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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(4)市川団蔵 ―遍路道が最後の花道―

 「十数年前、ひとりの老遍路が四国八十八ヶ所の巡拝を無事に済ませ、深夜大阪行きの汽船から瀬戸内海に身を投げたのである。歌舞伎俳優の市川団蔵であった。彼は『父母の五十年忌を済ませしうえ、無縁の人までとむらいにけり』との遺書を残して自殺したのである。(①)」
 昭和41年(1966)6月5日付けの新聞各紙は、四国遍路の帰途、船上から瀬戸内海に消えた市川団蔵(84歳、本名市川銀蔵)の投身自殺を社会面のトップで4段・5段抜きの大見出しで報じた。

  ア 団蔵の死と生い立ち

 八代目市川団蔵(1882~1966)は東京に生まれ、明治18年(1885)4歳のとき、市川銀蔵と名乗って稚児役で初舞台を踏む。明治29年浅草座に三代目市川茂々太郎と改め、同30年代は初代中村吉右衛門等と子供芝居に務める。明治41年3月歌舞伎座「鈴ヶ森」で市川九蔵を襲名。大正14年(1925)には中村吉右衛門一座の客分となり脇役・老役を演じる。昭和18年(1943)10月、市川団蔵を襲名し、41年4月、歌舞伎座で引退披露した。時代物に適し、立役・敵役などを兼ね、枯れた芸風に持ち味があって人気も高かった。(②)
 実際、団蔵は「歌舞伎界の長老的存在として、渋いが舞台を引き締める芸風の持ち主(③)」で、長年の舞台生活が認められ、昭和40年春には勲五等旭日章を受け、また4月の引退公演の前には演劇部門の芸術選奨を受けた。その際のインタビュー記事は次のようであった。
 「『昨年勲章(勲五等旭日章)を頂きました時と同じように、このたびも何の功があって頂くのかわかりませんのです』(中略)正直のところ選奨を受けたことをそんなに喜んでいるようには見えなかった。(中略)四国巡礼後はかぶきの世界とは絶縁するといった。『今のかぶきは本当のお客を集める努力をしておりません。役者も器用な人はいても名人といわれる人はいませんし、これから出る可能性もありません』という言葉には、かぶきに対する絶望といったようなものが感じられた。(④)」なお、芸術選奨の副賞など30万円は早稲田大学演劇博物館に寄付してしてしまう。(⑤)
 八代目市川団蔵は、「『団蔵』の名の重荷を背負って生き続けた。(中略)『役者は目が第一。つぎが声。わたしはこんなに目も小さい。声もよくない。体も小さい。セリフが流れるように言えない。不適格です』というのが口ぐせだった。(中略)四十歳のとき、初めて引退を申出た。それから、なんども引退を要求した。しかしその都度、貴重なフケ役として引きとめられた。(中略)みずから『いい役者でない』と知り、引退ばかりを考えながら、(中略)『苦しいでしたか』と聞かれて、『はあ、それは もう。芝居というものは、たった一人が悪くても、芝居全体がこわれますから』と答えていたものだ(⑥)」との記事がある。引退が決まったとき、「役者は名前が大事。もうこの年(83歳)になりまして、舞台でそそうしてはいけませんからね(⑦)」と語ったという。
 その市川団蔵という名の由来について、今尾哲也氏は次のように述べている。

 市川団蔵の名は、初世市川団十郎の弟子団之助か、元禄十一年三月改名して団蔵と名乗ったのに始まり、以後、江戸~明治を通じて、団十郎門中、最も重い名前として尊ばれてきたし、また、代々の団蔵は、その名に重さを持たせるにふさわしい芸の持ち主で、時として、師家の後嗣をしのぐほどの実力を発揮してきた。(⑧)

 「〝老醜″で団蔵の名を汚したくない―晩年は、そのことばかり考えていたようだ。そして、引退興行の千秋楽の日、こんな感想をもらした。『これがすんだら、重い肩の荷が一度にスーッとして、いい気持でしょうね(⑨)』」という。
 また、六代目菊五郎の狂歌に「永生きは得じゃ 月雪花に酒 げに世の中のよしあしを見て」があるが、団蔵は、これをもじって「永生きは損じゃ 月々いやなこと 見聞く憂き世は あきてしまった」という狂歌をつくり(⑩)、また、周りの人にも見せていたという。(⑪)

