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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)遍路道について①

 ア 遍路道のあゆみ

 「遍路道」はもともと明確なルートを持った道ではなく、霊場から霊場に向かう宗教上の修行の場として多くの修行者や遍路がたどった、いわば踏み分け道であり、危険の多いものであったと思われる。しかし、時を経るに従い、参拝順序が確定し、庶民の行楽の道となり、安全が確保されてきた。従って、社会環境の変化に伴い、遍路道も様々に変化してきたことは容易に想像できる。遍路道は、歴史的に見ても為政者によって施行された道ではないだけに、今日その歴史的評価はあまり高くなく、山間部など辺地の遍路道の保全状態は、決して良好とはいえず、道標・丁石(ちょうせき)等の路傍の施設も多くは散逸し、自然の中に埋没する状態である。しかし、遍路道は現代社会から遊離した存在ではなく、むしろ現代生活の中に融合した生活空間といえる。
 今も遍路道の傍らには、道標が建ち、道行く遍路を温かく迎え、道中の安全を祈っている(写真2-2-5)。

 (ア)遍路道とは

 千葉大学教授 浅野二郎氏は遍路道について次のように述べている。
 「遍路のための道、つまりへんろ道は、長い年月と数えきれないほどの、そして名もない人々が、それぞれに思いを込めて歩きならした『道』であり、まさにそれは人々の足と手で造った道であり、またそれは自然と人間との対話の道であるといえよう。へんろ道をたどるとき、時代を超えて幾多の名もない人達が思いをこめて、ひたすらに歩いた情感をそこに読み取り、また、自ら歩くという行動を通して、自ら『自然と溶け合っている』という心の満足と清浄さを実感できる。(①)」
 また、「早大道研」編『現代社会と四国遍路道』では遍路道がもつ資質について次のように論じている。
 「歴史的に見て庶民のレクリエーションルートとして受け継がれてきたこと。四国一周による様々な景観を楽しめること。札所巡りとしても様々な史跡等が分布していること。都市や地方をそれぞれ経由していること。一部の山間地域を除けば、ほとんどが平坦及び緩勾配(かんこうばい)の地形で徒歩による利用が可能なこと。『お接待』などに見られるように、地域住民と旅行者との交流がスムーズに行える素地がある。(②)」

   a.愛媛県の旧街道と遍路道

 伊予国、愛媛県における旧街道と遍路道について、『愛媛県史 社会経済3 商工』の「古代及び藩政時代の道路」には、次のように記されている。

   この時代の伊予の太政官道(だじょうかんどう)は京と伊予国府(現今治市付近)を結び、南海道に通ずる官道である。
  (中略)近世になり江戸に徳川幕府が開かれ、五街道を中心に交通路の整備を行い、全国的に主要街道と呼ばれる道路が整
  備・充実され始めたが、伊予における街道の整備はそれほど進まなかった。その理由として各藩とも参勤交代は、もっぱら
  三津浜や波止浜から安芸への瀬戸海路を、宇和島から佐田岬を横断しての宇和海路など、陸路よりも海路を利用したからで
  ある。
   藩政時代における松山藩内の街道は、本町の札(ふだ)の辻を起点として大洲街道(松山~大洲)それ以南の幹線道路は、
  宇和島街道(大洲~宇和島)・宿毛(すくも)街道(宇和島~宿毛)と続いた。また三坂峠越えの久万(くま)街道(松山~池
  川)・瀬戸内沿いの今治街道(松山~三芳)・讃岐の金毘羅(こんぴら)参詣者の金毘羅街道(松山~小松~川之江)・さら
  に松山外港の三津浜までは三津街道が通じていた。しかし、これらの多くは一間(いっけん)(1.8m)以下で主に徒歩で
  あったために、近道の必要から尾根沿いや峠のある狭い坂道が多かった。(中略)
   近世の道路としてもう一つ大切なものは、弘法大師ゆかりの四国八十八ヶ所札所参詣の道としての遍路道である。愛媛県
  内では、御荘町(みしょうちょう)の四十番観自在寺を皮切りに26の札所があるが、一般庶民の日常生活に密着せず、他の
  街道のように自動車道にならなかった。この遍路道は昔の風情を残すものの夏草に覆われ、静かに消滅しつつあるのが現状
  である(③)。

