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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)子どものくらし

 ア 戦時中の記憶

 (ア)勤労動員の思い出

 「私(Aさん)は、昭和12年(1937年)に来見(くるみ)尋常高等小学校に入学し、1年生の時に支那事変(日中戦争)が始まりました。私は高2(高等科2年)を卒業すると、西農(西条農業学校、現愛媛県立西条農業高等学校)へ行きましたが、吉井(よしい)(旧東予市)の飛行場(逓信省愛媛地方航空機乗員養成所、後に西条海軍航空隊に移管)で掩体壕(えんたいごう)という飛行機を格納する施設をつくっていました(写真1-3-9参照)。作業には小松や西条の学校の生徒も来ていましたが、西農は農家の出身者が多く、他の学校の生徒よりも力持ちで、たくさん土などを運んでいました。また、禎瑞(ていずい)(西条市)は干拓地で水はけが悪かったため、暗渠(あんきょ)排水の工事もしていました。当時は、毎日、家から手作りの弁当を持ってそうした作業に行っていて、学校で勉強などはほとんどしませんでした。
 私の家は中川(旧丹原町)にあったのですが、家からまず壬生川駅へ行き、そこから汽車に乗って西条方面へ行っていました。壬生川駅までは遠かったので、父がどこかから自転車を工面してきてくれましたが、すぐにチューブが傷んでしまい、チューブの代わりにリムに藁(わら)で作った縄を巻いて、その上からタイヤを付けて乗っていました。縄は雨が降ると湿ってリムからよく外れた上に、チェーンもボロだったので、何回外れたかわかりません。そのころの列車は蒸気機関車だったので、デッキに乗っていると、トンネルを通った後には顔が煤(すす)で真っ黒になったことを憶えています。
 西農へは1学期間通っただけで、16歳の時に大津(おおつ)(滋賀県)の陸軍少年飛行兵学校の操縦中隊に入ってそこで終戦を迎えました。昭和20年(1945年)8月23日まで残務整理を行ってからこちらへ帰って来て、同年10月から西農の2年に編入し、昭和22年(1947年)3月に卒業しました。」

 (イ)空襲の記憶

 「昭和20年(1945年)の終戦前には空襲が多くなり、オレンジフェリーの場所にあった飛行場(吉井飛行場)がB29に爆撃されたことがありましたが、ここ(丹原)は空襲を受けませんでした。ここからでも夜中には、空襲を受けていた今治や松山の方の空が真っ赤に燃えるのが見えました。その折に、焼夷弾を落とした後、爆撃機がこの辺りの上空で旋回していました。
 空襲警報のサイレンが鳴ると、学校に近い願連寺や池田などから通っている子は、急いで家へ帰り、久妙寺(くみょうじ)などのように、遠くから通っている子は、小学校の運動場にあった防空壕に入っていました。私の家では防空壕をつくっていたのですが、夏になると、防空壕によくヘビがいたので、入るのが恐ろしかったことを憶えています。また、町内では、郭ごとに焼夷弾が落ちたと想定して、ガチャポン(手押しポンプ)で井戸水を汲んで、バケツリレーの練習をしたり、小学校の運動場で母親たちが竹槍を突く練習をしたりしていました。」

 イ お店の手伝い

 「私(Bさん)の家は表具店で、小学校の5年生から店の手伝いをしていました。当時はそれが普通で、近くの酒屋さんの子どもも、5年生ころから方々へお酒を配達していました。家にお金の余裕があれば遊ばせてもくれますが、私は、父が病気でお金もなかったので働いていました。父から言われて、壬生川駅から汽車に乗って今治の問屋さんへお使いに行ったり、集金に行ったり、また、紙どころの国安(くにやす)(旧東予市)へ障子紙のはね(傷物)を買いに行ったりもしました。父は表具店をしながら、昭和19年(1944年)からは、高松(たかまつ)(香川県)の三越から頼まれて、山にある葛(くず)イモを採ってデンプンを作っていました。葛イモのデンプンとサツマイモのデンプンの性質はよく似ているのですが、葛イモのデンプンは盲腸に効くお薬にもなるもので、値段も高いのです。掘った葛イモはうちの店と安井(やすい)(旧小松町)の店で全部買い上げ、福岡さんのお旅所で何も行われていないときには、葛のデンプンのかすをそこへ干しに行っていました。」

