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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる②

 (5) 「お山開き」と駅前通りの賑わい

 伊予小松駅の開業を見込み、駅前通りが整備されたのは大正11年(1922年)のことである。幅員6間(約11m)の大通りが南北に貫通し、金毘羅街道に丁字型に接続された。それまでこの場所は宝寿寺のお墓があった所で、伊予小松駅誘致の際に宝寿寺とともに墓地も移転された。一ノ宮神社にある「一ノ宮神社別当宝寿寺跡碑」が移転前の小松の様子を今に伝えてくれている(写真1-4-10参照)。
 田野岡康之氏は、『小松史談第129号』に寄稿した「小松駅誘致に思う」の中で、当時の町の変化について次のように記述している。「先(ま)ず小松駅を誘致したことは小松の町並みを一変させた。駅前通りの商店街の出現はわれわれの誇りでもあった。また小松駅の昇降客は小松町民はもとより隣の氷見、石根、吉井(よしい)の周辺の通学、通勤、旅行、商用客をまき込み石鎚登山、子安大師参拝客の昇降口としてまさに小松駅を中心として町が動いている感じさへしたものである(⑨)。」
 『小松町誌』によれば、「夏季大祭(お山開きのこと)の10日間だけでも延べ10万人に達し、(中略)四国第六十一番香園寺の春秋の縁日には大勢の信者が乗降したため、他駅から応援を仰いで処理していた(⑩)。」という。お山開きの時期を中心とした駅前通りの賑わいの様子と通りの変遷について、地域の方々は次のように話してくれた。

ア 町が真っ白に

 「大正12年(1923年)から昭和20年(1945年)ころまでは、乗合バスは外車のフォードで、6人乗りだったことを私(眞鍋芳憲さん)はよく憶えています。当時は、車に乗って河口(こうぐち)の登山口まで行く人は稀(まれ)で、ほとんどの人が歩いて行かなければなりませんでした。当時は参拝に来る人々は小松駅前通りを歩き、全員が白装束でしたから、町が真っ白になってしまっていました。石鎚講の信者さんは四国だけでなく、近畿地方や中国・九州地方からも参拝に来ていました。準急『瀬戸』が昭和24年(1949年)から小松駅に停車することになりましたが、そのころが一番のピークだったように思います。
 また、丸文食堂にあったバス停留所の2階に瀬戸内自動車の事務所があって、小松駅のホームから出て来た人々に、『次の石鎚行きは○○分に出ます。』というように、アナウンスをして誘導していたことも憶えています。昭和20年代から30年代当時はボンネットバスに替わっていて、1台 に20人ほど乗車できていました。7月のお山開きのときには臨時バスが出て、10台くらいのバスが登山口まで往復していたように思います。しかし、あまりにも多くの参拝客が集まるのでバスに乗れない人も出てしまって、やはり多くの人が歩いて石鎚山へ向かっていました(写真1-4-11、図表1-4-5の㋑参照)。」
 「お山開きのときには、石鎚山に参拝に来る人々が法螺貝(ほらがい)を吹いて、鈴をチリンチリンと鳴らしているその音がよく聞こえていましたし、非常に多くの人が小松駅前に集まっていました。彼らは、『丸文食堂』や駅前商店街にあった宿屋に宿泊していたことを私(三原貞子さん)はよく憶えています。1年で一度の祈願をするために、船で参拝に来た信者さんたちも多かったのですが、そのような人々の中には、参拝後に小松で宿泊したり、食事や飲酒をしたりしてから帰宅した人もいました。私の父親は、朝の3時半に起きて、『石鎚山へ行ってくる。』と言って、お弁当を持ってよく参拝に行っていましたし、当時はそれが普通でした。」

