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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 農業とくらし

 (1) 終戦前後のくらし

ア 学校生活

 「戦時中、私(二神清一さん)は多賀国民学校(現西条市立多賀小学校)へ通い、終戦の時には高等科に在籍していました。戦時中の学校には必ず奉安殿が設置されていて、学校へ登校したときには、毎朝それに向かって頭を下げていました(写真1-2-1参照)。当時はこの地域にもこちらに住む親戚を頼って大勢の人が疎開で帰って来ていたので、学校は子どもの数が多かったことを憶えています。
 私が5、6年生のころには教科書すら十分に子どもたちに行き渡っておらず、先輩が使った教科書を譲ってもらい、それを大切に使いながら勉強をしていたものです。授業中、先生が黒板に書いたことを記録するにも鉛筆を1本しか持っておらず、必要なだけの帳面(ちょうめん)(ノート)がなかったので、十分に書き取ることができませんでした。さらに、字消(じけ)し(消しゴム)を持っていない上に、帳面の紙質が良くなかったので、書いた文字を消そうとして指にちょっと唾(つば)をつけてノートを擦(こす)ると、消えるどころか黒くなって汚れが余計に広がってしまうありさまでした。
 学校へは草鞋(わらじ)を履いて行っていました。作り方を親から教えてもらっていたので、学校から帰ったらすぐに自分で作っていました。当時は親が農作業などで一日中忙しく働いていたので、子どものために草鞋を作る時間をとることができず、作り方だけを教えてくれていました。藁(わら)で作った草鞋はすぐに破れ、二日間使うことができれば良い方で、雨が降ると草鞋が濡れてしまって使い物にならなくなっていたので、草鞋作りはほぼ毎日の作業になっていました。雨上がりの道を草鞋で歩くと泥を跳ね上げ、服が汚れていたことをよく憶えています。」

イ 地主制度

 「戦前は地主制度で、小作をしていた私(二神清一さん)の家では、間免(小作権)だけを所有し、底地(所有権)を所有していなかったので、『年貢』と呼ばれていた小作料を地主に納めなければなりませんでした。戦争が激しくなると、それに加えて供出としてお米を出さなければなりませんでした。この辺りでも大概の農家は小作での農業だったと思います。戦後に農地改革が実施されるまでは、底地を所有する農家の権利が強かったので、農地改革を機に底地を購入しようということで、小作を行っていた農家の人々が底地を持つようになったのです(写真1-2-2参照)。終戦後の生活では、食べるものが不足して大変でした。農家には自分たちで作った作物が多少ありましたが、農業をしていない人たちは、配給米で少しばかりの米をもらうだけだったようです。私の家は農業をしていたお陰(かげ)で多少ではありましたが、食べることについては楽だったと思います。」

ウ 農家同士の協力

 「農業では米と麦を作って農協へ出していました。当時と今とで農作業を比べると、農業カレンダー自体はそれほど変わりませんが、農業機械が導入されているかどうかということが大きな変化だと思います。農業機械が導入される前の農作業は、ほぼ全ての作業が人の手によるもので、田植えのときには家族が総出で苗を植えていました。また、田植えはどの農家も同じ時期に行うので、農家同士が手伝い合うという方法で行っていました。一人で広い田んぼの作業をすることは大変なことなので、地域の農家同士で協力し合うことが必要だったのです。
 私(二神清一さん)が子どものころ、稲作に用いる消毒薬がなかったころには、筒に油を入れて油滴を丁寧に田んぼへ落とし、油が浮いている田んぼの水を足で蹴って稲にかけていました。消毒というよりは、『油で虫が死ぬ』ということで、このような作業をしていました。
 風雨で稲が倒れてしまうと実入りが悪くなってしまうため、稲刈りの時期には台風の被害に悩まされたこともありました。稲刈りでは全ての稲を鎌で刈り、藁で結んで稲木にかけて乾燥させていたので、とても手間がかかる仕事でした。鎌を使った稲刈りは、腰を曲げ続けておかなければならず、体が痛くなることが当たり前で、しんどい仕事だったことをよく憶えています。」

