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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)徳右衛門の作善行

 ア 徳右衛門丁石

 (ア)丁石建立発願

 武田徳右衛門が丁石建立を何年に始めたか、確たるものはない。ただ寛政6年(1794年)に丁石建立を発願し、文化4年(1807年)に成就したと墓石には彫られている。四国遍路については、「ヲイシ」の亡くなった寛政4年から丁石建立発願までの間に既に何度も重ねていたと思われる。
 その丁石建立発願については、「丁石の建立趣意書並びに寄附帳」が徳右衛門の子孫の武田家に現存していると龍田宥雄氏は記している(⑰)。喜代吉榮徳氏が『四国遍路道しるべ付茂兵衛日記』に記している「町石勧進代舌(⑱)」にも丁石建立の趣旨が述べられている。この趣意書と関係があるのだろうか。

       町石勧進代舌 (作礼山印)
   抑四国八十八ケ所の来由井高祖弘法大師の御霊験は、古き文に数々説きはへ志かのミならず御利益の広大なる事ハ世の人
  の志る所なれハ、拙き筆の彩どる所に阿らず。されバこそ星かわり物うつるといへども、参詣の人々日々月々にい屋満し、
  信心の輩そのかずを志らず。このゆへに所々に道志るベハありといへども、只恨ハ道の里数の委しからざることをうれふる
  人多し。是によって高祖の尊像を上にすへ、長ヶ五尺の町石を造立し霊場に立置んことを希といへども、力ともしければ只
  願八十方有心の御方、一紙半銭にかぎらず浄財を我願海になげうって、早々此願を成就せハ、禍を千里の外にはらひ福ハ潮
  のみちくるがごとくならんと志かいふ。
                        作礼山仙遊寺

                             天尊題(印)
       寛政六甲寅歳正月吉日
         願主  朝倉上村  徳右衛門

 徳右衛門が丁石建立を思い立ったのは、前出の「町石勧進代舌」によると、「道の里数の委しからざるをうれふる人多し」と感じ取ったからである。徳右衛門は地理もわからぬ遍路を続けるなか、多くの道しるべに助けられたはずである。同時に方向はあれども、次の目的地まで距離や時間の予測の立たぬことへの不安も覚えた。だから彼は丁石建立に当たって、必ず次の札所までの里数を入れている。
 「里数がわかれば目的地(札所)への到着時間が予測できる。それはまた宿の確保にも影響する(⑲)」からである。
 彼自身が自らの心を癒し、愛児の菩提を弔うために始めた旅ではあったが、実に多くの人に出会い、その人たちの悩みも耳にし、自らの苦悩や思いも語ったであろう。「参詣の人々日々月々にい屋満し、信心の輩そのかずを志らず」というほどに多い遍路人のために少しでも旅することの憂いを除く必要をしみじみ感じた。それが丁石建立発願となった。自分が救われることから、遍路の中で人のために生きる術を見つけたのであろう。
 丁石建立に当たった徳右衛門は、「自ら多額の浄財を喜捨するのみならず、十方の信者に呼びかけ、施主を募り、石屋に丁石を注文し、自ら指揮して車で丁石を運び、或いは又、船便で運搬建立するなど、農繁期を除いては、殆んど寄付勧募と丁石建立に専念」し、寛政6年の発願以来13年を要して、文化4年(1807年)に大願成就したという(⑳)。また、村上節太郎氏は、「記録によれば、寛政十二年(1800年)には石屋で造った道標二十七本を船便で阿波に送っている。(㉑)」と記している。
 また丁石の右側面には、多くは施主名が刻まれているが、中には施主名が刻まれていないものがある。梅村氏は、これらは徳右衛門が私財を投じて自らが施主となったものであろうと推測している(㉒)。
 私財を投じ、時間を費やし、施主を募り、自ら運搬にあたるなどその建立に当たっての奔走ぶりは目を見張るものがある。それは四国遍路する人々への作善行であるとともに、自らの心癒された四国遍路への報恩行であったのかもしれない。