  イ 四国を歩く

   (ア)巡礼が始まった

 何度か引退を申し出ながら聞き入れられず、83歳という齢を重ねて、やっと自由の身になれた。待ちかねたように団蔵は長年の念願であった四国遍路の旅を決意したのである。
 昭和35年(1960)ころから始まった日本の高度経済成長は、このころも依然として右肩上がりの急角度を描き、地方の道路整備も進んでいた。とはいえ、当時でも四国遍路は、1,450kmの長い道程で、バスでも14泊15日かかる行程(⑫)であり、高齢での一人旅には、家人や弟子たちの強い反対があった。だが、「『これまで生きのびてきたのも大師さんや世話してくださった人たちのおかげ。ただただ霊をなぐさめたい。巡礼途中、仏のもとへいくことになってもお大師さんと二人。なんの悔いることもない』と聞きいれなかった(⑬)」。また、出かける前に、巡礼が終わったら私の仕事も終わりだ、などと家人にも語っていたという。「四国への巡礼の道でわたくしの落ち着くさきをさがします(⑭)」とか、「巡礼の旅先で安住の地がみつかるかもしれない(⑮)」との言葉も残していたという。
 昭和41(1966)年5月1日朝、団蔵は広子夫人に「一か月半の予定で四国の巡礼をしてくる」と言い残して旅立った。紺の背広に15人の俗名や戒名の入っだ白い笈摺(おいずる)をはおり、登山帽、白い脚絆(きゃきん)に白の地下足袋、手には杖(つえ)1本の遍路姿であった(写真3-2-4)。
 その市川団蔵がまず到着した一番霊山寺での様子が、次のように報じられている。

 団蔵さんが四国遍路にくると聞いた芳村住職は、あらかじめ四国の地図、札所案内図と八十八か所の札所に納める般若心経の写経(八十八枚つづり)を送った。団蔵さんがきたのは一日午後五時すぎ。写経のお礼をのべたあと記念に清水焼きの湯のみ茶わんを置いていった。湯のみには市川家の紋どころ「三桝」をえがいてあり、「団蔵、八十五歳」と書きそえてあった。ぜひ寺に泊まってほしい―とのたっての願いを、団蔵さんは「わたしは気まま者、とても寺には眠れません」と笑って、同夜は同寺前の遍路宿に泊まった。(⑯)

 翌5月2日、寺の前にある遍路宿に、東京からはいてきた新しい革靴を宿の女主人に手渡し、「私はここへ帰ってきません。ほしい人があったら、あげてください。」と言い残して出発した。翌3日には、たまたま八番札所の熊谷寺で、朝日新聞社徳島支局の政井記者と言葉をかわし、十一番藤井寺まで一緒に歩いている(⑰)という。その政井記者は次のような記事を寄せている。

 わたしは、五月三日、四国霊場めぐり中の団蔵さんとわずか半日ではあったが、二人で歩いた。
 (中略)霊場めぐりは二十年来の夢だったこと、こどものときから体が弱かったが舞台で休んだのは三日だけだったこと―団蔵さんは淡々と語っていた。「お大師さんと二人だから途中で死ぬようなことがあっても少しもさびしくありません」ともいった。さとりきった〝仙人″の風情があった。「客のことばかり気にしなければならない役者か業を思い出したくないので、だれにも会いません」「わずらわしい東京へは帰りたくないのです」「いまは、人形のような舞台人生から離れ、生れてはじめて人間らしい自由を得ました」―。こんなことを語りながらゆっくり汗をぬぐっていた団蔵さんだった。(⑱)

 「ただ、困ったことには、世を捨てたはずの巡礼までが新聞ダネになる。カメラを持った人が追っかけてきては『市川団蔵さんですか』とたずねる。『いいえ、ちがいますよ』と答えながら、団蔵さんは自分の名声がうとましかったにちがいない。(⑲)」と時実新子氏は記している。だから、団蔵は遍路中、偽名を使っている。そこで新聞等で行程の明らかな部分のみ追っていく。

