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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)遍路の多様化と接待①

 ア 増加する弱者の遍路

 江戸時代後期には、四国遍路が全般的に上昇傾向をたどるとされる。その増大する遍路は大部分が一般庶民、特に農民である。そして、そのなかには社会的弱者である女性・子供や零細民などとともに、乞食等の社会的敗残者が極めて多いといわれる。これは他の社寺参詣とは異なる、四国遍路の大きな特徴であるという。乞食は、古来、種々の巡礼や求道者を装うのが通例であるが、とくに遍路に乞食の多いのはなぜであるのか。新城常三氏は、弘法大師信仰と関係あることはいうまでもないが、そのほか、旅費の低廉なこと、四国が暖国であるので彼らの流浪に適していたことや、遍路に対する四国人の同情心が格別に篤く、その支援の大なること、すなわち接待のあることなどをその理由として挙げている(④)。
 この一般に、他の参詣に比べて四国遍路に、経済的余力の少ない者が数多く参加していることを示す事例を以下に挙げてみよう。

 (ア)ある少年の苦難の旅

 阿波藩は、貞享4年(1687年)、他国遍路に関する次のような達し(⑤)を出している。
 これによると、他国遍路中100人に90人は、貧窮の町民・土民であって、そのうちには奥州・九州より来る者もあり、路銀も十分用意せず、ために乞食する者もあったという。100人のうち90人が貧窮の町民・土民とは、多少誇張としても、江戸時代前期の元禄期前で遍路のいわば黎明(れいめい)期に、すでに遍路に零細民が少なくなかったことを示しているのである。
 弘化2年(1845年)、紀州藩では、紀州加太浦~阿州撫養・岡崎への渡海船に対して、達しを出して遍路に対する船賃の減免措置を講じている。その船賃は、弘化3年(1846年)ころ、乗り合いで1人が銀3匁、貸し切りで銀32匁であったという。すでに四国入国前、渡海銭にも困る難渋な遍路、極難渋の遍路の少なくないことを示したものであろう(⑥)。
 さらに天保9年(1838年)の土佐藩の布告(⑦)にも「専ら乞食同様之族、人込み、ややもすれば不法之儀有之のみならず」とあるのも、乞食に近い貧しい遍路を指すものであろう。このように遍路の中に占める女性や零細民等の比率は、比較的高いものと考えられる(⑧)。
 次に紹介するのは、「哥吉回国物語(⑨)」の少年哥吉の場合である。この物語は、哥吉の11歳から14歳まで、すなわち天保5年(1838年)から同8年にかけての、苦難に満ちた四国遍路及び予期せぬ日本回国の旅の話を記録したものである。誰が記録したのかは知られていない。彼は、土佐国幡多郡平田村の貧農の二男に生まれ、5・6歳のときに親類である同郡土井村の百姓勘次郎の養子となり、11歳まで育てられた。養父母は、ともに若いころ病気になり、四国遍路の立願で命をとりとめたが、勘次郎は農業もできぬ体となった。四国遍路の立願で命をとりとめたとして、義母・11歳の哥吉・3歳の義弟との3人でお礼参りに出立する。村に居たのでは食っていけなかったのである。巡礼に名を借りた乞食参詣者となったのである。「路銀等も御座無く候、日々托鉢(たくはつ)仕り口過ぎ等仕る」ことで出立、伊予国へ入る。大田郡(越智郡の誤りか)桜井村で弟が痘痕(とうそう)のため死亡、さらに阿波国三好郡白地(池田町白地のことか)まで来て義母が病死する。哥吉は幼少の一人旅で、土佐への帰途、まず「坊主辺路」と道連れになり、身ぐるみ剥(は)がされそうになるが逃れる。つぎに「六部辺路」の栄蔵と同行、土佐仁井田五社まで来て、だまされて船に乗せられ、九州佐賀関に着く。栄蔵は、「一人旅だと宿を借りるに都合が悪いのでだました、必ず国許に帰す」と言う。仕方なく同行し、九州から西日本、東日本へと回国、下野国で栄蔵が病死したため、これをきっかけにようやく親類のものに引き取られて、故郷の土を踏むというものである。この哥吉の苦難の彷徨(ほうこう)の中に、当時の四国遍路のありさまの一端がうかがわれる。