 (イ)徳右衛門丁石の確認数とその特徴

 喜代吉榮徳氏が1987年の時点で、確認した徳右衛門丁石数は102基としている。その内五基は喜代吉氏が徳右衛門丁石とは確定しかねるものだと云う(㉓)。
 ただ、喜代吉氏は確認数を記しているが、それぞれの丁石の詳細については示していないので、梅村氏との対比ができず、両者の確認した丁石の重なりが不明である。いずれにせよ100基以上が確認されており、研究の日が浅いだけに、今後も発見される可能性はあると思われる。
 前出の「町石勧進代舌」によると、丁石を霊場に設置しようと記されているが、梅村武氏の『武田徳右衛門丁石』に掲載されている「徳右衛門丁石一覧(㉕)」によると、霊場で確認されたものは93基中36基である。梅村氏は「伊予の国だけで見る限りでは、一里ごとを目安にしていたようにも思われる。(㉖)」と記している。例えば、四十三番明石寺から四十四番大宝寺までの間で、「これより菅生山迄弐拾壱里」を始めとして、20里、17里、12里、10里、9里、8里、7里、6里、4里、3里と刻した丁石が残されている(㉗)ことなどからの推測であろうか。「町石勧進代舌」は徳右衛門の願いを、五十八番仙遊寺、41世住職天尊上人(㉘)が代って書いたものであり、実際は建立の過程で、霊場への設置という最初の方針が変化したことも考えられる。
 丁石の形状と建立場所については、「高祖の尊像を上にすへ、長ヶ五尺の町石を」霊場に「立置んことを希」ったと「町石勧進代舌」には記されている。この丁石の規格については、『今墾(いまばり) 第14号』に徳右衛門の後裔(こうえい)武田徳夫氏方に残る『道しるべ丁石建立寄付帳』の表紙に次のようなことが記されているとして紹介されている。

   丁石は「土与り上長サ五尺、土与り下壱尺二寸入、ハバ八寸、つみ七寸」とする事。
   丁石には「弘法大師尊像」を刻むこと、「何寺迄是より何里」と書くこと(㉙)。

 この引用文と「町石勧進代舌」と合わせてみると以下のように考えられ、徳右衛門が丁石建立にあたって意図した特徴は、かなり明確なものであったようだ。

   ○ 弘法大師の尊像を据え、何寺まで何里と次の札所までの距離を明記する。
   ○ 大きさは地上部の高さ5尺(約150cm)、正面の幅8寸(約24cm)、奥行き(厚み)7寸(約21cm)である。
   ○ 各霊場に建立する。

 しかし、これはあくまで基本的な目安であると思われる。例えば高さも90cmから190cmほどの丁石もあると報告されている(㉚)。実在の丁石の最大の特徴は、写真3-1-13のように、正面上部に種子(しゅじ)(密教で、仏菩薩などの諸尊を標示する梵字)、弘法大師尊像、その下に次の札所までの里数(丁数)を刻んでいることである。そして形状は上部が丸みを持っており、右側面に施主、左側面に願主を刻んでいる(㉛)。もちろん規格外もある。梅村氏の『徳右衛門丁石一覧』によると、上部が丸みのあるのは、93基中72基、山形のもの18基である。中には大師尊像だけを残して中務茂兵衛によって改刻されたと思われるものもあるという(㉜)。ともあれ、大師尊像とその下の里数(丁数)を見れば一見して徳右衛門丁石と分かる特徴を持っている。

 (ウ)丁石建立とその時期

 その丁石の建立時期については、徳右衛門の墓碑に寛政6年から文化4年までと記されている。徳右衛門の丁石は一般には年号がなく、あっても風化して判らない(㉝)と言われるくらいで、建立年月が入っているものは少ないが、梅村武氏の『徳右衛門丁石一覧』によると、93基中8基に年月が刻まれている(㉞)。その中では一番新しいのが文化5年(1808年)のもので、四十一番龍光寺に残されたものである(㉟)。
 また喜代吉榮徳氏によると、讃岐には丁石設置の初年度と思われる「寛政六年」のものがあり、土佐には「文化九壬申八月吉辰」「願主豫州越智郡徳右衛門の町石」があって、二十七番神峰寺へ「三里半」のものである(㊱)という。さらに喜代吉氏は五十九番国分寺にある弘法大師の尊像(坐像)(写真3-1-14)を取り上げて、「四国中に『道丁石』建立が成就した記念(供養)にこの大師尊像を建てているのである。これには二十一ヶ所というミニ霊場開設の記念もかねているようであるが(㊲)」としながらも、坐像の下部に「文化九年申九月」と書かれてあることに注目して、徳右衛門は文化9年(1812年)までは道丁石の建立に関与していたといえる(㊳)と記している。文化9年は徳右衛門が亡くなる2年前である。道丁石建立を発願した寛政6年(1794年)から18年に亘(わた)っての事業ということになる。