  (イ)団蔵遍路行の断片

 毎日新聞社の藤田写真部員は5月16日朝、松山市道後のタクシー乗り場で団蔵と出会ったという。

 前日の十五日、満八十四歳の誕生日をすごした団蔵さんは〝おいずる″をかけ、ツエを手にポツンとイスに腰かけていた。以前団蔵さんの舞台姿を見たことのある同部員は「市川団蔵さんですか」とたずねたが団蔵さんはそっけなく「いいえ、違います」とつっぱねた。こんどは本名の「市川銀蔵さんですか」と聞くと初めて「はあ、そうです」と戸惑い気味に答えた。その日、団蔵さんは松山市内の札所八ヵ所をめぐりに車で行くところだった。
 その翌朝、宿で団蔵さんは芝居話をしたあと「巡礼に出る前、辞世の歌のたぐいを読んだ。うまくはないが聞いてください」といい、キセルをくゆらしながら
「我死なば 人に迷惑 かけるなよ 仏頼まず さらば地獄へ」と、さらりといってのけた。そして旅の途中にこの歌を「我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」と変えたとも話した。(⑳)

 ここでは、前の辞世の歌の「迷惑」が具体化され、「仏頼まず」が消えている。これについて、今尾哲也氏は、「香典といい通夜といい、それらはともに死者と生者との最後の交わりを表す行為であり、古風にいえば、死者の復活を期待する手続きでもある。団蔵は、そうした交わりのすべてを断つことを願い、かつ、自己の復活を拒絶したのであった。『仏頼まずさらば地獄へ』とは、仏の救いを当てにしないという意味ではなく、むしろその救済を辞し、極楽への道を自らに閉ざして堕地獄を希求する決意を披瀝したものと読み取れる。従って、『仏頼まず』も『さらば地獄へ』も、いずれも同じ意志の表れであるところから、改作では前者を削り、自己の意志をより明確に伝え得る後者のみを残したものであろう。(21)」と解説している。
 その松山での状況について、悲報を聞いた団蔵の長男の敏雄さんは記者会見で、「遍路の途中、倒れるならしかたがない、と家人とは話し合っていたが、自殺する原因は思い当たらない。地下たびをはきなれないので足の指を痛め、道後温泉に一週間いたようだが、旅先から何回か元気なたよりもあった」と語り、奥から持ってきた5月18日付けの手紙には、「伊予がすりを送りたいと思って見て回ったが、いかにも安っぽいので、宿の奥さんがいっしょに見てくれ、七反買って送った」と夫人やお孫さんたちに思いを寄せ、せわになった土地の郵便局長らに自分のブロマイドを送ってやってほしいと指示したこまかい心づかいがみられる。(22)これまで、団蔵は旅先からみやげものを送ってきたことはなかった。夫人たちは「どうした風の吹きまわしかしら」と首をかしげていたという。(23)
 5月24日には、巡礼の途中、愛媛県西条市の湯之谷温泉に団蔵の姿が見られた(24)との記事がある。
 同26日には、愛媛県川之江市から香川県に入り、「やっと念願がかないました。その日まかせの巡礼を楽しんでいます(25)」と語り、「私は他力本願はきらい。そのため自宅に遺言書も置いてひとりで四国巡礼を思い立ち、お世話になった故人のめい福を祈り続けてここまでやってきた。二十年来の願いもかない、これで一生の心残りはない(26)」と話していたという。
 5月30日、団蔵は結願所の大窪寺に姿を現した。「四国巡礼で心の洗たくができた」とか「ぼだいをとむらったいま長生きしてよかったと思う」と語り、「『余生を静かなところでおくりたい』ともいった。すっかり念願をはたしたようなはればれとした表情(27)」で下山したが、「カブキ界の醜さにあいそがつきた。東京がいやになった。巡礼がすんでも行くところは決めていない。私はこれで自由の身だ(28)」とも漏らしたという。
 この団蔵の遍路行について、山本和加子氏は、「遍路中、団蔵は戒名・俗名をずらりと書いた白衣を着て巡拝をつづけた。ある人が『平服のほうが心静かに参拝できるのではないか』と問うと、『亡くなった人たちの戒名、魂を背負っての遍路こそ命だ。現在私が在るのはそれらの人たちのおかげ。それを知るのが四国遍路です』と答えたという。何とも壮絶な遍路行である。(29)」と述べている。

