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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)丹原の町かど

 ア 松山藩の在町

 『丹原町誌』には、松山藩の在町として建設された丹原町(まち)の構造について、「東へ2丁、西へ2丁(実測264メートル)、南北は道路の側溝よりおのおの30間(実測63メートル)の地域を商業町として造成し、間口は平均4、5間位であるが店の大小により異なっていた(①)。」と記されている。
 「丹原は江戸時代に松山藩によってつくられた在町で、通り沿いの家は間口が5間(約9m)くらいの、いわゆる『鰻の寝床』と呼ばれる細長い地割りでした。今では敷地の一部を仕切って借家にしたりしている家も見られますが、基本的には昔の在町当時と同じ地割りが残っています。また、町中(まちなか)にある恵美須(えびす)神社は、在町の建設された時に松山藩主松平定行公により商売の守り神としてつくられた神社で、古い歴史があります(写真1-3-1、図表1-3-2②の㋐参照)。神社の裏にはかつて古いエノキの木があったのですが、いつのころか切られてしまって現在は残っていません。」

 イ 井戸とポンプ

 「戦時中は、焼夷弾が落ちてきたらいけないという理由もあって、町の方々にポンプがありました。昔は防火用水といって、今の貯水槽よりも小さめの円形の貯水槽がありました。今の丹原郵便局の看板の角辺りにはそういう防火用水がありました。下(しも)町では防火用水をたくさん作っていますが、上(かみ)町には防火用の井戸があまりないので、上町で火事があったときには、下町の防火用水の水を持って行ったことを憶えています。また、地下水を汲(く)み上げるポンプが各家に一つはあったので、飲み水にはあまり苦労はしていませんでした。」

 ウ さまざまな店

 (ア)食堂

 「商店街に寿司屋さんは4、5軒ありましたが、昔から食堂はそれほど多くありませんでした。私(Hさん)は愛媛銀行に勤務していて、丹原支店には昭和44、45年(1969、70年)ころと平成元、2年(1989、90年)ころの2回勤務したのですが、特に、支店長を務めていた平成の初めころは、お客さんを昼食に連れて行こうにも銀行の近くに食堂がなかったので不便だったことを憶えています。昔は新生食堂や温泉食堂などといった食堂もありましたが今はなくなっていて、今も営業しているのはつるや食堂くらいになりました(図表1-3-2①の㋑、㋒、㋓参照)。」

 (イ)料亭

 「商店街には料亭が何軒かありましたが、その一つである大寿館は木造3階建てで、内装も立派にできていました(写真1-3-2、図表1-3-2①の㋔参照)。私(Hさん)は、周りのみんなが、『ヨカローやあかだまには行けるけど、大寿館は格が一つ上で、よう行かんかった。』と言っていたことを憶えています(図表1-3-2①の㋕、㋖参照)。その後、大寿館は閉店し、建物と敷地は人手に渡りましたが、家の中は今でもその当時のままになっているそうです。」

 (ウ)屋号のある店

 『丹原町誌』には、明治の初めころには、来見屋・西条屋・松山屋・吉田屋・三嶋屋・鞍瀬屋・島屋・三原屋・大和屋・広島屋・泉屋・久妙寺屋・大阪屋・中嶋屋・三芳屋・田野屋・長野屋・久米屋等の出身地を屋号とした店があったことが記されている(②)。
 「田野屋さんは昔はからパンが名物で、カレーパンなどを学生がよく買っていました(図表1-3-2①の㋗参照)。ずいぶん前の話ですが、丹原から都会へ出ている学生が自分のブログに、『田野屋のパンが食べてみたい。』と書いていたことを私(Hさん)は憶えています。お菓子屋の『とくのや』さんも徳能(とくのう)(旧丹原町)から出てきて、出身地を店の屋号にしています。」

 エ 周辺からの買い物客で賑わう

 「私(Bさん)が仕事を始めたころは、何か買う物があれば丹原へ寄って来て買うという感じで、商店街は、バスで壬生川などから買い物に来たお客さんでかなり賑(にぎ)わっていました。道路がアスファルト舗装されたのは、私が高校生だった昭和32、33年(1957、58年)ころだと思いますが、それまでは砂利道でバスはえくぼ道(でこぼこ道)をドスンドスンと音をさせながら走っていました。」
 「藤田百貨店(今のとうしょく)は、今でいうスーパーマーケットのような感じのお店でした(図表1-3-2①の㋘参照)。中川に住んでいた私(Hさん)の同級生は、藤田百貨店のことを、今の百貨店のように思っていたそうで、『バスに乗って藤田百貨店の辺りに来たら、都会へ来たような気がした。』と話していたことを憶えています。」