 ウ 農作業の手伝い

 「私(Aさん)が小学5、6年のころは、家で牛を飼っていました。博労(ばくろう)が連れてきた子牛を買い、それを育てて売っていたのが現金収入になっていました。
 夏には学校から帰ると、コロガシ(田んぼの中の土を反転させて草を取る機械)や田すりを使って田んぼの草取りをして、ゆぐりに入れていました。町の人は、中山川へ水泳に来て、楽しそうに遊んでいました。同じ年頃なのに、町の子どもたちは遊んでいて、私たちは農作業をしなければならなかったので、辛かったことを憶えています。冬には山へ焚(た)き物を取りに行きました。子ども同士で競争して薪を切っていて、惜しいと思って、切ったものは全て取って帰りました。当時、リヤカーはなく、束ねた薪をおおく(竿)でさして、担いで帰っていましたが、家までの道中が長く、泣きながら帰っていたことを憶えています。」
 「私(Hさん)が子どものころにも、年に2回、田植えと稲刈りの時期に農繁休業というものがあり、学校が二日間くらい休みになりました。しかし、学校が休みでも、私たち農家の子どもはずっと家の手伝いをさせられるので、『町の子は遊べてええのう。』と思っていたことを憶えています。」

 エ 縁日の思い出

 「私(Aさん)が子どものころは、家の農作業の手伝いに追われていましたが、楽しいときもありました。お正月やお盆、お観音さんの日などの式日には、父も休ませてくれました。綾延(あやのべ)さん(綾延神社)という殿中奴で有名な神社がありますが、そこから少し南に田野市原(たのいちばら)というお旅所があります。毎年、綾延さんのお祭りの日には、父にもらった少しばかりのお小遣いを握りしめて田野市原へ行き、友達と一緒に出店で大きな飴玉を買うのが楽しみでした。また、西山(にしやま)(興隆寺)や久妙寺のお観音さんに行くのも楽しみでした。西山と久妙寺のお観音が同じ日で、『西山で拝んでから久妙寺で拝んで帰るんだ。』と言っていました。久妙寺のお観音さんの日には、お寺の前の細い道を多くの人が列をなして歩いていたことを憶えています。」

 オ ポンプ場で遊ぶ

 「私(Bさん)は、中学校、高校くらいまで下町の嚆筒(らんとう)ポンプ場の井戸で泳いでいました(写真1-3-12参照)。小さいころには、トマトやすももなどを持って行って、潜って底にそれらを置いておいて、冷やしてから食べていました。井戸には川の流れ水があり、初めはそこで流されながら遊んで、少し泳ぎが上手になったらポンプ小屋の深い方へ移動し、板を持って泳いでいました。」
 「私(Hさん)の祖父の時代に嚆筒ポンプ小屋が造られ、そのときに何十人もがその傍(そば)に並んで写真を撮っていました。私はその写真を見たことがあります。私が初めて足の届かない所で泳ぐことができたのは嚆筒ポンプ小屋の井戸で、水がきれいで冷たかったことを憶えています。」

(2)さまざまなくらしの記憶

 ア 食糧難の時代

 「私(Aさん)の家では、ニワトリを1羽か2羽飼っており、ニワトリには卵を産ませて、産まなくなると、絞めて肉を食べていました。卵は貴重な食べ物でしたが、西農へ行っている時には、母がお弁当のおかずに入れてくれていました。戦後の食糧難のときは、ジャガイモやサツマイモを主食にしていたほか、イモの蔓(つる)や、イモを干したものをひき臼で粉にして作ったカンコロ餅などを食べていたことを憶えています。私の家は農家で、食糧は自分の家で作っていたので、戦後も食糧にはそれほど困りませんでしたが、丹原の町の人はよく買い出しに来ていました。」

 イ 補助エンジン付き自転車

 「昔は自転車に乗る人が多かったです。私(Bさん)が中学1年生のころ、自転車の横に付けるBS(ブリヂストン)やホンダの補助エンジンが売られていました。5万円か10万円を出してエンジンを買い、それを自転車に取り付けるものでした。」
 「私(Aさん)は、昭和24年(1949年)から鞍瀬小学校(当時は桜樹村)で勤め始めました。私は自転車で通っていましたが、知人の中には自転車に補助エンジンを付けたもので通っている人がいたことを憶えています。」 

