データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 戦中・戦後間もないころ

ア 集団登下校

 「私(近藤勝志さん)は、登道商店街に住んでいました。国民学校の1、2年生のころ、昭和19、20年(1944、45年)ころは、日本は大変な状況になっていました。空襲を知らせるサイレンが市内にけたたましく鳴ると同時に、上空には軍用機が飛んでいました。そういう厳しい状況の中で、子どもたちは自分たちの身を守るために、自治会ごとに集まって集団登下校を行っていました。登道の子どもたちは、登道商店街の入り口の角(現伊予銀行大町支店の交差点)辺りに集合して、15人から20人くらいが一緒に登校していました(図表1-1-3の㋗参照)。午前中の空襲は、あまり経験がありませんが、午後、下校時になると校門近くに自治会ごとに集まって、班長さんの号令のもと下校をします。もし、下校中にアメリカ軍の爆撃機が飛んで来たら、班長さんから、『隠れろ。』とか、『逃げろ。』などと、号令が出されていました。実際に爆弾を落とされたことはありませんが、押し迫った精神状態の中で登下校をしていたことを憶えています。あるとき、小さな川の近くの裏道を通って下校していました。周りのほとんどは田んぼで、稲の藁(わら)が積み上げられていて、その藁ぐろの高さは小さな小屋くらいありました。すると、班長さんから突然、『隠れろ。』と号令が出されました。『頭隠して尻隠さず』という言葉がありますが、号令が出るとすぐに藁ぐろの中に頭だけを突っ込み、自分では体を隠したつもりになっていた思い出があります。集団登校の班長さんは、非常に威厳があって、『親の次に班長さんの言うことは聞かないかん』というような感覚でいたことを憶えています。」

イ 防空壕

 「現在、登道商店街の入り口前の道路は舗装されていますが、私(近藤勝志さん)が子どものころにはまだ舗装されていませんでした。今と比べると車の数は少なく、荷馬車が走ったり、牛が荷車を引っ張ったりして通っていたことを憶えています。その当時、登道商店街にはいくつあったのかは分かりませんが、空襲から身を守るための防空壕があり、長さがおよそ10mから15m、幅が2.5mから3mくらいでした。商店街は南北に長いのですが、その周辺も含めると防空壕が15前後はあったと思います。全てを見たわけではありませんが、空襲警報などのサイレンが鳴ると、大人も子どももほとんどの人が急いで防空壕へ入っていき、頭には『防空頭巾』という、小さい座布団のようなものを縫い合わせて作った頭巾を、落下物から頭部を守るために被っていました。」

ウ 校庭での野菜作り

 「戦中から戦後間もないころには、どこの学校でも校庭で野菜を作り、それを食料にしていました。大町小学校(現西条市立大町小学校)で多く作っていたのはカライモで、そのほかにもいろいろな野菜を作っていたことを私(近藤勝志さん)は憶えています。また、学校ではウサギや鶏(にわとり)などの生き物も飼っていました。」

 (2) 子どもの楽しみ
 
ア 子どもの遊び

 「私(近藤勝志さん)が小学生のころには紙芝居が来ていました。当時は、飴(あめ)を売って紙芝居を見せるという形態で、週に1回くらい、土曜日か日曜日に来ていた思い出があります。正月にはよく竹馬や凧揚げをして遊びました。また、バッタンやカンメンといって、紙に絵を描いたものを取り合う遊びをしたり、ラムネ遊びや、こま回しをしたりしました。こま回しというのは、お互いのこま同士をこすり合わせて、ずっと回っている方が勝ち、という遊びでした。」
 「ほかの地区の子どもたちは日が沈むと遊びは終わりでしたが、商店街の子どもたちはバドミントンをしたり、女の子はゴム跳びをしたりして遊んでいました。私(藤田正紀さん)はローラースケートが得意で、それを履いて店の中をぐるぐると回ったり、商店街で走ったりしていました。当時は舗装されている道路が少なかったので、舗装されている商店街は走りやすかったことを憶えています。また、家には電気製品のカタログがたくさんあったので、その紙で飛行機を作り、飛ばして遊ぶこともしましたし、家の倉庫が広く、テレビなどの商品が木枠に入れられてたくさん積まれていたので、それをジャングルジムのようにして上の方まで登ったり、商品を寄せて隠れ家のような基地を作ったりして遊んでいました。」