 オ 木炭バスの思い出

 「私(Bさん)が子どもだった昭和20年代は、ほとんどのバスの燃料は木炭でした。バスの後ろには木炭のタンクが付いていて、車掌さんがそこに炭俵を入れ、横から空気を送って火を起こし、木炭ガスがエンジンのピストンを動かす仕組みになっていました。私と友だちは、バスの後ろの木炭のタンクにかなぐり付いて、バスの営業所から藤田百貨店くらいまでの間をよく往復して遊んでいて、ときには火傷したこともありました(図表1-3-2①の㋘、1-3-2②の㋙参照)。当時のバスは、今とは違ってそれほどスピードは出ませんでしたが、大勢のお客さんが乗っていました。」
 「商店街が賑わっていたころは、自転車で買い物に来る人も多くいました。丹原は鉄道が通っていなかったので、この辺りで利用していた乗り物といえば、自転車とバスで、バスが一番高級な乗り物でした。私(Hさん)が子どものころは、丹原のこの辺りも荷馬車が時々通っていて、木で作った荷車を馬の後ろに付けて走るのを時々見たことがあります。」

 カ 買い物客の減少

 「平成の合併までは、商店街にも買い物客が来ていました。合併したころに、丹原センターとそごうマートのような食品を売るお店がなくなり、飲み屋さんも順々になくなり、パチンコ店もなくなって商店街に来る人が急に減りました(図表1-3-2①の㋚、1-3-2②の㋛参照)。平成元年(1989年)にはまだあった丹原センターも、なくなってから長くなります。呉服店のほとんどは店を閉めていて、雑貨店もやめてしまった店が多いです。街路灯も一昨年(平成26年〔2014年〕)くらいになくなってしまい、街が暗くなったように感じます(写真1-3-4参照)。」

(2)町の賑わい

 ア 丹原座の思い出

 「丹原には映画館は最初は丹原座だけでしたが、壬生川にあった曙(あけぼの)館の二号館が丹原にできました(図表1-3-2①の㋜、㋝参照)。私(Hさん)は家から近い丹原座の方へはよく行きましたが、曙館へはあまり行ったことがありません。昔は、入場料を払うと映画を2本観ることができる、2本立てが多かったです。私は、『御通行中のみなさま、御家庭のみなさま』という言葉で始まっていた丹原座の放送を憶えています。丹原座は櫓のようなものを組んで、その上で触れ太鼓を叩いていました。客席は桟敷席になっていて花道や回り舞台もあり、当時は小学校や中学校の学芸会も行われていました。
 丹原座が火事で焼けたのは昭和31年(1956年)5月のことで、当時、私は小学4年生でした。そのころ、丹原座ではいろんな興行が催されていて、大相撲が行われたこともありました。火事が起こったのは、女子プロレスの興行があった晩のことで、丹原で起きた火事では一番大きなものでした。今、丹原座が残っていたら、内子座と同じくらい価値のある建物だと思います。」
 「私(Bさん)は、毎晩のように丹原座へ夜9時からのナイトショーを観に行っていて、終わると11時ころになっていました。丹原座にはサーカスやショーもよく来ていました。丹原座の火事は私が高1か高2のころで、遠足の前日だったことを憶えています。最初、私は勉強もせず、燃えているのをじっと見ていたのですが、最後にはポンプでの消火活動を手伝うことになりました。火の勢いが強く黒い煙も出て、本当に恐ろしかったです。再建後の丹原座がなくなると映画館は曙館だけになって、やがて曙館もパチンコ店になりました。テレビが普及すると映画館がなくなり、いろんな催し物も来なくなりましたが、それまではいろいろな楽しみがありました。」

 イ 商店街周辺の芝居小屋

 「昭和20年代ころ、長野(ながの)には佐伯勇さん(元近畿日本鉄道株式会社取締役会長)の生家の隣に長野座という芝居小屋があり、私(Aさん)は、よくそこへ歩いて芝居を観に行っていました。また、湯谷口(ゆやぐち)にある安楽寺というお寺には映画や芝居をする常設の小屋がありました。そこへフィルムと映写機が持ち込まれて上映された映画を、私は面白く観ていたことを憶えています。」