イ 宿泊客で溢れる町

 「参拝客が多く集まったときには、駅前通りの多くのお店が店舗の2階を宿泊所として提供するなどして、普段の営業とは別に旅館としての役割を果たしていたことを私(越智敏雄さん)はよく憶えています。当時小松には『大阪屋』、『久門旅館』、『松竹楼』など、旅館も多かったのですが、本当にたくさんの参拝客がいましたから、そのようにして対応していました。料亭の2階を宿泊所にしたこともありました。確か、駅前にある丸文食堂付近にもテントを張っていたことがあります。夏の大祭が行われる10日間の収入で、1年分は儲けていたようです。また、その時に成就社(じょうじゅしゃ)の宿泊所では、1畳に4人、5人が詰め込まれていたので、宿泊客は座るだけの状態だったそうです。小松駅前の宿泊所でも、1畳に2人といった状態だったと聞いています。それでも現在のお金の価値で、1人3,000円程度の宿泊費を取っていました(図表1-4-4の㋤、図表1-4-5の㋑、㋒、㋓、写真1-4-12参照)。」

ウ 土産物

 「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、私(三原貞子さん)はよく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴〔あめ〕)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。また、これは石鎚山近くの学校に登校していた人から聞いた話ですが、その時期が近づくと学生たちがお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていたそうです(写真1-4-13参照)。」
 「確か、『病気が去る』とか『魔除(まよ)け』という意味があったと思います。参拝した人々が、自分の腰に三つ、四つ、助け猿を付けて歩いていたことを私(工藤和枝さん)は憶えています。」 

エ 夜市

 「夜市は、昭和30年(1955年)ころから小松商工会が中心となり、6月から8月にかけて、土曜日ごとに行っていました。私(石丸敏信さん)が夜市のことで特に憶えているのは、石鎚山から下山してきた修(しゅ)験(げん)者(しゃ)がお札を売っていたことです。修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手(て)刀(がたな)で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖(あ)然(ぜん)としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。
 見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました。当時、私は子どもでしたから、そんな売り方もあるのかと本当にびっくりしてしまいました。今から考えると、木のお札は初めから割られていたのだと思います。しかし、その修験者は実際にかなり大
きな石でも、気合いもろとも手刀で割っていました。相当の修行を積んでいたのだと思います。」

 (6) 町の衰退と現在の取組

 現在の町の様子について、理髪店を経営している三原貞子さんは、「今では石鎚講の信者さんの白装束を見なくなり、鈴の音も聞こえなくなったので、私のところに散髪に来るお客さんと『寂しいね。』とよく話しています。よく見るのはお遍路さんくらいです。」と話してくれた。小松の町の衰退とその理由について、地域の人々は次のように話してくれた。

ア 石鎚山へのルート変更とモータリゼーション

 「私(石丸敏信さん)が幼いころには賑わいを見せていた町が、いつの間にか次第に衰え、交通の要衝と言われていた小松が、『小松には止まらずに行き過ぎてしまう。』と言われる状況へと変わってしまいました。小松の歴史を振り返ってみると、石鎚山への登山ルートの変更や鉄道の便数の減少など、賑わいが失われていく原因が交通に深く関わっているように思います。やはり、道が一つ違えば人の流れが変わるというか、すーっと人が引いてしまいます。当時は、そのようなことを感じることはなかったのですが、後から昔を振り返ってみると、ロープウェイや黒瀬(くろせ)ダム、西条駅からの参拝ルートができただけで、あれだけ栄えていた小松の町から賑わいが消えてしまったと強く感じます。小松駅に準急が止まらなくなり、店もどんどん少なくなっていきました。また、昔と比べて今はあらゆることのスピードが早くなりました。石鎚登山で言えば、昔はみんなが歩いて移動していたこともあり、登山の前後で必ず小松で宿泊していました。しかし、移動の交通手段の発達などにより、その必要がなくなってしまいました(写真1-4-14参照)。」
 「昭和40年(1965年)ころは、小松は本当に交通の要衝という感じで、今治(いまばり)市や新居浜市のベッドタウン化の方向を目指してさまざまな取組を行い、どうにか発展させようとしていました。しかし、昭和43年(1968年)に石鎚登山ロープウェイが完成すると、黒瀬から石鎚山に向かう道が整備され、ロープウェイを利用する人が多くなっていきました。さらに、黒瀬ダムの建設を行っていた昭和45、46年(1970、71年)ころになると、西条の方から石鎚行きのバスが出発するようになり、その後小松から石鎚へ行くバスが廃止されたと私(越智敏雄さん)は記憶しています。さらにそのころには自家用車も普及していきました。以前なら、7月のお山開きのときだけでなく、9月ころまでは石鎚山への参拝者が多く、宿泊する人もいたのですが、こうした理由が小松から石鎚山に向かう参拝者の減少に拍車をかけたのです。」
 「私(渡辺東さん)は大頭(おおと)の交差点から入って大郷(おおご)を抜け、横峰寺の参道入り口近くまで水汲(く)みによく行っていますが、車で来ている方が割といます。車を止めて横峰寺まで歩いて行ってその日のうちに下山して、再び車で帰っているようです。水汲みをしているときに周囲の人に話しかけることもありますが、聞いてみると県外から来たと答える方も多く、県外ナンバーの車が大体5台から6台は止められています。」

