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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる①

(1)「お地蔵さん」が建てられた場所からみる陣屋町小松の領域

 お寺の境内や墓地、あるいは道端など、私たちはさまざまな場所で「お地蔵さん」に出会う。お地蔵さんは正しくは「地蔵菩薩(ぼさつ)」といい、人々の苦しみを救ってくれる存在であるとされ、古来から人々は各地にお地蔵さんを建立し、災難などから逃れようとした。こうした人々の信仰は日本古来の道祖神(どうぞじん)信仰(道祖神とは、峠や辻・村境などの道端にあって悪霊や疫病などを防ぐ神のこと)とも結びつき、町や村の結界という意味で、村はずれの街道に建立されていた。小松にもこれと同じ意味で建立された四つのお地蔵さんがある(写真1-4-1参照)。その場所について、Kさんは次のように話してくれた。 
 「まず南のお地蔵さんですが、岡村からずっと南進して明勝寺と横峰寺へ向かう道が分かれる所(Ⓐ)に、北のお地蔵さんは、国道11号から新屋敷の集落へ北進して小松駅の東側の踏切を越えて進んだ集落の北端の所(Ⓑ)にあります。そして東のお地蔵さんは小松藩と西条藩の境の碑がある所(Ⓒ)に、西のお地蔵さんは小松小学校の体育館から金毘羅街道を西に進んだ通り沿い(Ⓓ)にあります。これらは、藩政時代の享保8年(1723年)に天然痘が流行した際、町人町の人々が藩の許可を得て、悪病の侵入から小松の町を守ってもらうことを祈願して建立したものです。『小松藩会所日記』にもその記載があります。」
 「お地蔵さん」が建立された場所を地形図上に示してみると、現在の小松町の中心街の領域とほぼ変わらないことが分かる。かつて「陣屋町」と呼ばれた場所で生まれた人々は、ここで育ち、学び、遊び、働き、町内外を問わず多くの人々と交流した。そしてその交流の中心となったのが、小松藩により形成された街道であった。

(2)金毘羅街道の特徴と変遷

 小松藩の町づくりは、初代藩主直頼の命を受けた小松藩家老喜多川与次右衛門を責任者として進められ、三代藩主頼徳(よりのり)の時代に町としての体裁が整えられたと言われている。
 彼らは道路を建設する際、陣屋町を防御するために角(かど)と突き当たりを各所につくり、見通しを悪くした。この名残は金毘羅街道にも見られ、東西の端がかぎ型に曲折している。主な町筋は西から東西方向に、小松川を渡って西町、中町、本町と続き、常磐(ときわ)神社前で南北に曲がって横町、さらに東西に曲がって東町と続き、東地蔵の前を通って氷見に向かう。大正13年(1924年)に常磐神社と小松町役場(当時は西町にあった)を移し、その跡地に道路ができるまで、この通りが小松市街地のメインストリートであった。常磐神社の移転に伴う変化について、Iさんは次のように話してくれた。
 「大正13年(1924年)までは、『おいべっさん(常磐神社のこと。主祭神が恵比寿(えびす)様であり、地域の人々は(お)をつけて丁寧にそう呼んだ)』は今とは場所も入り口の向きも違っていました。現在は入り口が北側ですが、今の場所に移転する前はたばこ店がある辺りまで神社の境内が広がっていて、入り口は西側にありました。また、金毘羅街道が『おいべっさん』の所で突き当たりになっていて、真っ直ぐ道が抜けていませんでした。ですから、お遍路さんが宝寿寺に行く際は坂の下(さかのした)の方から北に向かって歩いていたと聞いたことがあります。」
 なお、西町の小松町役場跡につくられた道路は小松川を越えて西へ延びているが、大正15年(1926年)に現在の小松橋が架橋(かきょう)され、一直線の道路が完成した。