 ウ テレビの普及

 「私(Bさん)は、表具店の仕事を始めるようになって、『近所の人に後れを取るまい。』と思って、昭和35年(1960年)ころにテレビを買ったと思います。当時は、テレビの前に取り付けると画面が拡大されるレンズが売られていたことを憶えています。」
 「昔は芝居小屋であった広い部屋で、木戸銭10円を払うと、テレビの大相撲中継を見せてくれる小屋がありました。また、私(Hさん)が何も食べなくてもタダで食堂へテレビを見せてもらいに行っていたのは、小学3年生ころまでだったので、昭和30年代の前半くらいまでのことだと思います。そのころはまだテレビが珍しかったのです。商店街で最初にテレビを見たのは秋山電器店で、店頭には大勢の人がプロレスの力道山の試合を観に来ていたことを憶えています。」

(3)店で働く

 丹原商店街で90年以上の歴史をもつ表具店を営業されているBさんから、仕事にまつわる思い出について話を聞いた。

 ア 家業を継ぐ

 「私の父は昭和元年(1926年)に表具店を始めました(図表1-3-2②の㋟、写真1-3-13参照)。父はもともと満州(まんしゅう)(中国東北部)の総領事館で会計の仕事をしていて、当時の総領事が吉田茂だったそうで、氷見(ひみ)(西条市)出身の実業家であった日野泉之助(三和信用組合〔現三和信用金庫〕の創立者)は友達だったそうです。体を壊したために丹原に戻って来て、親戚の表具店で仕事を覚えた後にお店を始めたのですが、もともと絵を描いたり書を書いたりするのが好きだったことも影響していたと思います。
 私は店を継ぎたくなかったのですが、父は、長男である私が他の仕事に就くことを許してくれませんでした。高校(愛媛県立丹原高等学校)を卒業した昭和32年(1957年)からお店の仕事を始めましたが、最初は嫌でたまりませんでした。昔は、自転車にサイドカーというリヤカーのようなものを付けて、それにふすまを10枚くらい積んで運んでいて、女の子にそうした姿を見られるのが恥ずかしかったので、翌年(昭和33年〔1958年〕)に、棒ハンドルのオート三輪車を2、3万円くらいで買いましたが、商店街で車を持っている人はまだ5、6人しかいませんでした。そのころはこの辺りに自動車教習所はなく、業者が車の免許を取らせるために、休みの日に小学校の運動場へ車を持って来て、青年団員に運転技術などを教えてくれていました。」

 イ バタンコの思い出

 「当時、オート三輪車のことは『バタンコ』と呼んでいました。仕事でバタンコに乗って行っても、エンジンがかからずほかの人に車を押してもらったり、パンクしたりと故障ばかりしていました。あるとき、バタンコで家から田滝(たたき)の学校(現西条市立田滝小学校)の辺りまで行くと、片方のシリンダーが真っ赤に焼けてしまい、藤岡モータースのおじさんに修理に来てもらったことがありました(図表1-3-2②の㋠参照)。
 また、当時のオート三輪車はケッチンを食らうことがありました。ケッチンを食らうというのは、キックスタート式エンジンのペダルをキックするとき、踏み込んだ後にエンジンが逆回転して、ペダルが反対方向に跳ね上がることです。当時のオート三輪はキャブが丸出しで、ケッチンを食らうとキャブから火が吹き出てくるので、あらかじめ砂を用意しておき、火が吹き出たときには砂を掛けて消すようにしていました。その後、丸ハンドルの車が出始めて、さらに、ミゼットや軽三輪といった車が出始めると、私はマツダの軽三輪を買って走らせていました。松山くらいまで往復できれば十分だったので、値段の安い車があれば買って来て、故障すれば修理しながら乗っていたことを憶えています。」

 ウ 仕事で松山へ出かける

 「昔の車は、あまりに遠くまで行くと故障することが多かったので、私が仕事を始めたころ、営業エリアはそれほど広くはなく、鞍瀬(くらせ)の学校(丹原町立鞍瀬小学校)の方へ行ったり、禎瑞辺りまで行ったり、壬生川からこの辺りを車で回っていました。昔はまだ道路も整備されていなかったので、仕事で鞍瀬の日浦(ひうら)や峯(みね)に行ったときにはふすまなどを担いで山道を上らなければならず、帰って来ると一日かかりました。
 国道11号の付け替え工事があったころから仕事で松山へも行くようになり、5、6年前までは軽トラックで空港通りの方から北斎院(きたさや)や南斎院(いずれも松山市)の方まで行っていました。その途中で桜三里を通っていましたが、長い方のトンネル(河之内(かわのうち)隧道)ができても検査があってなかなか通行させてくれなかったので、開通するまでの間は土谷(つちや)(旧川内町)から旧国道11号に入り迂回していたことを憶えています(写真1-3-14参照)。今も車で桜三里を通ることがありますが、『このトンネルもずいぶん古くなったなあ。』と思いながら走っています。」

