面積も一番広く負担割合も一番多かったのですが、願連寺地区の脱退後は今井地区の負担割合が最も多くなっています。高松地区は面積が狭く負担割合も一番少ないのですが、それでもその割合は20数%にも上っています。現在、各地区の水利組合では組合員である農家の方に負担金を出してもらっていますが、池之内水利組合では道前平野土地改良区に兼久大池を調整池として貸していることによるお金が入ってきているので、組合員から反別に応じた負担金を出してもらうということは行っていません。」

ウ 道前道後用水の完成と兼久大池

 「私が若いころ、灌漑の時期には兼久大池に溜められた水は下(しも)の方へずっと流されていたため、灌漑が終わったころになると池の水は底の方にしか残っていませんでした。そのため、冬の間は子どもたちが池の魚を獲(と)ったり、池の中で野菜を栽培したり、牛を池の中に入れて草を食べさせたりしていました(写真2-1-4参照)。池の中の土地は肥沃で、大根などがたくさん収穫できたことを憶えています。道前道後用水ができてからは池の水が空になることはほとんどなく、池田地区や願連寺地区、今井地区の方へ安定して水が供給されるようになったと思います。この間も大池の水が満水になっていたので、道前平野土地改良区に少し池の水を抜いてもらったほどです。私の子ども時分は池の水がきれいで、夏にはよく泳いだものでした。また、昔は、小さな水鳥がずっと池に住み着いていて、池に繁殖した藻を集めてその上に卵を産み、雛(ひな)を育てていました。今は水中の酸素が不足しているため池の下の方に藻が少しも生えておらず、アオサが湧いているために泳げるような状態ではなくなっています。」

エ 池の水の出し入れ

 「兼久大池には、釜之口から掛井手によって中山川の水が入っているだけで、高松川の水も入っておらず、池が満水になったときに高松川へ水を落とすことになっています。山からの水も入ってきますが、愛ノ山の大池に面した方からしか入って来ないので、大した量ではありません。兼久大池からは、朝6時から夕方6時まで一定の水量を流しています。田植えから稲刈りまでの期間は長いですが、その間も大池からは決められた水量しか流さないので、丹原の下町辺りには大池からの水は届かなくなっています。面河ダムからの水は中山川左岸幹線水路から大池に入れるようになっていますが、大池では溜めている水をできるだけ使うようにしていて、よほど水が足りないとき以外は、大池へは入れていません。」

オ 池周辺の整備

 「6、7年前に、4億5千万円をかけて、土手の侵食された部分を修復するなど、大池の大改修を行いました。そのとき、掛井手から大池に水が流れ込むところに沼地ビオトープを作ったり、屋根付きの休憩所や約2m幅の舗装された遊歩道を整備したりしたほか、展望台も設置しました。遊歩道や大池周辺の清掃は、市から地元自治会に委託されて、今は10人ほどが草刈りをしています。最近、遊歩道を散策する人が多くなっているので、池之内水利組合でも年に1回、遊歩道から池が見えるように草刈りを行っています。」

 (3) 面河ダムからの導水

 道前・道後水利開発事業の完成により、丹原町(現西条市)が農業構造改善事業で実施していた田野・中川(なかがわ)両地区における果樹園(カキ・ミカン)の灌水施設が完成した。その結果、仁淀(によど)川水系面河川の水を関屋川扇状地に導水し、長さ2㎞、幅2mの暗渠水路で310haの畑地灌漑が施行されることになり、全国的にも珍しい扇状地の畑地灌漑による果樹園が展開されてきた(図表2-1-3参照)。

ア 畑地の水利状況

 「道前道後の用水路ができてからは、田んぼへ引く用水の便は良くなりましたが、灌漑用水としてはそれだけでは足りないので、各地区の水利組合では、ポンプで汲み上げた水も利用しています。旧丹原町の畑地は、下(しも)の方には多少肥沃な土地もありますが、上(かみ)の方は関屋川などが運んできた砂礫が堆積してできた土地で水の便が悪いため、道前道後の畑地灌水ができて非常に助かっていると思います。しかし、畑地灌水を利用できる時期が7月から9月までに限られているため、用水が不足した畑地台の農家の人の中には、田んぼ専用の用水路である掛井手から水をタンクに汲んで、自分の畑に入れている人もいたことを私(眞鍋治夫さん)は憶えています。」

イ 畑地灌水

 「田野・中川畑地灌水組合は、各地区の水利組合と同じように道前平野土地改良区との間で給水の年間契約を結んでいます。中山川左岸幹線水路からの分水を取水し、畑地灌水組合のポンプ小屋へ水を送ると、ポンプ小屋のプールに水が入り込むようになっています。ポンプ小屋に据えられた高圧のポンプによって田滝や関屋の方まで水が供給されていて、畑地ではスプリンクラーによる散水が行われています。また、畑のある場所では、小さな水槽のようなものが据え付けられているのをよく見かけますが、それは谷から流れて来る水を溜めるためのもので、丹原町でも田滝や関屋など上(かみ)の方の畑地では、昔から灌漑用水を得るのにかなり苦労してきたためにそうした水槽がよく見られました。」

ウ 溜池の減少

 「丹原町には兼久大池以外にも多くの溜池がありましたが、面河ダムの完成後にずいぶん埋め立てられてしまいました。池田地区が管理していた中池と北池は埋め立てられて、それぞれ寺町鉄工所と宮田鉄工所が建てられ、願連寺の管理していた高木池も埋め立てられました。また、田野上方地区が管理していた願成寺(がんじょうじ)池(上方新池)も埋め立てられて、丹原文化会館が建てられました(図表2-1-1、2-1-4参照)。」


写真2-1-1 釜之口堰

写真2-1-1 釜之口堰

西条市 平成28年10月撮影

図表2-1-2 釜之口から兼久の大池までの水利図

図表2-1-2 釜之口から兼久の大池までの水利図

平成18年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「伊予小松」による

写真2-1-2 掛井手の始点

写真2-1-2 掛井手の始点

西条市 平成28年10月撮影 樋門の左側が掛井手、右側が釜之口幹線水路

写真2-1-3 愛ノ山から兼久大池を望む

写真2-1-3 愛ノ山から兼久大池を望む

西条市 平成28年10月撮影

図表2-1-3 周桑平野の水利開発事業

図表2-1-3 周桑平野の水利開発事業

『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』から

図表2-1-4 旧丹原町の埋め立てられた池

図表2-1-4 旧丹原町の埋め立てられた池

『丹原町誌』から作成