(3)旧千足山村(旧石鎚村)とのつながり〜町の繁栄の背景〜

 Kさんは、「街道沿いにいろんな店舗が存在した理由は、宗教的理由で小松を訪れる人々だけでなく、山間部でくらす人々との関係が深かったからではないかと思います。」と話してくれた。
 旧千足山村は石鎚山の北西側面に形成された奥深い山村である。標高1,000から1,500m程度の急峻(きゅうしゅん)な山地が連なり、その間に西条市に注ぐ加茂(かも)川が鋭いV字谷をうがって流れているため沖積平野が発達せず、集落と耕地は狭小な山腹斜面に立地していた。人々は焼畑耕作を生業とし、楮(こうぞ)(紙の原料)、茶、棕櫚(しゅろ)(たわし、ほうきなどの原料)、用材などの林産物を生産して現金収入を得ていた。小松町と合併したのは、この地区の林産物が藩政時代から山越えの峠道を通って小松町に搬出され、従来から小松町の経済圏に含まれていたからである。

 ア 人々の往来

 昭和初期の千足山村の人々の様子について、Aさんは次のように話されている。 
 「昭和の初めころ、小松と氷見の人口はだいたい同じで4,000人くらいでした。これに石根は含みません。小松にも商店街がありましたが、氷見の方が商店の数が多く賑やかだったと記憶しています。当時は、大保木(おおふき)村(現西条市)や千足山村など山の方にも人が多くくらしていて、小松には千足山村の人々が、氷見には大保木村の人々が正月の食べ物などを買い出しに来ていましたが、みんな歩いて来ていました。小松は千足山村で成り立ち、氷見は大保木村で成り立っていたと言えます。また、小松から千足山村まで生活物資を送っていました。この仕事をする人々のことを『ナカモチ』と言っていましたが、物資を背負って持って行っていました。今でいう運送業に当たります。『ナカモチ』たちは、中町にある遍路道標付近から旧藩を南に進んで石鎚村まで生活物資を運び、その帰りに石鎚村の物資を小松に持ち帰っていました。材木の場合は、道が狭くて車で運ぶことができないので、馬の体の両端に木をくくりつけて、小松の製材所まで運んでいました(写真1-4-2、図表1-4-4の㋐、㋑参照)。」

 イ 筵市

 Bさんは、「千足山村の人々が、金毘羅街道と駅前通りの交差点の辺りで『筵市(むしろいち)』をよく開いていたことを憶えています。」と話してくれた。
 「筵市」とは、毎年12月23、27日に正月準備のために開かれていた青空市で、近郊の農村からも山間部からも大勢の人々が集まっていたという。「筵市」の起源について黒河一誠氏は、『小松史談第140号』に寄稿した「小松の年中行事(昭和十年〔1935年〕頃のこと)」の中で、「昔は小松領内の下回りの北川、吉田(よしだ)(西条藩)等の水田耕作地帯の在所の農家が新藁(わら)で編んだ筵・かます・縄等の藁加工品を運んで来て市を立てたのだそうだ(③)。」と記述している。筵市の範囲は広く、先述の交差点付近を中心に本町から中町にかけて、道路の両側にそれぞれ場所をとって品物を並べていたという(図表1-4-4の㋒参照)。
 「山のものをたくさん持って来て販売して、それで儲(もう)けたお金で子どもたちがお正月などに履く下駄や着物などを買って帰っていたということを私(Lさん)は聞いたことがあります。しかし、その時期はだいぶ前、おそらく戦前のことではないかと思います。」

(4)金毘羅街道筋の商店等の記憶

 ア 西町

 西町は昭和33年(1958年)まで町役場が置かれ、旧小松町における行政の中心地であった地域である。昭和初期の西町の様子について、Aさんは次のように話されている。
 「藤木地区の商店街から金毘羅街道を東に進んで藤木橋を越え、西町のお地蔵さんを過ぎると、通り沿いにいくつか店がありました。まず、通りの北側には精米店がありました。通りの南側、つまりお地蔵さん側には、当時でも非常に大きな雑貨店があり、確か、専売品も売っていたことを憶えています。少し離れた所に文房具店があり、その南側が昔の小松町役場、役場の向かい(南側)が竹細工店でした(図表1-4-4の㋓、㋔、㋕、㋖参照)。」

