データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)近代化の進展と遍路③

 (エ)遍路の近代化についての考え方

   a.乗り物利用の遍路行について

 明治以後の近代交通の発達とともに、乗り物を利用する遍路は徐々に増加しつつあった。そういう時代の流れに対して、これは現代でも同様だが、遍路行の本質は歩きにあると主張する人も多く、乗り物利用の是非について当時から幾多の意見が出されてきた。その一部を、以下に紹介したい。
 乗り物を出来る限り利用して昭和3年(1928年)に遍路した島浪男は、「四國巡拝の旅は行と懺悔と感謝の生活でなければならない。それが私のやうに乗物に乗り、遍路宿を避けて廻るのでは、到底佛を見、大師を見る事は出来ないかもしれない。((51))」と自嘲(じちょう)し、自動車に乗って短時間で次々と札所を巡っていることについて、「今日のうちに片付けちまはう!片付けちまはうは乱暴だ。寺を廻る事に興味を感じての私達の旅なのに、これでは何のために寺を廻るのだが詳が判らない。が人間というやつは愚かと言はうか勝手といはうか、一時の都合で時々かういふ風に物事を『片付け』たがる。((52))」という反省の弁を述べている。
 遍路行の修行性を重んじる人々からは、当然のごとく乗り物の利用に否定的な意見が聞かれる。昭和9年に遍路した尾関行言應は、「交通の發達は山路は兎に角、殆んど自動車の至らぬ隈もなき有様にて、眞に徒歩し大師の足跡を踏んで参拝せんとする者の為には塵埃多く迷惑を感ずるならんと思ふ位なり。((53))」と述べて、自動車の増加が徒歩遍路の妨げになる点を指摘し憂慮した。また、荒井とみ三が描く昭和10年代の遍路の姿の中に、次のような記述がある。「コツコツと時計の針のやうに休みなく丹念に道を急ぐお遍路さんの後から、疾走してくる乗合自動車が、こともなげにサッサと追ひ越してゆくと、日照りつづきの埃が白煙のやうに舞ひあがつて白衣の巡禮たちを包んでしまふ。もしそのクルマのなかに巡禮姿を見かけると、歩く遍路たちは輕侮に似た一瞥を與へる。そして日程を早めるためにクルマに乗り合わせてゐるお遍路は如何にも申譯なささうに頭を垂れたり視線を外らしたり、次の停留所で、そゝくさと下車したりする。((54))」戦前は遍路をする誰もが、歩くこと自体を遍路の目的とする共通認識をかなり強く有していた証(あかし)ではないかと思われる。
 こういう意識は、修行者である僧侶になると殊に強烈である。戦後の昭和29年(1954年)に僧侶として遍路した荒木哲信は、自身が乗り物を利用して遍路していることについて、次のような強い自己反省の弁を述べている。

   さて、ここ両三日、バスに揺られて疲労を覚えてゐるが、しかし、この遠い、けるかな路を、杖を頼りにトボトボ歩いて
  行くお同行を、車の窓越しに見かけた。一人、また二人と。そして、その窶(やつ)れた姿を見るたびに、わたしは、片合掌
  の会釈を送つてゐた。
    〝歩いてゐる。修行してゐる″
   これらの人から見れば、わたしたちは、なんと氣楽な、贅沢な旅ではないか。疲れたなどとは勿体ないと、心の中で詫び
  るのだった。
   昔から、遍路は、歩くことを原則とされてゐるが、徒歩で行きながら、見たり聞いたりしてこそ、すべてのものがしんみ
  りと味へるので、わたしのやうな、乗物遍路は、ものの上表(うわべ)すら見逃しがちである。恥しながら、収穫は全く無
  い((55))。

 これに対して、乗り物利用を容認する意見が一般人の側に多いのは、これまた当然のことだろう。昭和16年(1941年)に遍路した橋本徹馬は、全行程を歩く遍路が最もよいという認識を持ちながらも、時代の流れを考えれば乗り物による遍路も容認せざるをえないと主張している。彼の遍路記の中には、ある札所の納経所の僧侶が、「バスで来る人は贅沢な人だから、そんな人は道に迷っても良いのだ。」と言うのに対して、彼が真っ向から反論する場面が出てくる。「そう云つても世の中は段々忙しくなるのだから、歩いて五十日もかゝつては四國遍路はして居れない。然し三十日以内位で出來るなら、都合して遍路をしようと思ふ者もあるでしよう。勿論全部を歩いて廻はるに越したことはないにしても、乗物に乗つてでも廻はる間には、それだけ全然廻はらぬよりは、お経の風に吹かれ、霊場の雰園気にも接するから、それがどの位その人に好影響を與へるかも知れぬでしよう。((56))」近代化の進展とともに生活サイクルが速くなった社会において、遍路を全然しないよりは、乗り物に乗ってでもする方がよいのだと言うわけである。
 また島浪男は、遍路行を信仰から離れて一個の旅として見るならば、徒歩、乗り物の双方にそれぞれ味があってよいのだと言う。