 (イ)行路病者と乞食

 遍路には、病人や、病気平癒祈願のためのものが多いことが知られている。これについて新城常三氏は次のような例を挙げている(⑩)。

   ① 阿波藩が、元禄3年(1690年)に遍路の病人に対して、特別の措置を講じている(⑪)。
   ② 天保9年(1838年)の土佐藩の布告に、「老幼並びに病体之者ども、数百人行掛り、病死せしめ、実に御厄介絶え
    ざることに御座候間(以下略)」とある(⑫)。
   ③ 幕末刊行の『類聚近世風俗志』に、遍路には「最病人等多し」とある。
   ④ 伊予小松藩『会所日記』には、年々相当数の遍路の病死が伝えられている。
   ⑤ 遍路道や札所などには、遍路を中心とした行き倒れの無縁墓、または過去帳が散見され、その中で病人や乞食が、か
    なりの量を占めている。
   ⑥ 前田卓氏が、四国各地の寺院の過去帳より、江戸時代における病死等の遍路1,071名を集めている(⑬)。

 こうした病気平癒祈願のため遍路する一般民衆のほか、病気により転落して郷土を落ちのび、乞食行のため遍路する不幸な人々の群れがあった。遍路の一つの特徴とされる病人の遍路とは、実はこうしたかなり性格を異にする両者より成るのであるとされている。
 さらに遍路に乞食が多いのは特徴的であり、その例証は多いとされる。疾病が、その最大原因であることは先に見たが、そのほか原因は多様であった。それは封建制度の矛盾のあらわれであるが、近世農村の家族制度が、このような乞食遍路を不断に生み出す一つの源泉ともなっていた。中小の農民の生活は一般に困難であったが、とくに二・三男以下の運命はおうおうにして悲惨を極めていた。生家の厄介者として存在し、村内の小作人となるか、あるいは奉公人として出るか、あるいは村外の出稼ぎ奉公に出る者もいるし、中には乞食に、そして四国遍路へ出るといった選択になったのであろうと思われる(⑭)。
 農村荒廃が進展する江戸後期には、平年においてもこうした不幸な遍路は絶えず生み出されるのであるから、ましていったん、不作・凶作・さらに飢饉ともなると、その数は急激に増加するわけである。新城常三氏は、土佐藩における一連の法令をその証左として挙げて述べているので、以下要約する(⑮)。
 天保8年(1837年)正月、土佐藩の達し(⑯)のように、土佐国には糧を求めて乞食遍路が殺到したのである。このような乞食遍路は、社会的脱落者の切羽詰まった最後の生活手段であるから、おとなしく物乞いするばかりとは限らず、詐欺・盗賊その他の悪行を重ねて人々を悩ます者も多かった。文政2年(1819年)2月の土佐藩の覚(おぼえ)(⑰)の一部、その後、天保8年(1837年)8月の達しでも同様のことが述べられており、この種の布告はこの前後にも数多いという。土佐藩では、こうした不良遍路の追放を不断に図り、その取り締まり令は、少なくとも寛政3年(1791年)以来幕末に至るまで、何回も繰り返し発せられている。こうしてみると、不良遍路はすでに遍路の一分身となっていて、四国の土に根を生やし、一向に減少の兆しの見られないことを意味している。さらに注目すべきことは、四国の民衆が一般の遍路のみならず、これらの乞食遍路・暴力遍路に対しても同情心を失わず、封建領主の弾圧の手から、彼らを庇護(ひご)したことが、彼らにとり、四国の天地を安住の住処(すみか)たらしめたのである。
 文化7年(1810年)10月、土佐藩の達し(⑱)がある。これと同様の取り締まり令は、これ以前の寛政3年(1791年)及び享和元年(1801年)にも発せられ、その後天保4年(1833年)にも繰り返し発せられている。この間少なくとも43年間にも及んでおり、四国民衆の不良遍路に対する同情・庇護は一時のものではなく、社会的習俗として、民衆の間に根強く、定着していたことが知られる。