  ウ 一瞬のくつろぎの小豆島

 四国八十八ヶ所を巡り終えた団蔵は、「一番へお礼参りしたい」と言ったが、「小豆島にも札所がある」と教わり、高松から小豆島に渡った。(30)その小豆島八十八ヶ所は四国八十八ヶ所をまねて小豆島に設けられた八十八ヶ所の巡拝所で、その結願所「楠霊庵」に団蔵は6月2日に詣(もう)でている。
 5月30日消印で団蔵は家族にあてて最後の手紙を出している。その手紙には、「けさ屋島を出ましたが、山下にてサンケイ記者三人に会い車にて八十五、八十六、八十七、八十八番まで行き巡拝は終りました。これからは自由なので、只今小豆島まで来ました。今度は長生したので徳だと思いました。父母の五十年忌も済ませし上、無縁の人までとむらいにけり。三十日後六時、小豆島土ノ庄雅竜園にて銀座(31)」と書かれていた。
 『小豆島の団蔵さん』によると、5月31日の昼、最後の宿になった播磨灘を望む「たちばな荘」に「一晩お世話になります」とやってきて、6月3日まで3晩も過ごした。団蔵の泊まった「松の間」は6畳一間に板の間のついた小さな部屋。この窓からみえる瀬戸内海がよほど気にいったらしい。ここで団蔵はほとんど仲居さんの手をわずらわさず、朝6時に起きてフロに入り、持参の文庫本を読んだり、海岸沿いの松林などを散歩し、夜の食事には、好きな酒2本に刺身を添えてもらい、一人で晩酌を楽しんでいた(32)という。そんな団蔵を、新聞の写真で団蔵さんに間違いないと女中たちがさわぎ出し、サインをほしがったが、あまり話したがらぬ風なので遠慮させたと宿の経営者は言う。(33)
 この小豆島で3泊した団蔵が何を考え、何を思ったかは分からない。ここで団蔵は死を決意したのだろうか。東京を出る時から、二度と帰らない予感があったのかもしれない。
 宿を出た団蔵は3日午前8時半ごろ、神戸行きの関西汽船の昼便の一等船室の切符を買い、乗船前に休んだ内海町坂手港前の旅館小豆島荘には、昼前に来て食事をし「郵便局に小包を出す」といったん出かけ、午後2時ごろから寝ていたという。団蔵が島の郵便局から東京へ送った小包の中には、油性インキで書きつけた例の辞世の歌が入っていた。
 団蔵は夕刻「夜の便にする」と言い、一等船室が満席のため、特別二等切符に取り替えた。同船の乗船キップを買ったのは5人で、出港後も「坂手から5人乗船」が確認されている。航海中はかなり雨が強かったため、船室を出て甲板に立った老人の姿を誰も見ていない。
 団蔵が船から投身したらしいと気付くのは、山水丸が大阪の弁天埠頭に着いてからである。特別二等の船室には、市川とネームの入った紺の背広上着、中折れ帽、レーンコート、ロンジンの懐中時計、角川文庫本『顔・白い闇』などが残されていた。財布の現金は1万2千円余。「この金を費用にあててください」と書いてあった。(各新聞紙面のまとめ)
 ただ後に分かることであるが、たちばな荘の宿帳には「横浜市尾上町3ノ15 市川広三(75)」と、乗船名簿には「熱海市西山155 市川広三(65)」と偽名になっていたことである。団蔵の住所氏名は「東京都葛飾区鎌倉3丁目 市川銀蔵」である。
 団蔵の遺留品を確認に来た長男の市川敏雄さんは、その後小豆島へ渡った。その折の様子を要約すると、おおよそ次のようである。(34)
 小豆島への途中、静かな海面を見ながら「どうしてもここに父が沈んだとは思えない」と敏雄さんは漏らしていたが、小豆島のおだやかな自然に接して「やっと父は死んだのだと自分にいいきかせることができた」とうなずいていた。団蔵は「わたしが死んでも墓はいらない」と漏らしていたそうだ。都会のわずらわしさをのがれて、旅に出た団蔵は、巡礼の日程も終り、思い残すこともなく、小豆島にたどりついた。そして、この自然のふところで、満足しきった心境になり、海に飛込めば、葬式もいらない、人々もいつかは自分をわすれるだろう―と、死を選んだのではないかと敏雄さんは推測している。
 今、小豆島たちばな荘の門内には、勘亭流で書かれた「八代市川団蔵之碑」(写真3-2-5)が立っている。
 今年(平成12年)も、金毘羅歌舞伎を終えた一行は、この場で団蔵の追善供養を行ったという。芸道に徹して80年もの長い間打ち込み、しかもその半分は老け役で通してきたという歌舞伎界にとって驚異的存在だった老優が、最後に自ら死を選ばなくてはならなかった背景は何だったのか。
 河竹登志夫氏は、「だれにもわずらわされることのない浄土への巡礼の日々―それは何十年、ワキ役として生き抜いた老優の、生涯最良の幾十日だったのかもしれない。(35)」と団蔵の遍路の日々を推察している。今尾哲也氏は、「思えば彼の生涯は、団蔵の家に生まれ、団蔵と名乗らざるを得なかった自分を呪い続けた生涯であった。その生涯の果てに、彼は、遍路の旅を地獄の道行に変え、極楽往生の願いを堕地獄の願望に変えて、我と我が命を断ったのである(36)」と言い、山本和加子氏は、「挫折した人の、再生を願う遍路行もあれば、遍路結願を果して、その充足感で自分の人生の終焉を飾ろうという遍路もいる。(37)」と記している。