 愛媛の遍路道は、高知県宿毛市の三十九番延光寺から観自在寺を経て、宇和島城下に通ずる宿毛街道にはじまる。宇和島から大洲までは宇和島街道、大洲から内子までは松山に至る大洲街道をたどる。また久万町からは土佐街道として三坂峠を下って道後平野に入り、四十六番浄瑠璃寺へ。松山からは高縄半島を海岸沿いに迂回(うかい)する今治街道へ。今治からは山沿いに進み、難所として知られる六十番横峰寺などを経て、西条で東進してきた金毘羅街道に合流し、愛媛最後の六十五番三角寺に至るのが大まかな道筋である。
 以上のように遍路道は、かなりの部分が近世の旧街道と重複している。しかし、旧街道は宇和島~三間~卯之町間や内子~久万間は通らず、通るのは遍路道だけである。
 また遍路道は、一般庶民の日常生活や経済活動にとって、一部を除いて他の旧街道ほど重要ではなかったと思われる。しかし、久万町下畑野川のように、遍路宿があったため地方の交通の要地となったり、御荘町や久万町のように、札所前に形成された門前町から商業の中心集落として発達してきたところもある。
 また、大洲街道沿いの内子から北東の山間部に延びて久万・松山へとたどる道は、愛媛県内諸道のうちでも、昔の情緒や面影を残し、現在最も特色のある遍路道といえよう。

   b.現代の遍路道の実態

 四国四県の札所の所在する市町村数と遍路道の延長距離を示したものをみると、遍路道の延長距離は各県の面積や札所間の距離で大きく違っていることがわかる。特に札所が徳島県では東部に集中しており、香川県では県内一円に分布しているが県自体の面積が狭く、高知・愛媛両県に比べ、遍路道の距離はかなり短い。
 建設省計画局・四国地方建設局の昭和54年(1979年)『四国のみち保全整備計画調査報告書要約』には、遍路道周辺の環境について次のように記している。

   遍路道の幅員は2.5~4.5mのものが40%でもっとも多く、次いで6.0m以上のものが26%で、昔のままで歩いて通れる
  道は僅(わず)か19%である。勾配(こうばい)は自転車で走れないような急勾配が20%を越す。利用目的は主に地域の日常
  生活道路として使われているところが43%と最も多く、次いで都市間連絡道路として26%が使われている。沿道風景は山
  林地帯が30%、次いで集落等の近傍を通る人家連続地帯が29%であるが、人家連続地帯、市街地区及び海岸地帯等の平坦
  部が約70%を占めている。歩道が設置されているところが約10%、徒歩のみの通過可能な区間か13%。また、自動車の通
  行可能な道路が大半であり、アスファルト舗装が78%を占めている(④)。

 これらのことから、遍路道が人里離れた自然の中に埋没してしまうのではなく、沿道の人たちとの触れ合いを重要な要素として取り入れ、歩行空間として整備されていることが分かる。
 また、遍路道の今日的意味について建設省の報告書は次のように述べている。

   遍路道は、一つに徒(かち)の魅力であり、一つに自然や歴史との触れ合いであり、一つに「札所」という区切りであり、
  一つに接近性がスムーズなことであり、さらに人と人との触れ合いの場が得られることである。このように見ると遍路道に
  は、地域社会に根ざした人間性の厚みや温かさが感じられる。
   今日におけるレクリエーションの一面では、このような空間の場作りが要請されており、それらの条件を具備した「へん
  ろ道」を保全・整備し活用することは、時代の要望であり有意義なことといえよう(⑤)。

写真2-2-5 道標と遍路道

写真2-2-5 道標と遍路道

松山市恵原町にて。平成13年2月撮影