 エ 県外に広がる営業エリア

 「私は仕事を始めてから、あちこちに仕事仲間ができて、方々の大工さんから声を掛けてもらうようになり、仕事のエリアが広がっていきました。昭和38年(1963年)から40年(1965年)ころは吹田(すいた)(大阪府)でも仕事をしていましたが、そのときはこちらで作ったものを建具屋さんに運んでもらい、それを入れに行くようにしていました。これまでの仕事の注文で一番遠方だったのは東京からの注文でしたが、そのときは自分では運ばずに、こちらで作ったものを送りました。
 また、7、8年前には、軽トラックで直方(のうがた)(福岡県)まで仕事に行ったこともありました。そのときは、善通寺(ぜんつうじ)(香川県)で仕事をした翌日に大工さんと一緒に直方へ行くことになりました。夜に松山観光港から小倉(こくら)(福岡県)行きのフェリーに乗る予定だったのですが、『乗船予約していないと車は乗れません。』と言われました。そこで、柳井(やない)(山口県)行きのフェリーに乗って深夜の1時前に柳井に着き、そこから途中で高速道路も通行して直方まで行きました。仕事を終えたのがまだ午前10時か10時半だったので、柳井からフェリーに乗って松山へ行き、それから丹原まで帰って来たのですが、さすがにしんどかったことを憶えています。」

 オ 節季払い

 「私の店でも昔は『節季払い』といって、盆や年の暮れにまとめて決済をしていましたが、20年くらい前に問屋さんから、『節季払いをやめてほしい。』と言われて、毎月小切手で支払うようになりました。昔は、問屋さんに150万円くらいの支払いがあっても、その半分の75万円を支払っておき、残り半分のお金は節季払いにしてよかったのですが、今は問屋さんも早く手元にお金が欲しいのです。借金はしないに越したことはないので、今は小切手支払いにして手形は書かないようにしています。手形を書いても期日までにお金が入って来なければ大変だし、『支払いさえ済ませておけば店はつぶれない。』と考えたのです。そうやって、借金をしないようにお店をやってきたので、今、呑気(のんき)にしていられるのかもしれません。
 取り引きのある建具屋さんや大工さんの中には、今でも節季払いの人がいますが、それはそれで構わないのです。『節季まで貸してある分は儲けだ。』というくらいの気持ちで、ほかからの仕事で入ったお金で、問屋さんに支払いを済ませておけばいいのです。」

 カ 仕事への思い

 「今は、妻もお店の仕事をしていますし、パートも雇っていて、ふすまを入れたりする作業もうちでやっています。建具屋さんがいるときは、『持って行って、入れておいて。』と頼むこともありますが、愛媛県内であれば、ほとんど私が運んで入れています。ありがたいことに、『もう仕事がないな。』と思っていると仕事の注文が入ってくるもので、この間も、西条の建具屋さんと一緒に津島(つしま)町(宇和島(うわじま)市)へ行って仕事をしてきました。私は、高校を卒業してすぐに車に乗っていたくらい車の運転は好きな方ですし、妻からも仕事が趣味だと言われるほど働いてきたので、景気の良い時期が長く続き、おかげさまで、今はお店の経営も少しは楽になっています。私がお店の2代目で、あと10年で創業100年になりますが、近年は家の建て方が変わって和室がなくなり、ここ6、7年前から仕事の量が減りました。今はぼつぼつ仕事をしています。」


<参考引用文献及び注>
①丹原町『丹原町誌』 1991
②丹原町『丹原町誌』 1991
③西条市『広報さいじょう 2008年8月号』 2008

<その他の参考文献>
・田野村誌編纂委員会『田野村誌』 1957
・周布村誌編集委員会『周布村誌』 1978
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県『愛媛県史 人物』 1989
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・丹原町『丹原町誌』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・西条市『広報さいじょう 2011年6月号』 2011

写真1-3-9 西条海軍飛行場跡

写真1-3-9 西条海軍飛行場跡

現在は大規模太陽光発電所となっている。西条市。平成28年12月撮影

写真1-3-12 丹原下町の嚆筒ポンプ場

写真1-3-12 丹原下町の嚆筒ポンプ場

西条市。平成28年10月撮影

写真1-3-13 現在の鎌田表具店

写真1-3-13 現在の鎌田表具店

西条市 。平成28年11月撮影

写真1-3-14 河之内隧道

写真1-3-14 河之内隧道

東温市。平成28年12月撮影