 (ア)旧町役場と2軒の代書

 難波江初治氏は、『小松史談第91号』に寄稿した「明治末期から大正初期の旧小松町西部の商家」の中で、旧小松町役場付近の様子について、「現在『久米紙店(竹細工店と同じ)』のあるところが町役場の木造平屋の議事堂があった。その手前現在道路の中央が木造平屋ではあったが軒の高い堂々とした町役場であった。庁舎の前には蘇鉄(そてつ)の美事(みごと)な大木があった(④)。」と記述している。
 難波江氏によれば、役場の敷地は昔造り酒屋があった所で、深く水質の良い井戸があり、簡易水道ができるまで西町の人々の命の水であったそうである。難波江氏はさらに、「夏の朝早く役場の水を貰うためバケツを持った人達が並んだ事を思い出す(⑤)。」と回想されている。
 また、町役場付近には代書をしてくれる所が2軒あった。代書とは司法書士や行政書士のことで、役場や登記所などに提出する書類を依頼主の代わりに作成することが業務である。昭和30年代前半の記憶として、Iさんは、「以前は西町に役場がありましたから、便宜上、代書が必要だったと思います。2軒あったため、役場の方がどちらの代書を利用するのかきちんと振り分けていたようです(図表1-4-4の㋗、㋘参照)。」と話してくれた。 

 (イ)久米紙店

 渋団扇(しぶうちわ)は、表面に柿渋(かきしぶ)(渋柿の青い果実から絞りとった液で、防腐・防水剤として使用された)を塗った丈夫で実用的な団扇である。石鎚登山などで小松を訪れた人々の土産物として販売され、多くの人々が購入して普段の生活で使用していた。その渋団扇を製作していたのが西町にあった「久米紙店」である(図表1-4-4の㋖参照)。Mさんのお話によれば店の敷地は広く、遍路の道標がある所まで全てがお店の土地であったという。渋団扇の記憶について、Fさんは次のように話してくれた。
 「昭和30年代は、お札や天狗の顔が描かれた渋団扇などの土産物が店の前にいっぱい並べられていたことを私はよく憶えています。渋団扇は頑丈なので、私もよく買っていました。渋団扇を作っていたのは、西町の『久米紙店』です。夏ころには、小松小学校の裏門を出た所で、『(柿渋の匂いが)臭(くさ)い、臭い。』と言いながら、渋団扇を干している光景をよく目にしました。確か、天狗の顔は駅前にある丹山食堂(図表1-4-5の㋐参照)の方が描いていたように思います。今から10年ほど前に石鎚山に登ったとき、渋団扇を売っている人がいて、欲しくてたまらなかったので2本購入しました。その人は川之江(四国中央(しこくちゅうおう)市)の人で、その方が『奥さん、これでおしまいです。』と言っていました。もう、渋団扇をつくっている人はいないそうです。」
 石鎚登山ロープウェイ山麓下谷(さんろくしもたに)駅付近にある京屋旅館の方のお話では、かつては大保木地区にも渋団扇づくりの職人の方がいたが、今はもう製作をしていないとのことである。

 イ 中町

 (ア)戸田屋 

 『戸田屋』はお遍路さん専用の旅館として知られ、小松を訪れる多くのお遍路さんがここに宿泊し、各札所へ向けて出発した(図表1-4-4の㋙参照)。四国遍路の盛況について、『小松町誌』には「八十八か所が成立した当時は僧侶遍路が中心であったが、江戸時代になるとようやく一般の俗家(ぞっか)遍路が多くなり、『会所日記』によると一七〇〇年代の中ごろからは、小松領内で遍路に出かける庶民は毎年五〇名から百名近くを数えるようになった(⑥)。」と記載されている。昭和30年代の戸田屋の様子について、地域の方々は次のように話してくれた。
 「戸田屋には、お遍路さんたちが団体で宿泊していたことを私(Bさん)はよく憶えています。そのころはまだ自動車が普及していなかったので、駐車場はありませんでした。遍路道を歩いてきたお遍路さんがそのまま入り口から入って、泊まっていました。」
 「戸田屋は、中町の理容店から2軒西向こうにあり、長屋のように道に面して長く、2階が宿泊所になっていました。確か、部屋が三つほどあったと思います。そして、2階の軒を出した所に廊下があって、そこでお遍路さんたちが集まって涼んでいたことを私(Iさん)はよく憶えています。」
 「昭和30年(1955年)ころ、小松の町は非常に賑やかでした。石鎚帰りの白装束の人々がシャクナゲの枝を持って、鈴を鳴らしながら小松の通りを歩いている光景を私(Hさん)はよく憶えています。特にお山開きの10日間が、最も賑やかでした。駅前通りとその周辺はそのような状況でしたが、そこから離れた中町や西町の方にはあまり行っていなかったように思います。しかし、金毘羅街道沿いには戸田屋という旅館がありましたから、そちらでも宿泊されていたと思います。」