 (ウ)低廉な旅費

 女性・行路病者・乞食といった弱者が遍路することを可能にした背景には、遍路特有の経済的条件があると思われる。その一つには、遍路にとくに顕著な、「接待」とよばれる社会的慣行、そのほか四国民衆の温かい援助がある。接待等については後述するが、沿道の民衆などの経済的援助が遍路の経済的負担を軽減し、ひいては弱者たちを遍路へと引き付ける上に役立つことは歴然とした事実である。もう一つには、この接待を除外しても、遍路の旅に要する費用が、他の地域の旅に比して格安なことが挙げられる。この東海道やそのほか各地の旅における旅費と、遍路の費用を比較した新城常三氏は、次のように述べている。

   東海道・伊勢街道などの幹道並びに近畿地方は、江戸もかなり早くから茶屋・遊女屋等の交通施設、馬・駕籠などの交通
  機関が整備され、宿屋も大半が食事つきの旅籠(はたご)であり、いきおい交通費も高い。しかるに四国遍路の沿道には、交
  通施設にほとんど見るべきものはない。(中略)遍路は旅籠を避け、宿所も無料または格安の善根宿か、木賃宿に限られ、
  そこで遍路は道中、米・味噌・豆腐等の最低限の食料を買求め、煮炊きする。であるからまさに中世さながらの旅である。
  したがって旅費は、伊勢参宮など四国以外の旅行に比すれば格段に安い(⑲)。

 そして新城氏は、遍路の旅費が他と比して格安である例証として、江戸中期以降の旅日記などから次のような例を取り上げて説明しているので、要約しておく(⑳)。

   ① 延享4年(1747年)、讃岐の佐伯藤兵衛一行の『四国辺路中万覚日記』のケースである。佐伯藤兵衛は毎日米を
    買い、木賃を6・7文払っているが、木賃の記載のない日が旅の半数近い22日もある。その総支出は土産等を含んで
    銀65匁余りであって、当時金に換算して1両程度である。
   ② 伊予上野村庄屋玉井元之進一行5人の寛政7年(1795年)の『四国中諸日記』のケースである。その費用は正確に
    は分からぬが、2月17日~3月14日が1人平均で1貫685文、3月15日~4月8日が同じく1貫920文となり、これ
    に4月9日以後の帰宅までの約10日分を加えるとして、1人分およそ4貫文前後と推定される。彼等は接待を受け
    ず、全くの自費である。2か月間の大旅行に、旅費はわずか1人が4貫文、金に換算して1両未満である。
   ③ 『山内家史料』の宝暦14年(1764年)土佐藩の上書では、宿銭が1人前5銭(丈)、8銭(文)と安い、これは食
    事抜きの木銭(賃)である。
   ④ 天保15年(1844年)、阿波名西郡上山村の前庄屋である粟飯原権左衛門の約60日間にわたる遍路の旅費もわずか米
    2俵、平均して金1両未満である。

 以上数例の遍路の費用は、いずれも1人当たりの総計が金換算で1両ないしそれ以下、1日当たり銭70文以下である。これらの遍路はいずれも庄屋などの身分のあるものであるところからみて、この旅費は特例に安いものでなく、少なくとも平均を下回るものではないことは明瞭であるとしている。
 これに対して、伊勢参宮には享保年間で参詣経費5両以上、東海道では宿銭のみで1泊大体200~300文前後であることなどに比して大きな違いがあると指摘している。