 イ 府中二十一ヶ所霊場

 「越智郡府中には廿一ヶ所参りという一日行程(約十里)の霊場巡拝の習慣がある。(㊴)」これは武田徳右衛門が文化7年(1810年)に開創したもので、今も参拝は続いているという(㊵)。この二十一ヶ所霊場については、龍田宥雄氏、永井紀之氏、梅村武氏などがそれぞれ論考を発表している(㊶)。
 当時の一般庶民にとって、四国遍路を実践し、お大師様の恩徳を直接に感受することは、誰にでもできることではない。「徳右衛門はこうした人々にも実践可能な霊場巡りを考えた(㊷)」と梅村氏は記している。また文化4年に亡くなった「妻への供養の気持ち(㊸)」もあったのかもしれない。あるいは、弘法大師にすがって立ち直った徳右衛門は、丁石建立という化他行(けたぎょう)(他人の為に尽くす)に打ち込んできた。二十一ヶ所霊場開創の発願は、その作善の延長上にあって、より身近な人々のためにとの思いからではあるまいか。「せめて一日で巡拝できる霊場を開創し、百姓達の心の支えを作ってやりたかったのではあるまいか(㊹)」という永井氏の推測は十分うなずけるものがある。
 徳右衛門が開創した、府中二十一ヶ所の府中とは国府(伊予)の置かれた地域である。彼は、現在の今治市富田地区を中心に、玉川町、朝倉村の一部を含んだ地域を選んでおり、その中には四国八十八ヶ所霊場5か寺も含んでいる(㊺)。梅村氏は、「庶民の実践可能な霊場巡りとは、先ず宿泊を必要としない一日行程のもの(㊻)」であることだと言う。したがって、その霊場数も、「八十八ヶ所では多すぎて一日で巡拝できず(中略)一日行程と考えると『二十一』という弘法大師の命日にちなむ数が適当と考えたのではなかろうか(㊼)」と梅村氏は推定している。なお現実に二十一ヶ所を巡った時間の記録が残されている。それによると、永井氏は自転車で3時間45分(㊽)。梅村氏は徒歩で8時間52分だったという。これらは札所間を巡るのに要する時間で参拝の時間は含まれていない。梅村氏は参拝所要時間1時間42分を合わせると、1番の国分寺出発から国分寺に帰るまでの合計所要時間は10時間34分だったと記している(㊾)。約11時間となると、一日での参拝は現代人には無理な行程であるが、当時の人にとってはどうであったのだろう。
 この霊場の選定にあたっては、「時、恰も、徳川十一代将軍家斉の時代でしたので、且那寺朝倉村無量寺を始め、朝倉村満願寺、桜井村法華寺は天領で幕府直轄寺院であり、信仰の道場と雖も、巡拝霊場として、容易に幕府の許可が得難く、徳右ヱ門は止むなく、朝倉村、桜井村を除き、私領の今治藩の寺院を廿一ヶ寺選び、府中廿一ヶ所霊場として、大師信仰の霊場を開(㊿)」いたと龍田宥雄氏は記している。さらに現在の朝倉村竹林寺は、当時は今治藩領にあったので最初から入れ、満願寺は昭和34年(1959年)の二十一ヶ所開創百五十年記念法要の際、今治の神供寺境内にある庚申堂の番号を譲り受けたものだと記している((51))。また菩提寺である無量寺が天領にあったため、二十一ヶ所霊場に加えることができなかったので、「無量寺本尊阿弥陀如来御宝前に、宝鏡一基を奉納し、廿一ヶ所開創の記念((52))」としたとも記している。その宝鏡は、無量寺に今も大切に保管されている。
 二十一ヶ所霊場の第一番は国分寺である。境内には弘法大師の尊像を祀(まつ)るお堂がある。大師尊像の台石正面には、刻字がある。また、左側面から順次、三面にわたり4か月ずつに分けて、二十一ヶ所の巡拝日(各月2日)が刻まれている。「お茶湯日」(仏前に茶を供え、特に供養するよう定めれた日)をもって巡拝日としたとのことであるが、今もって旧暦でこの巡拝日が守られているという((53))。
 正面の刻字により、文化9年(1812年)に建てられたことが分かるが、既述したように「奉供養四国八十八ケ所道丁石」というのは、道丁石建立事業成就の記念でもあり、二十一ヶ所巡拝日を刻んでいるのは、霊場開創の記念とも思われる((54))。丁石建立については、彼の墓碑銘に文化4年「満諸願之」とあるが、徳右衛門の作善行は、二十一ケ所霊場開創と平行してなお続いていたのであろうか。彼の死は、このわずか2年後の文化11年12月19日であった。

