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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 商業とくらし

 (1) 賑やかな商店街

ア 壬生川銀座

 「私(眞鍋和子さん)たちは新地商店街のことを『壬生川銀座』と呼ぶこともありました。それくらい、道沿いでは多くの店が営業をしており、買い物客が大勢いました。夏の土曜日には夜市が新地商店街を中心に開催されていて、本当に大勢の人が来ていました。農家の人たちは、ちょうど田植えが一段落したころで、親子連れでたくさん来ていたことを憶えています。当時、子どもはかわいい浴衣を着て商店街を歩いていたことが思い出されます。」
 「夜市では各商店が営業時間を延長して店を開けており、出店も多く来ていました。私(野口いち子さん)は金魚屋さんなど、出店の中でも商店の灯(あか)りだけでは不十分なところでは、カーバイド(炭化カルシウムと水を反応させて灯りを取るランプ)で営業していたことをよく憶えています。」

イ おかげん

 「壬生川では鷺森(さぎのもり)神社のおかげん(管弦祭)という夏祭りが7月に開催されます。この日の本通りでは人が溢(あふ)れて通れないくらい大勢の人で賑(にぎ)わっていました。当時は道路事情が悪く、自動車が今ほど普及していなかったので、祭りで開催される花火大会を見物するお客さんは、河原津(かわらづ)の方も吉井の方もバスで壬生川の営業所まで来て、そこから本通りを歩いて花火大会の会場である内港へ行っていました。松山で開催される椿さん(伊豫豆比古命神社のお祭り)での人出にも劣らないくらいの賑わいだったことを私(眞鍋和子さん)は憶えています。」
 「丹原の田野(たの)の方に住まわれている方は、乗り合いバスでおかげんに来ていたようです。また、壬生川の内港へ船で来て、船上から花火を観る方もいました。河原津に住んでいた私(野口いち子さん)も船に乗って内港まで来て、花火を観ていたことをよく憶えています。」
 「バスの営業所から内港へと続く道が、本町か本河原か本通りしかなかったので、どの通りでも人が大勢歩いておかげんへ行っていました。当時は自家用車を所有するということが少なかったこともあり、それだけ大勢の人がバスで来ていたのです。私(眞鍋和子さん)の父は昭和26年(1951年)に三輪トラックの免許を取得して購入していましたが、専ら営業用にしか使用していませんでした。当時、三輪トラックは『バタンコ』と呼ばれていて、製材所や運送店が業務用に使っている程度のものでした。自家用車を各家庭が所有し始めたのは昭和40年(1965年)を過ぎてからのことだと思います。」

 (2) 商売を営む

ア 製氷店

 「私(眞鍋和子さん)の店は氷の製造と販売をしています(図表1-2-2の㋐参照)。氷を作るための水は地下水を汲み上げて使い、その水を枠へ流し込み、その枠を塩カル(塩化カルシウム)が入っている水槽に落とし込んで氷にします。製氷店の作る氷が透き通ったきれいな透明の状態になるのは、水の撹拌(かくはん)を行っているためです。撹拌を行うことで水中の空気が抜け、氷が透明になるのです。
 製造した氷は商店や一般の家庭に販売していましたが、中でも鮮魚店がよく購入してくれていました。ほかに、上段に氷を入れて下段に入れた食品を冷蔵する仕組みの冷蔵庫を使っていた旅館やお寿司屋さんなどが氷をよく買ってくれました。壬生川で製氷店を営んでいたのは私の店だけだったので、電気冷蔵庫が各家庭に普及していくまでは相当な需要があり、仕事でかなり忙しい思いをしました。
 氷がたくさん売れていた時代には、御飯を食べる暇もなかったほど忙しく仕事をしていて、『朝起きたらすぐに仕事』という状態でした。特に需要が大幅に増す夏場は、夜中まで氷を製造する作業を続けなければ間に合いませんでした。できた氷は天井が高い大きな倉庫にきれいに積んで保管していました。高さがある倉庫だったので、中には氷を上に積み上げるためのエレベーターのような装置がありました。天井の高さまで氷を積み上げると、倉庫の中が一面美しいブルーに光っていたことをよく憶えています。忙しい時期には女性も子どもも関係なく、家族が総出で製氷の作業に従事していました。子どもは夏休みで海水浴へ行きたいのに、夏場で仕事が一番忙しいために連れて行ってもらうことができず、水着を買う必要がなかったほどでした。子どもは遊ぶためには先に与えられた仕事を全て終える必要がありました。仕事を手伝っていた私は普通の時間帯に寝ることができていましたが、両親は夜中もずっと作業をしなければ追いつかないくらいでした。」