エ 農作業の変化

 「普段、私(二神清一さん)は建設の仕事に従事し、休みの日に田んぼへ行って農作業をしていたので、ゆっくりと休むことができる日がありませんでした。当時は農作業用の機械が普及しておらず、作業に手間と時間が取られて休む暇がなかったのです。農業機械を購入するまでは、家で農作業のための牛を飼っていました。当時はどの農家でも牛が飼われており、牛を使って田を耕したり鋤(す)いたりしていたので、農家にとって牛はとても大切な存在でした。」

 (ア) 博労さん

 「当時は牛を自由に売買することができず、博労(ばくろう)さんから購入していました。博労さんにはそれぞれ担当の地区があったようで、『この地区ではこの博労さんを通して牛を売り買いする』というように決まっていました。博労さんは、自分が販売した各農家の牛の状況をよく把握しており、以前販売した牛が肉用牛として売れるころになると、『大きくなっとるけん、小さいのと替えんか。』と農家に声を掛け、買い替えを促していました。壬生川では牛市が開催されていなかったので、取引が盛んに行われていたときには、博労さんが尾道(おのみち)(広島県)まで子牛を買いに行っていました。私の家で飼っていた牛も、担当の博労さんが尾道で買い付けてきた牛でした。子牛を買って2年くらい世話をすると、肉用牛として高く売ることができるくらいに大きく成長するので、その牛を安価な子牛に買い替えることで農家も利益を上げることができていました。農家にとっては世話が大変だった牛も『利益を上げるための貴重な財産だった』と言えるのです。農家が世話をして大きくなった牛は博労さんが買い取り、ほかへ売って利益を上げていたようです。
 尾道で博労さんが買い付けた牛は、小さな貨物船のような船に乗せられて壬生川の港へ運ばれて来ていました。当時の港には尾道まで牛を買い付けに行くための貨物船が係留されていたことを憶えています。」

 (イ) 牛の世話

 「私(二神清一さん)の家の敷地には、牛1頭だけ飼うことができる小さな小屋がありました。1頭飼うだけでも大変だったので、複数頭飼うことはとても大変だったのではないかと思います。
 農家で飼っている牛は、牛小屋へ入れるととてもおとなしく過ごしていました。しかし、牛にも性格があって、おとなしい牛もいれば気性の荒い牛もいて、人に慣れていない牛は突然こちらへ向かってくることがあるので慣れるまでは危険でした。私自身も危険な目に遭って『恐ろしい』と感じたことがあり、他所(よそ)から来た牛を初めて扱うときには、危険な目に遭うことがないように万全の注意を払っていたことを憶えています。
 毎日の牛の世話は大変で、朝から牛を田んぼへ連れて行って作業をするときには、早朝から牛に餌(えさ)を食べさせておかなければなりませんでした。早い人は、朝の5時には牛に餌を食べさせていたと思います。私自身が若く、夜遅くまで起きていたこともあったので朝は眠たくてしょうがない状態でしたが、頑張って仕事をしていました。子どものころは朝早くから当たり前のように牛の世話をしていましたが、一人前の大人になったころから朝早く起きることが辛くなっていったことが思い出されます。牛の餌は牛小屋の傍(そば)で作っていました。牛小屋の横には藁を短く切ったものを溜(た)めておく箱があり、そこから藁を取り出して麦を炊いたものを少し混ぜてやれば良い方で、普段は藁に糠(ぬか)を振って草を混ぜるだけのものでした。当時、牛の餌は『ゾウブリ』と呼ばれていて、私が子どものころには、よく父親から、『おい、ゾウブリを食わせとけよ。』などと言われていたことを憶えています。餌を食べさせ、牛を田んぼへ連れて行くときには声を掛けながら歩かせていました。右へ曲がるときには『ヘシ』、左へ曲がるときには『ハシ』、止めるときには『ボウボウ』、再び歩かせるときには『ハイ』と声を掛けていました。牛は田んぼへ行くと何をすれば良いか分かっているようで、スムーズに動いていたように思います。 
 農作業は私にとってしんどい作業でしたが、牛にとっても重労働だったと思います。一日の作業が終わり、牛を連れて家の近くまで帰って来ると、牛がうれしそうに小屋へ駆け込んでいたことを憶えています。家が見えることで、牛にも『今日の仕事が終わった』ということが分かっていたのかもしれません。私の家では家族みんなで牛を大切に扱いました。私は父から、『牛は大事に使わないかん。牛は百姓の宝や。』と言われていたので、大切に育てていました。」