 ウ お旅所の思い出

 「昭和42年(1967年)ころまで、今の東予園芸の本所の辺りには福岡さん(福岡八幡神社)のお旅所がありました(図表1-3-2①の㋞、写真1-3-6参照)。当時、福岡さんの宮出しのときには、宮司さんが神社からお旅所まで馬に乗って来ていました。私(Bさん)はお供え物の係をしていて、宮司さんよりも先にお旅所に着いてお供えをしなければならないのに時折馬に追い越されてしまい、大変弱ったことを憶えています。大相撲の巡業は、丹原では小学校の運動場などでも行われていましたが、主に福岡さんのお旅所で行われていて、私が小学生のときに羽黒山と照国が巡業に来ていました。昭和42年ころに福岡さんはお旅所の土地を東予園芸に売って、新しいお旅所を福岡八幡神社鳥居の東に作り、45年くらい前にもとのお旅所の近くに東予園芸ができました。」
 「私(Hさん)が小学生のころ、今の東予園芸の近くの畜産(家畜商組合)で牛市が開かれていました。また、福岡八幡の秋祭りの子ども相撲でお旅所へ相撲を取りに行き、勝てば10円をくれました。お旅所には、大相撲のほかにサーカスもやって来ていましたが、そうした興行ができるくらいなので、お旅所はかなり広かったと思います。大相撲やサーカスがこちらにやって来たのは昭和20年代から30年代の初めころだったと思いますが、当時の丹原は活気があり、周桑の中心であったように思います。」

 エ 土曜夜市

 「土曜夜市は、昭和48年(1973年)から始まって20年以上続き、平成に入ってからもしばらくは開かれていました。今の七夕まつりは、テキヤ(業者)が通りの両側に店を出していますが、土曜夜市は、その店の目玉商品などを店の玄関のところに出していて、地元の商店街の行事という感じがしました。土曜夜市には、今の七夕まつりほどの人出はありませんが、近くに住んでいる人がたくさん来て、小さい子どものいる家では、家族連れで来ていたことを私(Hさん)は憶えています。」
 「商店街は1区から5区までに分かれていて、私(Bさん)の店は3区か4区に属していたと思います。土曜夜市では、提灯に火を点(つ)けて店の前に並べていて、区で綿菓子とかき氷を作る機械を買ったり、金魚すくいをしたりしていました。その後、商店街で土曜夜市に参加する人が一人、二人と減っていき、最後には開催できなくなりました。最近、かき氷を作る機械を修理して七夕まつりでかき氷を売ろうかと話しています。」

 オ 七夕まつり

 『広報さいじょう 2008年8月号』によると、丹原商店街の七夕笹飾りの歴史は大正時代初期にさかのぼり、昭和53年(1978年)ころから地域内外の芸能も行われて徐々に「まつり」としての形をあらわし、昭和56年(1981年)に「第1回丹原七夕夏まつり」として開催されたという(③)。
 「今の七夕夏まつりは、上町の人たちがやろうと言い出して始まりました。それまでは小さな笹に飾り付けをしていたもので、青年団で笹を切ってきてお店などに売っていました。今はそれほどでもありませんが、七夕夏まつりが始まって6、7年経(た)ったころ、きれいな街路灯ができたと思います。笹飾りは今年作ったものを翌年も使い回すので、一度作ったらそれほど手間はかかりません。今の七夕夏まつりには、新居浜(にいはま)や今治、松山など方々からお客さんが来ていますが、昔の七夕まつりは地元の商店街の行事といった感じで、そう遠くからは来ていませんでした。商店街の中でもそごうマートなどがあった西の方が賑やかで、中心は中町の方でした。名物は田野屋の飾り物で、これは今も変わりません。」

写真1-3-1 恵美須神社

写真1-3-1 恵美須神社

西条市。平成28年10月撮影

写真1-3-2 旧大寿館

写真1-3-2 旧大寿館

西条市。平成27年撮影

図表1-3-2 昭和40年ころの丹原商店街の町並み①

図表1-3-2 昭和40年ころの丹原商店街の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和40年ころの丹原商店街の町並み②

図表1-3-2 昭和40年ころの丹原商店街の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真1-3-4 現在の丹原商店街の町並み

写真1-3-4 現在の丹原商店街の町並み

西条市。平成27年撮影

写真1-3-6 福岡八幡神社

写真1-3-6 福岡八幡神社

西条市。平成28年10月撮影