データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)故郷出奔

 ア 中司亀吉と中務茂兵衛義教

 四国遍路280回という前人未到の巡拝度数を記録し、道標石建立230余基といわれる中務茂兵衛だが、その名が何時から使われ始めたものか、未だに明らかではない。「中務」の呼び方についても、「なかつか」と「なかつかさ」二つが混用されている。鶴村氏は「中務家は男運に恵まれず、ウメ子より三代にわたって婿養子となっている。なお中務は明治くらいより中司(なかつか)とも称し、茂兵衛も後には両方を使用しており、遺品にそれらを見ることができる。現在は中司姓を名乗っている。(⑤)」と記し、中務茂兵衛義教(なかつかもへえぎきょう)とルビを振っている(⑥)。鶴村氏編集による中務茂兵衛著の『四国遍路略縁起道中記大成』(明治16年〔1883年〕刊)の序文を見ると、「中務(なかづかさ)行者」とルビを振っている。また奥書の編輯(へんしゅう)人は「茂兵衛事 中務亀吉」となっている。また村上節太郎氏は中務(なかつかさ)茂兵衛とルビを振っている(⑦)。これについては、茂兵衛の生家(山口県大島郡久賀町椋野)を継承している中司善子さん(⑧)は、次のように話している。
 「昔から『なかつかさ』が本当で、『なかつか』ではありません。『なかつかさ サン』の『さ』の繰り返しが言いにくいから『なかつかサン』となるんです。学校ではむしろ『なかつかサン』と言われましたかね。
 『中務』と言う文字は、茂兵衛さんが勘当されて家を出て、もう二度とは郷里に帰らんつもりで、すべてを新しくしようと思って変えたのか、とにかく茂兵衛さんの時からこの字が出るようになりました。でも本家は、昔も今も全部『中司』です。だから椋野には『中司』はあっても『中務』を使っている家は一軒もありません。
 『茂兵衛』という名も、やはり『亀吉』が四国へ行ってから、初めて茂兵衛と言う名前が出来たんです。自分で付けたのか、何からそういう名になったのかは知りませんが、それまでは本名『亀吉』ですから。」
 彼の残した大正8年(1919年)の諸日記の表紙には、「大正8年旧正月元且 本家 中司氏」と記され、氏名として、「中司亀吉義教 通名 茂兵衛事日本国中通りぬけ。大正8年元長」と記されているという(⑨)。大正9年の諸日記の表紙には、「大正九年正月吉日 諸日記 本家 中司氏」とあり、裏表紙には「中司亀吉 所持」と書いている(⑩)。また、同9年の日記の中に、「通名日本国中(中略)中司茂兵衛義教で通りぬけ候 事本名ハ 中司亀吉 当年76才巳ノ年」と書かれている(⑪)。あるいは「通名前・茂兵衛義教として日本中へ響き申し候」と記した手紙を、「中司亀吉拝 当年70才」で、本家の兄嫁や姪宛(めいあて)に出している(⑫)。「茂兵衛は通名」で、「本名は中司亀吉」という意識を明確に持っていたのであろうか。
 喜代吉氏は、「中司亀吉から中務茂兵衛に改名したのは明治14年もしくは15年の初頭と思われます(⑬)」と記し、明治15年(1882年)の松田俊順(⑭)(茂兵衛の師僧)が用いた「中務茂兵衛」に注をつけて、「この使用例(明治15年)が最初の事例となります(⑮)」とも記している。また、「茂兵衛は本名中司亀吉であるがどうした理由でか、四国ではよく中務を用いている。得度前に師僧俊順が仮の名茂兵衛を付け、得度に際して僧名を義教にしたのである(⑯)」と書いている。ここで得度に際してというのは度牒(どちょう)(得度して僧侶になったことを証明し、本人に交付した公文書)を受けたときをさすのであろうか。茂兵衛が「度牒」を受けたのは明治24年10月20日である。このとき、「法名 義教」と記されている。鶴村氏は、茂兵衛は明治10年に得度し、明治24年に法名義教をいただいていると記している。鶴村氏の言う得度とは、履歴書に記された、明治10年の松田俊順による諸真言伝受を指している。
 ところが喜代吉氏が、『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並に金倉寺中司文書』の中で示している資料には、松田俊良(俊順の弟子、明治18年より金倉寺住職)の書いた明治21年7月21日付けの文書の中に、「周旋人中務茂兵衛義教」と記されている(⑰)。また喜代吉氏が紹介している220基の茂兵衛道標石(⑱)によると、明治19年の八十八度目の道標石には、「義教」の名は1基も刻まれてないが、明治21年の百度目の道標石には「義教」の名が刻まれているものが多い。このことから、疑問も含めながらではあるが、次のようなことが言えるであろうか。

   ○ 中務茂兵衛は通り名であり、本名は中司亀吉である。
   ○ 「中務」はもともとは「中司」であり「なかつかさ」と呼んでよいのではないか。
   ○ 中務茂兵衛と名付けたのは松田俊順らしく、それも明治14・15年のころであろうか。
   ○ 法名義教の名が明治24年に度牒を受けて以降に使われているのは当然であるが、それ以前にも使用されている資料
    が存在する。このことと得度や度牒との関係をどう考えるべきかは、今後の課題である。

