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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)戦時下の遍路の姿

 香川県高松市に住んでいた荒井とみ三は、その著書『遍路圖會』の中に、戦時体制下の遍路の姿を文章と絵によって記録している。これを書き留めた正確な年代はわからないが、出版されたのが昭和17年(1942年)であることから、それ以前の昭和10年代に彼が見た遍路及びその接待の姿ではないかと思われる。そのうちの幾つかを紹介する。

   よしありげな母娘巡禮が、虔しく合掌してゐる。身近に花はないが、春風は霊場を匂やかに包んで遠く近く御詠歌の齊唱
  を運んでくる。
   合掌する母親の明眸の前、み堂の正面に一葉の寫真が置かれてゐる。見れば軍装の人である。
   出征軍人であらうか。それとも、護国の鬼となった勇士であらうか。
   おそらくは、その夫、その父の武運を祈るか、菩提弔ふために、父の夫の面影を抱いてめぐる遍路行であろう。
     (中略)
   幾十百年來、難病平癒祈願が、その主調をなしてゐた遍路風俗にも、時代は、かうした襟を正さしめる新しき風俗を加へ
  た(①)。

   菅笠に、白衣に、白脚絆と型のきまつた遍路姿のなかに、これはまァ勇壮な、戦闘帽に國民服、背にはリュックサック、
  脚にゲートルきりゝとしめて、手には日の丸しつかと握り、大地踏みしめ堂々とゆく青年遍路。
   御詠歌の代りに唱ってゐるのは軍歌であった。つぎつぎに、唇を衝いて出る「戦友」や「露營の歌」を聞かれては、大師
  さまも破顔一笑されるであらう。朗々たる遍路新風景(③)。

   -或る國民学校児童の綴り方-
    毎年、春になると、この四辻で、おせつたいをします。ことしも村の人が、かはるがはるにおせつたいをしました。
    この間の日曜日は、私の家の隣組の番でありましたから、私もお母さんとおせつたいに出ました。隣組から持ち寄つた
   お米でおむすびをこしらへたり、夜なべに作つたわらじをおへんろさんにあげると、おへんろさんはなんべんもなんべん
   も禮をいつてごえいかを流してゆきました(⑤)。

 また、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開始直前に遍路を行った橋本徹馬の『四國遍路記』の中には、戦争の影が随所に表れている。
 幾つかの遍路宿では、そこの家族が戦死していた。香川県高松市郊外で農家の木賃宿に泊まったところ、そこのお内儀が仏壇に燈明をつけて戦死した息子のことを拝み出したので、自分もお経をあげて感謝された(⑦)。あるいは五十二番太山寺の参道下の木賃宿でも、父親が海軍に召集になって不在であり、そこの女の子が「お母さん、お父さんが居ないので淋しいのう。」と繰り返していた(⑧)(この父親は後に戦死と判明)。三十八番金剛福寺から宿毛への道では、日が暮れた夜の遍路道を歩くのに灯火管制のために持参の懐中電灯が使えなかった(⑨)。五十一番石手寺にやって来ると、「此日は興亞奉公日であったので、此寺の参拝者は甚だ多く、中に國防婦人會の丸髭、七三、引きつめ、ハイカラなどの幾十人の人々等、各御堂を拝して後大師堂でおみくじを引いて居た。(⑩)」愛媛県の内子町を歩いている時は、働き手を戦争に取られた稲刈りの風景を見てその苦労をしのび、同じく久万町を歩いている時には、小高い丘に戦死者の墓を見つけ涙している(⑪)。そして彼は、その後九州の篠栗八十八ヶ所を巡拝している途中、宿のラジオで日米開戦を知るのである(⑫)。
 四十六番浄瑠璃寺前住職の**さんの話によると、太平洋戦争中、境内で遍路が逮捕されたこともあったらしい。久万町で、50歳代と思われる遍路二人が「お前、わしの財布を取ったな。」「わしは知らん。」と言い合いになり、口論をしつつ三坂峠を下りてここまでやって来て、とうとう警察を呼ぶ騒ぎになった。警察官がやって来て調べたところ、疑われた方の遍路の持ち物からその財布が出てきたため、境内でそのまま縄をかけられて連れていかれたという。人の心も殺伐としていた時代であった。
 また、昭和20年(1945年)の松山空襲の時には、焼け出された多くの人々が浄瑠璃寺の通夜堂(現在は跡地に地区の集会所が建っている)にやって来て、それぞれ落ち着き先を見つけるまでの1か月くらいの間生活していたという。四十四番大宝寺でも、松山空襲の後から戦後すぐの食糧不足のころにかけて、戦災で焼け出された子供連れの家族が休息所(通夜堂)にやって来て住み着いた。久万町では、ここから奥の面河渓のある地区にかけて、10月の末から何日か置きにお祭りが続く。そこでこの家族は、袋を作って皆で手分けして餅をもらって歩き、生活をしていたということである(⑬)。

<注>
①荒井とみ三『遍路圖會』P2~3 1942
②前出注① P2
③前出注① P12~13
④前出注① P13
⑤前出注① P32~33
⑥前出注① P33
⑦橋本徹馬『四國遍路記』P56 1950
⑧前出注⑦ P229
⑨前出注⑦ P181
⑩前出注⑦ P225
⑪前出注⑦ P197・201
⑫前出注⑦ P245
⑬谷口廣之『伝承の碑』P65~66 1997