イ 理容店
 「私(佐伯尚輝さん)の家は父の代から理容店を始め、私は2代目になります(図表1-2-3の㋑参照)。私の母の実家が丹原で理容店を営んでいたこともあって、父はそこへ弟子入りし、修行をして資格を取得したと聞いています。資格を取得した後の昭和12年(1937年)ころ、私がまだ3歳のころでしたが、父が壬生川へ来て店を開きました。私が父の跡を継いで仕事をしようと思ったときには、まだ理容師を養成する学校がなかったので、父から理容に関するさまざまな技術を教わり、国家試験を受験して理容師の資格を取得しました。
 昭和40年(1965年)ころはお客さんが多く、御飯を食べる暇もないくらいの忙しさでした。店の近くにはせとうちバスの営業所があったので、車掌さんや運転手さんなど、営業所の職員さんが散髪に来てくれていました。
 当時は店の開店時間を決めておらず、朝早く来たお客さんから、『早く店を開けて散髪してくれ。』と言われたら、その時間に開店するというような状況で、閉店時間は最後のお客さんの散髪が終わった時間になっていたので、夜遅くなってしまうと近くの銭湯の営業時間を過ぎてしまい、風呂に入ることすらできない、というようなことがありました。私の店の前には映画館(曙劇場)があり、映画を観に行くお客さんが入場前に店へ寄って、『映画が終わったら散髪してよ。』と言って映画館へ行き、上映が終わる夜10時や11時になってから散髪に来ることがあったので、最後のお客さんが散髪を終えて店を出るのが夜中の12時、というようなことがありました。当時は、『何時に閉店します。』などということは言えず、『営業時間は無制限』というような感じで営業をしていたのです。私の店では忙しいときには2、3人が店の中で待っている、というのが当たり前でした。散髪には時間がかかり、一人を仕上げるのに10分や20分ではできないので、一日に対応できるお客さんの数が限られてきます。それでも大勢のお客さんが来ていたので待ってもらうしかなく、店としてはお客さんの要望に応えるために開店や閉店の時間に融通を効かせなければならなかったのです。
 また、祭りや正月が近づいてくると、お客さんが店に詰め掛けていました。私にとって、お祭り自体は楽しいものでしたが、お祭りが開催されるまでの日々は、お客さんが朝から晩までひっきりなしに来て仕事が大変だったので、お祭りが近づくと、『いやだなあ』と思うようなことがあったことを憶えています。
 理容店でのサービスは当時も今と変わりませんが、現在の方がお客さんにとっては快適な空間と時間を過ごすことができると思います。当時は洗髪をするときには、お客さんに洗髪台まで移動していただかなくてはならず、かなり面倒を掛けていました。今は、洗髪できる設備が整った鏡台を使用しているので、お客さんは椅子に座ったまま、移動することなくリクライニングを倒して洗髪をすることができるようになっています。」

 (3) 日常のくらし

ア 商店の賑わい

 「当時はどの店もお客さんが多くて仕事が大変でしたが、商売をしている人たちはみんな儲(もう)けさせてもらったと思います。壬生川の商店街でも時代の流れで多少の店舗の入れ替わりがありましたが、店が倒産するというようなことは少なかったのではないかと思います。商店街には品揃(ぞろ)えが豊富なデパートがあり、お客さんが多くいましたが、商店街の個人経営の店にも顔馴染(なじ)みのお客さんが来て買い物をしていたので賑わいがありました。私(眞鍋和子さん)は、お馴染みさんというか、お客さんの方にも買い物をしやすい店、ということがあったのではないかと思います。
 通りは商店の灯りで日が沈んでも比較的明るく、夏場には店先で涼む大人の目があり、しかも車が通らないので、子どもは遅い時間まで外で遊ぶことができました。家の中では暑いので、大人は外で夕涼みをし、子どもも他に楽しみがないので、外に出て友だちと遊んでいました。
 商店街では夜の11時や12時になっても人通りがあって、下駄の音が『カラン、カラン。』と聞こえていたので、それくらいの時間まで営業をしていた店があったと思います。」