イ 講の衰退

 「香園寺の賑わいがなくなっていったことも、小松の商店街が衰えていった原因の一つではないかと私(宮武つねみさん)は思います。香園寺の住職、山岡瑞円大僧正が非常に熱心な方で、子安講をつくられました(創始は大正2年〔1913年〕のこと)。昔は子安講の人々がたくさん香園寺を訪れ、それは賑わっていました。船に乗ってやって来た団体の方が、禎瑞(ていずい)(西条市)の辺りから金毘羅街道を通って香園寺までお参りに来ていたことを憶えています。子安講が盛んなころは、木工所や仏具店の方が仏像や仏具を作ってさまざまな所へ販売をしたりしていました。しかし、香園寺を訪れる子安講の人々が少なくなるにつれ、仏像や仏具の製造や販売も次第に少なくなっていきました(図表1-4-5の㋔、㋕、写真1-4-15参照)。」
 「子安講が盛んなころは、香園寺に食事を作りに行く人々がたくさんいたことをよく憶えています。また、私(越智敏雄さん)が小学生であった昭和40年代ころまでは、『縁日がある。』と聞くと子どもたちはみんな香園寺へ行っていました。今と比べて娯楽が少なかったということもありますが、本当に多くの人が集まっていました。やはり、私たちの生活様式が変化していく中で、寺社の信仰自体が段々と薄れてきたのだと思います。今はバスだけでなく、歩き遍路の方も多くなりましたが、昭和30年代の途中からここ10年くらい前までは、信仰というものが全体的に薄れていたように思います。」

ウ 石鎚村の衰退

 「小松の町の衰退について考えるとき、山間部でくらしていた人々のことも考える必要があると私(越智敏雄さん)は思います。昔は黒瀬地区や石鎚地区などの山間部でくらす人々がたくさんいて、バスに乗って小松の町へ買い物等にやって来ていました。しかし、黒瀬ダム建設のために黒瀬地区の人々は旧小松町と旧西条市などへ転居してしまった上に、その時代にはバスの経路も変わりました。また、黒瀬地区だけでなく石鎚地区の人々もどんどん平野部へ転居していき、人が住まなくなって、小松にやって来る人の数が大幅に減少してしまいました。このことも、小松の町から賑わいがなくなっていった原因として考えておかなければならないと思います。」
 「私(石丸敏信さん)も山間部でくらしていた人々のことを考えるべきだ思います。石鎚地区の人々が小松の町へやって来て買い物をして、帰宅するという人の動きの中で小松の町が栄えたという歴史があります。しかし、今では石鎚地区には、横峰寺を除いて誰も生活していません。」
 「山での生活や、町と山とを往復するというのは不便だと私(秋山志津子さん)も思います。かつては山が崩れるような事故もあり、そういったことが人々の転居に拍車をかけました。今、山で見かける人は、昔を懐かしんで、自分の畑を見に来たという人くらいです。」