① 前田卓「巡礼―死への旅立ち」(『大法輪』p. 141 1978)
② 野島寿三郎編『歌舞伎人名事典』p. 104 1988 及び藤田洋「市川団蔵」(『日本人名大事典現代』p. 69 1990)による。
③『サンケイ新聞』昭和41年6月5日付
④『朝日新聞』(夕刊)昭和41年6月6日付
⑤(『読売新聞』昭和41年6月5日付)及び(前出注④)による。
⑥『朝日新聞』昭和41年6月5日付
⑦ 前出注⑥
⑧ 今尾哲也「市川団蔵の堕地獄願望」(『大法輪』p. 124 1979)
⑨ 前出注⑥
⑩ 前出注⑥
⑪ 前出注③
⑫『毎日新聞』昭和41年6月5日付
⑬ 前出注③
⑭『読売新聞』昭和41年6月5日付
⑮ 前出注⑥
⑯ 前出注③
⑰ 早坂 暁「市川団蔵」(『遍路国往還記』p.46 1994)
⑱ 前出注⑥
⑲ 時実新子『時実新子のじぐざぐ遍路』p.11 1991
⑳ 前出注⑫
(21) 前出注⑧ p.125~126
(22)『愛媛新聞』 昭和41年6月5日付
(23) 前出注⑥
(24) 前出注④
(25) 前出注⑭
(26) 前出注(22)
(27) 前出注③
(28) 前出注⑫
(29) 山本和加子『四国遍路の民衆史』p.254 1955
(30) 瀬戸内海放送『四国八十八札所 歴史の旅』p.6 1972
(31)(前出注⑭)及び(前出注⑥)による。
(32)『朝日新聞』昭和41年6月6日付
(33) 前出注⑥
(34) 前出注(32)
(35) 河竹登志夫「市川団蔵をしのぶ」(『高知新聞』昭和41年6月6日付)
(36) 前出注⑧ P.126
(37) 前出注(29) p.254

写真3-2-5 市川団蔵の碑

写真3-2-5 市川団蔵の碑

小豆島たちばな荘にて  平成12年11月撮影