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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

3 庶民遍路の隆盛

 江戸時代以前からの長い歴史をもつ伊勢参宮では、参詣者数が、元禄・享保期にピークに達し、その後は横ばいになるという。これに対して、巡礼の歴史の比較的浅い四国遍路はやや異なって、元禄前後にはまだピークに達していないようである。伊予小松藩での遍路者数の動向を大観すると、元禄前から徐々に上向きとなり、宝暦・明和から安永にかけて相当数を数えるようになる。前田卓氏の退去帳による調査結果や土佐藩『山内家史料』の宝暦14年(1764年)の上書等とある程度照応すると思われる。その後、天明の飢饉(ききん)で一時落ちこみ、寛政以降再び上昇し、文化・文政の初めにかけて次のピークとなる。それから天保飢饉をはさみ、天保後半期から嘉永6年(1853年)までが次のピークとなる。その後、安政5年(1858年)の幕末動乱期にはやや減少するという。
 以上は、伊予小松藩の『会所日記』40年間分によって、藩領16か村における遍路の推移を分析調査した、新城常三氏の結論である(①)。
 この伊予小松藩領での傾向をもって、遍路全般の傾向と果たしていえるかどうか。このことについて新城氏は、他の有力な史料を駆使して、次のような推論を展開している(②)。
 まず遍路全般では、享保・天明・天保の大飢饉中には減少することや、また幕末安政期に減少することは一般的な傾向である。そして伊予小松藩領での遍路数動向によると、宝暦・明和以降、幕末まで文化・文政期を除き大勢として格別顕著な上昇ないし低落傾向は見られず、巨視的には横ばいといえる。そして、四国地方の人口増加率のきわめて高いことや、遍路総数に占める四国の高い比率などから、一般には時代の下るに伴い、遍路は上昇傾向をたどったものとみる。
 これに対して、前田卓氏は、四国霊場における過去帳の分析結果から、「宝暦頃からかなり増加してきた遍路の数が、享和から文化・文政になると急激に増加してくる。(中略)江戸時代の四国遍路の最盛期は、なんと言っても文化・文政期であろう。(③)」と論じ、その傍証として、山陽道筋から来る遍路の増大、接待講の開始時期、四国霊場の地方移植の展開、各種遍路案内書の刊行などを列挙している。