 (ウ) 農業機械の導入

 「農家には牛小屋のほかに鶏(にわとり)小屋があって、自家用の卵を取るための鶏が飼われていました。稲刈りの後、稲を扱(こ)いで出てくる粉米(こごめ)(精米するときに砕けた米)は農協へ出すことができなかったので、鶏の餌にしていました。
 牛を飼っていたのは昭和30年代までで、それから耕耘(うん)機などの農業機械が普及していきました。『牛の世話が辛い』と思うようになったころ、ちょうど耕耘機が普及し始めていたので、私の家でも早速に耕耘機を購入し、牛の世話から解放されたのです。農業機械はとても高価なものだったので、何軒かの農家が共同でお金を出し合って購入する場合と、個人が購入する場合とがあり、籾摺(もみす)りの機械は何軒かで共同で購入して順番に作業を行っていました。しかし、共同で機械を購入すると、ほかの農家と農作業の時期が重なり、使いたいときに機械が使えないことがあって不便でした。」

(2) くらしの中の風景

ア 交通

 (ア) 東伊予道路

 「現在の国道196号ができたのは私(二神清一さん)が30歳になる前のことで、当時は『東伊予道路』と呼ばれていました。東伊予道路には有料区間があり、休暇村(現休暇村瀬戸内東予)の入り口の辺りと三芳(現西条市)とに料金所があって、通行料金を支払って利用しなければなりませんでした(写真1-2-3参照)。この道路には周囲の田んぼへ続く細い道路がつながっていたので、料金所を避けて通行するためにそのような細い道路へ抜ける車もあったように思います。本来、これらの脇道は農作業のための道路ですが、料金所を避けて通る車の通行量が増えたことによって、道路近くの田んぼで農作業をされていた方は困っていたようです。」

 (イ) バス

 「東伊予道路が抜ける前、壬生川から今治方面へ行くバスは大正通りから三芳の方へ向かい、休暇村の前を通っていました。バスはボンネットバスが走っていた時代もありました。バスに乗るときには切符を購入する必要があって、私(二神清一さん)たちがバスを利用するときには壬生川の営業所から乗車していたので、そこで切符を購入していました。当時のバスには運転手のほかに車掌も乗務していて、車掌から切符を購入することもできました。そう再々バスに乗ってどこかへ出かける、ということはありませんでしたが、夏になると家族で桜井(さくらい)(今治市)へ海水浴に行っていたので、その際に利用していたことを憶えています。」

イ 商店街

 (ア) 電器店と映画館

 「東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)ころになって、家庭にもテレビなどの電化製品が普及していきました。そのころ商店街にあった電器店には通り沿いのショーウインドウにテレビが置かれていたので、大勢の人がそこでテレビ放送を観(み)ていました。私(二神清一さん)は電器店の前がテレビを観る人でものすごい人だかりになっていたことを憶えています。電器店にしても商品を売らなければならないので、商店街を行き来する買い物客に放送を見せていたのだと思います。私の家では電化製品を大正通りの個人営業の店で購入していました(写真1-2-4参照)。『電化製品はこの店』というような感じで買いに行っていたので、店もお得意さんとして販売から修理まで行ってくれて、地域密着型の『町の電器屋さん』というような店でした。
 テレビが普及していないときには、映画館へ行くことが多かったと思います。映画館は本河原通りと大正通りとが交わる角の辺りにあり、『曙(あけぼの)劇場』という名前で昭和40年代まではあったように思います。」
 「曙劇場では年に1回、子どもに観に来てもらうために料金を下げて怪獣映画などを上映していました。私(二神康さん)が小学生のときにはそれを楽しみにしていました。上映された映画の中でも、『ガメラ』や『大魔神』などを観たことをよく憶えています。
 また、私が子どものころには、すでに箱型の白黒テレビが家にあったことを憶えています。藤田まことが出演していた『てなもんや三度笠』やジャイアント馬場が活躍していたプロレス中継、子ども向けでは『鉄人28号』などをよく見ていました。」