 なお本節では、遍路人としては、通り名の「中務茂兵衛」と記すことにする。喜代吉氏が紹介している茂兵衛の道標石220基を調べてみると、「中務」と刻しているものが184基、「中司」は24基、不明なものが12基あり、80%以上が「中務」である。名の方は、不明分以外すべて「茂兵衛・茂兵ヱ」等であって、「亀吉」は1基にも刻されていない。

 イ 出自と生家

 中司亀吉(後の通り名、中務茂兵衛義教)は弘化2年(1845年)4月30日、周防国大島郡椋野村(現山口県大島郡久賀町椋野)に、父次郎右衛門、母ヲフミの3男として生まれ、長兄に柳蔵、次兄に林吉がいたという(⑲)。
 ところで、茂兵衛の生年については、弘化2年と同4年(1847年)の2説がある。
 最初に出されたのが、鶴村松一氏や村上節太郎氏による弘化4年説である(⑳)。明治24年に、「度牒(どちょう)」を受ける為に提出された「履暦(歴)」書によれば、生年が「弘化四年巳四月三十日」となっている。それに基づいての説である。それに対して、喜代吉氏は弘化2年説を唱えている(㉑)。その理由として、次のことを挙げている。

   ① 「履暦」書の「巳」に注目して、弘化4年は未(ひつじ)年であって巳(み)年ではないこと。弘化以降明治まで、嘉
    永・安政・万延・文久・元治・慶応と短い期間の元号が目まぐるしく変わっているので、元号年よりエトで記憶したほ
    うが間違いが少なかったのではないかと思われること。巳年は弘化2年に当たること。
   ② 茂兵衛の日記に「大正11年正月、当78歳」とあり、逆算すれば弘化2年の生まれとなること。
   ③ 中司家の除籍原本の抄本に、「亀吉 出生 弘化貮年四月晦日生」とあること。

 その他にも、大正9年の茂兵衛の日記に、「事本名ハ 中司亀吉当年76才巳ノ年」とも記されている。本節では、弘化2年説を採ることにする。したがって鶴村氏の書いた年齢より2歳年上として扱う。(本節での年齢は数え年である)
 父は亀吉14歳の安政5年(1858年)、母は亀吉22歳の慶応2年(1866年)に亡くなった。父の死後兄の柳蔵が26歳で家督を継ぎ、亀吉は、成人するまで兄の世話になったという。鶴村氏は、茂兵衛が生まれたころの中司家について、「当時の中務家は、大地主で旦那様と呼ばれ、下女中・上女中が置かれ、他の土地を通らずに用が足せられ、年貢米も数百表もあり、三つも四つも土蔵があったといわれる。(㉒)」と記し、さらに言い伝えとして、先祖は「陶晴賢の家臣で山口辺りにいたが、厳島合戦で毛利氏に敗れ、屋代島の安下庄辺りに上陸、山越えをして椋野にきた(㉓)」と述べている。現在、茂兵衛の生家中司家を守っている中司善子さんは、先祖のことや現在地に住むに至る経緯について、鶴村氏の記録と同様のことを話してくれた。

 ウ 故郷出奔

 履歴書によると、亀吉は慶応2年(1866年)3月、22歳のとき、故郷を捨てて遍路に身を投じたとされている。なぜそうしたかについてはよく分かっていない。ただ白木利幸氏は「亀吉は、村娘との結婚に反対されて、柳井の遊郭に入り浸るようになった。そこの遊女から、遍路や弘法の話を聞いたことが遍路に出た主な原因といわれている(㉔)」と書いている。また鶴村氏も遊女からの話の代わりに「のち、考えることあって」と記し、同様のことを言い伝えとして記している(㉕)。さらに中司善子さんは、母から聞いた話として、「茂兵衛がなぜこういうことをしたかについては、母からよく聞かされました。ここの学校のちょっと向こうに、すごい美人の娘さんがいたんですって。その人が好きだったんでしょう。19か20歳ころだと聞いてます。ところが、親兄弟に反対されて、それでぐれてね。家から大金持ち出しては柳井の遊郭に入りびたりで、番頭が迎えに行かないと帰らんかったそうです。そういうことが何回かあって、茂兵衛の父が癇癪(かんしゃく)を起こして『お前は勘当だ、出て行け』と言うことになったんじゃそうです。そういうことがあって、勘当を受けて出たので、名前を変えたり、島へは絶対に帰らんぞと言うことになったんでしょう。勘当したのは父と聞いていますが、年齢的に合わないから兄だったのかもしれませんね。」と語ってくれた。この結婚反対について、鶴村氏は「中務家は大地主で、庄屋として格式も高く、結婚についても相当に家柄を重く見たものだろう。(㉖)」とも記している。
 出奔の原因の要素として、鶴村氏は、幕末の勤皇の志士で、後に奇兵隊軍監として活躍した従兄弟の世良修蔵の存在を挙げ、彼に刺激を受けた茂兵衛が、「月性(修蔵の師)に意見され目が覚めて一大発心したとも思われる。(㉗)」と推論し、村上護氏も世良修蔵の存在に触れて「直接の交渉はなかったようだが、思想と行動において、強烈に影響されるところがあったのではないか(㉘)」と述べているが、推論の域を出るものではなく、茂兵衛自身が思いを書き残したものでもない。