 (イ)中町の森田さん

 森田家は、酢の製造と金物販売を行っていた商家である(図表1-4-4の㋚参照)。「うめ森田」は森田本家があった所で、敷地内に大きな梅の木があることから地域の人々がそのように呼んでいたそうである。また、郵政省(現総務省)に委託され郵便業務を行っていた。小松史談会が平成21年(2009年)に制作した「昔の小松街並みマップ」を見ると、同じ場所に左から「うめ森田、森田(局)、森田(酢)」と3軒並んでいたことが分かる。このころのことについて、地域の方々は次のように話してくれた。
 「森田さんの家は、ちょうど私(Hさん)の自宅の東側に当たりますが、昔はお酢造りをしていたと聞いています。昭和6、7年(1931、32年)ころのことですが、その家を森田さんが売りに出し、私の父が結婚する時に購入したこともあって、そのころにお酢造りをやめられたのではないかと思います。」
 「私(Bさん)は、森田さんが造られたお酢を買いに行ったことがありますが、そのころは屋号(一門・一家の特徴を基に家または店に付けられる称号のこと)を『酢三木屋(すみきや)』と言っていました。」
 「酢三木屋」については、難波江初治氏が『小松史談第117号』に寄稿した「明治・大正職業商売繁盛記(二)」において次のように記述している。「前(店)では金物を販売し奥で酢を造っておられた。三木(兵庫県播州三木(ばんしゅうみき)、金物産地)と自宅の酢をつなぎ合せて酢三木屋としたのは面白いアイデアだが最近は造っておられないとか(⑦)。」

 (ウ)清斯堂跡と常盤組

 「現在、中町のだんじり小屋の周辺は、かつて近藤篤山先生の次男、近藤簣山先生の私塾『清斯堂(せいしどう)』があった所だそうです(図表1-4-4の㋛参照)。篤山先生は、長男(近藤南海)に自分の跡を継がせ、次男は町家に出しました。ですから、簣山先生はこの場所で塾を開いたのです。」とKさんは話してくれた。
 近藤篤山は、藩校「養正館」にて藩士子弟だけでなく農家や商家の子どもたちの教育にも尽力した人物である。生涯向上心を失わず、誠実な日常生活をもって人を教育する姿勢から「徳業天下第一」「伊予聖人」と称された。天保13年(1842年)の隠居後、「養正館」での教育は文久2年(1862年)まで近藤南海が、彼の死後は近藤簣山が後を継いだ。「清斯堂」の名は近藤簣山の号から付けられたもので、彼が養正館教授となるまで続いた。Kさんはさらに続けて、「遠藤石山先生の子孫の方から伺った話ですが、遠藤さんのご自宅と隣の方のご自宅(現中町のだんじり小屋付近)を合わせた範囲が塾の敷地だったそうです。」と話してくれた。
 遠藤石山は天保3年(1832年)に小松藩士の家に生まれ、近藤篤山の教えを受けた人物である。19歳の時に江戸の昌平黌(しょうへいこう)にて学問を修め、帰郷後は藩校「養正館」の教授となった。明治維新後は風早(かざはや)(現松山市北条(ほうじょう))、竹原(たけはら)(広島県)、尾道(おのみち)(広島県)、泉川(いずみがわ)(新居浜(にいはま)市)、宇和島(うわじま)に私塾を開いた。小松町本町に遠藤石山の名が刻まれた石碑がある。それが「常盤組碑」である(図表1-4-4の㋜、写真1-4-6参照)。
 「常盤組は、災害等からの人々の救済を目的とした組織で、かつては町のさまざまな所に常盤組の土地があったと私は伺っています。」とBさんは話してくれた。
 Iさんによれば、清斯堂があった場所と道を挟んだ東側の土地も常盤組の土地であったそうである。小松の町を歩いてみると、「中常盤」「西常盤」と書かれた地名標識が電柱に貼られているのを見かけることができる。小松は教育だけでなく、人々の助け合いのもとで日常の生活が営まれている町なのである。