イ 西条祭り

 「大町には41の自治会がありますが、その内27の自治会にだんじりがあります。祭りが開催される10月15日の夜には、お酒や御祝儀のことを意味する花を頂戴するために商店街の各店を回っていたことを私(近藤勝志さん)は憶えています。のし袋には『御花(おはな)』と書かれ、その下に個人名や商店名が書かれていました。商店街の中でもよく流行(はや)っているお店は、だんじりとのお付き合いが上手でした。1年間仲良くしていると、『だんじりとあの店は非常に仲が良い』ということで店も流行るし、御花を取りに行く回数も増えていくのです。」
 「だんじりを担ぐためには、相当な人手が必要です。登道自治会では、現在だんじりの担ぎ手として100人くらいの登録があります。昔は登録者の半数以上が地元の人でしたが、現在は20人くらいになっています。現在、登道に住んでいる若い人は数名で、町内に住んでいる人の友人などの関係でここに来てもらっていますが、私(藤田正男さん)は、これから先のだんじりの運営は大変だろうと感じています。」
 「私(藤田正紀さん)が小学生のころには、友人と一緒に伊曽乃神社の宮出しへ行き、昼の御花集めからはだんじりに付いて歩いていました。子どもたちは、同級生だけでも男女合わせて10名くらいいて、学年の違う人を入れるともっと多くなりましたが、太鼓を叩(たた)くなど、いろいろな役割があったことを憶えています。」

ウ 商店街の子どもと夜市

 「私(藤田正男さん)が若いころ、夜市は6月の終わりからお盆までの土曜日に行われていました。夜市の日になると、店は朝の8時から夜の9時まで開いていて、露天商の人も店を出していました。各店ともその店先に商品を出していましたし、電気を点(つ)けて明るくしていたことを憶えています。私の店でも、夏には軒先からはみ出るくらい数多くの電気製品を出して、夜市を楽しむお客さんに商品を見ていただいていました。」
 「かき氷や金魚すくい、花火の店には人が多く集まっていて、歩くのが疲れるほどでした。私(藤田正紀さん)が子どものころ、昭和40年代には夜市になると、商店街の道の真ん中に氷の柱が置かれていました。夜市では、雑貨店や南海デパート、大屋デパートなどを回り、時折、友人と出会えることを楽しみにしていました。大町方面の子どもは、『今日は町へ行く。夜市へ行く。』と言って、商店街へ行くことをとても楽しみにしていたようです。大町小学校の近くの福武(ふくたけ)の辺りの友人も『子どものころ、親に商店街へ連れて行ってもらうことが楽しみだった。』と言っていました。私が小学校の低学年のころは親がお店で忙しかったため、夜市に連れて行ってもらったことはありませんでした。親から、『家も夜市じゃがね。』と言われて、面白くなかったことを憶えています。」

エ 登道商店街のラジオ体操

 「夏休みには、家の近くの登道商店街の裏の原っぱでラジオ体操が行われていたことを私(藤田正男さん)は憶えています。ほかの地区は朝6時か6時半からの開始だったと思いますが、登道は30分遅く始まっていました。昔は商店街のお店が夜8時ころまで開いていたため、親が朝早くから準備をすることができなかったことも、その理由の一つだと思います。ラジオ体操の当番の人が持ち回りでポータブルプレイヤーを原っぱへ持って行き、ラジオ体操の音楽を流していました。」

参考文献
・ 西條市『西條市誌』1966
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
          『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 公益財団法人愛媛県市町振興協会『平成26年度版 愛媛県市町要覧』2014