   徒歩の旅は一歩々々大地を踏みしめて行くところに面白味がある。踏みしめる一歩々々に、何時ともなく周囲の景観が移
  り變(かわ)つて行くところに、言ふに言はれぬ味がある。そして、氣の向いたところで立ちどまつて、蝦蟇(がま)のやうに
  悠然と山を見、川を見るところに、言ひ換へれば時間の外にゐる事に於いて面白味がある。が、自動車の旅はそれとは別
  だ。時間と言ふものを掻き分けて行くやうな-もすさまじいが、さう言つたところに面白味がある。車の直行曲行につれ
  て、安芝居の書割が風に煽られた時のやうに、景色が伸び縮みするところに小兒(しょうに)らしい興味も湧いて、身も心も
  輕くなる((57))。

 さらに彼は、乗合自動車を待って何度も乗り換えながら遍路するのも楽ではないとして、「それに比べると、來る自動車を呼びとめず去るものも追はず、自動車の後塵を拝し、ガソリンの惡臭を甘んじて蒙り、五歩に一鈴、十歩に寶號(ほうごう)一唱『南無大師遍照金剛』を誦し、疲るれば憩ひ、暮るれば宿つて、時間と言ふものゝ外を行く昔ながらの徒歩巡拝者はどの位幸福だが知れない。((58))」と述べている。徒歩の遍路を皮肉っているようにもとれるが、「時間の外を行く幸福」というのは、忙しい現代にあえて徒歩遍路を遂行している人たちの心情に通じるものがあるのではなかろうか。

   b.遍路の近代化の進展について

 昭和12年(1937年)に大阪で、四国八十八ヶ所のすべての札所が集まった出開帳が開催された。この出開帳についての詳細は後述するが、その際、附帯行事の一つとして関係者による「霊場座談会」が開かれ、ここで遍路の近代化にかかわる若干の討論がなされた。
 座談会の席上、まず遍路宿の布団の不潔なことや虱(しらみ)の多いことが述べられ、話は駆除サービスの必要性へと及んだが、大阪の了徳寺住職は、「虱などは問題ではない。大師の御慈悲を願って巡拝する信者には体の不潔などは気にならない。宿の設備に贅沢を言うことは参拝者の信仰への冒涜である。」と、一喝してしまう。また岩津政吉(時事新報社宗教記者)が「楽な気持ちの四国遍路」、例えば新婚旅行としての遍路を提唱したのに対し、札所の住職たち数名は苦難と信仰の密接な関係を力説、この観点から反対論を展開した((59))。新婚旅行としての遍路の是非はともかくとして、全体的に僧侶の側に保守性が感じられる内容である。
 それに対して、自身が僧侶でありながら大胆な遍路の近代化論を展開したのが、東京中野大師堂の安田寛明である。昭和6年(1931年)の著書において、彼はまず、古来から一般的に行われてきた修行(行乞(ぎょうこつ)・托鉢(たくはつ))を真っ向から否定する。「今日の時勢上亦風教上からも甚だ惡しく、明治、大正、の御代も過ぎ昭和の今日而かも幾分の學問を修めたものは乞食の代名詞たる修行は必ず止めるべきであります。((60))」と主張するのである。
 さらに話は服装の近代化に及ぶ。「昭和6年後即ち将来の四國まいりの仕方としては出来るだけ奇麗なる服装にして笠の代りに帽子、金剛杖の代りにコウモリ傘、頭陀袋の代りに折かばん、わらじの代りにせつたなり下駄、白装束の代りに被布、其上ならば紋附き羽織袴もよろしい、最(もう)一ツ進めば男は洋服、女は洋装洋髪、塗香の代りに香水でも自分の好みで差支へない、決して荷物なんぞ背負わず普通に旅行すると同一に考へればよろしい、(中略)此建議に同感の諸士は他人よりも先に現代旅行振りを示て頂きたいと望みます。((61))」こういう服装を、先を争って実行して欲しいという口ぶりである。「思い切って相互い改良に改良することを講じあわねばならない、時勢に向つて來たのであります、お大師さまは服装其他のことを改良したからとて信仰心さへにぶらかさなければ何の御咎めがありましよう。((62))」大切なのはあくまでも信仰心であって、服装を変えることなど全く問題ないというわけである。
 なお、乗り物利用の遍路行についての彼の考え方は、次のようなものである。「身分に應じ出來るだけ用意に用意をして身體を一番大切に滋養物を撰み亦交通機関に依り汽車電車自動車のある所は乗車すべきです。(中略)急ごうと思つた心の出た時は汽車電車自働車も良い、既に飛行機に乗つてお四國へ行かれるよふになって居ります、何と云っても時勢に伴ふ旅行をせねば駄目です。((63))」現代の私たちからすれば、昭和初期において、すでに飛行機による遍路まで語られていたことは大きな驚きである。