 (エ)横田屋と小松銘菓「よし乃餅」

 近藤簣山の私塾「清斯堂」があった場所から、道を挟んで東3軒先に「歯科医院」がある(図表1-4-4の㋝参照)。ここはかつて「横田屋」という屋号で呼ばれた商家であった。もともと周布郡横田(よこた)(現西条市周布)の豪農であったが、小松藩第二代藩主一柳直治(ひとつやなぎなおはる)のころに藩主の招聘により小松に移り住み、粕(かす)とり焼酎を造りながら砥部焼などの陶磁器も販売し、代々繁盛していたという。「横田屋」の子孫であるIさんは、次のように話してくれた。
 「江戸時代には焼酎・銘酒を製造・販売していたようです。以前のことですが、焼酎樽(たる)が30本も40本も出てきましたし、蔵もありました。『横田屋』と書かれた徳利(とっくり)は、今でも幾つか残しています。屋敷内には深い井戸があって、他の井戸が枯れてしまったときにも枯れることはなく、その井戸の水を活用して、焼酎を製造していました。さらに家庭で使う井戸は別にあり、使い分けていました。今の場所に最初に家が建てられたのは江戸の末期で、家の裏には桑畑が続いていました。そこに料亭兼旅館の『文明楼』ができ、昭和30年代まで賑わっていました(図表1-4-4の㋞参照)。」
 また、前述の「明治・大正職業商売繁盛記(二)」の中で、難波江初治氏は「横田屋」について、「中町右側に『カラツミセ』横田屋と云う大きな陶器店があった。御主人は町役場の収入役であった。このお宅の裏に何十枚かの蓆(むしろ)(わらなどを編んで作った敷物。筵と同じ)に酒の粕を小さくチギってモミガラをまぶして沢山干してあるのを見た。番する人の居ないのを見て拾いモミガラを除いてたべて見ると、ウマイと言う程ではないがたべれん事はなかった。これを蒸留すると焼酎が出来ると言う事を知ったのは大きくなってからの事であった(⑧)。(後略)」と記述している。ちなみに、陶磁器のことを関西では主に「唐津物(からつもの)」と呼んでいる。「カラツミセ」という名称もここからきているものと思われる。さらにIさんは、小松銘菓として多くの人々に知られている「よし乃餅」と「横田屋」との関係について、次のように話してくれた。
 「横田屋は私の実家ですが、実は『よし乃餅』の宗家なんです。よし乃餅の『よし乃』は、渡辺よし乃というおばあさんの名前からきています。その方が殿様にお餅を献上したことから『よし乃餅』と名付けられたことが始まりです。」
 このお話には、前日談がある。よし乃さんに餅菓子の作り方を教えてくれたのは、四国八十八か所巡拝の老僧である。よし乃さんがこの老僧に接待宿を貸したところ、老僧が病気になって寝込んでしまった。よし乃さんは介抱をする一方、老僧の国元へ早飛脚を立てて家族の者を呼びにやらせた。迎えの者が着いたときには体調がすっかり回復していて、そのお礼にと餅菓子の作り方を教えてくれたという話である。その後よし乃さんは、お隣の菓子舗の方に手伝ってもらって餅菓子を作って売り出すようになったが、時が経(た)ち老年になったよし乃さんには子どもがいなかったので、いつも手伝ってもらっていたお隣の「めしや」さんに餅菓子の作り方などを譲り伝えたそうである。「めしや」とは、天保9年(1838年)からよし乃餅の製造と販売を続けている「めしや菓舗」のことである(図表1-4-4の㋟、写真1-4-7参照)。