 (イ) 子どもの世界

 「私(二神康さん)は壬生川小学校(現西条市立壬生川小学校)へ通いました。私が入学する5、6年前に私が住む地区が多賀小学校の校区から壬生川小学校の校区へ変更になったようです。当時の壬生川小学校は、校舎が木造の2階建てで、トイレは汲(く)み取り式でした。児童が一学年100人、全校で600人ほどだったので、子どもの数がとても多かったと思います。私が低学年のときには、給食で脱脂粉乳が出されていました。脱脂粉乳はおいしいものではなかったので、高学年になって牛乳が出されるようになると、とてもうれしかったことをよく憶えています。
 放課後や休日には友だちと新地商店街にあった商店へよく行っていました。駄菓子を買ったり、スマートボールのような、1回10円で遊べるゲームをしたりして遊んでいました。駄菓子では、イチゴの形をしたアメに一つ一つ紐(ひも)がついていて、その紐を引っ張って大きなアメ玉を当てるものがありました。大きなアメ玉は一つしか当たらず、当たるかどうかドキドキしながら紐を引っ張っていたことを憶えています。店内にはほかにもたくさんの商品があって、少ないお小遣いを何に使うかいつも迷っていました。1個5円程度からお菓子が買え、少ないお小遣いでも何種類か買って食べることができたので、店へ行くことがとても楽しみでした。
 また、当時は仮面ライダーのカードがとても流行(はや)っていて、そのカードでメンコのような遊びをしていたことを憶えています。カードはスナック菓子のおまけで付いていました。カードの裏に『当たり』と記されているとカードフォルダがもらえていたので、私も含めて当時の子どもたちはこのカードに夢中になっていました。中にはカードだけを取ってお菓子を食べずに捨てる子どもがいて、地域の方から学校へ苦情が入ったのでしょうか、先生から『食べ物を捨ててはいけません。大切にしなさい。』という指導があったことを憶えています。
 子どものころには商店街の駄菓子屋でお菓子を買って、神社で野球をして、狭い路地ではかくれんぼをしてと、友だちとよく遊んだものです。」

 (ウ) 壬生川工業高校サッカー部

 「昭和46年(1971年)、私(二神康さん)が小学生の時に地元の壬生川工業高校(現愛媛県立東予高等学校)のサッカー部が全国大会で準優勝しました。それを祝う記念の行事が壬生川駅前で開かれたことを憶えています。地元の高校の活躍の影響からか、次の年から小学校でサッカースクールが開講されるようになりました。当時、壬生川工業高校のサッカー部の監督さんや部員の高校生が小学生にサッカーを教えに来てくれていました。当時はサッカー部の生徒たちが部活動の練習でこの辺りを走っている姿をよく見かけていました。おそらく、高須(たかす)の辺りまで走って行って、海岸で練習をして学校へ帰っていたのだと思います。」

 (エ) 運動会の足袋

 「運動会が近くなると、私(二神康さん)は新地商店街の洋品店へ運動会用の足袋(たび)を買いに行っていました。当時の運動会は、靴を履いて競技に参加してもよかったのですが、大勢の子どもが足袋を履いて参加していました。足袋を履いて走ると、靴で走るよりも楽だったと思います。運動会のためだけに用意されていた足袋だったので、一日履いて運動会に参加すると、終わるころには破れてしまっていました。当時は子どもが全校で600人ほどいたので、運動会が大規模だったことをよく憶えています。」
 「私(二神里美さん)は旧西条市出身ですが、小学校2年生の運動会までは足袋を履いていました。足袋の生地は薄く、運動会一回でダメになっていました。着物を着るときに履く足袋のように、踵(かかと)の後ろを金具で留めるものとは違い、足首の部分をゴムで留めるようになっていました。ただ、足の指が普通の足袋と同じで、親指とそのほかの指に分かれていたので『足袋』と呼ばれていたのだと思います。私はこの足袋を運動会前に旧西条の商店街にあった大屋デパートで購入していたことを憶えています。運動会前になると足袋を販売するコーナーができて、そこに山のように積まれて売られていました。足袋の足裏部分には『23cm』などと大きさが記されていたので、自分の足のサイズに合ったものをその山の中から探し出して買っていました。当時は友だち同士で、『靴や裸足で走るより、足袋を履いて走った方が絶対に速い。』と言っていたことが思い出されます。」


写真1-2-4 大正通りの現況

写真1-2-4 大正通りの現況

西条市 平成28年12月撮影