 イ 遍路の大衆化

 (ア)遍路の費用

 明治40年(1907年)に遍路を行った小林雨峯は、その際にかかった費用を遍路記に書き留めた。それによると、費やした日数は大体80日で費用の総額が21円45銭5厘である。これを1日平均にすると26銭程度で、その内訳は、納経料が2銭、平均宿賃が10銭、平均米代が10銭、草鞋(わらじ)或いは雑費が4銭となり、これらの中にはハガキ代・船賃・紙代なども含むとしている。そして小林は「實に小額の金で、四國遍路の出來たのは勿體なくもありがたき極みである。((64))」と、感激の言葉を残しているのである。この遍路行について前田卓氏は、「もし途中で米や草鞋、さらには宿代を節約して、善根宿や通夜堂で泊まるとしたら、まさに無一文近くで遍路に行けなくもないということになる。((65))」と評している。ちなみに明治40年当時の物価を見ると、高等官(現在の国家公務員I種職員)の初任給が月額50円、大工の1日平均手間賃1円、たばこ(ゴールデンバット)1箱5銭、食パン1斤10銭、もりそば・かけそば3銭といったところであった((66))。
 遍路が安い費用でできるというのは昭和の時代に入っても同様で、前田卓氏は次のように記している。「昭和に入ってからの一巡拝者の記録(昭和2年)によると、『四国の巡拝は、誠に費用のいらぬもので、倹約すれば、春季の頃には、一日五十銭ぐらいあれば十分である。しかも、米は接待でもらうので余る程であり、その間には、三銭、五銭と賽銭の接待を幾つも受けるので、決して不自由しない。』とある。たしかに、昭和の初期に遍路に出た蓮生観善氏が、春期の頃には、毎日、四国では千二三百ヵ所で遍路の接待が行われていたと言うように、三月から五月の半ば頃までの間に遍路をするならば、殆んど無一文でも巡拝することが出来たのである。((67))」昭和2年(1927年)、相原熊太郎も同様のことを語っている。「一日に八里位あるいて四十日近くですが、旅費から中すと驚く勿れ僅か一日が五十銭で四五の二十円以内で、三百里の旅行が出来るのであります、この安い旅行は遍路たるが故に出来るのであります。((68))」しかも、もし木賃宿に宿泊するのならば「米代宿泊代を合せて二十五銭です。その御飯の内にはヒルの弁当として行李につめて行く分も含むのです。で即ち晝(ひる)弁当付一泊二十五銭と云ふてよいのです之に書の弁当のオカズが五銭、一日三十銭にて廻れます。((69))」ということになるのである。
 四国独自のお接待の習慣に助けられた部分が大きいのだが、当時としては、これほど安価にできる旅行はほかにはなかったと思われる。それゆえ、数多くの貧しい人々も等しく参加することができたのであり、近代にあっても遍路行は民衆の誰もが行える信仰の旅であった。

 (イ)マスメディアの発達と遍路

   a.中務茂兵衛の宣伝活動

 近代化をめざす明治政府は、明治5年に学制を発布して以来、明治23年(1890年)の小学校令改正による義務教育の明確化など、国民皆学の実現を急いだ。その結果、日露戦争後の明治38年には義務教育が徹底して就学率が97%をこえ、ほとんどの人が読み書きできるようになった。こうしたことを背景に、明治末期から大正時代にかけて、活字文化を中心とする大衆文化が花開いていったのである。
 四国遍路の世界においても、活字による宣伝活動がある程度行われるようになっていった。例えば、六十五番三角寺から別格十三番奥の院仙龍寺へ向かう途中の不動堂の傍らに、次の文章を彫り込んだ中務(中司)茂兵衛の標石が立っている(写真2-1-19)。
 荷物の指示まで標石に彫り込んでいるのは珍しい。建立年代は不明だが、喜代吉榮徳氏は大正3年(1914年)のものと推定している。茂兵衛は、三角寺本堂の真正面にも「奥の院 是より五十八丁 毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り 霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁小越結び 現当二世の利益を受く遍し」と刻んだ標石を建てているが、彼が四国中に建てた二百数十にのぼる標石のうち10基は、「奥の院への勧誘文」を彫り込んだものである。彼は従来から奥の院とは縁が深く、遍路の途中にしばしば宿泊しており、亡くなる前の最後の正月も、前後20日余りをここに滞在していた((70))。
 また、同様に彼がよく宿泊した香川県の與(譽)田寺でも、寺の宣伝のために上のような広告を作成した。
 鶴村松一氏によると、この文章は長さ40cm、幅27cmの和紙に印刷されており、現在でも数枚残存しているとのことである。年代は書かれていないが、茂兵衛晩年のもの(したがって大正時代)であろうと推測している((71))。