エ 町の歴史を次世代へ

 石丸敏信さんは、小松町の展望について、その歴史を踏まえ次のように話してくれた。
 「小松藩は一万石の小さな藩ですが、235年間、明治維新まで存続しました。西条藩や川之江藩は一柳家の兄弟藩でしたが、改易になりました。小松藩が存続できたのは、近藤篤山先生の教えや一柳家の善政の精神などを継承してきたからで、私たちもこれまでの歴史や善政の精神などを次の世代へ継承していこうと、さまざまな取組を続けているのです。小松町は、『歴史と文化の町』なのです。」
 三原貞子さんは、小松の人々が語り継いでいる「小団平(こだんぺい)」について、次のように話してくれた。
 「昔、『小団平』という名前の食堂が駅前通りにあったことを私は憶えています。かつて手作り民芸店があった所がそうでした(図表1-4-5の㋖、写真1-4-16参照)。小団平というのは実在の人物で、身長がわずか1m半くらいしかないのに非常に長くて大きい刀を差していて、居合抜きの達人であったことで有名だったそうです。小団平が敵に囲まれたときに、刀を抜いたと思ったらすでに敵の首が飛んでいたという話を聞いたことがあります。
 また、私が高校生のころ、恩師が私に、『小松小団平竹より長い刀引っ下げ歩いた道を今はネオンの花が咲く』と自分の作った歌を聴かせてくれたことがあって、私も面白かったので、『先生、うまいこと作ったねえ。』と言ってお互いに笑い合ったことを、今でも印象深く憶えています。このように、小松では小団平の話を語り継いでいて、『小松ふるさと祭り』の仮装行列では、子どもが小団平の扮(ふん)装をして歩いています。町を練り歩くときには刀が長くて重いので、刀の先に小さな車を付けています。ゴロゴロと音を立てながら歩く姿はなかなか可愛(かわい)らしいものです(写真1-4-17参照)。」
 さらに、石丸敏信さんは、次のような小団平のエピソードを紹介してくれた。
 「棚橋小団平は、小松藩の第三代藩主に仕えていました。現在に伝わっている彼の説話の一つが、『はえ狩り』です。夏の暑い日、殿様の周りをハエがブンブン飛んでうるさいので、殿様が小団平を呼び、『何とかせい。』と言ったそうです。すると小団平は、『かしこまりました。』と言ってすぐに刀を抜き、空中を何度か走らせました。その後小団平は、『これでもう大丈夫です。』というと、ハエがボトボトと落ちてきて、見ると全てのハエの頭の部分が切り落とされていたという話です。小団平は、そのくらい居合抜きの達人だったのです。佛心寺に、棚橋小団平のお墓がありますが、先日、小松史談会の人々でお墓の横に新しい石碑を建立して、その場所がよく分かるようにしたところです。」
 現在小松町では、7月の「小松ふるさと祭り」、10月の「小松だんじり統一寄せ」を継続して行うとともに、小松公民館を中心とした歴史講座の開催や近藤篤山旧邸の開放、小松温芳図書館での地域資料の展示など、小松の歴史と文化を次世代に伝えるさまざまな取組が続けられている。石丸敏信さんは、「小松は、昔ながらの藩政時代の雰囲気を残す町として、他所の人々からは『人情があり、文化と歴史の町』とよく言われています。その歴史や文化を自らも学び、後世に伝えていきたい。」と強く語られた。



写真1-4-10 宝寿寺跡碑

写真1-4-10 宝寿寺跡碑

西条市 平成28年8月撮影

写真1-4-11 丸文食堂

写真1-4-11 丸文食堂

西条市 平成28年7月撮影

図表1-4-5 昭和30年代の駅前通り

図表1-4-5 昭和30年代の駅前通り


写真1-4-13 助け猿

写真1-4-13 助け猿

西条市 平成28年9月撮影

写真1-4-14 石鎚登山ロープウェイ

写真1-4-14 石鎚登山ロープウェイ

西条市 平成28年7月撮影

写真1-4-15 香園寺

写真1-4-15 香園寺

西条市 平成28年7月撮影