イ 有線電話

 「電話機にはダイヤルがなく、クルクルと回すレバーだけが付いていました。レバーを回して交換手を呼び出し、普通は相手の番号を伝えるのですが、この辺りでは屋号を言うとつないでくれていました。私(眞鍋和子さん)の店は屋号が新町(しんまち)屋でした。新町には古くは桑畑が広がり、養蚕業で栄えていたので、新町の辺りで商売をしていたようです。その後、壬生川での商業が盛んになったので、こちらへ移って来たという話を聞いたことがあります。新町の養蚕、国安の紙が栄えていたときには、壬生川よりも西側が商業の中心地だったようです。
 私が10歳のころ、昭和30年代は商売をしている家には電話がありましたが、一般の家庭にはあまり普及していませんでした。私の店では近所の方あてに電話がかかってくることがあり、そのときには、その近所の方を呼びに行っていました。お店でも電話が必要な店とそうでない店があり、私の家の製氷店のように外から注文を受けたり配達したりしなければならないような店には、早くから電話があったと思います。また、電話回線一つを甲と乙とに分けて2軒が使うという方式がありました。この方式の回線では片一方が電話を使っているときには、もう片方は電話を使うことができませんでした。
 各家庭に電話が普及したのは、農協が有線放送の部署を設置し、有線放送の設備を利用した電話が広がっていったためです。有線放送では毎日決まった時間に放送が流れ、学校からの連絡などを伝えてくれていたので、子どもを持つ家庭にはとても便利だったと思います。」

ウ 銭湯とテレビ

 「町中(まちなか)の家庭では、お風呂はどの家庭でも銭湯へ行っていました。私(眞鍋和子さん)の店の近くだけでも6、7か所ほど銭湯があったことを憶えています。当時はラジオで放送されていた『君の名は』が人気の番組だったので、放送が終わる時間になると一気に大勢の人が銭湯へ行っていました。銭湯へ行くときには、『服や下駄(げた)は新しいもので行ってはいけない。』とよく言われていました。『ボロを着て、古い下駄を履いて行け。』と言われたものです。特に下駄は新しいものを履いて行くと、お風呂に入っている間にほかの人が履いて帰って、お風呂から出たら自分の下駄がどこにもない、ということが多かったのです。
 昭和34年(1959年)、今の天皇陛下が皇太子のときに美智子さまと御結婚されましたが、私はその様子を銭湯に置かれてあったテレビで観ました。その後、昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックの時にテレビを購入する家庭が増えていったと思います。昭和30年(1955年)から35年(1960年)にかけては、さまざまな電化製品が登場してきた時期だと思います。アイロンはもちろんありましたが、炊飯器や掃除機が家庭に普及していき、その後テレビが普及するというような時代でした。」
 「私(山内さん)は五島(ごとう)列島(長崎県)の出身です。当時、学校にはテレビがあったので、よく観に行っていました。学校まで30分以上かかる道のりを、テレビを観るために一生懸命に歩いて行っていました。当時はプロレスが子どもにも大人気で、学校のテレビでプロレス中継を観たことをよく憶えています。
壬生川に住むようになった私の家には、浅間山荘事件(昭和47年〔1972年〕)が起こった日にテレビが入りました。その当日は外へ一歩も出ることなく、事件の中継を一日中テレビで見ていたことを憶えています。」

エ 鉄道を利用する

 「当時は国鉄の列車を利用する方が多く、通学や通勤の時間帯には、客車がお客さんですし詰め状態だったと言っても過言ではないほど多かったことを憶えています。私(野口いち子さん)は蒸気機関車がけん引する列車に乗って学校へ通っていました。大明神川下をくぐるトンネルに入ると、客車の中に蒸気機関車が出す煙が入ってくるので、すぐに窓を閉めなければならず大変でした(写真1-2-5参照)。
 また、線路に踏切が設置されると、今のように列車の通過に合わせて自動で遮断機が上下するのではなく、踏切傍の官舎に駐在している国鉄の職員さんが、手動で遮断機を下ろしていました。官舎には御家族が住んでおり、踏切の傍では奥さんが踏切を横断する人や車両に注意を促すための旗を振って列車の接近を知らせていたことを憶えています。」

参考文献
・ 愛媛県『県勢グラフ えひめ 1966』1966
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『周桑平野の地理』1968
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』1983
・ 東予市『東予市誌』1987
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
         『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 東予市『東予市30年の歩み』2004
・ 多賀郷土誌委員会『多賀郷土誌』2004
・ 壬生川郷土史研究委員会『壬生川郷土史』2009
・ 愛媛県市町振興協会『愛媛県市町要覧』2014


図表1-2-2 製氷店付近の町並み(三津屋本通り)

図表1-2-2 製氷店付近の町並み(三津屋本通り)

昭和40年ころの町並み(民家は表示していない)

図表1-2-3 理容店付近の町並み

図表1-2-3 理容店付近の町並み

昭和40年ころの町並み(民家は表示していない)