   b.新聞と遍路

 活字文化の最も重要な担い手は、当時着実に発行部数をのばしていた新聞である。高群逸枝は初め新聞記者を志願したのだが、若い女性の記者志願は当時としては大変めずらしいことであり、それが九州日日新聞社の社会部長である宮崎大太郎の注目をひいた。高群の遍路行きの話を聞いた宮崎部長は、巡礼の様子を書いて旅先から原稿を送ることを約束させ、こうして新聞に『娘巡礼記』が連載されることになったのである((72))。
 大正のころの四国は、弘法大師の霊場というより、貧民の多い経済的に立ち遅れた島としての印象が強まっていたという。「その島へ若い娘がみずから巡礼するという。その巡礼体験記を新聞に載せれば、社会的関心をひき、政府の窮民対策無策への一つの抗議手段となる-と、宮崎は考えたのだろう。ときまさに大正デモクラシーの高揚期でもあった。((73))」ところが事態は、彼女の遍路行を通じて民衆の困窮を浮き彫りにしていくという新聞社の意図とは異なった展開を見せていく。「その反響は当新聞社の宮崎社会部長が意図した〝貧窮にあえぐ人民の内部告発〟というより、人びとの関心の多くは、(中略)育ちのよいインテリ娘が無銭の旅を体験してきたという驚きと、リアルで克明な初々しいタッチの報告に打たれたもの((74)))」だった。しかしともかくも、彼女の掲載記事は大好評を博し、新聞社や彼女自身の元にも続々と問い合わせや感想が寄せられた。この連載を愛読していた神戸のT青年が、彼女が遍路から帰って橋本憲三と婚約したことを知り自殺を図ったというエピソードを生むほどの反響があった((75))。恐らく『娘巡礼記』は、近代のマスメディアを活用して大衆に伝達することを意図した最初の遍路体験記だと思われるが、それがこうして大成功を収めることになったのである。

   c.ラジオによる遍路の紹介

 今日、NHKテレビなどで盛んに、四国遍路、あるいは八十八ヶ所の札所を紹介する番組を放送している。しかしテレビ放送の開始は昭和28年(1953年)であり、戦前までの放送文化は、専ら大正14年(1925年)に開始されたラジオ放送が担った。そして、このラジオ放送において四国遍路が紹介されることもあったのである。
 昭和2年(1927年)3月27日、東京都(みやこ)新聞整理部長の相原熊太郎が東京放送局において、『四國遍路の話』と題した講演を行った。彼は現在の愛媛県松山市久谷町出身で、ここには四十六番浄瑠璃寺と四十七番八坂寺がある。相原は、「私は伊豫の者でありまして、村の内にニケ所まで札所があり、四國遍路の尊い信仰生活の事をも知って居りますから、四國遍路について、皆様の興味を引かるる様なことを色々取まぜてお話したいと思ひます。((76))」と、遍路道沿いに育った自らの体験を交えながら語り始める。
 さらに、「困難をも恐れず、お願をかけて廻つて居る四國遍路の気分は云ふ迄もなく眞劍であります、(中略)此の清き心の人たちの世界は生馬の眼でも抜かんとする都會の人、法律の禁ぜない範囲の事ならば、何事を為しても心にやましいと感じない人達と比べると、全く別世界の様に感ぜられるものがあります。((77))」と、近代化の先端を行く都会人への批判を展開しつつ、遍路の行動や服装、遍路に関する伝説伝承、お接待の習慣、善根宿、納札などについて詳細に語ったのである。ラジオ放送という広範囲にわたるマスメディアを通じた遍路紹介は、一定の反響を呼んだと推測される。

写真2-1-19 奥の院の不動堂と標石

写真2-1-19 奥の院の不動堂と標石

手前「奥之院へ八丁」の標石の下半分に、「毎夜本尊・・・」の文章が彫り込まれている。平成12年9月撮影