<注>
①丁石は町石とも書かれる。「~まで何丁」と道標を兼ねて特定の聖地や霊場までの距離を示す石像物である。徳右衛門建立のものは里程を示すのが特徴で、「~まで何里何丁」と刻され、「町」の文字を刻していないので、本節では、丁石と記すことにする。なお明治以降は、1丁(町)は約109m、1里は36町(丁)と規定された。
②『角川日本地名大辞典38愛媛県』P60 1991
③前出注② P60
④愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 資料編 近世上』P722~742 1984〔石丸家文書や無量寺所蔵文書に、明和2年(1765)大庄屋七右衛門、安永6年(1777)、文化6年(1809)庄屋七右衛門、天保3年(1832)大庄屋格武田七右衛門の記録あり〕
⑤梅村武『武田徳右衛門丁石と伊予府中廿一ヶ所霊場(上編)』P10 1995
⑥龍田宥雄「府中二十一ヶ所霊場由来記」(『今治史談』P5 1970)
⑦朝倉村誌編集委員会編『朝倉村誌 下巻』P1346~1349 1986
⑧梅村武『武田徳右衛門丁石』P10~12 1998
⑨前出注⑧ P11
⑩前出注⑧ P14
⑪前出注⑧ P14~15
⑫前出注⑤ P15
⑬前出注⑤ P16
⑭前出注⑤ P17~18
⑮前出注⑥ P5
⑯前出注⑥ P5
⑰前出注⑥ P5
⑱喜代吉榮徳『四国遍路道しるべ付茂兵衛日記』 P11 1984
⑲喜代吉榮徳「四国遍路道標石史試論」(愛媛県文化振興財団『文化愛媛 第15号(増刊)』 P47 1987)
⑳前出注⑥ P4
㉑村上節太郎「四国遍路の道しるべ」(愛媛県文化振興財団『文化愛媛 第11号』 P91 1986)
㉒前出注⑧ P30
㉓前出注⑲ P48
㉔梅村武「徳右衛門丁石一覧」(『武田徳右衛門丁石』 P44~94 1998)
㉕前出注㉔ P44~94
㉖前出注⑧ P31
㉗前出注⑧ P63~68
㉘「今治拾遺附録寺院履歴」(今治市『今治拾遺・資料編 近世Ⅰ』 P1176 1987)の「仙遊寺世代暦」に「四十一世 阿闍梨天尊・文化九壬申正月十八日寂」とある。
㉙永井紀之「府中二十一ヶ所霊場」(今治西高史学部編『今墾 第14号』P5 1979)
㉚村上節太郎「四国遍路の道標」(『愛媛の文化 第22号』 P156、P162 愛媛県文化財保護協会 1983)
㉛(前出注⑩ P48)及び(前出注⑧ P30)に所収されている。
㉜(前出注⑧ P75~76)及び(前出注⑤ P32)に所収されている。
㉝前出注㉑ P91
㉞前出注⑧ P48・53・56・62・69・91・93
㉟前出注⑧ P62
㊱前出注⑲ P49
㊲前出注⑲ P49
㊳前出注⑲ P49
㊴前出注⑦ P1346
㊵前出注⑦ P1346
㊶前出注⑥、前出注㉙、梅村武『武田徳右衛門丁石と伊予府中廿一ヶ所霊場(下編)』1996に所収されている。
㊷梅村武『武田徳右衛門丁石と伊予府中廿一ヶ所霊場(下編)』P4 1996
㊸前出注㊷ P4
㊹前出注㉙ P7
㊺前出注㊷ P4
㊻前出注㊷ P4
㊼前出注㊷ P4
㊽前出注㉙ P9
㊾前出注㊷ P19
㊿前出注⑥ P6
(51)前出注⑥ P7
(52)前出注⑥ P6
(53)前出注㊷ P5
(54)前出注㊷ P21
(55)前出注⑥ P7

写真3-1-13 徳右衛門丁石

写真3-1-13 徳右衛門丁石

五十一番石手寺門前にて。平成12年12月撮影

写真3-1-14 記念の弘法大師尊像

写真3-1-14 記念の弘法大師尊像

五十九番国分寺境内にて。平成12年12月撮影