 ウ 本町

 中町の酒店の東側に、幅の狭い溝がある(図表1-4-4 の㋠、写真1-4-8参照)。地域の方々のお話によれば、「ここが中町と本町の境で、かつて川があった名残だ。」とのことである。小松藩が町づくりを行う際、通りや川をそれぞれの町境とした。この溝から、小松キリスト教会東側にある、かつて御殿へ上がる道であった通りまでの範囲が本町である。もともとは西町から続く金毘羅街道のみであったが、伊予小松駅開業にともない大正11年(1922年)に形成された駅前通りが接続され、岡村に続く道と合わせ、交差点が形成された(図表1-4-4の㋒参照)。

 (ア)八起食堂 

 「八起(やおき)食堂は、川尻さんという沖縄出身の方がやっておられた大衆食堂で、沖縄風の料理を特徴として、定食やラーメンなどを提供してくれていました(図表1-4-4の㋡参照)。料理の味はあっさりとした日本料理とは違い、こってりとした感じだったことを私(Iさん)は憶えています。」
 「私(Mさん)も小学生の時によく食べに行きました。確かに醤油(しょうゆ)ラーメンでも普通のものとは味が少し違っていました。石鎚村から下りて来た人々などもよく利用していて、店の中が人でいっぱいだったことをよく憶えています。」

 (イ)精肉店とアイスキャンデー

 「本町の精肉店ではアイスキャンデーも販売していて、よく買って食べていたことを私(Lさん)は憶えています(図表1-4-4の㋢参照)。ゴムでできた容器の先を切って、中に入っているアイスを吸いながら食べる『バクダン』というものも販売していました。また、当時、自転車の荷台に『アイス』と書かれた箱をつけて、精肉店まで仕入れに来ていた行商の方がいたと思います。アイスキャンデーの価格は1本3円で、アイスクリームは一つ5円だったと思います。」
 「『じいちゃんが食べたら、ばあちゃんまでおいしい、アイスキャンデー』とか、『2階で食べたら下までおいしい、アイスキャンデー』などと言って売りに来ていた人がいたことを私(Kさん)もよく憶えています。」

 (ウ)小松座

 各家庭にテレビが普及する昭和40年代まで、各地域でくらす人々にとっての娯楽の中心は劇場であった。小松座もその一つで、創立された大正2年(1913年)から昭和40年(1965年)ころまでの約50年間、小松でくらす人々の娯楽の中心であった(図表1-4-4の㋣参照)。小松座について、地域の方々が次のように話してくれた。
 「小松座は2階建てでした。客席は1階が椅子席、2階は升席で、筵が敷かれていました。天井は低く斜めになっていて、天井裏から舞台を見るような感じだったことを私(Kさん)は憶えています。夏などの暑いときには、正面に大きな扇風機が置かれていて、『ブーン』と大きな音を立てていたので、うるさかったことが思い出されます。」
 「町回りの宣伝業者の方が太鼓などを鳴らしながら通りを練り歩いて、小松座の演目の紹介をしていたことを私(Fさん)はよく憶えています。小松座の主流は映画の上映で、無声映画をよく上映していました。また演劇や人形浄瑠璃も上演していました。」

写真1-4-1 小松町に建立されている四つのお地蔵さん

写真1-4-1 小松町に建立されている四つのお地蔵さん

左より、南地蔵(A)、北地蔵(B)、東地蔵(C)、西地蔵(D)。西条市。平成28年8月撮影

写真1-4-2 中町の遍路道標

写真1-4-2 中町の遍路道標

道標の右側の道を進み、物資を運搬していた。西条市。平成28年7月撮影

図表1-4-4 昭和30年代前半の小松の町並み(金毘羅街道沿い)

図表1-4-4 昭和30年代前半の小松の町並み(金毘羅街道沿い)

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真1-4-6 常盤組碑

写真1-4-6 常盤組碑

西条市。平成28年7月撮影

写真1-4-7 「めしや菓舗」

写真1-4-7 「めしや菓舗」

西条市。平成28年7月撮影

写真1-4-8 酒店東側にある溝

写真1-4-8 酒店東側にある溝

西条市。平成28年7月撮影